1998年3月4日水曜日

上野千鶴子『発情装置』(筑摩書房)

 

・おもしろい本だ。『発情装置』というキワモノ的なタイトルだが、内容は「性」について、「ジェンダー」について、そして男と女の関係についての先端論である。何より、思考の新しい回路を発見させてくれる。何となくそう感じていたことに、明確なことばが与えられているのがいい。
・僕は毎月数十冊の本を買う。しかし、最後まで読むのは、たぶんその2割ぐらいだろう。そしておもしろいと思うのは、1冊あるかないかといったところだ。さらに、知らなかった大事なことを教えられたとか、気づかなかった視点や新しい考え方にふれられるのは年に数冊だが、この本は間違いなく、その一つになるはずだ。
・「ブルセラ」や「援助交際」で少女の性が話題になってきた。宮台真司の挑発的な著作は、世の親たちに不安を与えるのに十分なインパクトを持ったと思うが、僕は、ちょっと胡散臭さを感じてきた。つまり実際にそのような現象があるのかもしれないが、いったいどの程度の広がりをもっているのだろうか、といった疑いだった。上野千鶴子の回答は痛快だ。

「少女達にブルセラ・ショップの存在を教え、彼女たちの使用済みパンツに市場価値があることを『発見』させたのは、マスコミでした。メディアにおける『ブルセラ・ブーム』の仕掛人、藤井良樹くんや宮台真司くんは、それを十分に自覚しています。彼らの証言によれば、メディアの中で『ブルセラ・ブーム』がおきた後に、事実、ブルセラ・ショップの数は増えたということです。これらのルポライターや社会学者たちは、取材と称して女子高生たちに『ブルセラ・ショップ』の存在を教え、彼女たちのアクセスを容易にすることに貢献しました。」

・「マッチポンプ」としての宮台というわけだが、上野はさらに、宮台の仕事が女子高生たちにばかり向いていて、それを買う男たちにではないことを突く。少女たちが性を売り物にするのは、それを商品化し、市場を形成させる男たちの「欲望」があるからだが、そのことを問わない宮台の姿勢はどうしようもなく保守的なものだというわけだ。ついでにいえば、例の神戸の事件への最近の宮台のシフトにも、ぼくはやっぱり胡散臭さを感じている。どんなテーマも彼にとっては売名の手段でしかないのではという感じがしてならないからだ。
・それはともかく、この本はけっして男たちを一方的に糾弾するような内容のものでもない。フェミニストによる告発型の指摘は、「売春」「レイプ」「セクハラ」など、すでに様々になされている。どれもが正論で、ごもっともと言う他はないが、おもしろいと思うものに出会ったためしがない。しかも一方には「おもしろくない」とあからさまに言いにくい雰囲気がある。そんなもどかしさもまた、この本は代弁してくれている。たとえばキャスリン・バリーの『性の植民地』について

告発は、ここで終わる。だが男のセクシャリティに対する理解は、ここから始まる。男はなぜ、そんな悪いことをするんだろう?この素朴で根源的な疑問に答えてくれないこれまでの告発型男性研究はどれも退屈だ。

・で、その「なぜ」だが、上野は「裸体のジェンダー非対称」という指摘をしている。女はいつでも男の性的欲望の対象として「身体」の危険にさらされている。「視られる性」と「視る性」、視られることへのナルシシズムと視ることへのフェティシズム。なぜ男は女の身体に欲望するのか?なぜ女はしないのか?それはまさに、「視線」をめぐる「政治学」の問題なのだと上野は言う。いったいそれは対称的になるものなのだろうか?
# 少女マンガにおける「少年愛」について、あるいはニキ・ド・サンファル論、異性愛、ゲイとレズ、そしてフロイト批判など、この本から出発して考えることは、本当にたくさんあると思う。

