・中山ラビが死んだ。その不意に訪れた古川豪さんからのメールを読んで、まさかと思い動転した。彼女とは長いつきあいだが、ここ数年は会うことも、連絡を取り合うこともなかった。その後の新聞報道では去年から癌で入退院を繰り返していたようだ。元気で店を切り盛りし、音楽活動をしているとばかり思っていたから、一度ぐらいは店を訪ねておくべきだったと後悔した。
・中山ラビは、自分で作った歌を自分で歌う日本のミュージシャンの草分け的存在だった。そのデビュー・アルバムの『私ってこんな』は1972年に出されている。その後『ラビひらひら』(1974年)、『ラビ女です』(1975年)、『ラビもうすぐ』(1976年)、『なかのあなた』(1977年)、『はだ絵』(1978年)、『会えば最高』(1980年)、『MUZAN』(1982年)、『SUKI』(1983年)、『甘い薬を口に含んで』(1983年)、『BALANCIN』(1987年)と70年代から80年代にかけて精力的にレコードを出し続けた。
・僕はこの時期に京都にいて、彼女のパートナーだった中山容さんと親しかったこともあって、彼女のライブに頻繁に出かけ、歌作りを間近で見た。彼女の作る歌のレベルの高さはもちろん、歌唱力も当時の女性ミュージシャンの中では傑出した存在だと思っていた。ビッグヒットがあってスターになるということはなかったが、その音楽的評価は高く、その歌や生き方に共感するファンは少なくなかった。
・彼女が東京に移り、母親になって音楽活動を休止したこともあって疎遠になったが、彼女が営む「ほんやら洞」の近くにある大学に僕が職場を移したこともあって、時折会うようになった。「ほんやら洞」は癖のある人たちがたむろする場で、学生たちには敷き居が高い所だったが、時折、学部や院の学生たちと飲み会をした。彼女は音楽活動を再開していたから、コンサートにも出かけた。ベスト盤やライブ盤、そして自主製作盤のCDやDVDなども出していて、その度にプレゼントされた。お返しに僕の書いた本を進呈しようと思ったが、いつも興味ないとそっけなかった。
・彼女の歌は車に仕掛けたiPodで時折流れてくる。で、この追悼文を書きながら、またiMacで聴いている。どの歌を聴いても、当時の情景が走馬灯のように浮かんでは消えていく。どれも思い出深い歌だと、改めて感じた。「私ってこんな」「私の望むのは」「いい暮らし」「あてのない一日」「一年がおわる」「どうしますか」「そのままのまま」「さわれますか」「ノスタルジー」………。くり返し聴いて、ぼくは『ラビひらひら』にある「人は少しづつ変わる」が一番好きだと改めて思った。高田渡や南正人、忌野清志郎、加川良、そしてリリーや浅川マキと死んでしまったミュージシャンは多い。ラビちゃんは、あの世で再会して一緒に歌っているんだろうか。
人は少しづつ変わる これは確かでしょう
ひとつの時代がやがて過ぎるよに
とりのこしの年令 とき告げる一番鳥
一夜の夢さめやらず うかつな10年一昔
そして あなたも変わったね
忍ぶ面影 色あせたのです(「人は少しづつ変わる」)
・彼女に最後に会ったのは、僕の退職パーティの2次会で「ほんやら洞」を訪れた時だったから、もう4年以上前になる。ライブの知らせを伝える手紙が届いたりしたが、東京まで出かけるのが面倒で、一度も行かなかった。彼女がいなくなれば、「ほんやら洞」もなくなるのだろうか。「ほんやら洞」は京都にもあったが、これも数年前に火事でなくなってしまっている。「うかつな10年一昔、あなたも変わったね」と言われたら、返すことばもない。
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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。