1997年5月27日火曜日

ジョゼフ・ランザ『エレベーター・ミュージック』(白水社)

 

・「エレベーター・ミュージック」というのは聞き慣れないことばだ。エレベーターに音楽なんてあったかしら?そんなことを考えながら、この本を手にした。中身は BGMの歴史といった内容だった。おもしろそうな感じがして買って読んだが、BGMがこんなに多様な世界を作り出してきた(いる)ことに改めて驚かされた。

・クラシックは精神を集中させて聴く音楽だ。だから、コンサートでは物音一つたてられない。ロックは聴衆が一緒になって手をたたき、躍り、歌う。リラックスはしているが、やっぱり、心も身体も音楽に向かっている。そして、音楽の聴取とは、普通、このような聞き方を指す。けれども、それ以外に、僕たちはいろんなところで、いろんな音楽を聴く、あるいは聴かされている。

・ BGMの歴史は電話を使った有線放送に始まる。だから、この本はラジオとレコードに始まる音響メディアの歴史書だといってもいい。サーノフが作った家庭用のラジオ受信機は、はじめは「ラジオ・ミュージック・ボックス」と名づけられた。ある意味では、電話もラジオも音楽を聴くために考案されたということになるようだ。映画がトーキーになると映画音楽というジャンルが生まれた。映画にとって音楽はあくまで背景だが、それによって観客は、物語により没入しやすくなった。やがて職場や公共の場所に音楽が侵入しはじめる。仕事の効率、公共の場での秩序の維持、あるいはちょっとした心の平安、そして騒音の隠蔽.........。

・20世紀になって日常生活のなかに侵入しはじめた音楽は、一方では、人びとの気持ちをリラックスするものとして受け入れられたが、同時に、人びとを管理統制する道具としてもみなされた。公共の場での音楽は、そこに集う人びとのためにあるのか、あるいは、人びとをコントロールしようとする人間のためにあるのか。これは、BGMについて最初からついてまわる議論だが、そのような論争は現在にまで持ち越されている。

・BGMは、さまざまな社会的場面の背景を色づける。特に関心を持って聴くことはないが、否応なしに誰の耳にも入る。ユニークさというよりは最大公約数、味わいというよりは耳障りの良さを心がけて作られる音楽だ。だから、音楽としての評価を受けることはほとんどない。というよりは、音楽に関心のある人には、必ず軽蔑される種類の音楽だと言っていい。けれども、サティが「家具の音楽」と言ったときには、そこには、かしこまって聴くだけが芸術だとするステレオタイプ的な音楽観に対する批判が強くあった。

・20世紀の後半になるとテレビが登場し、若者たちの騒がしい音楽であるロックンロールが生まれた。街にはさまざまな新しい空間が作られ、駅や空港などが巨大化した。そのような場は放っておけば、たちまち騒音が渦巻く空間になってしまう。あるいは音のない、気づまりで気味の悪い時間を作り出しかねない。だから、一定のコンセプトにもとづく音づくりが必要になる。「エレベーター・ミュージック」「ミュージック・フォア・エアポート」。もちろん、音楽による空間の演出は、プライベートな場においても例外ではない。ラジオ、ステレオ、CDラジカセ、そしてカー・ステレオやウォークマンによる好みの音楽世界の持ち運び。

・映画やテレビ・ドラマの世界にはいつでも音楽が流れている。そして、現在では、日常生活の中にどこでも、いつでも音楽が流れていることが自然になった。であれば、なおさら、音のデザインが必要になるはずだ。そんなふうに考えていたら、ふだん乗るエレベータにも音楽がほしくなった。

