2007年6月25日月曜日

学生のブログ


・2年生のゼミでは、毎年、ホームページをHTMLで作成させてきた。今年は大学のサーバーに "Movabletype"がはいったので、とりあえず、HTMLの基本を練習した後で、ブログをつくらせることにした。手順は大学の指定の頁に書いてあって、それに沿ってやればいいのだが、早い学生もいれば遅い人もいて、なかなか次に進めず、公開するまでに何時間もかかってしまった。
・責任はもちろん僕にもある。去年の秋に、現4年生と一緒に、ブログの作成をはじめたのだが、それから半年たって、基本的な手続きを忘れてしまっていた。だから、手順をうっかり一つ飛ばして指示、なんてことがくりかえされた。ブログは既成のサイトを利用すれば簡単にはじめられるが、 "Movabletype"はむずかしい。それでもちろん、ブログの仕組みの一端が理解できたりもするのだが、頻繁にやる設定の変更箇所を除けば、たいがい一度かぎりだから、すぐに忘れてしまう。

・それはともかく、学生に自分のサイトを作らせると、それなりにおもしろがるし、興奮もする。HTMLで適切に指示すると、意図した通りの頁が表示される。背景の色、文字の大きさ、文章の位置、それに画像とやっていくと、はまってしまう学生も何人か出てくる。その様子とつきあって、もう10 年以上続けてきたが、ブログにすると、そこにコメントのやりとりという楽しさが加わって、ホームページ以上に、学生は興味をもったようだ。
・カウンターをつけて訪問者数がわかるようにしたから、それを励みにせっせと更新したり、他の人のブログにコメントを書きこんだりする学生がいて、一度つくったら大半がそのまま、という昨年までの学生のホームページとは、あきらかに違うことがわかった。学生たちにとって、ネットの魅力が表現よりはコミュニケーションにあることが、あらためて確認できた気がした。実は2年生のゼミは、もうひとつ、課題を出して文章を書かせ、それにコメントをつけて書き直しをさせるという作業もやっている。「その文章をブログで発表してもいいんだよ」と言ったのだが、公開しようという学生は出なかった。自信がない、あるいは単に恥ずかしい。理由はいろいろあるだろう。

・もちろん、学生たちは、文章力を身につけたいと思っている。見たこと聞いたこと、感じたこと、考えていることなどを、どうしたら的確に文章に表現することができるか。しかし、そもそも「なぜ」書きたいのか、「何」を書きたいのかという問いかけには、首をかしげて黙ってしまう学生が少なくない。特に主張したい、表現したいことや理由はないけれども、何かを書いてはみたい。そんな欲求は当然、表現よりはコミュニケーションの方に関心を向かわせることになる。だからブログなのか、と思うと、学生たちのやる気も合点がいく。
・たがいにコメントをつけあうと、それが励みになって、また更新する。だけどこういうパターンだと、自己主張の少ない、当たり障りのない話題だけがやりとりされがちになる。もっとも、ゼミで一緒になったばかりの学生たちは、おたがいに自発的に話しあうことがほとんどないから、ゼミ内での関係を促進する役割はあるだろう。

・一方、院生たちもブログをやり始めて、こちらはせっせと勉強の成果などを書くようになった。論文を書き、学会発表をする。本を書いたり、これから書こうと準備している人もいるから、表現活動は、いわば自分の存在証明や自己確認の行為で、僕も前からせっついてきたのだが、やっとやるのがあたりまえという状況になった。中には長文を毎日更新、なんていう学生もいて、しばらく見ないと読むのに一苦労なんてこともある。
・で、コメントは、と見ると、やっぱり仲間同士がほとんどだ。たがいに感想を書きあって、やる気を刺激しあう。そのことはもちろん悪くはない。しかしそれなら、顔をあわせてゼミや勉強会でやっていることと変わらない。直接ではなく、ブログという場では、ちょっと違うやりとりができるのだろうか。
・ブログとは不特定少数に向けた表現やコミュニケーションの呼びかけではなく、特定少数に向けたもの。学生たちのブログを見ていると、そんな特徴を強く感じてしまう。

