・「ハリー、見知らぬ友人」は奇妙な映画だ。主人公のミシェルは、ある日突然、見知らぬ男から、高校時代の友人だと言われる。家族で別荘に行く途中で寄った高速道路のトイレ。見覚えがないから、簡単に挨拶だけして別れようと思うのだが、その友人ハリーはしつこくつきまとってくる。で結局、友人とそのガール・フレンドは、家に泊まりこんでしまうことになる。
・ミシェルにはハリーについての確かな記憶がない。しかしハリーの方は、主人公について恐ろしく詳しい。ミシェルが高校時代に書いた詩を今でも覚えていて、暗唱してしまう。ハリーはミシェルが小説を書いた話もして、君には才能があるのになぜ作家にならなかったのかと問いつめる。ミシェルは、あれは少年時代の気まぐれに過ぎないと言って取り合わない。
・ハリーは親の財産を受け継いで悠々自適の暮らしのようだ。ミシェルには家族がいて、仕事も忙しい。やっと買った別荘は古くて手直しが必要で、別荘に来たらほとんど大工や庭仕事に時間を費やさなければならない。それはそれで楽しいのだが、ハリーは、そんなことに時間とエネルギーを使わずに、小説を書けと言う。別荘の修理代は出してやると言うし、クーラーのないオンボロ自動車が故障すると、三菱パジェロを買ってきてしまう。
・ミシェルには過干渉の両親がいる。父は歯医者で、家を訪ねると頼みもしないのに歯の治療を強制する。ミシェルは断るが固辞はしない。別荘に二人を連れてくると、その世話焼きぶりにハリーが腹を立てる。君の才能が発揮できないのは親のせいだとミシェルに話し、親との距離をもっと作れと進言する。確かにうるさいが、いい親だと、ミシェルは、これも取り合わない。ハリーの顔に恐ろしい影が現れはじめる。
・ハリーはミシェルの両親を殺す。高校時代に書いた詩をけなしたミシェルの弟も殺す。そしてセクシーだがバカだとミシェルにけなされたガール・フレンドも殺す。ミシェルは周辺で起こる事故や殺人がすべてハリーのせいだとも気づきはじめるのだが、いつのまにかトイレで小説の構想を考えてもいる。ハリーは創作活動をし始めたミシェルに満足し、君の才能をのばすためには妻も子どもも邪魔だといいはじめる。
・話はミシェルが家族を守ってハリーを殺すところで終わる。両親は交通事故死で処理され、ハリーとそのガール・フレンドはミシェルとその家族だけに存在した人間だから、殺されても事件にはならない。そして、ミシェルの中から一つの小説が生まれる。作家として生まれ変わったミシェルの新しい生活………。奇妙な映画としてヨーロッパでは話題になったようだ。
・見終わってあれこれ考えているうちに、ぼくは、フロイトをあてはめるとよくわかる映画だと気づいた。ミシェルには自分の夢、希望、欲望があったのだが、それは干渉過剰な両親に抑えつけられてしまう。仕事、結婚、そして子どものいる家庭生活。ミシェルの夢は心の奥深くに潜在意識として沈潜する。ところがその潜在意識がハリーという人格を持ってミシェルに取り憑きはじめる。自分の欲望(リビドー)を実現するためには父親(超自我)の存在が邪魔で、それを取り除かねばならないことに気づく。「エディップス・コンプレクス」という「父殺し」神話である。
・仕事につき家族を得て、それなりに落ち着いた生活を手にした者も、時にふと、自分にはもっと違う人生があったのではと思ったりする。誰にでも起こる心の動きだろう。そして今とは違う自分を空想する。空想は夢と同じで、束の間あらわれては消える。それを自分の意識のうちではなく関係とし、現実の場に置きかえて実現に向かう話に仕立てたら、どんな物語と配役が必要か。ドミニク・モルの発想はそんなところにあったのではないだろうか。そう考えると、この映画は奇妙ではないし、きわめてわかりやすい。とはいえ、自分のリビドーが他人の顔をして自分に近づいてくるなんてことは、やっぱり薄気味悪いし、恐ろしい。