2002年3月18日月曜日
「Isamu Noguchi」(BS朝日)
2002年3月11日月曜日
"O Brother" Jerry Garcia and David Grisman "Grateful Dawg"
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"O
Brother"は今年のグラミーでアルバム賞をとった。コーエン兄弟の映画のサウンドトラックだ。コーエン兄弟は『ファーゴ』などどちらかといえばちょっとマニアックな奇妙な映画をつくっているから、その映画のサントラがアルバム賞を取るとは驚きだった。しかし、ほかの賞はU2が去年と同じアルバムで総なめ状態だったから、これしかなかったのかな、という気もする。要するに超不作の年だったのである。
・いい作品が生まれなければ、売上げも落ち込む。グラミーの授賞式では、その原因をインターネットでの違法コピーのせいにしていた。近いうちにCDはコピーができないようになるらしい。音楽は商品なのだから、その価値を守るのは当然だが、買いたい気をおこさせるほどのものがない状況の方がもっと深刻だろう。
・45回転のシングル盤が開発され、ロックンロールが誕生した1950年代以降、レコードの売上げは盛況と沈滞を交互にくりかえしてきた。たくさん売れた時期は、新しい音楽の波がうまれたときで、サウンドはもちろん、パフォーマンスもファッションも一新される。それに、考え方や行動の変化が伴う。音楽はまさに、若い世代の文化を左右する動因という役割を担ってきた。
・ところがである。90年代の女性シンガー・ソング・ライターが続出した一時期以降、新しい流れはまったくでていない。ユース・カルチャーに占める音楽の重要性もひどく低下した。ここ数年グラミーを取ったのは、ボブ・ディラン、エリック・クラプトン、サンタナ、U2とベテランばかり。そして映画のサントラである。しかも"O
Brother"はブルーグラスとカントリー、それにブルース。どちらかといえばトラディショナルといったほうがいいような地味な内容である。
・とはいえ、"O
Brother"の内容そのものに不満があるわけではない。もともと音楽に興味をもったのもフォークだったから、ぼくはカントリーもブルーグラスも大好きだ。挿入歌の大半は地味な人たちが唄うトラディショナル。ぼくが知っているのはエミルー・ハリスぐらいだ。"I
am a man of constant
sorrow"が3種類入っているが、ぼくにとってこの曲はディランで聞き慣れていて、「いつも悲しい男」という題名とあわせて印象が強かったから、とても懐かしかった。
・新しいものがうまれないときには、初心に帰る。そんな傾向があるのかもしれない。タワー・レコードでも気のせいかもしれないが、ブルーグラスやカントリー、それにブルースの棚がにぎやかだった。そのなかで見つけたのはJerry
GarciaとDavid Grisman の"Grateful
Dawg"。ジェリー・ガルシアはグレイトフル・デッドのリーダーでとっくに死んだ人だが、このアルバムは2001年の発売である。中味はロックではなくてブルーグラスとカントリー。ぼくは初めて知ったのだが、ガルシアは60年代半ばにグレイトフル・デッドでデビューする前は、バンジョウ奏者だった。
・ガルシアは60年代後半のサンフランシスコでヒッピー文化の中心にあって、音楽はもちろん、その言動や生き方で教祖的な存在になった人だ。グレイトフル・デッドのファンは「デッド・ヘッズ」と呼ばれる。ガルシアの影響力の強さを物語る名前だが、彼はポップな絵も描いたし、『自分の生き方をさがしている人のために』といった本も書いた。ガルシア本人のものだけでなく、デッドのアルバムも解散後に数多く発表されている。デッドは精力的にコンサートをこなし、カメラやテープレコーダーの持ち込みを禁止しなかったから、海賊版も数多いようだ。
・で、"Grateful Dawg"だが、これも映画のサウンドトラックである。David
Grismanはマンドリン奏者でガルシアは生ギター、それにバンジョー。どちらも真っ白な長髪とあごひげ。同名の映画は、2人のコンサートやスタジオ録音、あるいは日常生活をおったドキュメントのようだ。だから、曲はほとんどがライブになっている。
・ぼくにとってグレイトフル・デッドは、何といってもディランとの共演『ディラン&ザ・デッド』での印象が強い。だからこのアルバムをみつけて、今頃になって、ガルシアの新しい側面を教えられた。もう死んでしまって残念だが、改めて、彼に注目して見たい気になった。
2002年2月25日月曜日
亀山佳明『子どもと悪の人間学』 (以文社)
ひとつは「遊びの性格をもつうそ」であり、もう一つは「機能的な特徴をもつうそ」、なかでも「防衛の機能を持つうそ」である。(pp.102-103)
2002年2月18日月曜日
通勤の風景(河口湖〜国分寺)
2月11日の早朝、快晴、気温は-8度。入試の採点のために大学へむかう。今日から3日連続の出勤だ。祝日だが、湖畔に釣り人の姿はない。道もがらがら、湖畔から、河口湖駅、そしてインターチェンジへ。雪をかぶった富士山が、いつにもまして美しい。 |