2007年6月17日日曜日

松本でアイリッシュ音楽を

 

The Chieftains

chieftains1.jpg・チーフタンズはアイルランドを代表するケルト音楽のバンドで、ぼくも何枚かアルバムをもっている。その6年ぶりの来日公演のスケジュールを見つけた。東京や大阪の他、各地で9回のコンサートが予定されていた。東京だけだったら、今回も、行きたいけど、ちょっと面倒、と思ったはずだ。しかし、中に「松本市民芸術館」という日程を見つけて、その気になってしまった。6月9日(土)6時半開演、 6500円で、東京より2000円も安い。
・ロックの有名どころなら、最近では大都市だけでしかやらない。しかし、それほど有名でなく、しかも若い人だけが相手というのでなければ、結構、地方でもやっている。あらためてそんなことに気がついた。たとえばチーフタンズは今回、東京で2回、大阪、福岡、広島で1回の他に、愛知の長久手町、岐阜の可児市、茨城の筑波などでもやっている。客が集まるのか疑問だが、これまでの来日でも、全国の地方都市でやってきているようだから、それなりの目算はあったのだろうと思う。

marumo.jpg・開演は6時半だから、朝家を出て、八ヶ岳や諏訪湖に立ちよって、のんびりドライブしながら夕方松本へ、と考えていた。しかし、朝起きると雨。天気予報は局地的な大雨や落雷に注意と言っている。チケットは当日でも買えたが、念のためにと前日に電話で予約をした。席の様子だとあまり売れていないようだ。行くのも一苦労、となるのではと心配をしたが、高速道路の様子を確認して昼過ぎにでかけた。幸い雨はたいしたことなく、4時前には到着して、傘をさして市内を散策した。この街を歩くのは久しぶりで、ずいぶん変わったと感じたが、学生の頃に入ったことがある民芸喫茶の「まるも」は、たぶんそのときとほとんど同じだった。ここで珈琲を一杯。

morrison3.jpg・チーフタンズの存在を知ったのはヴァン・モリソンの "Irish Heart Beat" を通してである。北アイルランドのベルファスト出身のヴァン・モリソンが1988年に出したアルバムで、トラディショナルにチーフタンズのバックというのが、それまでのアルバムとはずいぶん違う趣で、驚いたが新鮮な感じもしたのを覚えている。ただし、何度も聞きかえしているうちに、それはやっぱりモリソンのアルバムそのものになり、同時に、ケルト特有の楽器や節回しにも馴染むきっかけになった。
・ちなみにアイルランド紛争が沈静化しはじめたのは1997年以降だから、アイルランドのチーフタンズと北出身のモリソンが一緒になって、トラディショナルを歌っているというのは、強いインパクトを与えたのではなかったかと、今さらながらに思ってしまう。

chieftains2.jpg・コンサートにはメンバーが全員そろわなかった。2002年に死んでいる一人は別にして、二人が体調不良で、創設時のメンバーでリーダーのパディ・モローニのほかに、中途参加の2人だけ。その代わりに、補充メンバーと若い二つのバンドがサポートした。アイリッシュダンスを披露したし、日本人の林英哲の和太鼓や元ちとせの歌など盛りだくさんで、決して多くはない会場の観客たちを盛り上げた。
・チーフタンズはよく、アルバムの共演者の豪華さによって評価されることが多い。ライブでもそのことは意識されていて、スティングやローリング・ストーンズ、それにもちろん、ヴァン・モリソンの名前を挙げて、それぞれの曲を演奏し、歌った。盛りだくさんにちょっとうんざりしたけれども、モリソンと共演した "Oh, shenandoah" が聞こえたときには、わざわざ松本まで来た甲斐があったと思った。