1998年2月27日金曜日

北山の春



  •  大津市坂下
    • 京都の大原から通称鯖街道を北上してトンネルをいくつか抜けると坂下という小さな集落がある。そこに住んでいる陶芸家の筒井さんを訪ねた。両側に山が迫る谷間で、いつもならまだ雪に覆われている時期なのに、今年はもう春の気配。安曇川の川辺にはネコヤナギが綿帽子をいっぱいつけていた。
    • 彼の住む家の近くにある家はすべてが空き家。みんな京都市内に移り住んでしまったそうだ。以前は狭くてクルマのすれ違いも難しい道だったが、今ではトンネルができて様変わり。しかし、村人はかえって住み慣れた土地から離れ、工事のために蛍も魚もいなくなったそうである。とは言え、猿や鹿や狸が出没する里であることは変わらないようだ。彼はここに独りで住んでいる。

  • 1998年2月13日金曜日

    『フル・モンティ』(1997)

     ぼくは大学の教員だから、わりと好き勝手なことやっていても、とやかく言われることはあまりない。ほとんど自由業のようなつもりでいるのだが、給料をもらって生計を立てているサラリーマンであることに変わりはない。だとすると、失業の危険だって常につきまとうはずである。最近の証券会社や銀行の倒産はもちろんだが、18歳人口の減少で大学が冬の時代を迎えることはずいぶん前から言われてきた。


    ぼくは能天気にも、こんなことをほとんど他人事のように考えてきた。そして、最近になって急に、否応なしに現実味をもって感じさせられるようになった。大学の生き残りのために考えさせられたり働かされたりすることが増えてきたが、それにもかかわらず受験生は確実に減りつづけている。


    で、ときどき、失業したら、ぼくには一体何ができるんだろう?どこが雇ってくれるんだろうなどと考える。もちろん考えはじめてすぐわかるのは、その可能性の少なさである。ぞっとして、二度と考えたくはないと思ってしまう。間違っても、『フル・モンティ』の登場人物たちのような目には遭いたくはない。この映画を見ての第一印象はそれだった。


    "Full Monty" とは全裸という意味のスラングである。この映画はつまり、男たちがストリップをやる話なのだ。イギリスのシェフィールドはマンチェスターやリバプールに近い鉄鋼の町。登場人物たちはそこの鉄工所に勤めていたのだが、半年前に解雇されてしまっている。金がない、借金はある。時間を持て余す毎日、パートでなら職もないことはないが、今さらそんな仕事をする気にもならない。子供に威厳を示せない父親、そして離婚の危機。当然、パート仕事をする女たちの方が金回りがよくて勢いもある。


    町にやってきた男たちのストリップ・ショーに女たちが嬌声をあげる。男たちはますますいじけるが、主人公のガズはこれで金儲けをと考える。メンバーはインポテンツのデブと気位の高い上司、自殺し損なったマザコンに、巨根だけが自慢のリズム音痴、それに薬中毒の初老の黒人。


    話はしごく単純、それなりに深刻で切実なのだが、思わず笑ってしまう。笑いながら、他人事ではすまされない。火の消えた鉄工所での踊りの練習が見つかって、全員が警察に捕まってしまう。ラジカセで音楽の担当をしていたのはガズの9歳になる息子だった。新聞が鉄鋼野郎のストリップと大きく報じる。新聞の回収にまわったって焼け石に水。彼らは一躍町の話題になる。そして、最初で最後の一回だけの、スッポンポンのストリップ・ショー。これはまさに、中年過ぎの男たちのアイデンティティをかけた戦いの物語なのである。


    最近、イギリス映画がおもしろい。例えば『トレイン・スポッティング』や『イングリッシュ・ペイシャント』。『トレイン・スポッティング』はやっぱり、職がなくてぶらぶらしている男たちの話だった。ロバート・カーライルは両方に出演しているが、登場人物は全体にもう一世代若かった。いわば、アイデンティティを持てない状況に置かれた若者たちの生態といったところ。そして『フル・モンティ』はアイデンティティの再構築を迫られた男たちの生き様である。


    一人前の人間であるためには、誰もが他人から認められ、信頼される何者かにならなければならない。そのための機会や選択の幅は増えたが、競争は激しいし、確立したと思っても、実際、その基盤は恐ろしく頼りない。だからいつだって、やり直す状況に置かれる危険性はある。そんな時代がやってきたことは、たぶん間違いない。『フル・モンティ』はそんな時代に遭遇した男たちのやけっぱちの抵抗なのである。

