2003年9月22日月曜日

オリヴァー・サックス『サックス博士の片頭痛大全』(ハヤカワ文庫)

ここ数年、頭痛に悩まされている。といっても「頭痛の種」といった比喩の話ではない。正真正銘の頭痛だ。原因の一つは車による通勤。家のある河口湖は海抜800mで大学はたぶん数十メートル。この高低差にいつまでたっても順応できなくて困っている。耳がつまり、頭が重くなる。仕事をしているあいだはあまり気にならないが、家に帰ると目の奥やこめかみが痛い。もちろん、大学でくたびれることも、往復3時間のドライブで目が疲れることも原因だろう。


とは言え、ぐっすり眠れば翌朝にはすっきりしてしまうから、別に薬も飲まないし、病院にも行っていない。子どもの頃は車酔いをよくしていたし、今でも飛行機に乗ればかならず耳が痛くなる。老眼がはじまって読書がつらくなったし、酒を飲んでも頭が痛くなるから、これはもう年齢や体質だとあきらめるしかないのだが、それでも何とか対処法を見つけたい。そんなふうに思っていたら、気になる本があった。
オリヴァー・サックスの書いた『サックス博士の片頭痛大全』。彼は『妻を帽子と間違えた男』や『レナードの朝』などの著書がある脳神経科医だ。『レナードの朝』は映画になっていてロバート・デニーロがレナードになり、医者はロビン・ウィリアムズだった。ドラマチックに描いた映画とは違って、原作は症例の詳細な報告で、これはこれでなかなかおもしろい。


『偏頭痛大全』も多数のさまざまな症例が登場する。それを読むと僕の頭痛などは大したことのないかわいいものだと思えるほどだ。しかしもっと驚くのは、頭痛はずっと病気としてあつかわれてこなかったという文章でこの本がはじまっていることだ。「一般的には、片頭痛は傷害を引きおこさない頭痛の一形態であり、忙しい医師の手を他の疾患よりもよけいに煩わせるものとみなされている。」片頭痛の記述は2000年前から存在するにもかかわらず、ロンドンの病院で片頭痛の治療がはじまったのは1970年になってからだそうで、この悩ましい頭痛に医学はほとんど注意を払ってこなかったというのだ。

片頭痛性の頭痛が起こる場所は特にこめかみ、眼窩の上部、前頭部、眼球の後部、頭頂部、耳介の後部、そして後頭部である。
確かにそうだ。こめかみ、目の奥、頭頂部、そして後頭部。僕は胃や十二指腸にも持病をかかえていて、時折、きりきり痛むことがある。頭痛との関連はないと思っているのだが、本には「胃痛型片頭痛」といった症状も紹介されているから、ひょっとしたら関係しているのかもしれない。病気についての本というのは、読めば読むほど気になるものだが、次のような文章にはかなり納得した。
とくに負けん気が強くてしつこい性格の患者は、片頭痛に譲歩しない。したがって普通の患者は、重い通常型片頭痛を起こすと気力を失い、休息をとりたがるのであるが、こうした患者は無理に仕事や生活を普段どおり続けることになる。
頭が痛くなったら、何も考えず、仕事もせず、眠るにかぎるということだ。たとえばぼくは原稿の締切に追われてイライラするという状況にはとても耐えられない。胃がきりきり痛んでくるし、頭も痛くなる。若い頃に何度も懲りているから、仕事は早め、早めに片づける習慣が身についている。しかし、イライラする原因はもちろん、自分のことばかりでなく他人にも関係する。こちらが期待するとおりに仕事をしない、勉強をしない、気が利かない。そういう人に対するイライラは、直接怒ったからといっておさまるものではない。だからどうしても、人にはたよらず、できることは自分でやってしまうことになる。自分で肩代わりできないものについては、自分のことではないと突き放すしかないのだが、そういう輩にかぎって、たよってくるから始末がわるい。


『偏頭痛大全』の最後には片頭痛の治療や薬についての記述もある。疲れたら眠ること、イライラしないこととあたりまえだが、薬のなかにカフェインがあって、珈琲や紅茶を多めに飲みなさいと書いてあった。もう全部やってることで、病院に行って医師の判断を仰ぐ気もないし、市販の薬など飲みたくないから、さほど役にはたたなかったが、世の中にはさまざまな頭痛の症状があるものだと今さらながらに感心してしまった。