chieftains3.jpg・チーフタンズのアルバムで一番好きなのは "Santiago"。タイトルはスペインの北西端にある巡礼の地の名前である。フランスからピレネー山脈を越えてイベリア半島を横断する。このアルバム自体もそういう行程にそって曲目を選んでいる。スペインとアイルランドというとフラメンコとケルトの合体のように連想しがちだが、けっしてそうではない。ケルト人は古くはヨーロッパ中にいて、現在でも、スペインにはケルト系の人たちが住むところがいくつもある。バグパイプに似たガイタという楽器も使われていて、アイリッシュとはひと味違う、変わった雰囲気が出たアルバムになっている。
・たぶん、このアルバムからも1曲演奏したと思う。しかし、残念ながら、サンチアーゴの雰囲気は味わえなかった。やっぱりメンバーや場所が大事。聞きながら、ダブリンで偶然出会ったコンサートでの感激を思いだしてしまった。しかし、東京ではなく松本で聞いたのは正解で、闇夜にうっすら浮かぶ山なみや夜景を見ながら、ipodでもう一回、余韻をじっくり楽しむことができた。

2007年6月10日日曜日

ムササビの災難

 

forest60-1.jpg・今年の春は天気のよい日が多かったが、降ればかならず土砂降りで、しかも強風に雷がともなった。時には台風以上の時もあって、松の大木が大きく左右に揺れ、枝が屋根につぎつぎ落ちる。バキン、ゴトンという音、それにゴーゴーという風やざわざわと騒ぐ葉音には、恐怖感さえ覚えることがあった。
・そんな日が何度かあったが、中でもとりわけすさまじい風が吹いた日の明け方のことである。ぼくはイビキをかいて夢の世界にいたから見ていないのだが、パートナーが屋根でおこったムササビの災難をカメラにしっかり記録した。

forest60-2.jpg・1階の屋根のはじっこにムササビが2匹うずくまっている。後ろの木は枝がしなり葉が裏返っていて、それを見れば、猛烈な強風だったことがわかる。カメラのフラッシュで2匹の目が光っている。風に吹き飛ばされまいとして屋根にしがみついていて、身動きがとれないようだが、今にも落ちそうなところにいる。
・わが家の屋根裏に住みついたムササビはしばらく前に追い出しに成功している。しかも1匹だったはずで、2匹ということは雌を連れて、古巣に避難しようとしてやってきたのだろうか。

forest60-3.jpg・少しからだが小さいようだから、子どものムササビなのか。そうすると、親はいったいどこにいるのか。2匹がピッタリよりそって必死になって上に進もうとしている。風がなければ軽快に屋根を走りまわり、ドンドンと足音を立てるのだが、このときばかりはそういうわけにはいかなかったようだ。
・で、風がやんでうごきだした次の瞬間に、突風が吹いて、飛ばされて落下。滑空できるほどの高さではないから、そのまま真下に落ちたようだった。

forest60-4.jpg・朝、目を覚ますと、パートナーにトイレの窓から外の下を見てごらん、といわれた。なにか茶色い毛の固まりが二つある。呼吸をしているように体が動いているが、うごきだす様子は全くない。「何?」「どうしたの?」と聞くと、ことの顛末を嬉々としてはなしてくれた。
・ムササビは夜行性だから、明るいところではうごきようがない。しかも、地面には滅多に降りないから、じっとしている以外に行動のしようがない。町役場に電話をすると、野生の生き物はケガをしていないかぎりは手を出さないのが原則だという。しかし、頼んで保護をしに来てもらうことになった。やれやれ………。
・やってきた人は、小さな段ボール箱に無造作に2匹を放り込んだ。保護したムササビは子どもで、近くの山に放すという。まだ親と一緒だったはずだから、生き延びることができないかもしれないという。飼いますか?慣れてかわいいですよ、といわれたが、遠慮しとくことにした。
・住んで7年になるが、最近おこる野生の生き物との遭遇は、はじめてのことばかりが多い。周囲の環境の異変、気候の異常なのかと思うと、その変わりようが目に見えているのが何とも恐ろしい。そういえば、今年は田植えの時期になっても農鳥があらわれない。富士山はいまだに雪がたっぷり残っている。農鳥がでない年は凶作。いまだに灯油のストーブをつけたりしているから、気象庁がいうように猛暑になるとはとても思えないのだが………。

