2007年6月3日日曜日

ニール・ヤングの懐かしいライブ

 

Neil Young "Massey Hall 1971"
"Live at Fillmore East 1970"

young3.jpg・ニール・ヤングのライブ盤がつづけて発売された。1970年と71年のもので、片方はソロのアコースティック、もうひとつは「クレイジー・ホース」をバックにしている。70〜71年というと3枚目のソロ・アルバム "After the Goldrush" と4枚目の "Harvest" の間の時期に当たる。ニール・ヤングの人気が出はじめたときで、二つのアルバムはかれの初期の代表作になっている。実際、新しく出たライブ版では、おなじみの曲が次々と歌われ、演奏されている。ただしかれの代表作にはソロ活動をする以前のBaffalo Springfieldの時代や、CSN&Yのアルバムで発表したものもすくなくない。 "Massey Hall 1971" では、それらがたった一人で、ギターとピアノで演じられている。1993年にMTVで放送されて、CDでも発売された"Unplugged"よりもずっとシンプルで、懐かしいというよりは、新鮮な気持ちで何度も聴きたくなった。
・ニール・ヤングはずっと聴き続けているミュージシャンの一人だから、それぞれの時代に出されたもののなかには、いくつも印象にのこる歌がある。けれども、このライブ・アルバムを聴いていて、特に気に入っているのが初期の頃のものであることに気づいた。で、そもそもどのアルバムに最初に発表されたのか調べたい気になった。
・"On the Way Home" と "I am a Child" はバッファローの時期で、"Helpless" と "Ohio" はCSN&Yで出したアルバムが最初だ。それまでに出した3枚のソロアルバムでは2枚目からは" Cowgirl in the Sand"など3曲で、3枚目の "After the Goldrush" からは2曲。ソロ・デビュー "Neil Young" からは1曲も選ばれていない。一方で、翌年発売された "Harvest" から4曲が使われている。ちょっと気になって、かれの伝記『ニール・ヤング 傷だらけの栄光』(デヴィッド・ダウニング、Rittor Music)で、当時の様子を読みなおしてみた。
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・「バッファロー・スプリングフィールド」はスティーブン・スティルスが中心のバンドで、1965年に結成されたが、ニール・ヤングとスティルスはたえず衝突して68年に解散している。 "Massey Hall 1971" で歌われている "On th Way Home" と "I am a Child "はこのバンドの3枚目のアルバムに収められているが、アルバムが発売されたのは解散した後のことである。バンドとはいえ、すでにバラバラで、録音も別々にやったようだ。
・ソロのデビュー・アルバムが出るのは翌年の69年で、ソロ活動もするのだが、このアルバムはほとんど話題になっていない。その打開策が自らのバンド「クレイジーホース」の結成で、2枚目のアルバムをたった2週間でつくったようだ。ミュージシャンとして認められ、注目されるために、かなり焦っていた時期なのかもしれない。喧嘩状態のスティルスと一緒に "CSN&Y" をつくったのも、音楽的なことより、もっと売れるためといった気持ちが強かったようだ。
・思惑通り、 "CSN&Y" はスーパー・バンドとして注目され、脚光を浴びるようになる。このメンバーで出演した「ウッドストック」で、その人気と実力は確固としたものになったが、ヤングはバンドやそのファンたちに距離を感じ、疎外感を味わった。たとえば、『傷だらけの栄光』には、次のようなヤングのことばがある。
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 「ぼくがCSN&Yのメンバーだからという理由で、ぼくと接触しようとする人びとというのは、クレイジーホースを通して知り得た人たちと比べると、とにかく変な人種だった。………そんなこんなで、一日が終わると、ぼくはもう完全に混乱状態だったよ。」

・"Live at Fillmore East 1970" は、2種類の音楽と仲間に囲まれて、忙しく過ごした、そんな時期の記録である。それは、"CSN&Y"で鬱積した不満を爆発させる瞬間だったが、彼がそれ以降、現在まで一貫してつづけてきたスタイルを見つけだした時でもある。