2003年9月15日月曜日

ナチとユダヤの物語

 

・時折、地元に一軒だけある映画館に出かけるが、そこで「戦場のピアニスト」と「めぐりあう時間たち」を見た。どちらもよかったからレビューを書こうと思ったのだが、その機会を逸してそのままにしてしまっていた。
・映画はBSで毎日のように見ているが、映画館で見るとやはり、ちょっと印象が違う。画面も音も大きいし、途中で席を外すこともない。何よりお金を払ってみようと思ったものだから、期待度も大きい。当然、その善し悪しについて考えたくなる。「めぐりあう時間たち」は特に書こうと思ったのだが、その前に原作を読んでからと考えて、時間が過ぎてしまった。もちろん原作もまだ読み終えてはいない。
・「戦場のピアニスト」はロマン・ポランスキーが監督している。好きな監督の一人だから期待して見た。素直な話で彼らしくないなと思ったが、悪くはない。そんな感じだった。ワルシャワの街が占領されると、突然バリケードができて、ユダヤ人が集められる。その街の様子がもつすごさは大きな画面ならばこそだし、連合軍との戦いで廃墟になった街の光景もすごかった。そこで生き延びた一人のピアニスト。それにしてもナチとユダヤをテーマにした物語は尽きることがない。
・夏休みに入ってBSで音楽とナチとユダヤをテーマにした映画を見た。「暗い日曜日」。シャンソンとして有名な曲の題名でもある。映画はその曲の誕生と作者やその友人たちとの数奇な運命を描きだしていた。舞台はハンガリーのブタペストで、登場人物はレストラン「サボー」を経営するユダヤ人のラズロとその恋人兼共同経営者のイロナ、その店に雇われるピアニストのアンドラーシュ、それに常連客のドイツ人のハンスだ。
・レストランはピアノが人気を呼んで繁盛する。ラズロは喜ぶがイロナとアンドラーシュの仲が気にもなる。奇妙な三角関係がはじまる。アンドラーシュがイロナに曲をプレゼントする。それが「暗い日曜日」。店で演奏されるこの曲がさらに評判になって、店はますます繁盛する。ラズロは三人の関係を受けいれることにする。男同士の嫉妬と友情。しかしイロナは二人を同時に愛せると思う。ここに常連客のハンスが加わって、イロナに求愛するが彼女ははっきりと拒絶する。断られたハンスは自殺を図って川に飛びこむが、ラズロに助けられる。
・「暗い日曜日」は曲の良さというだけでなく、聞いた人が死に誘われるといおうことでさらに評判になる。ハンスが川に飛びこんだのも、店でこの曲を聴いた直後だった。曲がレコードになってヨーロッパに広がると、自殺者の数も増えて、それが大きなニュースになって報じられるようになる。店はますます有名になって繁盛する。しかし、ドイツ軍のハンガリー侵攻とユダヤ人狩りもはじまる。ドイツ軍の司令官としてハンスが戻ってくる。彼はイロナへの思いを断ち切れないままで、ラズロとアンドラーシュの抹殺を画策する。ラズロは強制収容所送り、アンドラーシュは自殺………。
・この映画にリアリティをもたせているのは第一に、ユダヤとナチの物語だが、イロナを演じたエリカ・マロジャーンの魅力も大きい。彼女はハンガリーの女優でほとんど知られていないが、マドンナにちょっと感じが似ていて、妖艶さと心の強さをもっている。彼女に夢中になる三人の男たちが、そのたがいの関係のなかでくり広げる心理劇が真に迫っているのは、イロナの魅力があればこそだと思った。
・映画を見てすぐに「暗い日曜日」のサントラ盤を注文した。同時に「暗い日曜日」が入ったCDの検索もしたら、以前に見た「耳に残るは君の歌声」も見つけた。ジョニー・デップがパリに住むロマの集団のリーダーで登場する映画で、やはりナチの侵略とユダヤやロマの弾圧が絡んでいる。ナチはロマ(→)をユダヤ以上に嫌ったのだが、それはユダヤ人の優秀さに対する恐れとは違って、漂泊の民族を軽蔑し忌み嫌ったからだ。
・しかし、この映画に登場するロマは、パリの街を馬に乗って走り去るジョニー・デップに象徴されるように気高くて格好いい。彼はアメリカ・インディアンの血を受け継いでいるが、ロマの役もいい。デップの映画をはじめて見たのはジム・ジャームッシュの「Dead Man」で、その無口で無表情のところが妙に気に入ったのだが、最近は売れすぎて、ちょっと食傷気味だ。

