1998年7月8日水曜日

Radiohead "Ok Computer" "Pablo Honey"

 


・ロックはアイデンティティの音楽だ。それは何より自分探しのために作られ、歌われる。「アイデンティティ」の自覚には、自分自身が何者であるのか、何になりたいのか、何になれるのかといったことについて考える余地が不可欠だが、おもしろいのは、ロックの新しい流れが、実際にはアイデンティティ選択の余地など十分にない状況にいる者たちから生まれたところにある。
・ロックンロールが50年代後半のアメリカに生まれたとき、それを支持したのは、大学をドロップ・アウトしたビートではなく、何か自由に生きたいけれどもそれができずに街角にたむろしているブルー・カラーのティーン・エージャーたちだった。60年代のブリティッシュ・ロックの台頭を担ったのは、親の生活に少しゆとりができて、勉強したくはなかったが、アート・スクールという名の専門学校に行って遊ぶ時間を過ごせた労働者階級の若者たちだった。
・70年代のイギリスのパンクの背景には職がなくて暇を持て余し、鬱憤のはけ口を探し回っていた連中がいたし、レゲエはそのさらに下の階層に位置せざるを得なかったジャマイカ系イギリス人の中から生まれている。80年代に登場したヒップ・ホップ・カルチャーもその発生地はニューヨークのゲットーだった。地下鉄の落書き、ストリート・カルチャーとしてのダンス、そして、不平不満や怒りの声をリズムに乗せて主張するラップ、ディスコのDJから生まれたスクラッチ。
・Radioheadは90年代に登場したイギリスのグループである。ぼくはつい最近彼らの音楽を聴いて、かなり関心を持った。 Radioheadのサウンドはどこかで聞いたことがある。U2、ドアーズ(ジム・モリソン)、ピンク・フロイド、あるいはキング・クリムゾン、さらにはベルベット・アンダーグラウンドやトーキング・ヘッズ、そしてR.E.M.............。実際、次のような歌があった。

ギターは、誰にでも引ける
だが、誰もそれ以上になりたいとは思わない
髪を伸ばして、僕はジム・モリソンになりたい

・ぼくはRadioheadの音楽に、アイデンティティの模索に必要な時間や選択肢を十分に持ちながら、そのために迷い、悩んでしまう恵まれた状況にいる若者たちのつぶやきを聞いた気がした。何でもできるが、何をやっても誰かのまね、何かの焼き直しにしかなり得ないというジレンマ。その閉塞状況を一面ではポスト・モダン的なノリで軽くやり過ごしているように見せながら、しかし同時に、その苦悩に正面からぶつかろうともしている。ぼくは彼らの音楽にそんな姿勢を感じ取ったが、若い人たちはどんな思いで聴いているのだろうか。 (1998.07.08)

1998年7月1日水曜日

周防正行『「Shall we dance?」アメリカを行く』(太田出版)

 