    1998年2月6日金曜日

    Bob Dylan "Time Out of Mind" グラミー賞「最優秀アルバム賞」

     

  • このアルバムの1曲目の"Love Sick"は「俺は歩いてる」で始まる。歩いていてくれて本当によかったと思う。病気で入院というニュースを聞いた時に、続いてディランもか、と考えてしまったからだ。実際去年は、たくさんの人が死んだ。いくら息子がデビューして人気者になったとはいえ、まだまだ歌を聞きたい。そんな気持ちで1年を過ごした。そして去年の暮れにタワー・レコードでこのアルバムを見つけた。7年ぶりの新曲と書いてある。ぼくはうれしくなって、一刻も早く聞いてみたいと思った。
  • で、音はシンプルだがなかなかいい。深く沈み込むような声、静かだが、けっして弱々しくはない。ディランの存在感は健在だ。いくつかの歌詞に「歩いている」ということばがくり返し出てくる。このアルバムのキー・ワードかもしれない。
      夏の夜を歩いている
      ジュークボックスが低く鳴る
      昨日は、すべてがあまりに速く過ぎて
      今日は、すべてがあまりに遅く動いている
      Standing In The Dooway
  • 先日ディランのページを作っている西村さんという方からリンクしたいというメールが届いた。簡単に了解したが、後でそのページ「How To Follow Bob Dylan」を見てびっくりした。現在のディランの動向が手に取るようにわかるし、彼に関する最近の情報やレビューなどのリンク先も豊富だ。さっそく、ここから歌詞を載せているページを探して"Time Out of Mind"の歌詞を手に入れた。
  • ディランのコンサートは、今年は1月13日に始まっていて2カ月間で23回が予定されている。ものすごく精力的だ。途中、ニュー・ヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでは5日間、そしてボストンで2日間、ヴァン・モリソンとのジョイントが行われたようだ。いい組み合わせだな、と思うと、行けないことがたまらなく悔しくなってきた。それに続く26日のコンサートが風邪でキャンセルになったようだ。ディランはやろうとしたがドクター・ストップがかかったようだ。
  • ディランはなぜこんなにコンサートにこだわるのだろう。そんな気がしないわけではない。死に急ぐことはないじゃないか、と言いたくもなってしまう。しかし、たとえばポール・ウィリアムズが『ボブ・ディラン1-2』(菅野ヘッケル訳,音楽の友社,1992年)に描き出したように、彼はコンサートをアルバムの再現とは考えないし、また一つ一つのコンサートを、それぞれ別の存在として考えている。だから曲目の違いはもちろん、歌い方やアレンジまでもが変えられてしまう。その一回限りのパフォーマンスと聞き手との出会いにかけている。その姿勢は、もうすぐ歌いはじめて40年になる彼のなかで一番はっきりしたものだ。
  • それなら、ディランは今の聞き手に何を期待しているのだろうか。ポール・ウィリアムズは「批判的な気持を持たない大聴衆を前にして、すでに征服をすませた英雄である自分が、自身にはすでに過去のものになったアウトサイダー精神をどのように歌って表現するかという挑戦。この挑戦は一貫してツアーの底流にあり、最後までなくなることがなかった。」と書いている。
  • もぬけの殻になったナツメロではなく、その精神を歌いつづけること。それが伝わる可能性はと考えたら、ほとんど絶望的になってしまうような試みだが、ディランにはそんな計算は無意味なことのようだ。「俺は歩いている。昨日も、今日も、そして明日も.......歩き続けている」
  • 1998年2月1日日曜日

    D.ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』上下(新潮社)


