2005年7月12日火曜日

夏休み!

  ・半休状態ではあっても、やっぱり授業が終わるとほっとする。例年なら、試験期間で監督業務があるから、半月早く解放される。授業だけで、その他の業務がないのは非常勤暮らしをしていた頃以来だから、何年ぶりだろうか。今年は十分に長い夏休みが過ごせる、と考えると、それだけで、気分がいい。
・とは言え、休暇は研究のためにもらったものだから、長い休みはそれなりに使わなければならない。さて、どうしようか。と言うので、ぼちぼち準備を始めている。テーマはライフスタイル論だ。


・せっかく森の生活を始めたのだから、その経験をもとにライフスタイルについて考えよ。こんな宿題を、もう5年も前に世界思想社の中川さんからいただいているのだが、そのとっかかりや、切り口が見つけられないできた。もちろん、新しい生活のおもしろさや発見、あるいは都会との比較は日々感じていることで、このコラムでも定期的に書いているのだが、雑感だけでは、本にはならない。第一、田舎暮らしや自然とのつきあいといった話は、本や雑誌やテレビ番組にもありふれている。


・ヒントはいくつかある。その一つは昔から好きで読んでいたH.D.ソローとW.モリスを読み直して、そこから、考え始めることだ。ソローについてはこのコラムの最初の方で取りあげたから、ここではモリスについてちょっと書いてみることにしよう。
・モリスの『ユートピアだより』(晶文社)は19世紀の末に書かれている。ロンドンとテムズ川を舞台にした22世紀の話である。モリスは、産業革命による自然の破壊や階級制度の確立による貧富の差の拡大を批判し、改革を唱えた人だが、この物語は、いわば、彼がその時描きだした理想の世界だと言える。


・モリスが描くユートピアには政府も裁判所もない。ほしいものはただで手にはいるからお金もない。だから、人びとの諍いもないし、生きるために働く必要もない。あるいは、鉄道などの交通手段も新聞も廃止されているし、大量生産の機械もない。19世紀末の世界から迷い込んだ主人公は、そのあまりの違いに驚いてしまう。人が欲を出さず、競争をせず、自分なりの楽しみと生き甲斐を見つけ出せば、文明の利器は何も必要がないというわけである。
・22世紀になっても、そんな世界はやってこないと言えるかもしれない。少なくとも21世紀になった現在の世界は、テクノロジーとメディアなしにはすまないし、何よりお金がものを言う仕組みができあがっている。政府も裁判所も必要不可欠のものであるし、國や民族の間での対立も激しい。そういう意味で言えば、モリスのユートピアは、全くの絵空事のように思える。


・けれども、現在の日本はまた、飢えや貧困に苦しみ、生きることに精一杯という社会でもない。年金制度は心許ないが、定年後の生活は悠々自適が可能ということになっているし、ニートの問題に見られるように、働く意味を見つけにくい若い人たちも増えている。自分なりの生き甲斐を見つけることが今ほど難しい時代もないだろう。そういう意味で言えば、趣味をもつ、手作りを基本にする、あるいはエコツーリズムやボランティア活動に積極的になるといった生活スタイルは、モリスが描いた世界とかなりの点で重なってくる。


・そんなことを考えていたら、「ビオトープ」ということばを見つけた。水越伸の『メディア・ビオトープ』(紀伊國屋書店)である。「ビオトープ」とは「生物の棲息に適した小さな場所」という意味で、生物学や環境論のなかで使われている用語のようだ。水越伸はそれをメディアの現状に援用して、マスメディアが支配する社会のなかに、小さなメディアやそれを使った人びとの関係の必要性と可能性を見ようとしている。考え方としてはミニコミの時代からあるものでそれほど目新しくはないのだが、「ビオトープ」の発想には惹かれるものがある。


・杉ばかりで植林された山や、雑草がまるでない庭園だけでなく、多様な木が茂る山を作ったり、雑草や昆虫が生きられる場と環境をいかに残し、また新たに作り出していくか。それは環境問題そのものが直面する難題だが、同時にメディアの現状にも当てはまるし、日常の生活のすべて、人間関係や人と他の生き物とのかかわり方にも共通する。


