2000年7月3日月曜日

桑の実と木工

まず桑の実。僕は小さい頃に摘んで食べた記憶があって、母親には唇を真っ赤にして帰ってきた、といわれているが、それでも、まるではじめてのような感激だった。「赤とんぼ」の歌の中にある風景そのままに「桑の実を小かご」に摘んでみた。甘くておいしい。木イチゴなどもたくさんなっていて、サラダに入れて食べている。

もう一つはクルミ。実がたわわになる木を何本も見つけた。秋のはじめには収穫できるだろう。ちょっと得意顔でいえば、クルミは実ではなくて種の部分なのである。

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・家の周りが緑一色になった。今年は雨が多いから、成長の勢いが一段とあるのかもしれない。茂みになって気をつけないと蛇をふんずけるなどと脅されたりしているから、庭に出るのも長靴ということになってしまう。しかし、毎日毎日発見するものは多い。
花も次から次へと咲いている。雑草の中に隠れるように咲き始めるから、草取りをすることができない。おかげで庭は水を含んだ葉っぱで覆われていて、ちょっと歩くとびしょびしょになってしまう。湖畔にはラベンダーも咲き始めた。

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20-02.jpeg 部屋でパソコンをやっていると、ドシンという大きな音がした。何かが倒れたのかと思って家の中を見回したが、そうではない。で、窓から外を見ると、山雉が倒れている。羽根がけいれんしてぴくぴく動いていたが、すぐに死んでしまった。雉は飛ぶのが下手でよくぶつかるのだそうだ。フランス料理のシェフなら、いい素材と思うのだろうが、僕は草むらに放り投げてしまった。

て、その中で作品を焼くことにした。割れたものもあったが、煤がついていい雰囲気になった。それにしても6月にストーブを焚くとは思わなかった。

僕は僕で、木工に目覚めてしまった。最初は檜の枝をつかって木刀を何本かつくったのだが、白樺が細工しやすいことを発見して、ナイフやフォーク、スプーン、それにしゃもじやへらなどを次々作り始めた。使いやすいものは形状がむずかしいし、彫刻刀は削りにくいから、気に入ったものはなかなかできないが、ナイフを持っていると奇妙に気持ちが落ち着くから不思議だ。
  • ただの木片が、次第に形を見せてくる。そのおもしろさに、一つ作ってはまた一つ。手には刺し傷や切り傷。バンドエイドがいつも巻かれている。ほんのちょっとした傷でも、当然痛い。人を切ってみたいとか、殴ってみたいなどと思う少年たちは、きっと刃物を使って木を削ったことなどないのだろう。

  • 2000年6月26日月曜日

    中山ラビ・コンサート


    吉祥寺 Star Pine's Cafe 6/18

    rabi1.jpeg・吉祥寺の街を歩いたのは何年ぶりだろうか。昼前に雨がやんだ日曜日の午後。通りは人で溢れかえっていた。実は街中を歩くのも数カ月ぶり。人のたくさんいるところはせいぜい大学のキャンパスだったから、暑さもあって目眩がした。体はすっかり森のリズムになっている。居心地の悪さを感じたが、今日は夜コンサートがあって、吉祥寺にはそのために来たのだ。
    ・吉祥寺には中央線の特別快速は止まらない。しかしデパートがいくつもあって活気がある。昔からある駅前の商店街も健在なのに、北口の道路が整備されて駅前には広場ができているから、ごみごみした感じもない。折からの衆議院選挙でロータリーには選挙カーがやってきていた。菅直人、中村敦夫とタレント揃いで、思わず足を止めて話を聞いてしまった。結果が決まっている田舎の選挙区に住んでいると選挙にはほとんど関心が持てないが、やっぱり東京はタレント社会だな、と思った。
    ・で、コンサートである。中山ラビは50歳を過ぎている。60年代の関西フォークのスターで、何枚もレコードを出して根強い人気を持っていたが、店(国分寺ほんやら洞)のきりもりや子育てで音楽活動をやめていた。それがここ数年動きを再会しはじめている。僕は彼女とは高校生以来のつきあいで、関西でも友達だった。「東京に来たのだから来て!」という再三の誘いがあったから今日は行かないわけにはいかなかった。彼女の歌を聴くのは「中山容さんを偲ぶ会」以来だから3年ぶりである。
    ・会場はライブハウスの「Star Pine's Cafe」。開場の6時半に行くとすでに長蛇の列。チケットの整理番号順に並んだが、チケットの番号は171で会場には100席ほどしかいすがないという。入場前に長いこと立たされた上、入ったらもう席はない。ステージ脇のスピーカーにもたれて立ったまま聴くことになった。腰が痛くなったらかなわないな、と正直言って憂鬱になった。
    ・中山ラビは皮のホットパンツに金太郎の腹巻き姿。木履(ぽっくり)のようなサンダルをはいて頭はブロンド。「ヤー、がんばってるな!」とさっそく驚嘆。最初はギター一本で数曲やり、その後はバックをつけて喋る間もなく次々と歌うこと2時間。懐かしさと相変わらずのエネルギーに腰の痛さを忘れてしまった。観客の大半は同世代かそれに近い人たちで、ほとんど身動きのとれない状態だったが、楽しく盛り上がったコンサートだった。
    ・最後に歌ったのは「いい暮らし」。実は僕は彼女の歌ではこれが一番好きだ。