・『Shall we dance』を見たが、僕はおもしろいと思わなかった。竹中直人のわざとらしい演技は昔から嫌いだし、ダンス教師役の草刈民代はお人形さんみたいで気に入らなかった。日本アカデミー賞の独占は、裏を返せば、日本映画の貧困さを証明するものでしかないじゃないか。と、理由はいくつも上げられるが、実は、僕は社交ダンスが好きではないのだ。
・けれども、『「Shall we dance?」アメリカを行く』はおもしろかった。自分の作った映画を持ってアメリカ中を飛び回り、そこで上映会をして観客とディスカッションをする。あるいはその土地のメディアや著名なジャーナリストのインタビューを受ける。この本は、その中でこの著者が感じたこと、つまりアメリカ人にとっての日本、日本文化、そして日本映画についての知識や情報の少なさ、そのために持たれる偏見や誤解との格闘を主な内容にしている。
・現在、世界の映画をリードし、支配するのはアメリカである。だから日本の外に映画を持ち出そうとすれば、まず、アメリカで好評を得なければならない。実際アカデミー賞には「外国映画賞」という部門もある。さぞかしアメリカ人は世界中の映画に見慣れていてのだろうと思いたくなるが、実際には、状況はまるで違う。
・アメリカではずっと外国映画は英語に吹き替えられて上映されてきた。つまり、アメリカ人の観客は登場人物や舞台が日本だろうと、中国だろうとロシアだろうとアフリカだろうと、誰もがどこでも英語を話すのが普通だと考えてきた。だから、字幕を読むのはアメリカ人の多くにはいまだに面倒なことである。周防正行はそんな世界に、日本人による日本語の映画を持ち込んで、見せようとした。
・野茂がメジャー・リーグ4年目にもなって、いまだにインタビューを日本語でやっている。アメリカ人はそのことにかなり批判的である。アメリカで認められるためには、何より英語でのコミュニケーションをマスターしなければならない、というわけだ。もっともらしく聞こえるが、しかしアメリカ人は日本に来ると、英語が話せるというだけですぐに、英会話の職に就けたりする。何年も日本に住んで日本の大学に勤めながら、ほとんど日本語をしゃべらない、なんていう人も結構多い。要するにアメリカ人にとっては、アメリカだけが「世界」なのだと思わざるを得ない。
・周防正行は次はハリウッドで映画を撮るのか、という質問をくりかえし受ける。それは質問者にとっては、「Shall we dance」に対する評価の意思表示なのだが、周防には、アメリカ人の偏狭さとしか感じられない。映画はハリウッドで作られる。ハリウッドだけが映画を作る場所だというわけだ。メジャー・リーグのチャンピオンを決めるのはワールド・シリーズだが、そこには日本や韓国のチャンピオン・チームは出られない。野球やバスケット・ボールのワールド・カップをやって、アメリカが勝てない状況が生まれない限り、アメリカ人の偏狭さは、とても直りそうにない。 (1998-07-01)

1998年6月24日水曜日

『HANA-BI』

 

・ たけしの映画には暴力がつきものというけれど、一つだけほとんど暴力とは無関係な映画がある。『あの夏、いちばん静かな海』。聾唖の若いカップルの物語。湘南の海岸とサーフィン。テレビでメチャメチャやってるたけしが、こんな静かな映画を作るのかとびっくりしながら見た。
・『HANA-BI』には暴力と静寂さの両方がある。主人公の刑事(元)は映画の中ではほとんどしゃべらない。黙っていて、抑えきれなくなると、いきなりパンチをとばす。血飛沫が上がって、見ているだけでも痛さが伝わってくるような描き方をする。後輩の刑事のあっけない死。撃たれて下半身が動かなくなった刑事は家庭崩壊。生きる支えにとたけしは絵を描くことを勧める。その元刑事が描く絵が、映画の中では重要な役割を演ずるが、実際に描いたのはたけしである
・主人公の妻は岸本加世子が演じているが、彼女もほとんどしゃべらない。彼女もまた子どもを失って傷ついている。それに治る見込みのない病気にもかかっているようだ。彼女がセリフらしいことばを発するのは最後だけ、たけしに向かって「ありがとう」というところだけだ。静かさとこらえていて時折暴発する怒り。見た第一印象はそんなものだった。
・ビート・たけしのテレビ番組をぼくはあまり好きではない。ほとんどアドリブの悪ふざけ、悪態、毒舌。小気味よく感じることもあるが、ちょっと長く見ているとうんざりしてしまう。超売れっ子の彼がまめに映画を作りつづけている。そんなにヒットするわけではないから、テレビで稼いだ金を映画に貢いでしまっているのかもしれない。そんな彼を見ていると、息苦しくなるほど生き急いでいるように思えてしょうがない。そんな風に考えると、彼のテレビでの言動にはまた違った意味あいを見つけたくなってくる。彼は映画とテレビの両方で、いったい何を表現しようとしているのだろうか。
・子どもたちが突然切れて、とんでもない暴力を振るう事件が続発している。断定できるものではないが、ぼくは小さい頃から暴力はいけないと教えられて内面化した抑圧が問題なのではないかと考えている。暴力というよりは「怒り」をコントロールすべを知らないのだ。あるいは、日頃つきあう大学生たちが「友だちがほしい」といいつつ、仲良くなるきっかけをつかめないでいたり、互いに意見を言い合ったり批判をしたりすることに極端に慎重であることも気になっている。触れあうことやぶつかりあうことができないのだ。そして大人達はといえば、相変わらず、暗黙の了解が通じる社会に安住したがっている。実際には、そんな関係はすでに
・ビート・たけしの主張は、こんな社会の現状や、そこで何の声も上げようとしない人びとへの恫喝、あるいは暴露なのかもしれない。そのために彼はエネルギーと時間を極限まで使って、自らをさらけだそうとしている。『HANA-BI』を見てしばらくしてから、そんなことをふと考えてしまった。