・『ユートピアだより』はテムズ川をロンドンからコッツウォルドまで手漕ぎボートでさかのぼりながら、22世紀の世界を描きだしていく。その19世紀末に特徴的だった偉容さや華麗さが醜さや荒廃と対照をなすという風景は、22世紀には、限りなく自然に近い状態にもどされている。果たして21世紀初頭のイギリスはどうなのだろうか。夏休みに出かけてみようと思っている。

日時:2005年7月12日

2005年7月5日火曜日

Warren ZevonとPete Yorn

 

zevon2.jpg・ウォーレン・ジヴォンは70年代後半にデビューしたミュージシャンだが、僕は全然知らなかった。ジャクソン・ブラウンと同世代のようだ。そのジヴォンが2003年に肺ガンで死んで、翌年にその追悼盤が作られた。享年56歳、また僕と同じ年齢だ。僕はたまたまディランのCDを検索していて、これを見つけた。"Enjoy Every Sandwich"。参加しているのはディランの他にスプリングスティーン、ジャクソン・ブラウン、ドン・ヘンリー、スティーブ・アール、ライ・クーダー、ボニー・レイト、ザ・ウォールフラワーズなどそうそうたる人たちで、僕はジヴォンが誰かわからぬままに買った。
・スプリングスティーンが歌う前にジボンのことを話しているが、そこでグレイトということばを3回もくりかえして、ソング・ライターとしての実力を讃えている。彼の歌った"My rides here"は聞き覚えがあると思ったら、9.11の追悼番組でも歌われたものだった。これだけのメンバーが集まったこととあわせて、確かにすごい人なんだろうということはわかった。それぞれが歌っている曲はジボンのものだが、なるほどいいものがある。特に、ディランの歌った"Mutineer"(反逆者)はじっくり聞き惚れてしまう感じだった。息子のジェイコブ(ザ・ウォールフラワーズ)も歌っているから、ジヴォンとディランは家族ぐるみのつきあいだったのかもしれない。そんなことを勝手に想像しながら聴いた。

zevon1.jpg・ジヴォンは余命が3ヶ月だと宣告されてから、最後のアルバム"The Wind"を作っている。グラミー賞のフォーク部門で最優秀アルバムに選ばれているが、これにも大勢の人の協力があったようだ。ディランの「天国の扉」がおさめられ、"Disiorder in the house"ではスプリングスティーンが加わっている。笑い声もして楽しげだが、それだけにいっそう、最後の命をふりしぼって作ったことがわかる。そう思って聴くせいもあるけれども、じーんとしてしまう。

影が落ちて 僕は息が絶える
ほんの少しだけでいいから、君の心にぼくを残しておいて
僕がいなくなっても、君を愛さなくなったなんてわけじゃない
ほんの少しだけでいいから、君の心にぼくを残しておいて
"Keep me in your heart"

yorn1.jpg・追悼盤で初めて聴いたピート・ヨーンが気になった。amazonで調べたら、有望な若手と書いてあった。で、さっそく2枚、デビュー・アルバムの"musicforthemorningafter"とDay I forget"購入した。ピートとジヴォンはずいぶん違う。ジヴォンはしわがれ声でいかにもアメリカ人らしい歌い方をする、オーソドックスなフォーク・シンガーだが、ピートにはイギリスの香りがする。最近のCold PlayやTravis、あるいはRadio Headに共通するサウンドや歌い方を感じる。ライナーノートを読むとモリッシーに影響されたようだ。
yorn2.jpg・最近のアメリカの音楽事情は、ラップ以外はほとんど話題にもならないが、フォークのジャンルにも若い世代が育っている。新しい傾向を吸収しながら、上の世代とのつながりもある。そんなことを改めて感じさせるミュージシャンだ。


時間はあったのに 彼女は彼に会わなかった
で、間違いは 彼女が彼を必要としていたことだ
他に救いの手はなかったから 彼と彼女は連絡を取り合った
「君の息子のことはわかった」と彼は言った
子どもの話を聞いて 急に歳とったように感じた
やることがいっぱい でも、時間はある
"So much work"

springsteen.jpg・ついでに、というわけではないが、ブルース・スプリングスティーンの新しいアルバムも出た。"Devil & Dust"。ソロで生ギターだから"the ghost of tom joad"以来の静かでじっくり聴かせるものになっている。DVDが付録していて、CDと裏表で一枚。初めて見た形だが、ケースの形もおもしろい。貧しい者、敗れた者へのシンパシー。アメリカにロック・ミュージシャン出身の大統領が生まれるとすれば、間違いなくスプリングスティーンがその第一候補だろう。聴きながらふと、そんなことを思った。
 