    忙しさにかまけ 忘れてたんだ
    こんな力があるなんて

    ほんのわずかな暇もとれないと思い
    こんなこともなかったよ
    虫を追いかけ土を握れば あたしの中で暖かく臭ってる

    だから今でもでも時々は思うんだ こんな暮らしに憧れて
    君といつか戻ろうと あたしの中で声が呼んでいる


    ・そう「いい暮らし」。これが一番の生きる理由。彼女の歌は今でも、僕の心に響いてくる。東京もいいけど、やっぱり森の中に戻ろう。憧れてた暮らしに………。
    ・ 中山ラビの歌とパフォーマンスを楽しみながら連想したのはマリアンヌ・フェイスフル。ロックもいいけど、アコーディオンのバックでじっくり歌ったらかなりいい味が出るのではと思った。それに今の心境や時代を描写した歌も聴きたい。

    2000年6月19日月曜日

    村上龍『共生虫』村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』

     

    ・同世代ということもあって二人の作品はほとんど読んできたが、村上龍は決して気になる存在ではなかった。暴力やセックスに始まって描写のグロテスクさが僕の性分にはあわない気がしたからだ。反対に村上春樹にはずっと関心を持ち続けてきた。それがここのところ、変わりはじめている。きっかけは村上春樹のオウム真理教への関心と、村上龍の少年が起こす事件へのコメントだった。

    ・もうこのHPでも書いたが『アンダーグラウンド』も『約束された場所で』もおもしろい本ではなかった。もっともそのつまらなさは、インタビューを受けたサリン事件の被害者やオウム真理教の信者たちが持つ現実感覚の貧しさからくるもので、インタビューをした著者にとっては、その貧弱な現実感覚を描き出すことが目的だったのかもしれないと思った。

    ・現実と距離を置くことで生まれるリアリティの多元性。一言でいえば村上春樹の小説はそんな感覚がもたらすおもしろさにある。異なる世界を井戸や壁の穴やエレベーターによって行き来する時に生じる自由さと危うさの感覚。もちろんそれはフィクションとして作り出された世界で、現実の世界ではありえない。けれども、見方によってはいくらでも現実そのものに置き換えることができる。村上春樹の小説にはそんな知的遊びを楽しむゆとりが感じられた。

    ・一方、村上龍の小説が描き出すのは、人が持つ欲望がむき出しにされたところに生まれるどろどろとした世界。で、話はどんどん非現実的なところに突き進んでいく。一見安定して強固に見える現実が、実は薄皮一枚で支えられている。その表面的に取り繕われた現実世界の皮をはぐとどんな光景が見えてくるか。村上龍の狙いはいつでもそこにあったような気がする。

    ・村上春樹は阪神淡路大震災によって生まれ育った世界が瓦礫の山と化したこと、あるいはオウム真理教のサリン事件の発生などから、現実が虚構の世界以上にもろいものであることを実感する。そこから、現実と距離を置く姿勢ではなくもっと積極的に関わる方向へ転換する。そのプロセスの中から生まれたのが『アンダーグラウンド』であり『約束された場所で』だった。そして『スプートニクの恋人』と『神の子どもたちはみな踊る』。