2007年6月3日日曜日

ニール・ヤングの懐かしいライブ

 

Neil Young "Massey Hall 1971"
"Live at Fillmore East 1970"

young3.jpg・ニール・ヤングのライブ盤がつづけて発売された。1970年と71年のもので、片方はソロのアコースティック、もうひとつは「クレイジー・ホース」をバックにしている。70〜71年というと3枚目のソロ・アルバム "After the Goldrush" と4枚目の "Harvest" の間の時期に当たる。ニール・ヤングの人気が出はじめたときで、二つのアルバムはかれの初期の代表作になっている。実際、新しく出たライブ版では、おなじみの曲が次々と歌われ、演奏されている。ただしかれの代表作にはソロ活動をする以前のBaffalo Springfieldの時代や、CSN&Yのアルバムで発表したものもすくなくない。 "Massey Hall 1971" では、それらがたった一人で、ギターとピアノで演じられている。1993年にMTVで放送されて、CDでも発売された"Unplugged"よりもずっとシンプルで、懐かしいというよりは、新鮮な気持ちで何度も聴きたくなった。
・ニール・ヤングはずっと聴き続けているミュージシャンの一人だから、それぞれの時代に出されたもののなかには、いくつも印象にのこる歌がある。けれども、このライブ・アルバムを聴いていて、特に気に入っているのが初期の頃のものであることに気づいた。で、そもそもどのアルバムに最初に発表されたのか調べたい気になった。
・"On the Way Home" と "I am a Child" はバッファローの時期で、"Helpless" と "Ohio" はCSN&Yで出したアルバムが最初だ。それまでに出した3枚のソロアルバムでは2枚目からは" Cowgirl in the Sand"など3曲で、3枚目の "After the Goldrush" からは2曲。ソロ・デビュー "Neil Young" からは1曲も選ばれていない。一方で、翌年発売された "Harvest" から4曲が使われている。ちょっと気になって、かれの伝記『ニール・ヤング 傷だらけの栄光』(デヴィッド・ダウニング、Rittor Music)で、当時の様子を読みなおしてみた。
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・「バッファロー・スプリングフィールド」はスティーブン・スティルスが中心のバンドで、1965年に結成されたが、ニール・ヤングとスティルスはたえず衝突して68年に解散している。 "Massey Hall 1971" で歌われている "On th Way Home" と "I am a Child "はこのバンドの3枚目のアルバムに収められているが、アルバムが発売されたのは解散した後のことである。バンドとはいえ、すでにバラバラで、録音も別々にやったようだ。
・ソロのデビュー・アルバムが出るのは翌年の69年で、ソロ活動もするのだが、このアルバムはほとんど話題になっていない。その打開策が自らのバンド「クレイジーホース」の結成で、2枚目のアルバムをたった2週間でつくったようだ。ミュージシャンとして認められ、注目されるために、かなり焦っていた時期なのかもしれない。喧嘩状態のスティルスと一緒に "CSN&Y" をつくったのも、音楽的なことより、もっと売れるためといった気持ちが強かったようだ。
・思惑通り、 "CSN&Y" はスーパー・バンドとして注目され、脚光を浴びるようになる。このメンバーで出演した「ウッドストック」で、その人気と実力は確固としたものになったが、ヤングはバンドやそのファンたちに距離を感じ、疎外感を味わった。たとえば、『傷だらけの栄光』には、次のようなヤングのことばがある。
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 「ぼくがCSN&Yのメンバーだからという理由で、ぼくと接触しようとする人びとというのは、クレイジーホースを通して知り得た人たちと比べると、とにかく変な人種だった。………そんなこんなで、一日が終わると、ぼくはもう完全に混乱状態だったよ。」

・"Live at Fillmore East 1970" は、2種類の音楽と仲間に囲まれて、忙しく過ごした、そんな時期の記録である。それは、"CSN&Y"で鬱積した不満を爆発させる瞬間だったが、彼がそれ以降、現在まで一貫してつづけてきたスタイルを見つけだした時でもある。