・売れれば、当然お金が入る。ヤングはサンタ・クルーズに34万ドルで豪邸を購入する。コンサート活動が忙しくなって、結婚していたスーザンとの間に隙間ができ、気持ちがすれ違うことが多くなっていた。家の購入には、そんな関係を立て直す意図があったようだが、二人はすぐに離婚することになる。
・ニール・ヤングは大男だが病弱で、子どもの頃に小児麻痺を患っているし、ミュージシャンになってからもしばしば、癲癇(てんかん)の発作に襲われている。そういう病気を克服してという一面があるのだが、"After the Goldrush" が大ヒットした直後に、椎間板にひびが入るけがをして、数ヶ月の入院生活を強いられている。しかも、退院した後も、コンサート活動で無理はできない。 "Massey Hall 1971" はそんな時期に、たった一人で座りながら演奏し歌った記録である。そこはトロントで「ぼくはカナダに帰る」という台詞がある "Journey Through The Past" では、客席から大きな拍手が起こった。


 「コンサートは、ぼくひとりの本当に個人的なもので………、聴いている人と一対一で向かい合ってやっているような感じだった」

・ニール・ヤングには二つの音楽と顔がある、といわれる。最近出た二つのアルバムはその二面性をよくあらわしたものだが、それは、ちょうどこの時期に、かれの身体や家庭環境、そしてもちろん、売れることとやりたいことのずれのなかから見つけだされたものだ。そんなことを考えながら聴きくらべると、その間にある距離の意味が感じ取れるような気がしてくる。
・ちなみに、二つのライブ盤で共通して歌われているのは2曲だが、その "Down By The River" の時間は、4分8秒と12分24秒、"Cowgirl In The Sand" は3分45秒と16分9秒である。その時間差がクレイジーホースとの長い間奏にあることはいうまでもない。
・狂気と沈潜。ぼくはやっぱり、後者の方が好きだ。

2007年5月28日月曜日

「場所」と「社会」

 

ジョン・アーリ、『社会を越える社会学』
『場所を消費する』『観光のまなざし』法政大学出版局

・「場所」ということばが気になっていた。じぶんが今どこにいて、何をしているのかといった感覚が不確かになる。電話がつながっているときに、私は今、どこで相手と話をしているのか。ここなのか、あそこなのか。もう20年も前に、電話というメディアについて考えたときに不思議に思った感覚のひとつがそれだった。(『メディアのミクロ社会学』筑摩書房)J.メイロウィッツの『場所感の喪失』(新曜社)はそれをテレビというメディアとの関係で分析していて、おもしろいなと思った。これは翻訳がいまだに半分だけだが、書かれたのは 1985年で、ぼくが不思議さを感じた時期と重なっている。
・同様の不思議さは、それ以降強くなるばかりだ。インターネットをはじめたばかりの頃に感じた奇妙な感覚。テレビのライブ放送が日常化して、世界中どこからでも、さまざまなニュースやイベントが飛び込んでくる。衛星放送が本格化して、ドキュメンタリーや旅行番組で世界中の場所や人びとにふれることも多くなった。あるいは、海外に出るのがジャンボ・ジェットで数時間で数万円。ついでにいえば、ぼくは家と職場の間(100km)を高速道路をつかって往復しているし、京都から東京に1年間、新幹線通勤をした経験もある。居ながらにしてあらゆる「場所」がやってくる。あらゆるところにいる人とつながる。そしてあらゆるところに出かけることができる。そんな時代になったことが、実感として十分すぎるほどにわかる。

place1.jpg ・ジョン・アーリの『社会を越えた社会学』は、社会学がそんな変容を十分にとらえきれていないと指摘している。「社会的なもの」がつくりかえられ、「社会としての社会的なもの」から「移動としての社会的なもの」へと再構成されている。そこを見つめなければ、社会学はその対象を見失うというわけだ。たしかにそのとおりだと思う。
・ただし、社会学はそもそも、近代化した社会を考察する学問としてはじまっているから、移動や変容こそが前提にあった。人びとの田舎から都市への移動と、それによる生活空間の変容、職業や結婚が選択事項となり、ライフスタイルや生き方に個人の主体性が必要になった。アーリは、そのあたりについてさまざまに分析されて積み重ねられてきた社会学の仕事を丁寧に、網羅的に取り上げ、うまく交通整理をしている。
・社会にしても、コミュニティにしても、そして人間関係にしても、それが自明で自然なものであれば、わざわざ自覚的に対処する必要はない。社会はどうあるべきか、人間関係は、と考えたところから近代が始まったとすれば、社会学はそもそも移動と変容をあつかう学問だったはずである。ただし、アーリがいうように、移動そのものに強い関心が向けられてきたわけではない。たとえば、「鉄道」についてはシヴェルブシュの『鉄道旅行の歴史』以外にはめぼしい仕事はないし、「自動車」については本格的なものはほとんどないのが現状だろう。アーリはその移動と場所の社会学のフィールドを「観光」に求めていて、『観光のまなざし』という本も書いている。