2003年9月8日月曜日

バイクとお別れ


bike1.jpeg・長年乗り慣れたバイクを手放した。河口湖に引っ越してからあまり乗っていない。特に冬場の4カ月ぐらいは路面の積雪や凍結で動かせないから、1年に 1000kmも走らなかった。買ってから10年以上たつがまだまだしっかり走る。このまま置きっぱなしにしたのではもったいないし、バイクがかわいそうだ。そんな気持をずーっと感じていた。
・車種はホンダのトランザルプ(アルプス越)で排気量は400cc。オン・オフ兼用のタイプで、名前のしめすとおり、山道などにはぴったりのバイクだ。ドイツ・ホンダが設計した車種でもともとは650ccのエンジンを積んでいて、それを日本で400ccに作り直したものだ。一度モデルチェンジがあったが、現在では生産は中止されている。それほど売れた車種ではないから通りすがりに見かけるということもめったになかった。
・日本では人気がなかったのだろうと思ってネットで検索すると、結構マニアの頁があった。中古の車種のなかでは人気も高いようだ。売りに出そうかとも考えたが、それも面倒くさい。で、近くの人に譲ることにした。もうすぐ車検切で、タイヤなどの交換もしなければならないから、ただにして、せいぜい大事につかって、事故を起こさないようにお願いした。
・僕がバイクに乗りだしたのは大学生の時からだから、もうバイク歴は30年を越える。そのあいだに乗ったバイクは5台ほどだ。30代の後半まではそのバイクでどこにでも行っていた。40代になって車を主に使うようになってバイクはサブの乗り物になったが、それでも、京都にいる頃にはなくてはならない必需品だった。バイクは駐車場を気にする必要がないから、京都や大阪の街中に行くときには便利だった。

bike2.jpeg・河口湖に引っ越したら、野山のツーリングに使おうと思った。実際あちこちには行ったのだが、日常的に使わないとだんだん乗る機会は減ってしまう。それに冬場の寒さである。ここ1年はバッテリーが上がらないように時折湖畔を一周といった程度で、駐車しっぱなしのバイクを見るのがつらく感じさえした。去年から50肩になって右手が思うように動かないから、バイクの引き回しもままならない。何しろ200kgを越える車体なのだ。
・で、譲渡契約書を交わして持っていってもらうことにしたのだが、なくなる前に何度か乗っておこうと思って、今まで行ったことのない道に出かけることにした。行こうと思って行ってないところが2カ所ある。一つは富士山の旧登山道。もう一つは下部温泉から朝霧高原に抜ける山越えの道だ。富士山は時間がかかるし、準備も大変だから下部温泉に行くことにした。

・河口湖から下部温泉に行くには本栖湖を通って山を下る道がある。国道300号線(本栖道)で、高低差1000mをくねくねと一気に下る。下部温泉につくと源泉館を過ぎて、今度は急な登り道。かなり上がったところに数件の集落があって、それを過ぎると断崖絶壁になった。はるか下に下部川。ところどころに崖崩れがあり、工事中も数カ所。霧も出てきて雨も降り始めた。時計の高度計を見ると1400m。1時間ちょっとで1000m下って1200m 上がったことになる。で、峠のトンネル。
・休まず入ると真っ暗で霧が立ちこめているから何も見えない。ライトが照らすのはせいぜい5mほど先で、ほとんど手探り状態で真っ直ぐ進む。緊張と恐怖。しかしもう止まって後戻りするわけにはいかない。そんなに長いトンネルではないはずだが、いつまでたっても出口は見えてこない。天井からは滝のような水。対向車が来たらまちがいなく正面衝突だ。そんな不安が数分。薄明かりが見えたときには本当にほっとした。

・2時間ほどのツーリングを楽しんで、このバイクに乗るのもこれが最後と思ったら、ちょっといとおしくなった。事故も故障もなく、あちこち運んでくれてありがとう。今度は別の人を乗せて、もっともっと走ってください。さようなら。

2003年9月1日月曜日

Lou Reed "the Raven"