    ・『神の子どもたちはみな踊る』は短編集である。で、どれもが、何らかの形で阪神淡路大震災に関連する。僕は正直言って、あまりおもしろいと思わなかった。現実(震災)への関与の仕方がものすごく薄いという気がした。震災との関連性があってもなくてもたいして違いはない。ただ一つ、カエルがミミズと戦って東京の大地震を未然に防ぐという話だけは、童話風だが、よくできた話に仕上がっていると思った。

    ・村上龍の『共生虫』は引きこもりの青年が殺人事件を犯す話である。ちょうど引きこもりの17歳の事件が連続したこともあって、そのタイミングの良さが話題になっている。そして、著者は現実が虚構に追いつき追い越してしまったことにとまどっている。村上龍はグロテスクな世界を描き続ける一方で、現代の社会の病理について発言することに積極的である。現実の重みが失われたこと、現実への適応がうまくできない若者が生まれてしまったことにたいして、彼は戦後の世界を作り上げ、子どもたちを育ててきた大人たちに批判の矛先を向ける。

    ・現実にたいして距離をとる姿勢、あるいは現実を維持する薄皮をはぐ行為。今それが、若い人々の共通感覚になってしまっている。二人の村上は一方では、そのことを自省する。しかし、そのような発言とは裏腹に、創作されるフィクションは相変わらず、現実との距離と現実暴露がテーマになっている。そのちぐはぐさに、僕は正直言ってとまどいを感じているが、そこには二人への批判というよりは、今のところそうとしか表現しきれないだろうなという了解も含まれている。実際、現実にたいして距離をとる姿勢にしても、現実暴露を面白がる態度にしても、僕自身がこれまでずっと示してきたものであって、そのことに肯定も否定もしきれないアンビバレントな感覚を持っているのは同じだからである。

    ・現実は、それが現実だと一般に了解されたフィクションにすぎない。しかし、この「現実」は単なるフィクションとして片づけることもできない。そのような微妙な姿勢をどうやって納得し、持続させるか。若い人たちに伝えなければならないのは何よりこんな感覚なのだが、それはいったいどう伝えたらいいのか。その難問に立ち往生しているのは、誰より僕自身なのである。