place2.jpg ・場所をとらえるための切り口として、アーリは「時間」と「空間」の概念に着目している。たしかに、「場所感」にゆがみを生じさせているのは、時間と空間の間にあった常識的な関係の崩れにあるからだ。移動する時間の短縮は、自動車、高速道路、あるいはジェット機などによって飛躍的に加速化したし、インターネットによって、情報だけなら瞬時で世界中を駆けめぐることも可能になった。誰もが気楽に、物理的な移動やバーチャルな回遊を楽しむようになると、出かける場所もまた、あらたに生みだされることになる。アーリは観光地を、そんな「消費されるためにつくられた場所」としてとらえている。
・社会がある程度固定した場所と、そこでの人間関係をよりどころにして実感できるものだったとすれば、「移動」を常態化する社会のなかでは、人はどのようにして「社会」を確認するのだろうか。スタジアムの観客として、繁華街を遊歩する人混みとして、有名人を取り囲むファンとして、観光地に殺到する旅行者として、あるいはBBSに書き込みをする人として………。そんな束の間の実感は、また一方で排他的で狭窄的なナショナリズムを増殖させたりもする。
・アーリの本はどれも網羅的に文献をあたるといったものだから、話題に沿って別の本に「移動」してまたもどるといった読み方をしたくなってしまう。ひとつの場所に落ち着いて一気に読むというわけには行かない本である。

2007年5月20日日曜日

世界でもっとも貧しい国

 

・NHKがBSの番組に力を入れている。キャッチフレーズは「BSがうごく」である。NHKにはBS放送チャンネルが3つある。今までは定時のニュースや大相撲など、地上波とおなじ番組を流していることがよくあったが、4月からはその数が減少した。その代わりに、独自の番組を増やしたというわけだ。NHKのチャンネル数が多いという批判に応えて独自色を出そうとししたもので、地上波の映りが悪く、地デジも映らないわが家では、BS放送を見る機会がますます多くなった。
・BSハイビジョンで14日に放送した「エリックとエリクソン〜ハイチ・ストリートチルドレンの10年〜」は見応えのあるドキュメントだった。朝家をでて大学に行き、夕方授業を終えて帰宅。ぐったり疲れて居眠りしながら見はじめたのだが、眠気も覚めて1時間半、釘付けになって見てしまった。

・ハイチはカリブ海にある国で、西インド諸島のイスパニヨーラ島の西半分を占めている。東半分はドミニカで、西にはジャマイカやキューバがある。フランスの植民地だったが200年前に独立している。世界で初の黒人による共和国だが、内戦やクーデターのくりかえしで、今なお政情不安がつづいている。失業率は7割を超え、職のない人で溢れた、世界でもっとも貧しい国である。街にはストリート・チルドレンの群れ。ドキュメントはその中の双子の兄弟に視点をあわせて、生活ぶりを追ったものだ。この取材は10年前にもおこなわれていて、その時少年だった二人は、今20代の前半になって、弟には生まれたばかりの赤ちゃんがいる。
・失業率が7割を超え、身寄りのない子どもたちがストリートで暮らしながらも成長できるのは、一部の富裕層がいるためだ。物乞いをし、洗車やその他の小間使いをする。しかし、彼や彼女たちがそんな境遇におかれるのもまた、政治や経済が一握りの富裕層に牛耳られているためである。ハイチはフランスから独立したときに、およそ4兆円の賠償金を要求され、3兆円を分割で払ったそうだ。コーヒー以外には外貨を稼ぐ産物はなく、政情不安を理由に介入したアメリカが、国情をいっそうを不安定にもしてきた。
・「最悪の国に生まれた」とつぶやくエリックは、しかし、夢を捨ててはいない。子どもたちの間でお金や食べ物をめぐる諍いは絶えないが、逆に、相互扶助の精神も育っている。食べ物や着るものを分け合い、現状への不満や絶望の気持ちだけでなく、自分の将来を何とかしようとする気持ちも持ちつづける。そんな兄弟の10年前の暮らしや発言が、10年後の現状とオーバーラップされる。
・二人に相変わらず定職はない。兄は暴漢に襲われて足が不自由になり、心臓近くに弾丸が残る体で、ほとんど仕事はできない状態である。弟は空港近くで車をつかまえては洗車をして、日々の生活費を稼ぎ出している。そんなふうにして稼ぐ彼には、妻と子だけでなく、その母親と義理の兄弟がぶらさがっている。二人を捨てた父親には、別の母親との間に10人以上の子どもがいる。木彫り細工をして生計を立てている父親とは絶交状態の弟は、子どもの洗礼式に父を呼んで「ゴッドファーザー」になってもらった。
・ストリート・チルドレンがいる街の沖合に、豪華な客船がやってきた。乗っているのはマイアミからのカリブ海周遊クルージングを楽しむ白人のアメリカ人たちだ。彼や彼女たちは街から離れたビーチに下船して、日光浴をし、買い物をし、バーベキューを楽しむ。このシーンを街から見ると、街の汚さ以上に、アメリカ人が醜悪に見えてくる。けれども、見ながら容易に想像できるのは、その船に乗っているぼくの姿だ。ぼくがカリブ海に出かけるとしたら、やっぱりクルーズ船に乗るか、空港とホテルと観光地をめぐるだけだろう。