 

reed4.jpeg・ルー・リードの新作"The Raven"はエドガー・アラン・ポーの同名の詩を題材にしている。『大鴉』。2枚組で参加しているメンバーがすごい。デヴィッド・ボーイ、オーネット・コールマン、ウィリアム・デフォー等々で2001年に舞台で上演した作品のようだ。だから、通常のアルバムとちがって、詩の朗読や歌のない演奏があり、時折、ルー・リードの歌が入るという構成になっている。輸入盤には歌詞がついていないから、聴いているだけだといつもとちがってちょっと肩すかしといった感じだった。で、さっそく、ネットで歌詞を探して読みながら聴きなおした。

・エドガー・アラン・ポーは19世紀前半に小説や詩を書いたアメリカを代表する作家で、日本の江戸川乱歩やフランスのボードレールに影響をあたえた人として知られている。映画が登場するとすぐに「モルグ街の殺人」などが映画化されて探偵小説、推理小説のパイオニアとして有名になるが、生存中は貧困生活に苦しんだようだ。ポーは1849年に40歳で死んでいる。ボルチモアの路上で泥酔して倒れているところを助けられたが、数日後に病院で死んだと言われている。

・リードはそんなポーの人生と彼が残した作品に自分の人生と現在の世界、とりわけニューヨークの状況を重ね合わせているようだ。アルバムのライナーノーツにはつぎのような文章が載っている。

エドガー・アラン・ポーはアメリカの古典的な作家だが、彼が生きていた時代以上に、この新しい世紀に奇妙に波長の合う作家でもある。強迫観念、パラノイア、自滅的な行為がいつも周囲にある。僕はポーを読み直し書き直しておなじ問いかけをしてみた。僕はだれ?なぜそうすべきでないことに引きよせられるのか?僕はこの考えと何度も取っ組み合ってきた。破壊願望の衝動、自己屈辱の願望。ぼくの中ではポーはウィリアム・バローズやヒューバート・シェルビーの父だ。僕のメロディーの中にはいつでも彼らの血が流れている。なぜしてはいけないことをしてしまうか?なぜ、手にできないものを愛してしまうのか?なぜまちがいとわかっていることに情熱をかたむけてしまうのか?「まちがい」とは何なのか?僕は再びポーに夢中になった。ことばと音楽、テクストとダンスで彼を生き返らせる機会に出会って、それに思わず飛びついてしまった。

・この2枚組のアルバムの中でルー・リードが歌っているのは46トラックのうちの13曲。ポーの詩を読むのは「大鴉」をふくめてほとんどがウィリアム・デフォーで、バックにはジャズが流される。最初はちぐはぐな組み合わせのように感じたが、何度か聴いているうちに意図がだんだん分かってきた。ポーの詩(19世紀)にビートニクの詩と朗読会の雰囲気(50年代、モダンジャズ)を重ね、そこに自らの音楽の足跡(ヴェルヴェット・アンダーグラウンドから現在まで)を残す。そんな構成をイメージしながら聴きなおすと、これはなかなかいいアルバムだと再認識した。

・ルー・リードは今月、東京と大阪でコンサートをやる。大阪 9/17(水) 大阪厚生年金会館、東京 9/19(金) 東京厚生年金会館、東京 9/20(土) 東京厚生年金会館。僕は1996年のコンサートを大阪で見ているが、これ以来だとすると7年ぶりということになる。ちなみにこのライブのレビューはこのHPでの記念すべき第一回のものである。そんなわけで行きたいのはやまやまだが、ちょうど授業のはじまりで、仕事をしてコンサートを見て、夜中に高速で帰るのではちょっと体力がもちそうもない。でも、チケットは当日でも買えるだろうから、どうするかは直前に決めようと思っている。(2003.09.01)

2003年8月25日月曜日

夏は来なかった


forest27-1.jpeg・八月もあと一週間でおしまいというときになってやっと暑さが訪れた。僕は暑さは大の苦手だが、それでも今年のように肌寒いほどの日が続くと、夏はもっと暑くなければと、ちょっと寂しさも感じていた。もっとも、天気が悪いあいだの気温は東京とほとんど一緒だったから、例年にない冷夏を実感したのは東京に住む人たちだったのかもしれない。
・今年の河口湖の8月の気温は最高が25度程度で、最低は15〜6度。過ごしやすい気温だが、雨ばかりでじめじめしているから、けっして快適ではなかった。それがここ数日、青空が見えはじめて、気温も30度前後にまで上がるようになった。静かにしていてもじっとりと汗をかく。長年京都に住んできたから、そんな感じにならないと夏になった気がしない。