    2000年6月12日月曜日

    高速道路で聴く音楽

    片道100Kの道のりを毎週2往復、高速道路で通勤している。だいたい1時間半。風景はほとんど山で高低差は750M。かなりの坂道とカーブで運転そのものもおもしろいが、やっぱり音楽も欠かせない。で、出かける前にCDを選ぶことにしているが、いつの間にか定番ができてしまった。ブライアン・イーノ、タンジェリン・ドリーム、ピンク・フロイド、キング・クリムゾン………。つまりプログレやアンビエントばかりになった。中でも、イーノは山の風景にあっているし、タンジェリン・ドリームは河口湖にぴったりだ。さすがにくりかえし聴くと飽きてしまうが、CDはいつでも持っている。運転しながらふと聴きたくなるからだ。そうそう、大事なのを一つ忘れていた。マーク・ノップラーの映画音楽。これは何度聴いても飽きないからいつでも持ち歩いている。 去年1年間は新幹線で通勤した。そのときも、MDウォークマンが必需品だった。新幹線の中での読書をしながらの聴取。ただしこのとき聴いていたのはヴァン・モリソン、ニール・ヤング、スティング、エリック・クラプトン………。同世代でがんばっているロック・ミュージシャンばかりだった。もちろん音楽の好みが急に変わったわけではない。以前から僕はどちらも好きだったし、家ではどちらも聴いている。変わったのは聴くシチュエーションで、その聴きたい音楽の変化に僕自身が驚いている。 たとえば、長い会議が終わって夜更けの新幹線に腰を落ち着ける。東京の夜景を眺めながら京都までの2時間半。くたびれた心身を癒してくれるのは誰よりヴァン・モリソンやニール・ヤングの声だった。そのとき視線はほとんどの場合活字を追っていた。それが高速道路では、声がじゃまな感じになる。シンセイサイザーが作り出す機械的な自然音。それがフロント・ガラスに映る風景にぴったり合う。あたかもその風景が自ら発している音であるかのような錯覚。 もちろん新幹線でも景色は眺められる。しかし、それはすぐに飽きるから、窓の外に視線を向けるのはほんのわずかになってしまう。高速道路も何往復かすれば、風景はなじみのものになる。しかし、フロント・ガラスから目をそらせるわけにはいかない。道路状況は刻一刻変化して、それにあわせて加速、減速、車線変更とめまぐるしく対応する必要があるからだ。新幹線では風景は見ても見なくてもいいもの。しかし高速道路では道路状況とその背景にある風景は必ず見ていなくてはいけないもの。 新幹線で本を読んでいるとき、頭はもちろん、本の世界に入りこんでいる。新幹線の中にいる僕は、同時にそこにはいない。景色ばかりでなく、隣に座っている人も前や後ろの席の人も、全く無視することができる。一方、車で運転をしているときは、周囲を無視することは片時もできない。頭は、持続性のない偶発的な想像力にまかせることはあっても、半ば反射的に道路状況に反応しっぱなしだ。そのせいか僕は運転しながら「どんくさいな」とか「あぶないな、あほ」とか「へたくそ」といった独り言をよくつぶやいている。新幹線と車の違いは、今自分がいる状況への取り込まれ方、あるいは関与の度合いの仕方の違いなのだろうか。 歌はことばによって歌われる。ことばには意味があり、歌にはそのことばにそった情感が付着する。歌い手の声の肌理(きめ)。それを味わうには散漫な聴取では十分ではない。他方で音楽は音の質やメロディ、あるいはリズムによって構成される。それを集中して聴くことはもちろんあるが、ことばがない分だけ、散漫な聴き方をすることもできる。 僕はたぶん新幹線の中で周囲の状況から離れるために歌を聴いていたのだと思う。そして、車の中では、周囲の状況に集中するために音楽を聴く。だから車の中で聴くのはメッセージのない風景と溶けあった音がいい。ピンク・フロイドは時に自己主張が強すぎると感じることがあるが、ブライアン・イーノやタンジェリン・ドリームはまさにぴったりだ。もっとも、どういうわけか、僕は自分の部屋で昼寝をするときにもイーノを好んでかける。すーっと夢の世界に入り込めるからだが、運転しているときにはそうではない。状況への関与の仕方と音楽の種類。これは考えてみればおもしろいテーマだと思う。

    2000年6月6日火曜日

    テレビと広告

     山間の家だから、テレビの映りが悪い。これは不便と思ってアンテナを高くあげたがほとんど改善されなかった。ケーブルテレビも調べたが、えらく高い加入費を取るし、ハイビジョンは見られないと言う。普及率が低くて経営状態はよくないようだ。インターネットへの接続サービスをしていれば、それでも加入をしたのだが、その予定も今のところまったくないらしい。しかし、BSアンテナをつけてもらうと、これはきれいに見えた。で、まあ、これでもいいかということにした。


    だから、当然、テレビを見る時間は減った。週末はカウチ・ポテトでテレビということが多かったのだが、引っ越してからそんな時間の過ごし方をほとんどしなくなった。天気が良ければ外に出ているし、夕食も焚き火の前でしたりする。映りの悪い画面を凝視する気にはなれないから、ステレオでテレビの音声だけ流したり、CDをかけたり。いつの間にか、BSで映画を見ようという気もなくなってきた。


    見なければ見ないで、別にどうということもない。今更ながらに、テレビ視聴が習慣的行動であったことを実感した。実は新聞も引っ越してから朝刊だけの配達になった。しばらくは夕方新聞がこないことに物足りなさを感じたが、慣れてくると、これもどうということはなくなった。と言うより、かえって、朝夕刊をまとめたほうが読みごたえがあっていいと思うようになった。何より広告紙面が少ないのがよい。BS以外はほとんどテレビを見なくなって気がついたのも、やっぱり、CMにふれなくなったことで、改めて広告って何なのか考えてしまった。