2005年6月28日火曜日

町田康『告白』(中央公論新社)

 

machida1.jpg・町田康の名前はずいぶん前から耳にしていた。ロック・ミュージシャンで作家、どちらも評判がいい。しかしなぜか、食指が動かなかった。たいした理由はない。たまたまの出会いをのぞけば、これは良さそうだ、おもしろそうだと感じられるまでは手を出さない。僕にはそんな傾向がある。それに、ここ数年、時間的・精神的な余裕がなくて、小説を読むことがほとんどなかった。学生の論文につきあうこと、ポピュラー文化の文献を網羅して、それに目を通すこと。特にこの2年ぐらいはそうだった。本が完成し、大学の仕事の負担も軽くなって、今まで読まなかった本に目を向け始めた。で、まず読みたいと思ったのが、町田康の『告白』だった。

・きっかけは、僕の恩師の一人である仲村祥一さんから、『告白』を読んでいるという便りが届いたことだった。感想は書かれていなかったが、仲村さんが町田康か、と思ったら、無性に読みたくなった。80歳になられたというのに、新しいものへの好奇心はまだまだ健在なんだ、とあらためて感心した。

・『告白』は大阪の河内が舞台になっている。時代は江戸から明治に変わる頃で、河内音頭の『河内十人斬り』が物語のモチーフのようだ。この話はまた、実際に起きた事件をもとにしている。河内の水分という村に生まれた熊太郎は成長しても百姓などやる気のない極道になる。親の嘆きや村の人びとの悪口や嘲笑も気にせず、好き勝手な生活をしている。そんな彼が、嫁をめとるが、遊び仲間に間男されてしまう。その兄には借金を踏み倒され、村の有力者でもある親父からはバカにされて相手にされない。そんな腹いせから、一家を赤ん坊にいたるまで惨殺する。そして、山中での逃亡生活と最後の自殺。ストーリーはおおよそこんなふうなものだが、700ページに近い大作で、なかなかに読み応えがあった。

・僕は河内音頭の『河内十人斬り』は聞いたことがない。というより、河内音頭にこんなトピカル・ソングがあったことも知らなかった。河内家菊水丸のCDも出ているようだ。これも3枚組で200分に及ぶ大作らしい。これはこれで、ちょっと聞いてみたい気がするが、『告白』を読んで興味を持ったのは、最後の一家惨殺や逃亡といった派手な場面ではない。むしろ、前半の生い立ちや成長の過程の話である。

・どういうわけか、熊太郎は物心ついた頃から思弁的な性格だった。何かしようとしても、人と話をしようとしても、同時に頭の中でいろいろと考えてしまう。だから、出てくることばも行動も、スムーズでないし、相手や周囲の人にすぐ理解されるものにならない。熊太郎はそれが、親にちやほや育てられてできた、現実との断層の自覚に原因があると、ぼんやり考えている。親は褒めても悪ガキ仲間はバカにする。ことばの真偽、ことの表と裏、外見と内面、表現したいことと、それを伝達することの間にあるズレ。熊太郎は、そんな疑問やささいなことにひっかかって、いつもまごまご、しどろもどろしてしまう。

・この小説のかなりの部分が、この熊太郎の錯綜する心の動きととまどいの描写で占められている。それは冗談ポク、まるで講談の講釈士がするように語られているから、けっして深刻な内面の苦悩といったふうには読み取れない。けれども、これは間違いなく、近代小説の大きなテーマだった、自己と世界の対立とそれがもたらす苦悩の物語で、きわめて深刻な話なのである。

・この小説のおもしろさは、こういった問題を大阪の河内の農村に置きかえたところだろう。しかも、時代は江戸から明治への変わり目である。「近代的自我」にとりつかれた子どもを日本に伝統的な村社会のなかにおいて。その成長過程を想像したらどうなるか。僕は読み始めてすぐにそんな興味を感じて、一気に読んでしまった。家の中の、村の中の異物の物語を、異物の内面の側から読みとっていく。それはまた、異物の抱えた苦悩と同時に、それを受けとめる家族や村の人びとの態度や行動の特異さを描きだしていく。異物の側から見れば、伝統的な村社会はまた、何とも奇妙にみえる世界なのである。