・ハイチの音楽を、ぼくはよく知らない。けれどもとなりの島のジャマイカからは「レゲエ」が生まれ、ダンス音楽として世界中に広まっているし、独特の髪型なども流行した。その音楽のリーダー的な存在だったボブ・マーリーが歌ったのも、貧困と政情不安と白人の支配、それに大国の干渉に対する攻撃だった。と同時にかれは「夢を持て」とくりかえす宣教師でもあった。

見回すかぎり、人びとは
どこでも、ひどい被害を被っている
だけど、俺たちは生き延びる
すべてを手にしたやつと、何も持たない者
夢と希望を持つ者、手段と方法を手に入れる者
事実と主張、誇りと恥、企みと計画、そして、何も目的のない者
いったいどっちを選ぶ?
"Survival "

・見終わって、このドキュメントについてネットで調べると、2004年に制作されて、すでに放送されたことがあるものだった。しかもその年のギャラクシー賞にも選ばれている。テレビ部門の最優秀番組に与えられるものだが、いったい何人の人が見たのだろうか。このドキュメンタリーはNHKではなく独立制作プロダクションの「ドキュメンタリー・ジャパン」がつくっている。ここのサイトを見ると、ぼくがこれまでNHKで見たかなり多くの番組をつくっていたことがわかる。NHKが放映したとはいえ、この種の番組が小さなプロダクションによってつくられていることに、あらためて気づかされた。

2007年5月13日日曜日

迷惑トラックバック

 

・迷惑メールを排除するゲートが強固になって、やってくるメールの数は激減した。けれども、大学のアドレスで家から送信することもできなくなって、プロバイダーから新たにアドレスをもらわなければならなくなった。特に面倒なことはないが、受け取った方はとまどうかもしれない。もちろん、受信はどちらでもいける。けれども、学生のレポート提出については、大学宛にするようにと念を押している。大学のサーバーに一定期間残しておくためである。
・迷惑メールが減ったかわりに、ブログへの迷惑なコメントやトラックバックが増えている。特にトラックバックは、一人(ひとつ)がすべてのコラムにつけていったりするから、数時間のうちに数百や数千にもなってしまう。もちろんおなじ文面で、コラムの内容とはまったく関係がないものがほとんどだ。大学が提供しているブログは"Movable Type"でコメントやトラックバックの受けいれを細かく制御できる設定になっている。すべてを受けいれるとしなければ、迷惑と判断したものは、保留状態におかれるが、一日放っておけば、自動的に削除もしてくれる。だから、実害はないのだが、あまりの溜まりように腹が立って、その場で削除を実行すると、えらい時間ががかって、時にはエラー状態になったりする。だから、つい最近、トラックバックはすべて拒否という設定にしてしまった。
・こうすると、迷惑ではないトラックバックも排除してしまうわけで、閉鎖的な印象を与えかねないが、実際、いままでに来たものを見て、意味のあるものだと判断できたものはほとんどなかった。たとえば、たばこや嫌煙について書いたいくつかのコラムにきたものは、禁煙をビジネスにしているサイトだったし、団塊世代について書いたコラムにきたのも、やっぱり、この世代をターゲットにした商売を営んでいるものだった。だから、トラックバックの必要性が今ひとつわからないのだが、そのあたりについてグーグルしてみると、やっぱり世間でも問題になっているようだった。
・たとえば「Hello World! I am Habitat」という名のブログには、トラックバックを認める基準として、「1. 内容について何らかの言及がある。2. 当該記事へのリンクが貼られている。3. 当該記事で書かれていること以外に何かプラスアルファがある。」の三つがあげてあって、なるほどと納得した。特に3番目はいい。トラックバックをされた側として、じぶんが書いたこと以上のなにかがあったときにはじめてそれを受け入れるという姿勢をしめす。これはだいじな規準だと思った。で、それはもちろん、じぶんがだれかのブログにトラックバックをするときにもだいじな基準になる。