    ・50 年代というのは若い世代の主張が激しかった60年代に比べて、話題になることが少ない。けれども、考えてみれば60年代の若者たちを育てたのは、50年代なのである。だから、60年代がなぜあのような時代だったのか知りたければ、むしろ、50年代を調べる方が近道なのかもしれない。
    ・D.ハルバースタムの『ザ・フィフティーズ』を読んで、再認識させられたことがいくつかある。戦後育ちのぼくにとってアメリカは最初から豊かな国だった。最初からということは、ぼくにとってはずっと昔からということを意味していた。自動車、カラー・テレビ、大型冷蔵庫、ハンバーガー、コーラ、高速道路に大きなスーパー・マーケット、あるいはホリデイ・イン..........。
    # ところが、この本を読むと、そういった現在でもアメリカのイメージを代表するもののほとんどが、50年代に生まれたことがよくわかる。例えば、マクドナルドのハンバーガーはロサンジェルスに近いサンバナディーノに1940年に開店した店が出発点になっている。店は繁盛したが、これを全国チェーンにしたのは、マクドナルド兄弟から1954年にフランチャイズ・エージェントを引き受けたレイ・クロックだった。そしてケンタッキー・フライド・チキンやさまざまなファミリー・レストランのチェーン店が生まれる。
    ・アメリカは40年代に全国の高速道路網を整備した。そこにいち早く着目して、全国チェーンのモーテル「ホリデイ・イン」を作ったのはケモンズ・ウィルソンである。あるいは、郊外に新興住宅(レヴィット・タウン)を量産したビル・レヴィット、ディスカウント・ショップ「コーヴェッツ」をニューヨークではじめたユージン・ファーコフ。そのアイデアを借りて作られたオモチャのチェーン店「トイザラス」。
    ・50年代を象徴するのは他にもたくさんある。テレビの普及と映画の変容、あるいは、LPやドーナツ盤によって生まれた新しい音楽市場。マーロン・ブランド、ジェームズ・ディーン、マリリン・モンロー、エルビス・プレスリー、そして「アイ・ラブ・ルーシー」のルシル・ポール.............。もちろんタレントやスターの出現は芸能界に限らず、政治、経済、社会のあらゆる分野から出現する。というよりは、注目される人、されたい人はタレント的な才能をもたなければならなくなった。
    ・ハルバースタムはアメリカの豊かさを大衆化した時代が50年代であることを詳細に展開する。それは、一方で水爆や冷戦といった緊張をはらみつつも、個々の人にさまざまな欲望を自覚させ、それが実現可能だと思わせはじめた時代だった。郊外にもったマイ・ホームとテレビ、買い物はスーパー、自動車をつかった高速道路の旅。宿泊はどこでも安心なモーテル。大事に育てられる子供、魅力的な妻や懸命な母になろうとする女性たち。キンゼー・レポートとピル、『プレイ・ボーイ』の創刊。
    ・けれども、その豊かさの大衆化が、また、さまざまな不満や批判を自覚させる原因になる。60年代の若者の反乱の出発点がすでに、ディーンの映画やプレスリーのロックンロールに見つけられるように、フェミニズムや黒人(アフリカ系アメリカ人)による公民権運動の出発点も50年代にある。もちろん、ヴェトナム戦争が米ソの対立する冷戦構造から生まれたものであったことはいうまでもない。
    ・このように見ると、もうすぐ20世紀が終わろうとしている現在について考えようとするときにまず見つめなければいけないのは、50年代という時代であるような気がする。

    1998年1月25日日曜日

    世間体とゴミ



  •  京都西山奥
       京都の洛西ニュー・タウンから西山に登る細い道がある。花の寺や善峰寺など観光名所もあるが、亀岡や高槻につながる知る人ぞ知るといった山道である。市内が一望できる絶好のスポットもあって、ぼくもバイクや車で時折出かけるが、季節ごとに趣のある景色を見せてくれるお気に入りのルートである。しかし、その道をちょうど登り切ったあたりの平らな土地に、ものすごいゴミの山ができている。2カ所に別れて車が10台ほど、そのほか簡易の公衆トイレ、風呂、それにモーターボートまであった。実際こんな光景は、ちょっと山の中をドライブしたら、すぐに見かけるものである。
       井上忠司の『世間体の構造』(NHK出版)には村と村の境目にゴミの山ができる習慣が古くからあって、それが顔見知りの他人の目を気にする日本人独特の風習であることが書かれている。環境問題に自覚的になって、ゴミの選別にやかましい自治体が増えているが、「世間とは顔見知りだけの狭い世界なり」といった日本人の感覚は、まだまだ健在である。それは例えば、道路のグリーンベルトに散乱する空き缶などをみてもわかる。さすがに町中でのタバコの吸いがらのポイ捨ては減ったが、人の目が及ばないところ、自分が匿名のままでいられるところでは、ついつい昔の癖が出てしまうようだ。