・売れれば、当然お金が入る。ヤングはサンタ・クルーズに34万ドルで豪邸を購入する。コンサート活動が忙しくなって、結婚していたスーザンとの間に隙間ができ、気持ちがすれ違うことが多くなっていた。家の購入には、そんな関係を立て直す意図があったようだが、二人はすぐに離婚することになる。
・ニール・ヤングは大男だが病弱で、子どもの頃に小児麻痺を患っているし、ミュージシャンになってからもしばしば、癲癇(てんかん)の発作に襲われている。そういう病気を克服してという一面があるのだが、"After the Goldrush" が大ヒットした直後に、椎間板にひびが入るけがをして、数ヶ月の入院生活を強いられている。しかも、退院した後も、コンサート活動で無理はできない。 "Massey Hall 1971" はそんな時期に、たった一人で座りながら演奏し歌った記録である。そこはトロントで「ぼくはカナダに帰る」という台詞がある "Journey Through The Past" では、客席から大きな拍手が起こった。


 「コンサートは、ぼくひとりの本当に個人的なもので………、聴いている人と一対一で向かい合ってやっているような感じだった」

・ニール・ヤングには二つの音楽と顔がある、といわれる。最近出た二つのアルバムはその二面性をよくあらわしたものだが、それは、ちょうどこの時期に、かれの身体や家庭環境、そしてもちろん、売れることとやりたいことのずれのなかから見つけだされたものだ。そんなことを考えながら聴きくらべると、その間にある距離の意味が感じ取れるような気がしてくる。
・ちなみに、二つのライブ盤で共通して歌われているのは2曲だが、その "Down By The River" の時間は、4分8秒と12分24秒、"Cowgirl In The Sand" は3分45秒と16分9秒である。その時間差がクレイジーホースとの長い間奏にあることはいうまでもない。
・狂気と沈潜。ぼくはやっぱり、後者の方が好きだ。

2007年5月28日月曜日

「場所」と「社会」

 

ジョン・アーリ、『社会を越える社会学』
『場所を消費する』『観光のまなざし』法政大学出版局

・「場所」ということばが気になっていた。じぶんが今どこにいて、何をしているのかといった感覚が不確かになる。電話がつながっているときに、私は今、どこで相手と話をしているのか。ここなのか、あそこなのか。もう20年も前に、電話というメディアについて考えたときに不思議に思った感覚のひとつがそれだった。(『メディアのミクロ社会学』筑摩書房)J.メイロウィッツの『場所感の喪失』(新曜社)はそれをテレビというメディアとの関係で分析していて、おもしろいなと思った。これは翻訳がいまだに半分だけだが、書かれたのは 1985年で、ぼくが不思議さを感じた時期と重なっている。
・同様の不思議さは、それ以降強くなるばかりだ。インターネットをはじめたばかりの頃に感じた奇妙な感覚。テレビのライブ放送が日常化して、世界中どこからでも、さまざまなニュースやイベントが飛び込んでくる。衛星放送が本格化して、ドキュメンタリーや旅行番組で世界中の場所や人びとにふれることも多くなった。あるいは、海外に出るのがジャンボ・ジェットで数時間で数万円。ついでにいえば、ぼくは家と職場の間(100km)を高速道路をつかって往復しているし、京都から東京に1年間、新幹線通勤をした経験もある。居ながらにしてあらゆる「場所」がやってくる。あらゆるところにいる人とつながる。そしてあらゆるところに出かけることができる。そんな時代になったことが、実感として十分すぎるほどにわかる。

