2009年1月26日月曜日

『地下鉄のミュージシャン』(朝日新聞出版)

 

スージー、J.タネンバウム著、宮入恭平訳

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・アメリカはもちろん、ヨーロッパでも、街中の人通りのあるところで音楽を耳にすることは珍しくない。気に入れば、ちょっと立ち止まって、束の間の聴衆になる。で、コインを置いて、また歩きはじめる。

・たとえばアイルランドのダブリンのように、音楽を観光の目玉にして、ミュージシャンがずらりと並んで腕や喉を競うところもあるし、スペインのバルセロナでは銅像や彫刻を模して立ち続けるパフォーマンスが目立った。これはもちろん、観光客を目当てにした新種の仕事だが、ストリート・パフォーマンスの歴史は決して新しいものではない。というよりは、都市におけるポピュラー文化の出発点は、ストリートにあると言ってもいいのである。『地下鉄のミュージシャン』を読むと、ニューヨークという街と音楽に代表されるストリート文化の関係が、現状はもちろん、歴史的にもよくわかる。

ny.jpg ・ニューヨークの地下鉄でパフォーマンスをするためには、それを管轄する組合に登録しなければならない。また、場所と時間も指定される。つまり、それぞれの駅のそれぞれの場所がステージとして管理されていて、いつどこで誰のパフォーマンスがあるかがプログラムされているのである。これが地下鉄の犯罪の減少にもずいぶん役にたっていて、通い慣れた乗客たちにも強く支持されている。その意味で、ニューヨークの地下鉄が安全で魅力的である理由の一つが、音楽にあることは間違いない。けれども、そうなるまでの歴史は、決してスムーズなものではなかった。『地下鉄のミュージシャン』は、くりかえし禁止して排除を試みた市当局や地下鉄と、公の場での表現活動の権利を主張したミュージシャンたちの闘いの物語なのである。

・アメリカの憲法は、公共の場での表現活動を認めている。ストリート、広場、そして駅等でそれなりの空間がありさえすれば、そこで通りすがりの人たちに向かって演説してもパフォーマンスをしてもいいのである。もちろん、その場を管理する市当局や警察は、交通の邪魔になるとか、スリなどの犯罪の原因になるという理由で取り締まって排除しようとする。この本を読むと、自由や権利があらかじめ自明なものとして与えられ、提供されるものではなく、主張し、闘って勝ち取るものであることがよくわかる。それこそが、アメリカが建国以来貫いている、民主主義の柱であることはいうまでもない。

・アメリカのポピュラー音楽は、働く場や生活の場で歌い継がれてきたものだが、形をなしたのは都市においてであり、多くはストリートや広場やカフェだった。ブルースやジャズにはそういう場しかなかったし、フォークソングは各地に伝わる歌を蒐集して、貧富の差や人種差別を批判するための武器として再生されたという性格が強いから、ホールよりはストリートや広場、そしてもちろん集会やデモで歌うことの方が大事だった。そこからウッディ・ガスリーやピート・シーガーといった先達が登場し、60年代の公民権運動やヴェトナム反戦運動のなかからボブ・ディランが出現した。

・ポピュラー音楽は巨大な文化産業になり、一握りのスーパースターばかりが目立つ状況に変質した。けれども、ニューヨークの地下鉄音楽などにふれると、ストリートから大ホールやスタジアムで歌うミュージシャンまでの間に、やはり一本の道があるように感じられる。新しい動きや波はストリートから始まる。それが感じられなくなったら、ポピュラー音楽は死ぬしかないのだと思う。

・『地下鉄のミュージシャン』には、一人のミュージシャンのパフォーマンスをきっかけにしてできる人の集まりと、歌を一緒に口ずさんだり、踊ったりすることでできる、見知らぬ人間同士の関係やコミュニケーションについてふれたところがある。誰もが互いに無関心でいることが暗黙のルール(「儀礼的無関心」)となり、目を合わせたり聞き耳を立てたりしないこと(「焦点の定まらない相互行為」)を了解しあうなかでは、ミュージシャンの存在は、まるで人混みの砂漠の中にできるオアシスのような働きをする。そこに見知らぬ人間同士の間に束の間できる関係(「焦点の定まった相互行為」)が、ニューヨークという街にどれほどの安心感と和みを生み出しているか。この本を読むと、久しぶりにニューヨークに行って、音楽を聴くために地下鉄に乗りたい気になってくる。

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