トラックバックを送るには、送信先のブログの読者がそのトラックバックを辿ってこちらの記事を読んだときに、何かしらのプラスアルファがないといけないと思うと、これはなかなか難しいものです。ある記事を読んでこちらが一方的に影響を受けたり、勉強になったというだけでは、ちょっと送るのを躊躇してしまいます。やっぱりそこに書かれていること以外の何かを書くとか、或いは異なる意見を述べるとか、そういうことができればいいんですけどね。それで結局いつも話はここに戻ってくるんですが、トラックバックを送るにしても貰うにしても、それなりの記事を書かないといけないということですね。

・同様のことは、コメントにも感じることが多い。このブログでは、コメントも書きこんだら自動的に公開という設定にはしていない。書き込みがあったらかならずメールでの通知があって、okでもnoでも、いちいち手続きをすることになっている。で、文面を読んで承認ボタンを押してはじめて公開、ということになるのだが、実際、なるほどと思えるようなものは多くはない。
・こんなふうに書くと、ますます敷居が高いサイトだと思われるかもしれない。学生にはずいぶん前から、そう言われてきているのだが、商売をしているわけでもないし、仲良し集めをしているわけでもないから、それはそれでかまわない。第一に、ぼくは、だれかの、どこかのサイトの掲示板やブログに書きこんだことなどほとんどないのだから。

2007年5月6日日曜日

レジ袋は必要です

 