  • 1998年1月19日月曜日

    『ザ・ファン』(1996) 監督:トニー・スコット、主演:ロバート・デ・ニーロ 、ピーター・エイブラハムズ(原作)早川書房

  • 最近はすっかり、映画をテレビ、それも衛星放送で見る習慣がついてしまった。だから新しい映画は、大体1年遅れで見ることになる。ビデオをレンタルする気にもならないのは不精の極みのような気もする。が、それでも不都合はないのだから、便利になったことを感謝すべきだろう。映画レビューが時期はずれになるのはちょっと気がかりだが、別に最新の映画情報のつもりではないから、さして問題だとも思わない。
  • とは言え『ザ・ファン』はずっと気になっていた。テーマである「ファン」に関心があったからだ。で、原作はちょっと前に読んだ。原作と映画の違いはよく議論されるところだが、デ・ニーロを想像しながら読んだせいか、映画を見てほとんど違和感を感じることはなかった。ただ、舞台がシカゴからサンフランシスコに変わり、チームが「ホワイト・ソックス」から「ジャイアンツ」に変わっただけのことである。原作でも、自分勝手の「ファン」の恐ろしさは感じられた。しかし、映画でのデ・ニーロの演技は、それ以上だった。彼は時に演技が過剰になりすぎて、食傷気味になる(最近では『フランケンシュタイン』)が、今回は彼以外にはできない役のように感じられた。
  • 他球団から超高額の年俸でスラッガーがひいきチームにやってきた。しかもその選手は地元の出身である。主人公のギルは今年こそ、おもしろい試合が見られると期待する。彼は妻とも離婚して、息子ともめったに会うことができない。ナイフの会社のセールスをやっているが、成績が悪く、父が創業者であるにもかかわらず、解雇寸前のところにいる。で、目下の関心は野球だけ。ところが、その期待したレイバーンは極度の不振。つけるべき背番号11をチーム・メートのプリモがゆずらない。原因はそこにあるのかもしれない。しかもそのプリモは絶好調。ギルは背番号の交渉に自分が一役買おうと考える。
  • ギルはプリモを殺し、レイバーンの調子は戻る。ギルはレイバーンに感謝してもらいたいと思う。しかし、レイバーンはファンなんて勝手なヤツはクソくらえだという。ギルは許せないと思う。そしてレイバーンの息子を誘拐。映画としてはぞっとするほどおもしろかった。けれども、ファンのイメージがこんなふうにして強調されるのは危ないな、とも思った。
  • ファンについては、社会学でも、最近よく研究されるようになった。学生の関心も高くて、例えばぼくのゼミでは去年、バレーボールの追っかけ、ロックのグルーピーをテーマに論文を書いた学生がいたし、今年は宝塚ファンをテーマにした論文があった。あるいは小説やマンガや映画とその作者をテーマにする場合も多い。そのすべてに共通しているのは、自分自身がファンだという自覚である。好きな対象、自分自身がそうであるファンについて考えるから、当然批判めいたことが書かれないという不満はあるが、何かのファンになること、ファンであることの積極的な意味を力説するという点ではどれも説得力があった。
  • ファンについての社会学的研究も、かつてのような病理現象的な扱いから、ごく普通の人にとってのアイデンティティ形成の一要素、というものに変わってきている。例えば、有名なのはマドンナとそのファンがもつ「ウォナビー」(私もなりたい)という意識だろう。これは、もちろん、自分もスターになりたいといったものではない。むしろマドンナのように男に従うことなく積極的にいきる女になりたいという意識である。
  • ファンとはけっして、スターを盲目的に愛し、同一化し、あげくは自分とスターとの違いを見失なってしまうといった存在ばかりではない。自分が自分である、あるいは自分らしい自分を捜す。そのために誰かのファンになる。そんな傾向の方が、現実的には圧倒的に多数派を占めているはずである。『ザ・ファン』は「ストーカー」といった話題とともに、そんな現実を不必要に歪ませる結果をもたらしかねない。この映画に夢中になりながら、一方では、そんなこわさも感じてしまった。