・しかし、読み進みながら、これは現在の日本に典型的な自己と他者、個人と世間の物語なのではないか、という気にもなってきた。外見的には近代化したかのような社会であっても、日本は精神的には、そして人間関係的には、相変わらず村社会のままである。そのことを自覚せずに子どもをちやほや育て、自分の思惑に当てはめようとするから、異物のような子どもや少年・少女が続出する。熊太郎は自分から進んで極道になったのではない。それは、親や世間のインチキさに嫌気がさし、世間の掟にしたがうことに消極的に反抗した結果なのである。

・読み終わって、再認識した。これは、ミニ極道が続出する現在の日本社会を描きだした物語なのだと。おもしろいキャラをした、並はずれた力量の作家が出てきたと思う。今度はCDを買ってミュージシャンとしての町田康を聴いてみよう。

2005年6月21日火曜日

宮入恭平ライブ

 

miyairi1.jpg・大学院の僕の演習にはミュージシャンがいる。ジャーナリストもいれば、元お笑いタレントもいる。みんなユニークで、毎週の長時間に及ぶゼミも飽きることがない。基本ができていない点がちょっとだけ悩みの種だが、その分きっちりしぼる。ついてこれなければ、「ハイ。さよなら!」と引導を渡すことにしているが、落ちこぼれは少ない。というより、おもしろがって修士ではすまずに博士まで進んでしまうから、僕としては、その先どうするんだろう、と心配するばかりだ。「研究者になろうたって、なかなか大変だよ」といったり、「なまじ理屈を身につけると、君たちのよさが消えるかもしれない」といったりするのだが、学生たちはさほど気にしていない。

miyairi2.jpg・そんな学生の一人がライブをやった。宮入恭平。CD も出しているプロのミュージシャンだ。ただ、修論を書いていたから、ライブは1年ぶりだという。たまたま大学に出校した日だったから、少し研究室に長居してつきあうことにした。もう30代の後半で、有能なパートナーに養ってもらっているようだ。ハウス・ハズバンドで学生でミュージシャンという、なんともうらやましいところにいる。
・彼の修論は『ライブハウスの社会史』。日本の音楽状況とライブハウスの関係を70年代からたどり、現在のライブハウスとそこで歌い、踊り、演奏するミュージシャンたちの現状をフィールドワークしたものだ。

miyairi4.jpgmiyairi5.jpg・なかなかの力作だったと思う。だから今は、それを本にして出版できるよう書き直している。学者になるよりは、きっちりした音楽評論や文化批評のできるミュージシャンになってほしいと期待しているが、もちろん、ことはそれほど簡単ではない。がんばってほしいが、また、本職がお留守になってもいけない。

 

miyairi6.jpg・で、ライブである。場所は東京の中央線国立駅の南口にある「地球屋」という店だった。一橋大学のすぐ近くにあって、大学通りに面している。院生たちと早めに待ち合わせて、モスバーガーで軽い夕食をとった。地下の店に入ると、ウクレレで歌う青年のパフォーマンスが始まっている。「雑草〜」の歌が妙に耳に残った。小さくて細長い場所だが、音は悪くない。

miyairi7.jpg・彼のステージはかっこうよかった。エレキギターのバック(カマチョ)もついて、とてもリズミカル。CDで聴いていたから曲に馴染みはあったが、ライブの方がずっと迫力がある。若くて小気味のよいステージ。彼の番になったら、時間があっという間に過ぎた感じだった。十分にお金が取れるパフォーマンスで、もっとお大勢の客に聴かせなければもったいない。
・しかし、注文もちょっとだけ。「僕は、孤独、アイソレーション」。「そんなことはないだろう?」などと思いながら聴いた。さわやかだが、歳にあった、もうちょっと陰影や汚れや色気がある歌があってもいいな、と思った。もちろん、枯れや渋さなどまでは望まないけれども……。

2005年6月14日火曜日

大いなる遺産

 

