2000年5月29日月曜日

携帯とメール


  • 携帯からのメールをはじめてもらったのは、もう2年ぐらい前になるのだろうか。わずか一行ばかりの文字だったが、メールの使われ方が変わることを予測させるには十分な出来事だった。実際、パソコンを持たない学生や卒業生ともメールのやりとりができるようになって、メールの有効性がずいぶん広がった。ただ入力しているところを見るといかにも面倒くさそうで、電話にほとんど用のない僕としては、携帯には相変わらず無関心のままだった。
  • しかし、最近、携帯からかなり多い文字数のメールが届くようになった。iモードという新しい携帯が売り出されたのだ。僕の無関心がちょっと揺らぎはじめた。一通数円というから、いちいちパソコンを立ち上げてプロバイダにつなげるよりは楽で得かもしれない。しかも、どこにいても送れるし受け取れる。新聞広告などに目を向け、カタログを集めてみると、液晶画面が大きく、しかもカラーになっている。インターネットにアクセスしてホームページも覗けるようだ。Power BookにつなげるPHSとくらべてみたりして、使い道を考え、買う寸前まで行った。が、やっぱりやめた。
  • iモードはしょっちゅうダウンをしていて、販売を控えているようだし、入力はやっぱり面倒なままだ。専用のキーボードなどを持ち歩いてまで使う気はない。PowerbookにつなげるPHSは先行きが不安だし、田舎暮らしをしているから、つながり具合が心配だ。人との待ち合わせや緊急の連絡にあったらいいな、と思うことがないわけではないが、学生たちのように社交の道具として使う必要性は全く感じていない。というわけで、まだまだ時期尚早と考えた。
  • 大学院の授業の一つで、今年は電話をテーマにしている。僕は10年ほど前に電話論を一本書いている。電話論ブームの先駆けになったと自負しているが、その後の電話の変容には全く詳しくない。授業はそのあたりの比較からはじめた。「電話の儀礼」「電話の演技」「沈黙と間」「匿名性と親密性」「声への限定が意味するもの」等々、僕が10年前に指摘した電話の特徴がほとんど無意味になっていたり、変形したりしていることに気づかされた。たとえば電話はベルの音だけでは誰からかかってきたかわからない。しかし、携帯では着信音で相手がわかるような機能があるという。かける時間も携帯なら24時間OKらしい。また、メール機能を使えば、声とは違う感覚で同時に近いやりとりもできる。僕は10年前に考えたことを話しながら、同時に、携帯の特徴について院生からいろいろ教えてもらって、遅蒔きながら認識を新たにした。
  • 携帯の台数が今年、家庭電話を上回ったという。一家に一台のほかに、それぞれ個別に数台。あるいは一人暮らしならば、携帯だけしか持たない人が増えたということだろうか。実際我が家でも、子どもたちは高校生の頃から持ち始めていて、家の電話と自分の携帯を使い分けていた。僕にはコミュニケーションごっこのようにしか見えなくて、「しょうもないことばっかりやってんじゃない」などと叱ったおぼえがあるが、そのしょうもないように見えるおもちゃが一般的な必需品になった。
  • 僕はiモードもしばらくは静観ということにしたが、ここ数年の携帯電話の変容を見ていると、そのうちパソコンにどんどん似てきて、どちらを選択するかという事態になるのではないかと思い始めている。パソコンは一方ではテレビに領域を侵されはじめているから、その価値はきわめて特殊なものになってしまうかもしれない。たぶん僕が携帯を手にするのはその時だろうと思うが、それでもパソコンが相変わらず必要な道具になっているのかどうかわからない。
  • 「IT革命」などということばが実体も確かめられずにひとり歩きをしている。株価の上げ下げの材料だったり、企業戦略の決まり文句だったりして、なにやら胡散くさげだが、メディアとコミュニケーションの状況は、一寸先が闇に感じられるほどに変化が加速化していることはまちがいない。
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    unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。