forest27-2.jpeg・子どもが来たから尾花沢産の大きなスイカを買った。播州の素麺も食べた。珈琲も冷やして飲んだ。急いでやらないと夏はまたすぐに逃げていってしまう。そんな感じで、貴重な暑さを味わった。もっとも、去年は堪能した桃が今年はおいしくない。甘くないし、置いておくと熟さずに腐り始めてしまう。雨ばかりで気温が上がらないのだから、無理もないと思うが、生産者にとっては死活問題だろう。そういえば、近くの田んぼは稲穂をつけはじめているが、背丈が低いし、米がつまっていそうもない。
・最近になってニュースが、今年の冷夏が外米を食べた年以来であることに注目して、不作を問題にしはじめている。しかし、今年の天気の不順さは春先からのもので、植木屋さんなどはこんな事はなかったとその時から言っていた。前回のこのコラムでも書いたが、今年の梅雨は連休明けからはじまっていたのに、気象庁はなかなか梅雨入り宣言をしなかったし、今年の夏は例年通りと予想した。おまけに8月のはじめに数日晴れると慌てて梅雨明け宣言である。でお盆の期間はまた肌寒い雨。別に例年通りに区切れ目をつけることはないと思うが、そうしないといけない決まりでもあるのだろうか。

forest27-3.jpeg・この涼しい夏もまた、僕はその大半を家で過ごした。今年こそ野茂の試合を見にロスに行こうと考えたりしていたのだが、翻訳の校正があったし、肉体論(メディアとしてのからだ)の締め切りも気になった。編者の池井望さんからは夏休みにはいるとすぐに、「原稿の方よろしく」という確認メールが入ったのに、ほとんど何も書くことが決まっていない。米国に行って野球を見て、原稿書けませんでしたでは、大目玉を食らってしまう。そんなことが気になったのだ。
・「行けばいいじゃない。一週間ぐらい遊んだって、関係ないでしょ」とパートナーに言われたが、気になるものは気になる。30代の頃とちがってどうも冴えない。ひとりでに浮かんでくるといった感覚がなくなって、むりやり絞り出すという感じがここ数年続いている。才能が涸れたかスランプか、あるいは読書量の減少のためのなか。大学の忙しさのせいにしたくなるが、半分隠遁者のような生活をしはじめて、あれこれ考えることに興味を感じなくなったのかもしれない。

forest27-4.jpeg・もっともこのHPのコラムは毎週欠かさず掲載していて、ちょっと考えただけですぐできてしまう。この文章も、そろそろ書こうかとパソコンの前に坐って1時間ちょっとでここまで来ているのだ。短くて気ままな文章を書いていると、長くて練ったものが書きにくくなるのかもしれない。だったら、このコラムをしばらくやめてみようか、とふと考えたりもする。
・とは言え、原稿は7割程度のところまで何とか進んできた。からだをメディアとして考える。清潔さや健康を過剰に意識する最近の傾向について、からだと衣服の関係について、はだかや性について、病気について、心とからだと感情の関係について考えているが、池井さんからは表層的すぎるとクレームがつくのではと、ちょっと心配している。学生の論文指導ではきついことをズケズケいうが、いわれるのはやっぱり気になるし、へこんでしまう。8月末までには終わらせたいがうまくいくかどうか。

2003年8月18日月曜日

スーエレン・ホイ『清潔文化の誕生』紀伊国屋書店、藤田紘一郎『清潔はビョーキだ』朝日文庫

 