・レジ袋をやめようという声がまた聞こえはじめた。最初に聞いたのは京都に住んでいたときだから、もう10年も前になるのかもしれない。わが家ではレジ袋を家のゴミ籠に入れて使っているから、これがなくなったらわざわざ袋を調達しなければならないわけで、ずいぶん勝手なことを言うなあと憤慨したことを覚えている。京都生協がそのような呼びかけにいち早く呼応して、レジ袋を有料にしたから、ぼくは別のスーパーに行くことにしてしまった。
・わが家の買い物はずいぶん昔から週1回と決めている。だから二人になった今でも、買ったものにはレジ袋が4〜5枚いる。子どもと一緒の頃は、7〜8枚は必要でワゴンの荷台が一杯になるほどだった。かわりに専用の袋をというのは毎日買い物をすることが前提の発想で、遠くのスーパーに車で出かけてまとめ買いする人のことを全然考えていない。こんな呼びかけを何度くりかえしても、普及するはずはないのに、どういう訳かまた、レジ袋を悪者扱いしはじめている。
・レジ袋はスケープゴートにされている。ぼくは確信的にそう思っている。レジ袋が悪いんだったら、商品を小分けしているパックやラップだってやめたらいい。商品にだって過剰包装が多すぎる。袋菓子を買うと飴やチョコレートやビスケットがまた、一つひとつ小袋に入っている。ちょっと気取って高級品ふうに見せるために、どれほど無駄な包装がなされているだろうか。
・ぼくはペットボトルや缶の飲み物は滅多に買わない。まるでゴミを買っているように感じてしまうからだ。河口湖の周辺を歩いていても、車を運転していても、どこでもペットボトルがころがっている。そんな光景にうんざりしているから、とても買う気にはならないのである。それはメーカーがたくさん買わせるために工夫した容器だから、メーカーが責任を持って回収すべきだし、回収費を値段に上乗せすればいいのに、そんなことは誰も言い出さない。
・ゴミが有料化されて、わが家でも黄色の専用の袋に入れて出すことになった。だからだろうか、公共のゴミ捨て場に持ちこまれるゴミが急増しているそうだ。たとえば高速道のサービスエリアはそのゴミの処理に苦慮しているようだし、電化製品などの廃棄処理費用がかかるようになって、大型ゴミの放置も目立つようになった。人里離れた峠道で一服、と思って車を降りると、足下から数メートル下の草むらにテレビや洗濯機の残骸がある。そんな現象がレジ袋ひとつでどうなるわけでもないのに、すぐに「地球に優しい」などという馬鹿なことばをくっつけて奨励したりするから、まったく腹が立ってしまう。
・レジ袋は商品そのものについているわけではないから、なくなってもメーカーや店は困らない。使わないようにすれば、消費者には資源の節約をしているといった気持ちが生まれる。要するに、狙われやすいのだが、これを節約したからといって、資源浪費の実勢になにか歯止めの効果が出るわけではない。レジ袋を悪者にしておけば、パックもラップもペットボトルも安泰というわけで、まさにスケープゴートそのものなのである。
・ゴミを減らすことに本気で対処するというなら、ぼくは異論はない。実際わが家では、さまざまな工夫をしてもいる。たとえば生ゴミは庭に穴を掘って埋めることにしている。天ぷらやフライに使った油は、炒め物をするときに利用しているから、捨てることはほとんどない。天かすなども庭に撒いて肥料にしている。凝固剤を入れてゴミ箱にポイといったCMがあるが、見るたびに何という無駄!と思っている。調理した後のフライパンやナベも洗剤で洗い流したりはしない。肉や野菜を調理した後にはゴミではなく、うまみが残る。だからそれはスープの出汁になる。洗い流すのはもったいない話なのである。食事の終わりには、皿に残った肉汁やソースをパンでこすって食べる。これも捨ててはいけないおいしい部分で、しかも、皿洗いを簡単にしてくれる。だからわが家では台所用の洗剤も必要ない。
・こんなふうに気をつけて生活している上で言うのだが、レジ袋は買い物時はもちろん、その後でもゴミ袋やその他いろいろ利用できて無駄なものではない。無駄や資源の浪費を口にするのなら、ほかに思いあたるものが身の回りにたくさんある。つくる人、売る人、買う人が、どこまで本気でそのことを考えようとしているのか。ぼくはまったく信用していない。

2007年4月30日月曜日

春と生き物

 

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forest59-2.jpg・寒くない冬だったのに、少しも春らしくならない。とはいえ河口湖の桜は例年になく、4月のはじめには咲き始めた。ところが最低気温が零下になったりするから、花はなかなか増えない。で、満開になるまでに2週間近くもかかった。おかげで長いこと花を楽しめたのだが、満開になった桜に目白が何羽もやってきて、小さな花にくちばしをさして蜜を吸っていた。家の中からだが、その瞬間をうまくとらえることができた。
・春先には、ほかにも野鳥がやってくる。もう腐りかけた倒木にアカゲラを見つけた。一生懸命木をつついている。倒木には虫がいて、春の陽気で外に出てきている。それをつつき、ほじりだしている。

forest59-5.jpg・生ゴミを埋めるための穴を掘ったら、蝉の幼虫を掘り出してしまった。たぶん夏になったら出るはずだったのだろう。真っ白かったのに茶色に変わって、少し足がうごいている。もう一度埋めもどしたが、夏までもう一眠りというわけにはいかない。何年もかけて今年の夏を待っていたのに残念でした。ちょっと悪いことをしてしまった。このあたりで一番多いのはヒグラシで、夏の終わりではなく始めから鳴き始める。小さいからたぶんそうなのだろう。

forest59-3.jpg・森の山栗が2年つづけて実をつけなかった。周辺の栗もそうだとすると、この冬は動物にとってはひもじかったはずだ。だからだろうか、家の近くでイノシシや猿を見かけた。猿は集団で来て、家の周辺に半日ほどいた。外に出ても慌てて逃げるわけでもなく、悠然としている。ストーブの薪にする木を積み上げた上にすわってのんびりひなたぼっこ。痩せているわけではないから、食べ物を探しに来たのではないかもしれない。珍しいけど、居着かれたら困ると心配したが、この日以降には見かけていない。