1997年5月25日日曜日

「矢谷さんと中嶋さん」

・矢谷さんと中嶋さんは職場の同僚だが、最近二人から、それぞれ、本をプレゼントされた。矢谷滋國『賢治とエンデ、宇宙と大地からの癒し』(近代文芸社)、鈴木・中道編『高度成長の社会学』(世界思想社)。いただいたものは読まなければいけないし、それなりの感想を述べなければならない。そうは思うのだが、実はこれがなかなかできない。読まなければいけない本、読みたいと思って買った本が山積みなのである。二人は同世代だが、矢谷さんは大阪、中嶋さんは福井の出身である。
熟読したとは言えないが、しかし、一応がんばって読んだ。日頃から話として聞いたり議論している内容で、正直言って目新しさは少ないが、だからといってどうでもいいテーマだというわけではない。そこで、書評というよりは、感想を少し書くことにした。
矢谷さんは現代の社会や生活の特徴を、自然のモノ化ととらえている。それが「作る人を賃金労働者に、作られたモノを商品に、使用する人を消費者に変形することによって、豊かないのちのつながりを分断してしまい、生命的な関わりを貧困化してしまった」と言う。彼は大学の近くに土地を借りて、学生と米や麦を作っている。あるいは学生を連れて山奥でキャンプをする。それは彼によれば、豊かないのちのつながりや生命的な関わりの再発見の試みである。
中嶋さんは、矢谷さんとは違って近代化を肯定する。「貧しいことよりも豊かであることの方がより望ましいことは確かである。........一定の経済的豊かさのなかで、人はそれなりの選択肢を持つことができる。」農家の貧しさや仕事のつらさを知っている彼には、自然や農業に対する思い入れはない。
中嶋さんは無類のパチンコ好きだが、矢谷さんから見れば、それは「日常生活の現実を一次的に忘れる」ものにすぎず、真の成長や変革をわれわれにもたらすものではない。しかし、そういう彼もしょっちゅう飲んだくれていて「日常生活の現実」を頻繁に忘れているように見えるし、中嶋さんから見れば、米づくりやキャンプとて、道楽の一つにしか映らないだろう。ちなみに矢谷さんは西宮のマンションに住んでいて、中嶋さんは奈良県の榛原である。山間に不似合いな新興住宅地だが、こちらの方が自然には恵まれている。
こんなふうに書くと、二人のちぐはぐさを並べておもしろがっているみたいだが、しかし、そんなちぐはぐさは、多かれ少なかれ現代人が共有するものである。
矢谷さんは現代の豊かさを捨てて昔に戻りたがっているが、中嶋さんはその意見には説得力を感じない。けれども、彼もまた、この豊かさにインチキ臭さを感じている。しかも、豊かさの追求は、今、アジアや中南米、そしてアフリカの人びとが抱く最大の関心事になり始めている。
一体人間は、これからどこへ行こうとしているのか。地球はどうなるのか。そんなことを考えると、底知れない不安に襲われそうになる。けれども、いったん手にしたものを捨てる気になど、とうていなりそうもない。いいじゃないか、とことん行くところまで行って、それで人間が消滅すれば、それはそれでしかたないじゃないか。ぼくは基本的には、そう思っている。願わくば、その時にもし立ち会うことになったら、自分一人でも生き延びたいなどと、悪あがきはしたくない。と思うのだが、ちぐはぐな日常に半ば無自覚に適応しているぼくとすれば、最後の最後まで悪あがきをするのでは、という心配がないでもない。


1997年5月20日火曜日

『デカローグ1-10』クシシュトフ・キェシロフスキ

 