     
    そんな僕の生活環境の変化とはもちろん無関係だが、テレビ放送会社が軒並み増収増益になったそうである。民放の収入源はいうまでもなく広告である。長引く不況の中、景気の回復をテレビによる宣伝にかけようという企業が多いのだろうか、中には前期比で60%増の利益をあげた局もある。シドニー・オリンピックで今年はさらに増収が見込めるそうだ。まさにテレビ頼みの時代のようである。


    マスメディアとしての放送はもちろん、ラジオが先だが、ラジオとは無線を一方向の情報伝達手段に限定したメディアのことである。双方向の送受信ができる技術をわざわざ一方向に限定して、不特定多数の人に受信装置だけをもたせる。その普及を可能にしたのは番組として提供されたニュースや娯楽だし、それに対してお金を払わなくていいというシステムである。ただで、楽しい時間が過ごせる、あるいは役に立つ情報が手に入る。マスメディアとしての放送が大衆消費社会の幕開けと時期を同じくしているのは単なる偶然ではない。そして、テレビはラジオの手法をそのまま踏襲して、ラジオをしのぐ巨大なメディアになった。この意味ではラジオもテレビも、その使命は何より広告による消費の刺激にあった。だから、不況の時にテレビが儲かるのは当たり前のことなのである。

    メディアが広告に頼ること自体を批判するつもりはない。けれども、最近の民放の景気の良さの裏には、広告収入を上げるための人気番組作りだけに励もうとする姿勢が露骨に見えてしまう。『21世紀のマスコミ』を考えるシリーズの中に「広告」に焦点を当てた巻がある。その序文で編者が問うているのは次のような問題意識である。

    マスコミがジャーナリズムとメディア文化の健全な担い手であるなら、それは、政治・経済・社会の現実がいくら混沌たる様相を呈していても、そこに埋もれたままでは終わらず、そうした状況を目一つだけでもうえから捉え、相対化する作用を及ぼし、ものごとを批判的に考えるよすがを私たちに提供してくれるはずだ。だが20世紀末において<21世紀のマスコミ>のあり方を展望しようとするとき、いってみればそのような頼りになるマスコミの姿を、私たちは容易に発見することができない。(桂敬一他編著、大月書店)

    ジャーナリズムの不在と、どうしようもなく質の低いメディア文化の中で、広告だけが自己主張をするテレビ。こんなテレビがかなりの視聴率を稼ぐことができるのは、私たちの視聴行動が習慣化して、他に目を向けたり批判的に見たりすることができなくなっているからなのだろうか。あるいは、先行き不安な現実からつかの間でも目を背けたいという意識でもあるのだろうか。しかし、実際には、民放だって安閑としていられない現実が迫っているのだ。


    インターネットが普及してテレビを見る時間が少なくなっているのは間違いない。あるいは日本ではなかなか普及しないが、ケーブルや衛星によるペイ・テレビが近い将来増加することもはっきりしている。情報や娯楽をお金を払って選択して手に入れるのか、広告にまかせて垂れ流してもらうか。テレビは今、そんな分かれ道の前に立っているように思うのだが、民放の好景気は、そんなこととは無関係であるかのように見える。メディアの多様で広範囲な再編成を目の前にして、目先の利害にばかり注目する。全国ネットの総合テレビ局が21世紀に生き残れる保証はどこにもないはずだから、これはもう明らかにバブルである。銀行ばかりを批判している場合ではないのである。