1998年6月17日水曜日

芝山幹郎『アメリカ野球主義』(晶文社)

 

・ワールド・カップ中だが、僕の関心は相変わらずメジャー・リーグにある。そう、ドジャースからメッツに移った野茂のことが気がかりなのだ。気分一新、早く自信を取り戻して!! そう願って、生中継をハラハラしながら見ている。こんなふうだから、本屋で『アメリカ野球主義』というタイトルを見たときには、中身など確かめずに買ってしまった。買ってすぐ喫茶店で珈琲を飲みながら読み始めると、もう止まらない。おもしろくておもしろくて。で、家に帰ってまた読み続けて、読み終えたときには真夜中だった。
・何でこんなにおもしろいんだろう、と考えたら理由が二つ浮かんできた。一つは、メジャー・リーグにある逸話やユニークな選手の豊富さ。これは例えば、レイモンド・マンゴーの『大リーグなしでは生きられない』(晶文社)を読んだときにも感じたことだった。生で見たことなど一度もないメジャーの選手やゲームの話になぜかわくわくする気持ちを持ったが、それは日本の野球やその描写には一度も感じたことがないものだった。
・タイ・カップ、ベーブルース、シューレス・ジョー、ミッキー・マントル、ノーラン・ライアン.........。メジャー・リーグは歴史が長いのだから、伝説の人たちが多いのは当然である。けれども、逸話の提供者たちは現役プレイヤーにまで続いている。マクガイア、ケン・グリフィJr.、カール・リプケン。悪名高いところではヤンキースのストロベリー、グッテン。そこに去年の伊良部。ヤンキースといえば、オーナーのスタインブレナーもなかなかの人のようだ。もちろん、野茂についての文章は感動的だ。
・この本を読まなくとも、メジャー・リーガーが個性的であることはテレビでゲームを見ていればすぐわかる。しかし、もっと大きいのは情報量の少なさではないか、という感じがした。日本のプロ野球選手は巨人と阪神ばかりが注目されて、後はほとんど話題にもされない。しかも、甘やかしや揚げ足取りをしながら、もう一方で精神論や道徳論が幅をきかしすぎる。だから、ぜーんぜんおもしろくない。と僕は思う。うんざりして聞く耳すら持つ気がない。同じ調子で野茂や伊良部を追いかけるから、彼らにいつでもうんざりした顔をされてしまう。そうされながら、記者たちは自分たちのおかしさに気づかない。日本のプロ野球や選手をつまらないものにしているのは、誰よりマスコミなのである。
・この本のもう一つのおもしろさは、文章というかレトリックのうまさにある。芝山幹郎という人は読ませるコツを憎らしいほど心得ている。日本人のくせになぜこんなにメジャー・リーグのことに詳しいんだろう。そんなことを思いながらも、それがけっして知識のひけらかしにはなっていない。僕にもこんな文章が書けたらいいのに、読みながらちょっと嫉妬してしまった。

1998年6月10日水曜日

僕らの時代の青春の記録

 

『となりに脱走兵のいた時代  ジャテック、ある市民運動の記録』
関谷滋・坂元良江編(思想の科学社)

soldier.jpeg「昔ヴェトナム戦争という出来事があって、日本でも当時の大学生がそのことで反対運動をしたり、さまざまな活動をした時代があったんだよ。」

まるで昔話をするように、大学生たちに話さなければならない時代になった。このような経験は若い人たちに絶対伝わってほしいことだと思う。けれども、自分で話していると、どうしても「昔は.....、そして今は........」といったトーンになってしまう。その場は何となくシラケた雰囲気になる。だから、僕はできるだけ現実を忠実に記録したビデオを見せたり、本を読むように勧めたりしている。平和で豊かな現実がいつから、どのような過程でできあがったのか、そのことについて若い人たちが示す無頓着さは、ほっておいてはいけないと思うからだ。