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| 富士山にフジヤマ、新登場のドドンパ。富士急ハイランドには早朝から車の列。でもぼくはお仕事だ。ここで練習している、岡崎、三宮、田畑ガンバレ!!高速にはいるとすぐにスピード監視カメラ。いつも電源は切れているが、急ブレーキを踏む車が多い。 |
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| 10分ほどで都留から大月へ。ここで甲府・長野方面と東京に分かれる。その前に、リニア・モーターカーの鉄橋。残念ながら走っているところに出会ったことはない。大月ジャンクションにはいると車が多くなるが、ここまではほとんど貸し切り状態だ。 |
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| 談合坂まで来るとちょうど半分。ここを一気に下ると上野原、そして相模湖。小仏トンネルは秋の集中工事できれいになった。そこを抜けると、東京都。カーブがつづく道は、圏央道とのジャンクションの工事中だ。そこをすぎると視界がいっぺんに開けて八王子の料金所へ。そして、国立・府中の出口。 |
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甲州街道はいつもは大渋滞だが、今日は祝日でがらがら。目の前を走るオフロード・バイクが突然、ウィリーをはじめた。はしゃいでどこへ行くのか。府中の欅並木。府中第一中学校はぼくの母校。しかし、校舎はすべて建てかえられてほとんど昔の面影はない。東京農工大学、明星学苑、東八道路。 |
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| 大学への近道は新町商店街の一通。しかし、歩行者や自転車が多くて、いつも徐行。和菓子屋さんの「さくら餅」の看板が気になるが、道が狭すぎて、車を停めて買うことはできない。大学の東の塀づたいに中央線に突き当たる。左折して北門に到着。今日の所要時間は1時間15分。いつもよりちょっと早かった。 |
2002年2月11日月曜日
二度目の冬
・もっとも、今年は入試委員でセンター入試にたちあった。定期試験の監督に、院の修論口述試験と、朝早くから出なければならない日も多かった。雪は見たいけれど、仕事にいけなくては困る。そんな気でいたら、やっと一月末になって雪になった。しかし、1月26日。忘れもしない、ちょうど一年ぶりのドカ雪である。
・そうなると、空模様と風を気にして、やりたくなるのはカヤックである。何とか雪景色ののこるうちに今年の漕ぎ初めをしたい。そんな気になりはじめた。去年の今頃は、湖は全面凍結していた。今年はというと、所々という程度だ。実は冬用に黒いコーミング・カバーを購入した。完全密閉ではないから、それほど暖かいわけではないが、水しぶきが艇内に入ることはなくなる。それをつけて試してみたかった。
・湖岸には誰もいない。ただカナダ雁のつがいが何組か、のんびりひなたぼっこをしている。日差しが強くて、組みたてているうちに汗びっしょりになってしまった。これでは厚着の必要はないし、カヤックにカバーをするほどでもない。
・しかし、漕ぎだすと、北風はやっぱりきつくて冷たかった。波しぶきもたってかなり揺れた。だから、動かずにぼくものんびりひなたぼっこ、ということにした。湖の上に浮かんでいると、本当に心がゆったりする。ストレスがすっと消える感じ、あるいは心が洗われる感じ。ぼくは長風呂は嫌いだから、温泉に興味はないが、風呂好きが、のんびり湯船につかっているときの気持ちと似ているのかもしれない。
・このページが載る11日から3日間、ぼくは入試の採点で缶詰になる。そのあとつづいて大学院の入試と、春休み前の最後のお勤めだ。それが終わったら、また真っ先に、カヤックで湖に浮かぼう。そんな楽しみでもなければ、もうやってられないほど、忙しい。
2002年2月10日日曜日
2001年度卒論集「有害図書」
1.「映画の魅力〜羨望の利用と羨望への欲求」 星野まこと
2.「虫と人心」 若林菜津子
3.「音における人びとの空間意識」 関田夕香
4.「買い物の文化 」松下かな恵
5.「北の国から」 床島恵美
6.「日本社会に対する違和感—ダブルの視点から—」 槌矢裕子
7.「ゴルフの存在」 尾山智洋
8.「若者のコミュニケーション」 斉藤優子
9.「占い論」 吉野千鶴
10.「現代日本人文化」 田中一樹
2002年1月28日月曜日
「はるかなる音楽の道」
・NHKがハイビジョンで音楽の源流をたどる番組を3日連続で放送した。1日目は「ジプシーとバイオリン」、2日目が「ポルトガルとギター」、そして3日目は「ロックとアイルランド」。2時間ずつの意欲作だったが、とりわけ1日目の「ジプシー」がおもしろかった。
・「ジプシー」は放浪の民としてよく使われることばだ。「ジプシー選手」(いくつものチームを渡り歩く)等といった言い方もあるが、このことばには、旅や異郷といったロマンチックな気持ちを感じさせるはたらきもある。しかし、ジプシーと呼ばれる人たちが、今でもいるのか、いるとしたらどこに、といったことは、案外知られていない。ぼくも何となくスペインや東欧を連想するぐらいで、それ以上のことはほとんど知らなかった。