    2000年5月29日月曜日

    携帯とメール


  • 携帯からのメールをはじめてもらったのは、もう2年ぐらい前になるのだろうか。わずか一行ばかりの文字だったが、メールの使われ方が変わることを予測させるには十分な出来事だった。実際、パソコンを持たない学生や卒業生ともメールのやりとりができるようになって、メールの有効性がずいぶん広がった。ただ入力しているところを見るといかにも面倒くさそうで、電話にほとんど用のない僕としては、携帯には相変わらず無関心のままだった。
  • しかし、最近、携帯からかなり多い文字数のメールが届くようになった。iモードという新しい携帯が売り出されたのだ。僕の無関心がちょっと揺らぎはじめた。一通数円というから、いちいちパソコンを立ち上げてプロバイダにつなげるよりは楽で得かもしれない。しかも、どこにいても送れるし受け取れる。新聞広告などに目を向け、カタログを集めてみると、液晶画面が大きく、しかもカラーになっている。インターネットにアクセスしてホームページも覗けるようだ。Power BookにつなげるPHSとくらべてみたりして、使い道を考え、買う寸前まで行った。が、やっぱりやめた。
  • iモードはしょっちゅうダウンをしていて、販売を控えているようだし、入力はやっぱり面倒なままだ。専用のキーボードなどを持ち歩いてまで使う気はない。PowerbookにつなげるPHSは先行きが不安だし、田舎暮らしをしているから、つながり具合が心配だ。人との待ち合わせや緊急の連絡にあったらいいな、と思うことがないわけではないが、学生たちのように社交の道具として使う必要性は全く感じていない。というわけで、まだまだ時期尚早と考えた。
  • 大学院の授業の一つで、今年は電話をテーマにしている。僕は10年ほど前に電話論を一本書いている。電話論ブームの先駆けになったと自負しているが、その後の電話の変容には全く詳しくない。授業はそのあたりの比較からはじめた。「電話の儀礼」「電話の演技」「沈黙と間」「匿名性と親密性」「声への限定が意味するもの」等々、僕が10年前に指摘した電話の特徴がほとんど無意味になっていたり、変形したりしていることに気づかされた。たとえば電話はベルの音だけでは誰からかかってきたかわからない。しかし、携帯では着信音で相手がわかるような機能があるという。かける時間も携帯なら24時間OKらしい。また、メール機能を使えば、声とは違う感覚で同時に近いやりとりもできる。僕は10年前に考えたことを話しながら、同時に、携帯の特徴について院生からいろいろ教えてもらって、遅蒔きながら認識を新たにした。
  • 携帯の台数が今年、家庭電話を上回ったという。一家に一台のほかに、それぞれ個別に数台。あるいは一人暮らしならば、携帯だけしか持たない人が増えたということだろうか。実際我が家でも、子どもたちは高校生の頃から持ち始めていて、家の電話と自分の携帯を使い分けていた。僕にはコミュニケーションごっこのようにしか見えなくて、「しょうもないことばっかりやってんじゃない」などと叱ったおぼえがあるが、そのしょうもないように見えるおもちゃが一般的な必需品になった。
  • 僕はiモードもしばらくは静観ということにしたが、ここ数年の携帯電話の変容を見ていると、そのうちパソコンにどんどん似てきて、どちらを選択するかという事態になるのではないかと思い始めている。パソコンは一方ではテレビに領域を侵されはじめているから、その価値はきわめて特殊なものになってしまうかもしれない。たぶん僕が携帯を手にするのはその時だろうと思うが、それでもパソコンが相変わらず必要な道具になっているのかどうかわからない。
  • 「IT革命」などということばが実体も確かめられずにひとり歩きをしている。株価の上げ下げの材料だったり、企業戦略の決まり文句だったりして、なにやら胡散くさげだが、メディアとコミュニケーションの状況は、一寸先が闇に感じられるほどに変化が加速化していることはまちがいない。
  • 2000年5月22日月曜日