  • 『トリコロール』三部作で知られるK.キェシロフスキはポーランド出身の映画監督だが、去年54歳で死んだ。『トリコロール』の三部作や『二人のベロニカ』を見た印象は、愛をテーマにして、人間関係を微細に、しかも自然に描くのがうまい人というものだった。彼が1987年にテレビ・ドラマとして制作した『デカローグ』の十話は、そんな印象をより鮮明にさせるような作品だった。十の話には、それぞれ「ある〜に関する話」という簡単なタイトルがついていて、〜には「運命」「選択」「クリスマス・イヴ」「父と娘」「殺人」「愛」「告白」「過去」「孤独」「希望」が入る。
  • 病気で生死の淵をさまよう夫のいるドロタの身体には、別の男性との間にできた子どもがいる。その子を産むべきかどうか、夫に告げるべきかどうかで彼女は悩む。それは同時にどちらの男を「選択」するかという決断を含む。十の話の中には男女の愛を描いた作品が他にもいくつかある。インポテンツになった男が、その妻に対して罪の意識を抱くが、同時に妻の浮気を疑う。尾行、盗聴をしながら、なおかつ彼はそんな自分を責める。「孤独」と苦悩。「クリスマス・イヴ」の一夜を描いた話には別れた男女が登場する。再婚して子どももいる男の家の前に女がいる。彼女は帰宅した男に、現在一緒にいる男が夜になっても帰ってこないことを告げる。交通事故か、あるいは何かの事件に巻き込まれたのか。家でクリスマス・パーティをするつもりだった男は彼女と一緒に街に探しに出かける。そして夜が明ける頃に、彼女は男とはすでに別れていること、寂しくて一人ではイヴの夜を過ごせなかったことを話す。男が家に戻ると、妻が寝ずに待っている。
  • あるいは親子について。父と二人で暮らす娘アンカには、父親を男としても愛しているという気持ちがある。それは父親にもあるが、しかし、彼はいつでも自制心を強くして、「父と娘」という関係の一線を越えまいとする。突き放す父と反抗する娘は、またどうしようもなくひかれあう。「告白」は16歳で子どもを産んだ娘と母の話である。学校の校長先生をする母は厳しく、娘はその母の期待には応えられなかった。母は孫を子どもとして育て、その子に生きがいを見いだす。けれども、娘も、産んだ子どもが必要だと感じるようになる。彼女は妹を連れだし、恋人だった男の家で、妹に自分の娘であることを「告白」する。生きがいとアイデンティティの確認をめぐって少女を奪い合う母と娘。
  • どれもこれも、愛や憎しみ、エゴイズムや自罰意識に囚われた地獄のような世界だが、しかし、描き方は淡々としていてストーリーはシンプルだ。すべての話がワルシャワにある同じ集合住宅を舞台にしているし、俳優も地味だ。話には必ず、かすかな救いが残されている。だからだろうか、見ながら、とんでもない状況に入り込んだ特別な人たちの話ではなく、自分の中にもある感情を自覚させられる思いがした。一歩間違えば、それは誰にでも訪れそうな世界。いや、実際にはすぐそこにあるのに、自分はそうではないと否定したり、気づかないふりをしているにすぎない世界。そんな感想を、どの話にも持った。
  • しかし、それにしても、テレビ・ドラマのシリーズをこんな作品として作ってしまうキェシロフスキはすごい。他の映画がまるで紙芝居のように感じられてしまった。けれども、キェシロフスキはもういない。人びとの生きる世界は多様だが、それを自然に描き出せる人は多くはない。
  • 1997年5月7日水曜日

    連休中に見た映画


  • 連休中はほとんど出歩かずに家で過ごした。信州にキャンプに行くはずだったのだが、学生とソフトボールをして肉離れをやってしまった。それと一緒に行こうと思った友人が、単身赴任先のシンガポールから帰らなかった。で、締め切りの近づいている原稿の準備をしようと思ったのだが、リビングで本を読んでいると退屈で、ついついテレビをつけてしまう。幸か不幸か、Wow wowでは24時間映画をやっているし、野茂に長谷川とメジャーリーグの中継も忙しい。カウチに横になりながら、時には引き込まれるように、そして時には居眠りしながら、だらだらと見てしまった。椅子の下には何冊も本を置いたのだが、それはほとんど読めなかった。
  • 面白かったのは『タイ・カップ』(Wow wow 4/29)、『彼女の彼は、彼女』(Wow wow 4/30)、『ユージュアル・サスペクツ』(Wow wow 5/3)、それに『マディソン郡の橋』(Wow wow 5/4)。見たことがあるものもついつい見てしまった。たとえば『存在の絶えられない軽さ』(Wow wow 5/1)。ミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』(Wow wow 5/1)は、久しぶりで内容をほとんど忘れてしまっていた。今月は他に『情事』『砂丘』もやる。そのほかに見た映画はポランスキーの『吸血鬼』(大阪5/2)、『愛と情熱のジョセフィン・ベーカー』(関西5/1)、『スーパーの女』(Wow wow5/2)
  • Wow wowと契約して2年ほどになる。見ないときは見ないが、ときどき中毒になる。NHKのBS2と見たいものが重なっていたりすると再放送をチェック、そして朝や昼の番組は録画する。これでCSを受信してPerfect TVなんて言ったら、本当に映画ばかり見て毎日を過ごすことになりかねない。だから、当分はBSだけにしようと思っている。ただMTVだけは見たいのだが................。もっとも、おかげで民放の映画は見る気がしなくなった。CMがやたらうっとうしいからだ。
  • 昔ほどではないが、テレビを長時間見ていると、何となく空虚な気持ちになったり、時には罪悪感を感じたりする。ところが、本を読むと充実感に充たされる。ぼくは活字信奉者ではないつもりだが、この感覚は否定できない。今読んでいるSimon FrithのPerforming Riteには、欧米の中産階級には、映画はケーキのようなもので、おいしいけれど、食べ過ぎてはいけないもの、そして特に食べる必要はないものだとする倫理観があると書いてあった。読書は主食で映画はデザートというわけだ。
  • とすると、この連休はぼくはケーキばかりを食べて食事をろくすっぽしなかったことになる。どうりで最近腹の贅肉が目立つはずだ、と妙なところで納得。間食はやめて、地味でももっと栄養のある主食を食べないといけない。第一、締め切りのせまっている原稿、一体どうするつもりなんだ!! などと考えはじめたら、連休明けがますますブルーに感じられるようになってしまった。中嶋さん、締め切り一ヶ月待ってもらえるかな?
  • 1997年4月30日水曜日