・BSで『大いなる遺産』(1998)を見た。チャールズ・ディケンズ原作の物語だが、現代のアメリカに話を置きかえてある。舞台はフロリダで、主人公の少年フィンがボートに乗っていて脱獄囚に出会い、彼の逃亡を助けるところから始まる。フィンは姉と、彼女の恋人と暮らしていて、近くの屋敷に住むディンズムア婦人から姪のエステラの遊び相手に頼まれる。婦人は結婚式の日にフィアンセが去って、その痛手から立ち直れないまま年老いた人だ。立派な屋敷は荒れ放題で、厚化粧の婦人の挙動は奇妙だが、フィンはそこに現れた美少女の虜になってしまう。毎週土曜日に出かけていって、踊りを踊ったり、絵を描いたりする。フィンは絵を描くことが好きだった。
・やがて成長して、エステラは大学に行くために家を出てしまう。そこで屋敷に出かけることはなくなるのだが、漁師をしているフィンのところに、弁護士が、画家になるための奨学金をもってくる。名は証さず、ある人からの提供だと言われる。フィンはニューヨークに行き、絵を描き始める。
・物語はエステラとの再会、画家としての成功というふうに進むが、彼が絵描きになる道を開いたのが婦人ではなく、脱獄囚であることが明らかにされる。脱獄囚はロバート・デニーロ、そして婦人はアン・バンクロフト。もっとも、婦人がアン・バンクロフトであることに気づいたのは、映画がかなり進んでからだった。理由は、僕の記憶にある彼女に比べて、かなり老けていたのと妖艶な感じがしたからだ。
・この映画を見て数日後に彼女の死が報じられた。アン・バンクロフトは僕にとって印象深い女優の一人だ。印象に残っているのは、まず『卒業』(1967)だろう。ダスティン・ホフマンが主演になった60年代後半のニュー・シネマの代表作で、教会で花嫁をさらって逃亡するシーンが有名である。彼女は娘のボーイフレンド(ベン)を不倫に誘い、娘に見つかってしまうが、その責をベンになすりつける。彼女の演技は何とも利己的でいやらしかったが、そんな思惑が娘の結婚式に現れたベンによって壊されるラスト・シーンでの憎悪をいっぱいにした演技はさらに強烈だった。何よりこの映画は60年代に顕著だった「世代」の断絶をテーマにしていて、アン・バンクロフト(ミセス・ロビンソン)はやっつける大人の標的そのものだったのである。
・頑固で保守的で怖い顔の女優というイメージは、『トーチソング・トリロジー』(1988)でも強烈で、絶縁状態のゲイの息子と言い争いをする母親の役もまた真に迫っていた。ゲイ・バーで歌い、踊る息子は心優しい青年でおだやかで知的だが、母はゲイであることで息子を人間扱いしない。オフ・オフ・ブロードウェイから始まってトニー賞をとったブロードウェイ・ミュージカルの傑作だが、映画はきわめてリアルなつくり方をしていて、世の中の偏見そのもののような彼女の存在が主人公以上に印象的だった。
・もっとも、彼女を初めて見たのはもっと古く、また印象も違う。ヘレン・ケラーを主人公にした『奇跡の人』(1961)で彼女の役は反抗的なヘレン・ケラーにことばを教えるサリヴァン先生だった。その映画は、死後に追悼としてオンエアしたNHKのBSで見たが、40年前の作品だから、当然若かい。しかし、このとき彼女はすでに30歳を過ぎていて、すでに若さを売り物にする女優ではなかった。そういえば、『愛と喝采の日々』(1978)も、ライバルのダンサーだったシャーリー・マクレーンと互いにすさまじい対抗心を燃やしあう中年の女という設定だった。そんなわけで、僕にとってアン・バンクロフトは保守的で利己的な強い中年女というイメージが強かったが、また、けっして嫌いではないという存在だった。時代を象徴する映画で象徴的な役割を演じたという意味で、アン・バンクロフトの残した遺産はまた、かなり大きなものだと思う。
・もっとも『大いなる遺産』は原題をGreat Expectationという。これは直訳すれば「大いなる期待」でけっして遺産ではない。実際、映画は青年の画家としての才能に期待してお金を提供したのがだれかという推理ドラマにもなっている。青年はずっとディンズムア婦人だと思っていたのだが、最後で、それが脱獄囚だったことがわかる。いずれにしても、死後に遺産として残したのではなく、才能が開花することを期待して投資をしたもので、ディケンズの原作も同じ趣旨だとすれば、これは「大いなる誤訳」と言わざるをえない。映画のタイトルにはこの手のものが多いが、古典文学にも結構あるものだと、改めて思った。