・ジプシーはロマと呼ばれ、現在ではルーマニアとハンガリーに住む民族だ。相変わらずの旅生活をしている人もいるが、その数は少ないし、移動もルーマニア国内に限られている。生活の糧は、ナベをつくって売り歩くことと冠婚葬祭での楽士。「番組」は、バイオリンなどの楽器を独特の手法で操る人をさがしてルーマニアとハンガリーを巡る。
・ロマはもともとはインドにいた。それが、追われるようにして西に移動する。1200年も前の話だ。今のパキスタン、アフガニスタン、イランを通ってトルコへ、そこからヨーロッパに入り、ハンガリーやルーマニアからロシア、あるいはバルカン半島、またアフリカの地球海沿岸を通ってスペインに移動する。もちろん数百年をかけてたどった道のりの話だ。
・何よりおもしろいのは、彼らが移動した先で、新しい音楽をつくりだしていることだ。たとえば、イスラムの世界ではコラーンを読む独特の音色、トルコのベリーダンスの音楽、そしてスペインのフラメンコ。それぞれに共通するものは特にない。そこのところが意外な気がしたが、またロマの境遇を如実に表しているとも思った。
・放浪の民は定住民のなかでは異物扱いされる。蔑まれ、忌み嫌われる。外からの侵入者であり、異様な風体と生活習慣をもつ者だからだ。だからロマは定住者と距離をもって生きることになる。一カ所に落ち着かず、時折やってくる人たち。で、接点は音楽。ロマは、冠婚葬祭に呼ばれて、その土地の音楽を奏で、踊りの伴奏を受け持つ。自分たちの音楽ではなく、定住者たちのものを、後ろで目立たずに背景のように演奏して、それで、存在を認めてもらう。「非在の存在」。だから彼らには、自分の音楽を公にする機会はない。
・ルーマニアとハンガリーの国境に住むロマは、ルーマニア人に頼まれればルーマニアの音楽、ハンガリー人に頼まれればハンガリーの音楽をやる。国境が頻繁に変わった歴史をもつこの地方には、二つの国民、民族が混在している。ロマはどちらにも等距離を取って、排除されないように心がけて生きてきた。しかし、差別や弾圧がくりかえされて、多くの人が殺されるという経験もしてきている。ナチはユダヤ人と同様にロマも強制収容所に送り込んで大量殺戮をしたのだが、その理由は、乞食のような生きるに価しない民族という理由だったらしい。そしてユダヤ人とちがって、そのことで一言の謝罪もされていないし、賠償金ももらっていない。
・そんなほとんど無視された「非在の存在」としての民は、しかし音楽のなかに大きな足跡を残した。ロマはなぜ音楽の民になったのか。番組ではそこまで掘り下げなかったが、興味深い疑問だと思った。もともと音楽に秀でていたのか、あるいは流浪という生活スタイルに音楽が不可欠だったからなのか、それとも、定住者に存在を認めてもらうための術としてだったのだろうか。興味は尽きない気がした。
・2日目は大航海時代にインドをめざしたポルトガルの船が世界各地に残したギターの話。こちらの移動はインドにむかい、侵略という結果をもたらした。ブラジル、インドネシア、台湾、あるいはハワイ。そこで「ギター」はそれぞれ、「カバティーニョ」や「ウクレレ」といった楽器に変形して、サンバやクロンチョン、あるいはハワイアンといった独特の音楽をうみだした。
・そして3日目がアイルランドとアメリカ移住者がもちこんだ音楽。これは目新しい話ではないし、ロンクンロールの源流に無理にこじつけようとしているところが気になった。案内人のデーモン小暮も、前の二日とはちがって違和感のある人選のような気がした。しかし大きなテーマには3日間を通して共通するものがあった。
・20世紀のポピュラー音楽が黒人のブルースとアイルランドの音楽を土台にしていることは当然で、移民と奴隷という、やはり移動する人が主人公になっている。音楽は民族の象徴ともいえる特徴をそれぞれにもつが、また、異なるものとの交流によって変容し、豊かになる。1000年を越えるジプシーの放浪と音楽、大航海時代から近代化のなかでうまれた音楽、そして20世紀の戦争とテクノロジーの時代にうまれた音楽。民族の移動、侵略、奴隷。それによってうまれた異文化との交流が、やがて、その地に独自な文化をつくりだす。音楽を通して見えてくる世界はけっして文化や芸術といった狭いものにとどまらない。
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12月 26日: Sinéad O'Connor "How about I be Me (And You be You)" 19日: 矢崎泰久・和田誠『夢の砦』 12日: いつもながらの冬の始まり 5日: 円安とインバウンド ...
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・ インターネットが始まった時に、欲しいと思ったのが翻訳ソフトだった。海外のサイトにアクセスして、面白そうな記事に接する楽しさを味わうのに、辞書片手に訳したのではまだるっこしいと感じたからだった。そこで、学科の予算で高額の翻訳ソフトを購入したのだが、ほとんど使い物にならずにが...
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・ 今年のエンジェルスは出だしから快調だった。昨年ほどというわけには行かないが、大谷もそれなりに投げ、また打った。それが5月の後半からおかしくなり14連敗ということになった。それまで機能していた勝ちパターンが崩れ、勝っていても逆転される、点を取ればそれ以上に取られる、投手が...