    Tom Waits "Big Time""Bone Machine""Nighthawks at the Dinner"

     

     今、ライブで一番聴いてみたいのはトム・ウェイツ。しかし、そう思いはじめたのは最近のことだ。昔から嫌いではなかったが、CDを買い揃えるほどではなかった。というよりは、『Down by Law』や『黄昏に燃えて』など映画の印象の方が強かった。それが、ポール・オースターの『Smoke』を見てサントラ盤のCDを買ってから夢中になった。
     風貌はゴリラのようで、声はガラガラの低音。がさつで愚鈍な印象を受けるが、歌はナイーブで優しい。それに、街や人々の情景描写がなかなかいい。場末の酒場で飲んだくれている用心棒やヒモといったイメージが強いが、この人は間違いなく詩人なのだと思う。

      世界中、どこへ行っても見知らぬ者同士はお天気の話だけをする。
      どこへ行っても、同じ、同じ、同じ。
      それがはじまりで
      それが終わり
      見知らぬ者たちが離れると
      そこに霧が立ちこめた(Strange Weather)

     この歌はマリアンヌ・フェイスフルのために作ったものだ。ぼくは彼女の歌うものの中では一番好きだが、トムが歌うのもいい。二人とも中毒になるほどのアルコール好きだが、マリアンヌの歌はけだるくて、トムのはうら寂しい。

      親父とお袋が喧嘩している
      大人にはなりたくない
      あいつらはいつも出かけていって
      夜通し飲んでくる
      大人にはなりたくない
      外に出たって悲しいことや憂鬱なことばかり
      だからこの部屋にいる
      大人になんてなりたくない( I don't wanna Grow up)

     "Nighthawks at the Dinner"の中でトムの笑い声が聞こえる。「エヘヘヘ.........」。あまりに無邪気な感じで、ぼくは何度聴いても一緒に笑ってしまう。彼はステージでは饒舌で、このコンサート盤では客たちの笑い声や拍手、嬌声が絶えない。

      トムとディックにハリー、みんな結婚しちまった
      一人になれずに苦労するがいい
      ここにいるのは独身に飲んだくれ
      みんなカミさんなんかいないほうがいいって思っているヤツばかりだ
      昼過ぎまで眠り、真夜中に月に向かって吠えたりする
      出かけるのも帰るのも俺の勝手
      魚釣りに行くからって、いちいち断ることもない
      カギの心配だってする必要もない"Better Off without Wife"

     トム・ウェイツが本当に独身なのかどうか知らない。けれども、結婚して子供のいる男なら、そして女でも、こんな気持ちはもちろん願望だけど、しょっちゅう感じるはずだ。つまり「エヘヘヘ.........」は「みんなそう思うだろ?」という問いかけなのだ。
     ぼくが「エヘヘヘ.........」と応えると、一緒に聴いているカミさんも「エヘヘヘ.........」と言う。で、二人でうなずいた。勝手気ままにやりたい二人が、なぜ一緒にいるんだろう?トムの言うとおりで、考えてみれば不思議な話だ。