ヴェトナム戦争では兵士たちや戦闘機、そして空母などは日本の基地から直接戦場に向かった。アメリカ軍にとって、日本は補給や休息の場であり、日本にとっては経済効果の大きい出来事だった。戦争によって日本の経済が豊かになる。あるいは、同世代の人間が一方では命をかけた戦いに参加させられ、他方では、のんびりと暮らしている。そのことに対する罪悪感、正義感.......。何かをしなければ、と考えるのは、僕らの世代にとってはけっして特別な意識ではなかった。


で、多くの大学生や予備校生や、あるいはすでに仕事に就いている者たちが、「ベトナムに平和を市民連合」(ベ平連)の活動に参加した。アメリカ兵が日本の基地から脱走して助けを求めてくる事件があって、ベ平連の中に脱走兵をサポートする「ジャテック」が作られた。始まりは空母「イントレピット」から脱走したアメリカ兵を第3国に逃がす仕事だった。


『となりに脱走兵のいた時代』は知人の関谷滋さんが編集した「ジャテック」の運動の記録である。「イントレピット事件」に関わった彼は、当時、東京で予備校に通っていた。その、最初からの従事者である関谷さんが、すでに過去の出来事になった「ジャテック」の活動を、最終ランナーとして、丹念に調べ、まとめている。


京都の仲間連中の間で何か集まりがあると、彼は決まって会計とか、終わった後のまとめなどを引き受けてきた。寡黙で表にでることはほとんどなかったが、彼なしには京都のベ平連は語れない。面倒なことはあいつに頼め、わからないことはあいつに聞け。関谷さんは、そんなワンパターンの頼みにも、いつでもいやがらずに応じる人だった。『となりに脱走兵のいた時代』はページ数が二段組で650を越える。たぶん、彼以外にはこんな仕事のできる人はいないし、しようと思うやつもいない。中身よりなにより、まず、そんなことに対して敬服してしまった。
もちろん内容もなかなか面白い。僕はこの活動に直接タッチしたことはなかったが、懐かしかったし、知らないこともたくさんあった。アメリカ軍の脱走兵を助けるということは、一方では、戦争に反対する意志表示である。しかし、他方で現実には、それほど政治的でもない、時には品行もよろしくないアメリカ人の若者の面倒を何日か見るという役目をおう。その時に感じた落差を何人もの人が思い返している。今となっては一瞬の夢のような経験だが、時間を越えた、きわめてリアルな光景として感じられた。

1998年6月2日火曜日

書評ホームページ


  • ホームページを作ろうと思ったときにまず最初に考えた内容は書評だった。僕は本を読むときに付箋とマーカーを用意しておく。で、チェックした個所を後で、ノートとして入力して、さらにデータベース化する。文章、特に論文を書くときには、材料の整理にこの作業は欠かせない。そんなことをしていると、当然、読んだ本についての感想があれこれ浮かんでくる。時にはメモのようにして書き残すこともあるが、しかし、そうしたほうがいいとは思いつつ、ほとんどの本については何もコメントをのこさずにほってきた。
  • 一方で、時折新聞や雑誌に書評を頼まれることがあった。これは必ずしも自分で読みたいと思っていた本ばかりとは限らない。さらに、読んで面白くないと感じたりする場合も少なくない。しかし、はっきりつまらない本だと書いてしまうわけにはいかないから、結局このような書評のポイント、つまり苦労のしどころは「レトリック」ということになる。これははっきりいって楽しい仕事ではない。そんなときにふと、面白いと思った本を、素直に、自由に書ける場があったらいいのに、と感じたことが何度もあった。
  • ホームページは、こんな気持ちを現実化する格好のメディアだと思った。さらには映画だってライブ・コンサートだって、あるいは毎日見ているテレビや、バックグラウンドとしていつも聴いているCDだって、書きたいと思う材料はいくらでもある。で、いつの間にか、ご覧のようなホームページになってしまった。原則は、自分で読みたいと思って買った本であること、読んで面白いと思った本であること、専門的にすぎるものは避けて学生の関心が得られそうなものであること、だから、当然、批判を目的にした書評はしない、とした。
  • 僕がこんなに面白がって書いているのだから、世間には多分同じような人がたくさんいるに違いない。当然、そうは思ったが、ほとんど探すこともしてこなかった。そうしたら5月の中旬に「書評ホームページ」の岡本さんから僕の書評の掲載を依頼するメールが来た。僕は即座にOKして、「書評ホームページ」にアクセスしてみた。そうしたら全部で230件ほどの書評が掲載されていて、僕のもすでにいくつか載っていた。開設は1997年7月22日。第1号の書評は『書店員の小出版社ノート』小島清孝著、木犀社、評者は松本功さんである。ここのところ活発にページ探しをしているようで、半月ほどで、100件ほど増えている。検索もできるから、この調子で増えれば、読もうと思っている本、すでに読んで、他人はどう思っているか知りたいと思っている本などが、すぐに見つかるようになるだろうと思う。
  • このページはおおよそ次のような欄で構成されている。関心のある方はぜひ一度訪ねてみてください。
      書評リンク/出版社INDEX/新刊情報/書評キママガジン/
      本の会議室(準備中)/書店リスト/コラム
  • 1998年5月27日水曜日