dirt1.jpeg・木に囲まれた生活をするようになって変わったことの一つに生ゴミを捨てなくなったことがある。庭のあちこちに穴を掘っては埋けるようにしたのだ。けっして捨てているわけではない。生ゴミは地中でバクテリアに分解されて土壌の肥やしになる。そこに花や木を植えれば、ゴミは植物の成長の助けになる。何でもないことだが、これが都会の生活では難しい。
・藤田紘一郎の『清潔はビョーキだ』には日本の農業がかつては人糞を肥料にしていて、そのために日本人のおなかのなかには必ず回虫などが住みついていたことが書かれている。このことはもちろん、僕にとっても記憶にあることだ。野菜にまかれた糞には虫の卵がついている。その野菜を食べるから、またおなかのなかで成長する。そのサイクルが便所の水洗化によって一掃された。
・この本によれば、その水洗化が始まった60年代から花粉症やアトピー性皮膚炎の患者が出始めたのだという。もちろんそこには、環境を無菌、無臭状態にするのが清潔で健康な生活には不可欠で、できればじぶんのからだそのものも無菌、無臭にしたい、という考えが伴っていて、清潔であることは文化的な生活の第一の基準になっていった。
・たとえばO-157のような病気が流行すると、小さな子供を持つ親などは特に過敏になって、手を洗ったり、うがいをしたりしてますます清潔であることを心がける。ところが、新しく登場する病気は、清潔にしたために免疫力が低下したことが原因である場合が多いのだ。極端なことをいえば、このような病気にかからないためには、清潔であることにこだわらずに、幼い頃から抵抗力や免疫をつけさせることが一番だということになる。実際、『清潔はビョーキだ』には回虫などには花粉症やアトピー性皮膚炎に対する抗体があると書いてある。
・とは言っても、今さら人糞をまいて寄生虫の卵のついた野菜を作ることもできないだろうし、誰もそれを食べる気にはならないだろう。清潔であることはもはや常識であり、現代の生活文化の大きな柱になっているから、それを外したら、生活の形が土台から崩れ去ってしまう。だから新しい病気の対応策は、新薬の開発と一層の清潔志向ということにならざるをえない。何とも皮肉な現象で、笑い話として片づけたくなるが、病状が深刻である場合も多いから、笑ってはすまされない問題として認識しなければならない。
dirt2.jpeg・スーエレン・ホイの『清潔文化の誕生』には、人びとの生活がなぜ、清潔志向に傾いていったのかという問題が、19世紀にさかのぼって、歴史的に詳しく論じられている。たとえば、移民によってつくられたアメリカでは、人びとは土地の風土病や外からもちこんだ伝染病によって悩まされた。病気の流行の原因は何より、水とゴミや排泄物。だから、町ができ、人が多く住み始めれば、何より問題となるのは上下水道の完備だった。ペスト、コレラ、腸チフス、あるいはマラリアや結核………。これらの病気はすでにその何世紀も前からヨーロッパの人口を半減させるほどに流行しておそれられてきたが、それらが伝染性のものであり、飲む水や排泄物、ゴミ、あるいは蚊や蠅などを媒介にして感染することが明らかになるのは19世紀から20世紀にかけての頃である。
・清潔志向がアメリカで浸透しはじめるのはホイによれば1930年代以降のようだ。それは、学校教育とそこでの衛生教育、それに石鹸や洗剤、自宅用の上下水道、トイレやバスルームなどの普及と重なる。第二次大戦後の50年代になると、洗濯機や冷蔵庫等の家電製品が次々と家庭の必需品になって、そこで生まれ育った人たちには清潔で衛生的な暮らしが当たり前になっていった。このような傾向は日本でも60年代に現実化した。
・清潔志向はその後、清潔であるかどうか、健康的であるかどうかということよりも、清潔に見えること、感じられることという方向に徹底されていく。食品のパック包装は、消費者にとって衛生的に見えるばかりでなく、セルフ・サービスのスーパーが大量に販売するために考案した戦略だし、ギフト商品の売上げ増加にも紙の包装やリボンでの飾りが重要な役割を果たした。あるいは、石鹸や洗剤はテレビCMのスポンサーとしてもっともおなじみになって、アメリカでは「ソープ・オペラ」といった番組ジャンルが定着するようになった。サラサラの髪、すべすべの肌、真っ白のタオル、ぴかぴかの歯、石鹸の匂い………。
・森の中に生活していると、最近の清潔志向が意味のないことのように感じられて、テレビのCMに強い違和感をもつことが少なくない。白さやすべすべ、さらさらを気にしなければ、洗濯でも食器洗いでも洗顔でも、あるいは風呂に入っても石鹸や洗剤はごく少量でいいし、必ずしも使わなくてもいい。家の中に消臭剤をまく必要性もまったく感じない。それはちょうど、庭に雑草を生い茂らせ、山のような落ち葉をそのままに放置しておくことと同じなのかもしれない。放っておけば、それは結局、土に帰るのだが、都会ではそんなわけにはいかない。清潔感というのは、結局、都会で暮らすためのルールで、現在の生活を念頭におきながら2冊の本を読むと、そのことがよくわかる。