2005年6月7日火曜日

ちょっとのんびり

 

今年は週2回の出校だから、1日減っただけなのだが、それでも、家にいる時間は多くなった。完全休暇でないから、どこか中途半端だが、忙しくてできなかった乱読、あるいは落ち着いて大著を熟読、それとも原書に取り組んでみようか、という気にはなっている。
そのためというのではないのだが、ハンモックを買ってバルコニーに吊した。ホームセンターでわずか2980円。いささか頼りない感じがするが、寝心地は悪くない。で、晴れた日の午後は、本とたばこと珈琲をもってゆらゆらすることにした。しかし、やっぱりまだ寒い。20度を越える日は少ないから、1時間もいると体の芯まで冷たくなる。そうすると、やることはやっぱり、薪割りと焚き火、あるいは薫製ということになる。実際、本を読むよりずっと楽しいのである。

連休中に院生たちが、陶芸の体験教室に来た。誘ったわけではないが、来るならと、新入生の武田君の歓迎会、『<実践>ポピュラー文化を学ぶ人のために』の出版パーティもかねて、焚き火でバーベキューをした。薪割りにカヤックなども一通り体験してもらったが、朝起きてみると、一人ハンモックで寝ているのがいてビックリした。寝袋にくるまっていたとはいえ、明け方は4,5度になったから、かなり寒かっただろうと思う。だれかのイビキにうんざりして逃げたのかもしれない。たばこがなくなって、枯れ草を集めて吸った人がいるらしい。曖昧な言い方をするのは、僕はさっさと寝てしまったからだ。で、陶器のできあがりはというと、ご覧の通りである。→(作品)奇妙なもの、不格好なものを探せばすぐわかるはずだ。

家の周りはすっかり緑に模様がえして、蕗の最盛期を迎えた。時折、採ってよそに持って行く。あるいはよそから採りに来る。そうすると、しばらくすると、伽羅蕗になって帰ってくる。「薄味にしてね」などと注文がつけられるのも、豊富にあればこそで、スーパーに行くと、ほんの一握りの束で売っている。そのくらいの量なら、10分もあれば採れてしまう。ミョウガの芽がやっと出はじめたが、これが食べられるようになるのは8月。栗の木も花を咲かせている。もちろん、収穫はずっと先である。もうすぐなのは、桑の実とラズベリ、それに去年植えたブルベリ。サラダのなかに赤や黄、紫の実を入れて食べる。

農鳥は形を変えながら、ほとんど消えた。気にしてみていると、その姿がさまざまにみえてくるから不思議だ。鳳凰、白鳥、カモ、あるいはひよこ、ブーメランにみえる時もあった。今度は秋から冬にかけて、徐々に形を表してくる時期が楽しみだ。形に名を与えて創造する楽しみは、雲にもある。御坂山系からわき出してくる雲、富士山にかかる傘雲。瞬時に姿を変えていくから、一瞬感じられる形がおもしろい。いろいろな動物、人の顔と、ぼんやり見ていて飽きることがない。飽きないといえば、生き物の生の営み。雄は雌の争奪戦に必死だ。
 日時:2005年6月7日

 

2005年5月31日火曜日

北田暁大『「嗤う」日本のナショナリズム』(NHKブックス)

