・BSで『大いなる遺産』(1998)を見た。チャールズ・ディケンズ原作の物語だが、現代のアメリカに話を置きかえてある。舞台はフロリダで、主人公の少年フィンがボートに乗っていて脱獄囚に出会い、彼の逃亡を助けるところから始まる。フィンは姉と、彼女の恋人と暮らしていて、近くの屋敷に住むディンズムア婦人から姪のエステラの遊び相手に頼まれる。婦人は結婚式の日にフィアンセが去って、その痛手から立ち直れないまま年老いた人だ。立派な屋敷は荒れ放題で、厚化粧の婦人の挙動は奇妙だが、フィンはそこに現れた美少女の虜になってしまう。毎週土曜日に出かけていって、踊りを踊ったり、絵を描いたりする。フィンは絵を描くことが好きだった。
・やがて成長して、エステラは大学に行くために家を出てしまう。そこで屋敷に出かけることはなくなるのだが、漁師をしているフィンのところに、弁護士が、画家になるための奨学金をもってくる。名は証さず、ある人からの提供だと言われる。フィンはニューヨークに行き、絵を描き始める。
・物語はエステラとの再会、画家としての成功というふうに進むが、彼が絵描きになる道を開いたのが婦人ではなく、脱獄囚であることが明らかにされる。脱獄囚はロバート・デニーロ、そして婦人はアン・バンクロフト。もっとも、婦人がアン・バンクロフトであることに気づいたのは、映画がかなり進んでからだった。理由は、僕の記憶にある彼女に比べて、かなり老けていたのと妖艶な感じがしたからだ。
・この映画を見て数日後に彼女の死が報じられた。アン・バンクロフトは僕にとって印象深い女優の一人だ。印象に残っているのは、まず『卒業』(1967)だろう。ダスティン・ホフマンが主演になった60年代後半のニュー・シネマの代表作で、教会で花嫁をさらって逃亡するシーンが有名である。彼女は娘のボーイフレンド(ベン)を不倫に誘い、娘に見つかってしまうが、その責をベンになすりつける。彼女の演技は何とも利己的でいやらしかったが、そんな思惑が娘の結婚式に現れたベンによって壊されるラスト・シーンでの憎悪をいっぱいにした演技はさらに強烈だった。何よりこの映画は60年代に顕著だった「世代」の断絶をテーマにしていて、アン・バンクロフト(ミセス・ロビンソン)はやっつける大人の標的そのものだったのである。
・頑固で保守的で怖い顔の女優というイメージは、『トーチソング・トリロジー』(1988)でも強烈で、絶縁状態のゲイの息子と言い争いをする母親の役もまた真に迫っていた。ゲイ・バーで歌い、踊る息子は心優しい青年でおだやかで知的だが、母はゲイであることで息子を人間扱いしない。オフ・オフ・ブロードウェイから始まってトニー賞をとったブロードウェイ・ミュージカルの傑作だが、映画はきわめてリアルなつくり方をしていて、世の中の偏見そのもののような彼女の存在が主人公以上に印象的だった。
・もっとも、彼女を初めて見たのはもっと古く、また印象も違う。ヘレン・ケラーを主人公にした『奇跡の人』(1961)で彼女の役は反抗的なヘレン・ケラーにことばを教えるサリヴァン先生だった。その映画は、死後に追悼としてオンエアしたNHKのBSで見たが、40年前の作品だから、当然若かい。しかし、このとき彼女はすでに30歳を過ぎていて、すでに若さを売り物にする女優ではなかった。そういえば、『愛と喝采の日々』(1978)も、ライバルのダンサーだったシャーリー・マクレーンと互いにすさまじい対抗心を燃やしあう中年の女という設定だった。そんなわけで、僕にとってアン・バンクロフトは保守的で利己的な強い中年女というイメージが強かったが、また、けっして嫌いではないという存在だった。時代を象徴する映画で象徴的な役割を演じたという意味で、アン・バンクロフトの残した遺産はまた、かなり大きなものだと思う。
・もっとも『大いなる遺産』は原題をGreat
Expectationという。これは直訳すれば「大いなる期待」でけっして遺産ではない。実際、映画は青年の画家としての才能に期待してお金を提供したのがだれかという推理ドラマにもなっている。青年はずっとディンズムア婦人だと思っていたのだが、最後で、それが脱獄囚だったことがわかる。いずれにしても、死後に遺産として残したのではなく、才能が開花することを期待して投資をしたもので、ディケンズの原作も同じ趣旨だとすれば、これは「大いなる誤訳」と言わざるをえない。映画のタイトルにはこの手のものが多いが、古典文学にも結構あるものだと、改めて思った。