2003年8月11日月曜日

読書の衰退

 大学生が本を読まない、というのは、もはや当たり前のことになった。携帯などのコミュニケーション・ツールにお金がかかることもあるが、そもそも、本を読む必要性を感じなくなっているのだ。だから、講義やゼミでまず心がけるのは、本を読むことの必要性ということになる。


僕はゼミを研究室でやっている。理由の第一は、部屋の壁に並んだ書架の本に関心をもたせるためだ。たとえば学生に自分の興味や関心にそってそれぞれ発表させる。最初の発表では、本を読んで参考にしてくる学生はほとんどいない。だから、部屋にあるぼくの本を見せて、「これを読んでご覧」と貸し出すことにしている。必要なら図書館に行けばいいし、生協で買ってもいい。しかし、アドバイスをしないと本を探さないし、見つけてきても的はずれなものが多いのだ。それにインターネットという便利なものができたから、それを使って検索して、適当にまとめてしまう。自分で探して、自分で読んで、それで考える。放っておいたら、そんな作業はまずしない。そこを念頭において、学生とつきあわなければならない。そんな時代になった。


追手門で教えた卒業生のW君から近況を伝えるメールが来た。彼は仕事を何度か変えている。大学院で勉強しなおそうかとか、教員免許をとろうかとか、その都度相談をしてくる。何を選んでも厳しい道だが、迷いながら懸命に自分の道を探そうとしているから、ぼくもずっと気になっている。そんな彼が、高校の図書室で司書として働きはじめて感じたことを書いてきた。

この間は、閲覧室の壁際に大きなスペースを占めていた文学全集を部屋の奥に片付けて、代わりに芸術、芸能、スポーツ関係の本と日本の小説を入れ替えました。これ だけで、雰囲気はずいぶんと変わりました。
高校の先生方は、「子どもは本は読まない」と頭から決めつけているところがあって、前々任の司書の方も文学全集ばかり買って選書は年に一度という状態だったので ぼろぼろの新書・文庫やいかつい文学全集ばかりになっていました。読みたくない本 ばかりの図書館なんてはじめから興味をもたないわけで、その辺を変えていくことも 動機付けには大事じゃないかって思います。
あー、なるほどな、と思った。図書室が、本を読むきっかけになっていない。毎日通う学校がそうなら、市や町の図書館などは一層無縁だろう。だったら、大学に入っても図書館を利用しないわけだし、自分で本を買ったりもしないわけだ。W君の指摘からすると、授業のなかで図書室を利用して、ということもないのだろうし、先生が利用するということもないのかも知れない。詳細は忘れたが、朝日新聞で、高校の先生の読書時間が毎日30分以下、という調査を読んだ記憶がある。いったい、生徒に何を材料にして教えているのだろう、と疑問を感じ、あきれたことを覚えている。


たまたま、同志社の大学院で後輩だったM氏からメールが来た。彼は今、神戸の私立女子校(中高一貫)で社会科を教えている。本当に久しぶりのメールで、以前は職場でインターネットが使えるようになったから、試しに送りましたというものだったが、今回も自宅から出すはじめてのメール、ということだった。メールの中身は東京で研修があるから、ついでに河口湖に訪ねたいというもの。僕はそのメールを山形で受け取って、返事を書いた。


わが家に来た彼と再会して話したのは、まず、最近の中高生や大学生の状況とそれに対応する教師の姿勢。ここに引用したW君のメールの話をしたら、受験校では教科書以外のことを生徒に教える余裕はないんや、と一蹴されてしまった。入試問題に関係のあるものを徹底的に覚えさせ、理解させる。それを授業時間の中でやるのが精一杯で、それ以外のことをやったら、教科書が消化できなくなってしまう。彼によれば、諸悪の根元は入試方法を変えない大学にあるという。批判するつもりがかえって批判されることになってしまった。


もっとも、彼はそんな受験体制に逆らって、社会の問題を生徒に伝え、体験させる工夫をしようとしてきている。いわば、校内の反体制派なのだが、教師の中にそんな意識を共有できる人は少ないという。首にならないよう気をつけながら、いかにして授業を活性化するか。それはそれで、しんどい作業で、大学生に本を読む必要性を自覚させることに苦慮している僕以上に大変なのかもしれないと思ってしまった。