    『萌の朱雀』(1997) 監督:河瀬直美

     不思議な映画だ。というか見はじめてすぐに違和感を感じてしまった。第一に「せりふ」が極端に少ないし、そのことばがひどく聞き取りにくい。アマチュアの作る映画によくありがちな特徴だが、それを手法として意図的につかっている。手法といえば、どことなく小津安二郎の映画に似た感じもした。
    この映画の分かりにくさは、たとえば家族構成にある。両親と二人の子ども、それに祖母という家族だが、上の男の子と妹との歳が離れすぎているし、逆に母親と男の子の歳が近すぎる。けれども、そのことについての説明はせりふからはわからない。この映画にはナレーションもないのだ。15分ほどたったところで、やっと父親が「かあちゃんに会いたいか。遠慮するなよ」という場面がある。離婚して子どもを父親が引き取ったのか、と僕は思った。
    映画はその後10年ほど後の世界になる。兄と妹は最初から仲がよく描かれているが、10年後の世界では、そこにひそかな恋愛感情が生まれていることが暗示される。そしてすでに働きに出はじめた男の子には母親に異性としてひかれる思いも存在する。奈良の山奥にある狭い閉塞した世界の中の近親的な恋愛感情か、と思ったが、男の子が父親の姉さんの子どもであることが、祖母のせりふのなかにちらっと伺えた。そして物語はあまりに唐突な父親の死、と母と娘の里帰りによる家族離散によって幕を閉じる。
    正直なところ、何を描きたいのかわからない映画だと感じた。いったい何がテーマなのだろうか。確かに山奥の風景はきれいだし、素朴な人たちの様子はよく描かれている。けれども、それだけならば、とても映画として高い評価をすることはできない。「なんだ、これ」というのが見終わって感じた僕の印象だった。しかし、この映画は去年のカンヌ映画祭で賞をとっている。どうしてか、と考えはじめたら、すぐに小津のことが頭に浮かんだ。
    誰だったか忘れたがフランス人による小津論を読んだことがある。そこには川岸に並んで座る恋人同士を描いたシーンについての分析があった。二人は何もしゃべらず、見つめあうこともなく、ただ川面を眺めている。けれども、同じものを見つめることによって二人の思いはしっかり共有されている。抱きあったりことばで確認しあったりしなくとも心が一つになる関係。確かそんな分析だったと思う。
    ことばで言わなくてもわかる。というよりはことばに出さない方がよりわかる。それは日本人のコミュニケーションに典型的な伝統だが、この映画はそれを描きたかったのかもしれない。だとすれば、この映画のテーマはわかりすぎるぐらいよくわかる。けれども、それならば、むしろそんな伝統が現在の日本人の中からは消え去ってしまっていること、消え去っているのに、いまだにそれが通用しているかのような錯覚に陥りがちであること。そんな人間関係のちぐはぐさを語るべきなのではないだろうか。たとえ吉野の山奥でさえ例外ではないというふうに.......。
    しかし欧米の人たちには、そんな日本人の変容はわからない。彼らにとって相変わらず日本は東洋の神秘な国のままなのだ。カンヌでのこの映画の評価は、結局、そのことを明らかにしただけなのかもしれない。そんな気がした。と考えたら、『HABNABI』はどうして受けたのかが気になりはじめた。来月ぜひ「祇園会館」で見ようと思う。