    仲村祥一『夢見る主観の社会学』世界思想社

  • 仲村祥一さんは丑年だそうだから、僕よりちょうど二まわり上。つまり75歳である。その仲村さんから新刊本をいただいた。本を出すためには長い文章を書かなければならない。あたりまえだが、これがなかなかしんどい。40代の後半からそんな気持ちになっている僕には、70歳を過ぎてなお本を出そうという気力とエネルギーに驚いてしまうし、自分のだらしなさを反省してしまう。僕もがんばらねば!と思わされた一冊だった。
  • 僕にとって仲村さんは恩人である。なかなか大学のポストに就けない僕を引っぱってくれた。僕は30代の中頃までは非常勤であることを面白がっていた。書いた文章も、およそ論文とは言えないスタイルで、タイトルもわざと論文らしからぬ名前にした。だから、どこにアプライしても、必ず採用を反対する人がいた。最初のうちは「だから大学ってところはだめなんだ」と突っ張っていたが、30代の最後の頃になると、もうかなりくたびれてしまっていた。そこに仲村さんからの誘いがあったのである。
  • 仲村さんが僕を評価してくれたのは、たぶん僕が自分の経験を材料にして書くというスタイルをとっていたからだと思う。それは鶴見俊輔やジョージ・オーウェルから学んだ方法であり、またフォークやロックの音楽、そしてカウンター・カルチャーから受けた影響だったが、仲村さんもまた大学紛争の経験や社会問題への関わりの中で、自分の存在を自覚しながら考えることの必要性を実感されたようだ。『夢見る主観の社会学』を読むと、そんな仲村さんの歩いた「道筋」がよくわかる。
  • 僕は仲村さんと4年ほど同じ大学で過ごした。彼の期待とは裏腹に、僕は自分のことにはほとんどふれない文章ばかりを書くようになっていたから、たぶんがっかりされたことだろうと思う。大学で職を得ようと思ったら、やっぱりそれなりの業績を作らなければならない。30代の後半から、僕はメディア論を中心に文章を書くようになっていた。おまけにコンピュータに飛びついて、それに夢中になったし、メディア論の次はロック音楽論を始めたから、話し相手としては物足りなかったのかもしれない。残念ながら、パチンコは学生時代に卒業してしまったし、釣りには全く関心がなかった。
  • けれども、ものの感じ方や人や出来事に対する態度には、一緒にいるだけで、共感できる部分がずいぶんあることがわかった。役職に就くのをいやがり、セレモニーといった場所では居心地の悪さを態度に出した。何事に対しても斜に構えて、皮肉な目や辛辣な批評を口に出したが、本当のところは気心の通じる仲間や友達を求めている。人間関係や社会に対する理想も失ってはいない。そんなところに僕は似た者同士であることを感じたから、仲村さんと一緒に過ごせた時間はものすごく貴重だった。
    教員生活を50年してきたが、納得しがたい命令に従うのが嫌いでこの業界に入り、抵抗できる他者には我を通し、妥協の余地ない組織からは身をそらし、「思想の科学研究会」的な勝手連は別として、どのような政治団体にも加わらず、教え子たちにも我が見るところは明言しても好き勝手に勉強せよと励ます式に五つほどの大学を転々としてきた。私はしたくないことをできるだけ回避し、したいことが可能な方へと生活を導いてきたらしい。
  • 仲村さんは釣りをするために和歌山に近い大阪のはずれ(仲村さんによれば関西という扇風機のウラ)に引っ越し、長い時間をかけて大学に通ってきた。毎週大阪に一泊して大変だなと思ったが、僕も今、森の生活がしたくて、河口湖に住んで国分寺まで高速道路を使って通勤している。同様に東京で週一泊のスケジュールだ。この本を読みながら「したいことが可能な方へと生活を導く」ことを第一にしている自分は、仲村さんそのものだと、あらためて確認してしまった。
  • 共感できたところをもう一つ。50年生きてきて、友達といえるような人がいたのだろうかという思いである。気心が通じていてほどほどにつきあえる人は何人かいる。しかし、たとえば高校や大学で知り合った友人は、その後の道筋が違えば、お互いの意識はずれてきて、僕が近くに戻ったからといって、そのまま距離が縮まるわけではない。仕事を通しての仲間や知人には、最初からある程度の距離があって、その垣根を越えるのは難しいし、越えない方がいい関係が保てる場合が多い。それでもまあ、こんなものかという気がするし、同時に、本当はもっと別の関係があるのではという思いもある。
  • 僕は仲村さんのように、70代の半ばになってもまだ、あるべき関係について考えたり悩んだりするのだろうか。とてもそんな自信はないが、とかくしんどい人づきあい、だけど一人では癒されない心の置き所を狭く限定しないでおこうとは思っている。僕が東京に行くと言って挨拶したとき、仲村さんは「今生の別れになるかもしれん」とおっしゃった。ものすごく意外なことばに感じたが、別れを惜しんでくれたのかな、と今は勝手に解釈している。
    「舞台の上だけでなく楽屋裏や劇場の外にもはみ出しての社会学者の個人や自身との、できれば友情もかわしあいたい。そのための自己開示というのが私の思いなのだ。」
  • あとがきに書かれたこのことばを肝に銘じたいと思う。