place1.jpg ・ジョン・アーリの『社会を越えた社会学』は、社会学がそんな変容を十分にとらえきれていないと指摘している。「社会的なもの」がつくりかえられ、「社会としての社会的なもの」から「移動としての社会的なもの」へと再構成されている。そこを見つめなければ、社会学はその対象を見失うというわけだ。たしかにそのとおりだと思う。
・ただし、社会学はそもそも、近代化した社会を考察する学問としてはじまっているから、移動や変容こそが前提にあった。人びとの田舎から都市への移動と、それによる生活空間の変容、職業や結婚が選択事項となり、ライフスタイルや生き方に個人の主体性が必要になった。アーリは、そのあたりについてさまざまに分析されて積み重ねられてきた社会学の仕事を丁寧に、網羅的に取り上げ、うまく交通整理をしている。
・社会にしても、コミュニティにしても、そして人間関係にしても、それが自明で自然なものであれば、わざわざ自覚的に対処する必要はない。社会はどうあるべきか、人間関係は、と考えたところから近代が始まったとすれば、社会学はそもそも移動と変容をあつかう学問だったはずである。ただし、アーリがいうように、移動そのものに強い関心が向けられてきたわけではない。たとえば、「鉄道」についてはシヴェルブシュの『鉄道旅行の歴史』以外にはめぼしい仕事はないし、「自動車」については本格的なものはほとんどないのが現状だろう。アーリはその移動と場所の社会学のフィールドを「観光」に求めていて、『観光のまなざし』という本も書いている。

place2.jpg ・場所をとらえるための切り口として、アーリは「時間」と「空間」の概念に着目している。たしかに、「場所感」にゆがみを生じさせているのは、時間と空間の間にあった常識的な関係の崩れにあるからだ。移動する時間の短縮は、自動車、高速道路、あるいはジェット機などによって飛躍的に加速化したし、インターネットによって、情報だけなら瞬時で世界中を駆けめぐることも可能になった。誰もが気楽に、物理的な移動やバーチャルな回遊を楽しむようになると、出かける場所もまた、あらたに生みだされることになる。アーリは観光地を、そんな「消費されるためにつくられた場所」としてとらえている。
・社会がある程度固定した場所と、そこでの人間関係をよりどころにして実感できるものだったとすれば、「移動」を常態化する社会のなかでは、人はどのようにして「社会」を確認するのだろうか。スタジアムの観客として、繁華街を遊歩する人混みとして、有名人を取り囲むファンとして、観光地に殺到する旅行者として、あるいはBBSに書き込みをする人として………。そんな束の間の実感は、また一方で排他的で狭窄的なナショナリズムを増殖させたりもする。
・アーリの本はどれも網羅的に文献をあたるといったものだから、話題に沿って別の本に「移動」してまたもどるといった読み方をしたくなってしまう。ひとつの場所に落ち着いて一気に読むというわけには行かない本である。

2007年5月20日日曜日

世界でもっとも貧しい国

 

・NHKがBSの番組に力を入れている。キャッチフレーズは「BSがうごく」である。NHKにはBS放送チャンネルが3つある。今までは定時のニュースや大相撲など、地上波とおなじ番組を流していることがよくあったが、4月からはその数が減少した。その代わりに、独自の番組を増やしたというわけだ。NHKのチャンネル数が多いという批判に応えて独自色を出そうとししたもので、地上波の映りが悪く、地デジも映らないわが家では、BS放送を見る機会がますます多くなった。
・BSハイビジョンで14日に放送した「エリックとエリクソン〜ハイチ・ストリートチルドレンの10年〜」は見応えのあるドキュメントだった。朝家をでて大学に行き、夕方授業を終えて帰宅。ぐったり疲れて居眠りしながら見はじめたのだが、眠気も覚めて1時間半、釘付けになって見てしまった。

