2019年4月15日月曜日

樽の中に閉じこもる

 

・新元号でメディアが大騒ぎをしているようだ。ようだというのは、そういう番組は、まったく見ていないからだ。「令和」については評判がいい。サウンドから来るのかもしれないが、安倍首相がその意味や由来を、まるで自分が決めたかのようにテレビで吹聴して廻ったらしい。おかげで支持率が8%も上がったという。ネットではさっそく、万葉集(国書)ではなく、その元は中国の張衡の歌『帰田賦(きでんのふ)』だとして、その意味が、首相の説明とはかなり違ったものだといった指摘もあった。

・元号を政権支持率の浮揚に使うというのは不謹慎だが、これであたかも時代が変わっていい方向に進むといったイメージ操作をするメディアの行いは犯罪的ですらあると思う。何しろ最近のメディアはイチローの引退でもお祭り騒ぎをしたし、ピエール瀧のコカイン使用でも大騒ぎをした。皆が同じものに興味を示し、賛美をしたり非難したりと同じ方向を向く。そんな傾向がますます強くなっている。国際的な教育を柱にする大学の入学式で、新入生の服装がまるで制服のように統一されていることに、学生部長の先生が驚いたというニュースがあった。空気を読む、忖度する。何より大事なのは回りに同調することであって、個をもち我をはることではない。そんな態度が社会にくまなく蔓延してしまっている。

tsurumi1.jpg ・鶴見俊輔と関川夏央の対談集『日本人は何を捨ててきたのか』(ちくま学芸文庫)には「樽」というキーワードがあって、今の日本人の大半がその中に住んでいて、それが明治以降、とりわけ日露戦争以降に創られたものだという指摘がある。明治政府は近代化を急速に進めたが、その政策の根本にあったのは、近代化には不可欠のはずの「個人主義」を軽視したことだったというのである。個人ではない何者かにとって重要なのは所属であったり役職であったりする。人が会えば先ず名刺交換をするし、手書きのサインよりはハンコが大事にされる。それは第二次大戦で負けても変わらなかった。個よりは集団、世界よりは日本というわけだ。この特徴は進駐軍も見抜いていて、壊すよりは残した方が、日本人をコントロールしやすいと考えたという。

・このような指摘はもちろん、土居健郎の「甘えの構造」、神島二郎の「擬制村」、そして井上忠司の「世間体の構造」などたくさんある。しかし、明治以降にこのような傾向が強化されたし、戦後も意図的に維持されたという見方には、なるほどと納得した。何しろこのような特徴は誰より若い世代に強くて、彼や彼女たちは就職のために大学に行き、その大学は偏差値によって選ぶのである。「樽」の中では何より同調性が大事にされるが、そこにはまた、自分の個性とは違う偏差値やブランドにもとづく序列づけがある。

・グローバル化の時代なのに、いや、グローバル化の時代だからこその内向き思考だと思う。そこで日本の、日本人の、ここがすごいといったナルシシズムに浸っている。それがガラパゴスだなどと言われても、ガラパゴスの島民である限りは、そのおかしさに気づかない。少なくても、知らないふりをすることができる。何しろ周囲のみんながそうしているのだし、政治や経済をリードする人たちが、そう言っていて、メディアがそれを増幅してるのだから。

・日本はすでに先進的でも豊かでもない社会に落ち込んでいる。収入は格差が広がって、多くの人は労働時間は減らないのに給料は減るばかりだ。軍事費が突出して社会福祉は削られている。国の借金は増えるばかりなのに、国の予算は100兆円を超えた。いつ破綻してもおかしくないのは、「樽」の外に出ればすぐにわかる。出なくたって「樽」の外に目を向けることもできる。しかしそうはしないし、させないようにしている。新元号騒ぎは、その端的な例だと言えるだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿

unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。