    1997年4月25日金曜日

    村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(岩波書店)『アンダーグラウンド』(講談社)

     

    ・ 村上春樹が創る世界の魅力は現実感のなさにあった。「鼠」にしても「羊」にしても、あるいは「ハードボイルド・ワンダーランド」にしても、それは主人公の内的世界に登場する人物や舞台だった。もちろん主人公にも現実感はない。彼にはいつでも家族と呼べるものはなく、仕事もないか、あってもほとんど描写されなかった。

    ・村上の描く世界に変化が見えはじめたのは『ノルウェーの森』からだ。ここではじめて主人公が恋愛をした。次の『国境の南 太陽の西』では主人公はジャズ喫茶のマスターとして登場する。そして結婚していて、不倫をした。『ねじまき鳥クロニクル』ではまた主人公は失業していたが、結婚はしていた。そして奥さんが失踪する。しかし、この本を読んで一番違和感を感じたのは、井戸を降りて、そこから壁を通り抜けて行った先が満州のノモンハンだったことだ。しかも、そこでは時間も第二次大戦時になっていた。村上春樹の世界が少しずつ「現実感」を出しはじめてきた。そこに良い悪いの判断をする気は起こらなかったが、どうしてかな?という疑問は残った。
     『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』のなかで村上春樹は、そのことを「コミットメント」と「デタッチメント」の二つの違いとして話している。


    ・「考えてみると、68〜69年の学生紛争、あの頃から僕にとっては個人的に何にコミットするかということは大きな問題だったんです。.................ところがそれがたたきつぶされるべくしてたたきつぶされて、それから一瞬のうちにデタッチメントに行ってしまうのですね。...........」


    ・ 村上春樹は1979年に『風の歌を聴け』で小説家としてデビューした。彼の描く物語はまさしく「デタッチメント」の世界だった。しかしそれは単に人びとや社会、あるいは現実との間に生じる「コミュニケーションの不在」を描き出しただけではない。それは同時に、それまで自分に付着し、あるいはつきまとっていた自分以外のものを取り払っていった後に残る個人的なものの確認の作業でもあった。けれども、他者や現実からデタッチすれば、それだけ自己の存在も希薄化する。自己は何より他人を通してこそ確認できる存在だからである。

    ・村上春樹はつい最近まで8年ほど外国(ヨーロッパとアメリカ)で暮らしてきた。彼はそこで、「もう個人として逃げ出す必要がない」ことに気づいた。つまり、日本の外に出ることによって、個人として何か<誰か>にコミットする道に気づいたというのである。日本の中では「コミットメント」は同時に個人が集団に帰属することを意味する。そして個にこだわろうとすれば「デタッチメント」する他はない。外国にいると、個人として何かにコミットできるのでは、あるいはしなければと思うのだが、日本に帰ると何にどのようにコミットしたらいいのかわからなくなる。このような主旨で話す村上の感覚は、ぼくにも良くわかる。しかし、このような状況も、日本でもぼちぼち変わりはじめている。村上春樹はそんな気持ちで「地下鉄サリン事件」の被害者の言葉を聞き集める作業を思いたった。

    ・『アンダーグラウンド』を読みながら気づいたのは、一つはスタッズ・ターケルの本に良く似ていることだった。ターケルの本はどれもが 100人を越える人たちが語ることで作り上げた世界である。「仕事」や「戦争」、「大恐慌」や「アメリカン・ドリーム」、そして「人種問題」。それらはどれも、多様な人たちのさまざまな経験や考え、思いが交錯する、分厚い短編小説集のような仕上がりになっている。しかし、700ページを越える『アンダー・グラウンド』はきわめて単調で退屈である。同じ日の同じ時間に同じ地下鉄に乗り合わせた60数人の経験は、それが都心の職場に通う人たちばかりのせいか、どれも似通っている。だから、100ページも読み進むと、後はまたかといった思いがだんだん強くなってくる。要するに村上春樹の小説のようなおもしろさを期待すれば、たちまち放り出したくなってしまうものでしかない。

