バーバラ・エーレンライク『ニッケル・アンド・ダイムド』(東洋経済新報社),ジャック・ロンドン『どん底の人びと』(岩波文庫),ジョージ・オーウェル『パリ・ロンドンどん底生活』(晶文社)
・「下流社会」なんてことばがはやって、自分が中流にはいるのか下流なのかを測る尺度があれこれ持ち出されたりしている。それで、一喜一憂する人も多いのかもしれない。けれども、そういう尺度がなければどっちかわからない程度なら、まだとても下流などとはいえない暮らしをしているのだと思う。
・アメリカは20世紀の初め以来、世界でもっとも豊かな国であり続けているが、その貧富の差が世界一ひどいものであることも知られている。しかし、その差は、最近特にひどいようで、そのことを批判する本が何冊か出されている。バーバラ・エーレンライクの『ニッケル・アンド・ダイムド』は、自ら低所得層の仕事について、その暮らしの厳しさを体験したレポートである。彼女は1941年生まれで、この体験取材をしたのは1999年だから58歳だったようだ。著名なジャーナリストでベスト・セラーなどもある。『「中流」という階級』という翻訳書もあって、その考察は社会学としても一級品である。そんな人がなぜ、と思ったが、若くないことも幸いして、ものすごくリアリティのあるレポートになっている。アメリカではもちろん、ベストセラーになったようだ。
・知らない土地に行って職探しをする。何の資格も、技術もない、50代後半の独身女性を採用する職種は、スーパーの売り子、レストランのウェイトレス、ホテルの客室掃除、あるいは、老人ホームなど、ごく限られている。時給は6ドルから7ドルで、アパートの家賃は500ドル。それで何とか数ヶ月がんばってみる、というプロジェクトで、フロリダとメーン州のポートランド、それにミズーリー州のミネアポリスを選んだ。
・こんな薄給の仕事でも、履歴書を書いて面接をして健康チェックを受ける。採用までには数日かかるから、同時にいくつか応募して就職先を選ぶと、仕事が始まるまでに1週間が過ぎてしまったりする。しかも、アパートはどこも空きが少なく、狭くて汚くて高い。で、見つかるまではモーテル暮らしだったりする。キッチンも冷蔵庫もなかったりするから、食事はファースト・フードか、パンを買ってただかじるだけだ。
・仕事はどれも肉体的にきついもので、しかも管理は厳しい。従業員同士のおしゃべりは厳しくチェックされ、休憩の時間はタイムカードに記録される。上司や客との関係では屈辱感を味わうことが避けられないが、従業員同士では助け合いもある。エーレンライクにとっては、すぐにも怒ってやめてしまいたいほどの仕事だが、そうはできないことを使われる者も、使う者も知っている。だから、冷淡さや意地悪がまかり通ってしまう。もちろん、やめて別の仕事に行く人も多い。だから慢性的な求人難なのだが、時給はちっとも上がらない。
・こんな境遇で懸命に働いても生活に困窮する人たちが3割もいる。アメリカで大人一人と子供二人の家族が最低限健康的で安心した暮らしをするためには年に3万ドル必要だそうだ。そのためには、時給は14ドルなければいけないのだが、その収入に達している人は4割に満たないようだ。アメリカは「働かざる者食うべからず」という考え方が強い。けれども、働いても食えないのが現在のアメリカの一面で、そのことをだれも強く指摘しないというのがエーレンライクの体験的取材のきっかけになっている。で、そのことを身をもって確認したのである。そのような状況は日本でも同様だろう。
私は「一生懸命働くこと」が成功の秘訣だと、耳にタコができるほど繰り返し聞かされて育った。「一生懸命働けば成功する」「われわれが今日あるのは一生懸命働いたおかげだ」と。一生懸命働いても、そんなに働けるとは思っていなかったほど働いても、それでも貧苦と借金の泥沼にますますはまっていくことがあるなどと、誰もいいはしなかったのだ。
・貧しい境遇にある人の生活をつぶさに見て、彼や彼女たちが持つ実感を知るためのいちばんの方法は、自ら体験してみることである。エーレンライクがとったこのような方法は、けっして珍しいものではない。たとえばG.オーウェルは自ら放浪者になって『パリ・ロンドン・どん底生活』を書いている。ビルマでの警察官の経験をもとに書いた『ビルマの日々』やいくつかの短編、あるいは炭坑町を取材した『ウィガン波止場への道』や義勇兵となって参戦して書いた『カタロニア讃歌』など、彼が書いた作品の多くは体験をもとにしている。じぶんで体験してみなければわからない感覚から考える。それはオーウェルのおもしろさや強い説得力の原点でもある。
・そのオーウェルが刺激を受けたルポルタージュを最近読んだ。ジャック・ロンドンの『どん底暮らし』で、20世紀の初めにロンドンのイーストエンドに入り込んで書いたものである。若いアメリカ人で栄華を極めた大英帝国の首都の東半分が劣悪な貧民街であることに驚愕する。襤褸(ボロ)服に着替え、救貧院で食事をもらうために半日並ぶ人の列に入り、何家族もが同居する汚いアパートの一室を住処にする。何とか職にありつこうと探し回るがまるでない。そんな状況をオーウェルやエーレンライクの体験と重ね合わせると、どんなに物質的に豊かな社会になっても、まったく改善されていないことに気づかされる。
・ロンドンもオーウェルも若いときに、若いからこそできた体験だが、エーレンライクのレポートは初老の独身女性という立場でやったからこそ描きだされた世界で、おなじ歳になっているぼくには、「わー、すごい!」としか言いようがないのが何とも情けない気がする。
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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。