forest59-4.jpg・18日に雪が降って、朝には5cmほど積もった。ベタ雪だからすぐ溶けたが、桜の花に白い雪というのは、はじめて見た光景だった。やっぱり今年の天気はおかしい。おかげで桜の花はいつまでも散らずに、1ヶ月近く楽しんだ。ソメイヨシノ、しだれ桜、八重桜、富士桜、大島桜とその種類も多い。森も日一日と緑を増している。昨日はなかったのに、今日は白樺や唐松が緑がかっている。付近の山も緑色のグラデーションが目立つようになった。これからしばらくは、一日ごとに変わる景色を楽しめる。

2007年4月23日月曜日

 

cale1.jpg・ジョン・ケイルの"Circus Live"は題名通りライブ版で、曲目には「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」の時代から割と最近のものまである。ぼくは彼のベスト盤 "Seducing Down the Door: A Collection 1970-1990"をもっていて、今でも時折聴いているから、なじみの曲が多かったが、ほとんどが新しいアレンジで、新鮮な感じも受けた。付録についているDVDには練習風景が収められていて、バックのミュージシャンは若手ばかりだった。1942年生まれだからもう65歳になる。オフィシャルサイトを見ると、1月から3月までヨーロッパ中を連日コンサートしてまわったようだ。ずいぶん精力的だが、アルバムを聴くと、集大成の仕事をしたようにも思える。それほど目立った人ではないけれども、いい歌がすくなくないし、ほかのミュージシャンとの共作やアレンジにはしゃれたものが多い。

cale3.jpg・ケイルはウェールズ出身でロンドン大学でクラシック音楽を学んでいる。ニューヨークに出かけて、最初はバーンステインやジョン・ケージに認められたのだが、アンディー・ウォホルがプロデュースしたヴェルヴェット・アンダーグラウンドにヴィオラの奏者として参加した。このバンドはルー・リードが中心で、今でも話題になるのは彼とヴォーカルのニコばかりだが、ケイルの存在は小さくなかったはずだ。ケイルはリードと仲違いして2年ほどで脱退しているが、ウォホルを追悼したアルバム"Songs for Drella"では、二人の関係だけでなく、ウォホルとの間もうまくいかずに絶交状態だったことが歌われている。人間的にはうまくいかなくても、音楽的なぶつかり合いなら、1+1が2以上になる。このアルバムには、そんなすばらしさがある。


君はお金を手にし、ぼくは時を得た
君は自由を欲しがったが、ぼくはそれを自分のものにした
君は関係を手にし、ぼくはアートを見つけた
君はぼくの関心を引きつけ、ぼくは君の視線を好んだ 
ぼくはとるべきスタイルを身につけ、君はそれを人びとに受け入れさせた
"The Style It Takes"

cale4.jpg・もっとも、ケイルにはほかのミュージシャンとの共作がたくさんある。自我をあまり出さずに、相手のよさを引きだしながら、自己主張もしっかりする。そんな才能は他のミュージシャンを見回してもあまり見つからない。例外的に思いつくのは、ブライアン・イーノぐらいだろうか。イーノもデヴィッド・バーンやキング・クリムゾンのロバート・フリップなど数多くのミュージシャンとアルバムをつくっているが、ケイルとの共作の"Wrong way up"は、ケイルらしさと歌を歌っていた初期のイーノの感じがうまく一緒になっていて、楽しい仕上がりになっている。多くのミュージシャンがアルバムの制作にふたりの力を借りようとするのもうなずける一枚である。

・"Circus Live"にはケイルを中心にした一枚の絵が挿入されていて、2まいのCDと1枚のDVDのカバーには、その絵の一部を拡大したものが描かれている。描いたのはデイブ・マッキーンで、オフィシャルサイトを訪ねると、その絵がケイルのキャリアを表現したもので、拡大して細部が確認できるようになっている。頼りなげに宙を舞うアンディ・ウォホルはよくわかるが、ルー・リードはどこにいるのかわからない。全体にピカソを思わせる絵で、それらしいものも描かれている。ギターにヴィオラをもったケイル。絵を見ていると、やっぱり集大成としての作品という印象がますます強くなってきた。