 

warau.jpg・2チャンネルの掲示板はどれも冷笑的で殺伐としている。そんな印象で、めったに見ることもなかったから、『電車男』のような純情物語が誕生したのは驚きだった。膨大なスレッドの大半は読むに耐えるものとはいえないが、匿名のやりとりに、いくつかのスタイルと可能性ができているのだろうか。
・北田暁大の『「嗤う」日本のナショナリズム』は、その『電車男』の話から始まっている。そこでは、2チャンネルが巨大な「内輪的なコミュニケーション」の場であり、そこでやりとりされるのが「嗤い」であることが指摘されている。匿名なのに内輪的で嗤(わら)いが中心だから、当然殺伐としている。しかしまた他方で、参加者たちは素朴な感動物語にも敏感に反応する。その二律背反(アンチノミー」が2ちゃんねるの大きな特徴なのだという。なるほどそうかと思う。
・もっとも、そのような態度はネットにかぎったことではない。テレビのバラエティ番組にも週刊誌にも、その種の二面性は強くあって、さまざまな事件はもちろん、芸能界でもスポーツでも、その手の話題に満ちあふれている。しかも、そんな傾向はますます露骨になってきている。だとしたら、ネットとの違いはどこにあるのだろうか。著者が指摘するのは第一に、その参加度のちがいである。


ストーリーへの感動ではなく、電車男の苦闘に2ちゃんねらーとして立ち会ったことへの感動、感動できる状況を、匿名の内輪の仲間たちと作り出したことに対する自己言及的な感動である。それは「感動は作られる」ことを知悉(ちしつ)しつつ感動してみせる、というどこか皮肉な振る舞いといえる。お仕着せの感動物語を嗤いつつも、感動を求めずにはいられない皮肉な人たちの逃げ場、それが『電車男』だったのではないか……。p.13

・このような態度は、時にマスコミを嗤い、こけにする。しかし、それはまたマスコミによって教えられ、マスコミとともに馴染み、マスコミを支えてきた態度にほかならない。嗤いつつ感動を探す。それをどこのだれか分からない、無数の人たちと共有する。その実感が世界のリアリティや自分を確認する第一の手段になっている。そういうことなのかなー、という感じで理解した。嗤う者と嗤われる者の相似性。というよりは、自分の顔を鏡で見て、時に不細工なと嗤い、また時にナルシスティックにうっとり見とれてしまう。そんな奇妙な一人世界を想像してしまった。
・この本では、そんな最近の若い世代の傾向を「アンチノミー(二律背反)」のほかに、「アイロニー」そして何より「反省」をキーワードに分析を試みている。話の出発点は全共闘運動で取りざたされた「自己否定」と、リンチ殺人で破綻した連合赤軍のメンバーたちが囚われた「総括」の地獄である。そこから、「反省」という態度が70年代、80年代、90年代、そして現在に至るまでに、どのように変容してきたかを軸にして、それぞれに特徴的な時代感覚(精神)を解釈している。
・一つの時代の読み方としておもしろいと思う。若い世代には共感されるかもしれない。しかし、それぞれの時代を経験した者としては、その短絡的で一面的な時代の把握に違和感を持ってしまう。多様な側面を捨象して一点に注目。この本をおもしろくもし、また、つまらなくもしているのは、まさにその点にある。
・学生運動で問われた「自己否定」や「反省」という態度はリンチ殺人や内ゲバに向かうという側面を持ったが、また、それは大学を出てさまざまな問題(公害、環境等々)や地域、あるいは日常生活に目を向けて、そこに自分が生きる場を求める動きにもつながった。それらがもった意味は、とても無視できるようなものではないはずである。
・同様に、「消費社会」が70年代になって突如登場したかのような記述、広告やテレビと、そこでもてはやされた時代の寵児を語れば、それぞれの時代を描写できるかのような論調も気になった。とはいえ、時代をふりかえり、問い直すことは、本来ならば、そこを生きた世代がやらなければいけない仕事である。今から過去を見つめる視点に対して、過去から現在にたどってくる方向を重ね合わせることの必要性……。
・この本で、気になったのはもう一点。それは土井隆義の分析を引用しながら指摘した、若い世代に見られる「人間関係」への無頓着さという傾向である。「自分らしさ」への執着と「親密な関係」の希求が一方にあり、他方にはマスコミが提供する世界への関心があって、その中間の人間や社会に対する関心がない。あるいはそれらに不信感を持ち、それらを嗤い、また避けようとする。それは「引きこもり」「ニート」「オタク」といったケースにかぎらない、もっと一般的な「共通感覚」になっているのだろうか。そういえば、この本にも、「オタク」と「マスコミ」の話があってその中間がない。大事なのは、その欠落している中間、つまり「社会」なのではないか、とつくづく感じた。