    ・村上春樹はこの本の最後の章で、この仕事を考えた動機を「そのときに地下鉄の列車の中に居合わせた人々は、そこで何を見て、どのような行動をとり、何を感じ、考えたのか?」と書いている。実はこの点については、ぼくも読みながら興味を感じた。それは偶発的で異常な出来事に対して人々がとった行動と状況についての解釈、つまり「コミットメント」と「デタッチメント」の仕方といったことである。この本を資料にすれば、そのようなテーマで論文が一本書けるかもしれない。そんな感想を持った。しかし、それはまた『アンダーグラウンド』に登場する人々に「コミット」だけではなく「デタッチ」の姿勢も示さなければできない仕事のように思えた。

    1997年3月30日日曜日

    「容さんを偲ぶ会」(東京吉祥寺クークーにて)

     吉祥寺の街を歩くのは久しぶりだ。駅の北口から東急デパートのあたりは昔と違って人通りが多く、そこからさらに西に路地を入ると、TOWER RECORDやブティック、レストラン、あるいは小物の店などが立ち並んで、まるで大阪のアメリカ村のようだった。ライブハウスの「ぐぁらん堂」はもうない。

    30年前、僕は予備校の授業をさぼって南口にあった「青い麦」でフォークソングのレコードを聴いて過ごし、井の頭公園でギターの練習をした。そこで高田渡と何度か会った。彼をはじめて知ったのは四谷の野中ビルで開かれた「窓から這いだせ」という名のコンサートだった。その後、東中野や阿佐ヶ谷、あるいは豊田など中央沿線で小さな会場を借りたコンサートが行われ、僕も何度か歌った。会を設定し、若い歌い手を集め、歌の批評やアドバイスをし、相談に乗ったのが中山容だった。

    その容さんが死んで、高田渡と中山ラビが偲ぶ会を開いた。集まった中には僕にとっては30年ぶりという人たちもいた。ディランに姿も声もそっくりで「Boro Dylan」と呼ばれた真崎義博はC.カスタネダの翻訳者になった。メロンこと玉置倶子。音楽評論家の三橋一夫、田川律。みんなそれなりに歳をとっているが、変わった顔の中に昔の面影がすぐに浮かんできた。もちろんフォークシンガーとして一人立ちし、今でも歌い続けている人もいる。集まった人たちがそれぞれ容さんを思い出しながら話した後は、会場はフォーク・コンサートに一変した。

    高田渡が飄々と歌い、遠藤賢司がエネルギッシュにギターを掻き鳴らす。大塚まさじは情感をこめ、中川五郎は恥ずかしそうに、そして、10年ぶりにギターを持った中山ラビはちょっと居直ったよう。中川イサトのギターが控えめに鳴る。それに、サービス精神たっぷりの泉谷しげる。みんな相変わらず、というよりは、すっかり昔に戻って楽しそうだった。


    集まった人は30余名。義理でなどという人はもちろん一人もいない。で、湿っぽい雰囲気などとは無縁な楽しい時間があっという間にすぎた。どうしてかな、と考えると中川五郎が歌った「自由ってやつは、失うものが、何もないことさ」というフレーズが浮かんできた。確かに、容さんと出会った頃は、誰にも失うものなど何もなくて自由だった。容さんは、そんな何もないくせに生意気な連中と本当に楽しそうにつきあった。彼の知恵袋からはいろんな話が飛び出して、僕らはそれに聞き入ったが、彼は決して偉ぶることはしなかった。

    実は僕は容さんには長いこと感じていた不満があった。彼はなぜあんなにアイデア豊かな話しをしてくれるのに、それを文章にしないんだろうか?あんなにたくさん翻訳をしているのに、自分の本を作ろうとしないのだろうか?病院にお見舞いに行ったときも、闘病日記でもつけたらいいのにということばが、何度も口から出そうになった。でも、それはきっと、彼が一番自覚していたことだったはずだ。それに、書く人ではなく話す人だったから、みんながこんなに慕って集まり、楽しく昔を再現できたのかもしれない。そんなふうに考えると、たまらなく、もう一回、容さんと話がしたくなった。