・ハイチはカリブ海にある国で、西インド諸島のイスパニヨーラ島の西半分を占めている。東半分はドミニカで、西にはジャマイカやキューバがある。フランスの植民地だったが200年前に独立している。世界で初の黒人による共和国だが、内戦やクーデターのくりかえしで、今なお政情不安がつづいている。失業率は7割を超え、職のない人で溢れた、世界でもっとも貧しい国である。街にはストリート・チルドレンの群れ。ドキュメントはその中の双子の兄弟に視点をあわせて、生活ぶりを追ったものだ。この取材は10年前にもおこなわれていて、その時少年だった二人は、今20代の前半になって、弟には生まれたばかりの赤ちゃんがいる。
・失業率が7割を超え、身寄りのない子どもたちがストリートで暮らしながらも成長できるのは、一部の富裕層がいるためだ。物乞いをし、洗車やその他の小間使いをする。しかし、彼や彼女たちがそんな境遇におかれるのもまた、政治や経済が一握りの富裕層に牛耳られているためである。ハイチはフランスから独立したときに、およそ4兆円の賠償金を要求され、3兆円を分割で払ったそうだ。コーヒー以外には外貨を稼ぐ産物はなく、政情不安を理由に介入したアメリカが、国情をいっそうを不安定にもしてきた。
・「最悪の国に生まれた」とつぶやくエリックは、しかし、夢を捨ててはいない。子どもたちの間でお金や食べ物をめぐる諍いは絶えないが、逆に、相互扶助の精神も育っている。食べ物や着るものを分け合い、現状への不満や絶望の気持ちだけでなく、自分の将来を何とかしようとする気持ちも持ちつづける。そんな兄弟の10年前の暮らしや発言が、10年後の現状とオーバーラップされる。
・二人に相変わらず定職はない。兄は暴漢に襲われて足が不自由になり、心臓近くに弾丸が残る体で、ほとんど仕事はできない状態である。弟は空港近くで車をつかまえては洗車をして、日々の生活費を稼ぎ出している。そんなふうにして稼ぐ彼には、妻と子だけでなく、その母親と義理の兄弟がぶらさがっている。二人を捨てた父親には、別の母親との間に10人以上の子どもがいる。木彫り細工をして生計を立てている父親とは絶交状態の弟は、子どもの洗礼式に父を呼んで「ゴッドファーザー」になってもらった。
・ストリート・チルドレンがいる街の沖合に、豪華な客船がやってきた。乗っているのはマイアミからのカリブ海周遊クルージングを楽しむ白人のアメリカ人たちだ。彼や彼女たちは街から離れたビーチに下船して、日光浴をし、買い物をし、バーベキューを楽しむ。このシーンを街から見ると、街の汚さ以上に、アメリカ人が醜悪に見えてくる。けれども、見ながら容易に想像できるのは、その船に乗っているぼくの姿だ。ぼくがカリブ海に出かけるとしたら、やっぱりクルーズ船に乗るか、空港とホテルと観光地をめぐるだけだろう。

・ハイチの音楽を、ぼくはよく知らない。けれどもとなりの島のジャマイカからは「レゲエ」が生まれ、ダンス音楽として世界中に広まっているし、独特の髪型なども流行した。その音楽のリーダー的な存在だったボブ・マーリーが歌ったのも、貧困と政情不安と白人の支配、それに大国の干渉に対する攻撃だった。と同時にかれは「夢を持て」とくりかえす宣教師でもあった。

見回すかぎり、人びとは
どこでも、ひどい被害を被っている
だけど、俺たちは生き延びる
すべてを手にしたやつと、何も持たない者
夢と希望を持つ者、手段と方法を手に入れる者
事実と主張、誇りと恥、企みと計画、そして、何も目的のない者
いったいどっちを選ぶ?
"Survival "

・見終わって、このドキュメントについてネットで調べると、2004年に制作されて、すでに放送されたことがあるものだった。しかもその年のギャラクシー賞にも選ばれている。テレビ部門の最優秀番組に与えられるものだが、いったい何人の人が見たのだろうか。このドキュメンタリーはNHKではなく独立制作プロダクションの「ドキュメンタリー・ジャパン」がつくっている。ここのサイトを見ると、ぼくがこれまでNHKで見たかなり多くの番組をつくっていたことがわかる。NHKが放映したとはいえ、この種の番組が小さなプロダクションによってつくられていることに、あらためて気づかされた。

2007年5月13日日曜日

迷惑トラックバック

 

・迷惑メールを排除するゲートが強固になって、やってくるメールの数は激減した。けれども、大学のアドレスで家から送信することもできなくなって、プロバイダーから新たにアドレスをもらわなければならなくなった。特に面倒なことはないが、受け取った方はとまどうかもしれない。もちろん、受信はどちらでもいける。けれども、学生のレポート提出については、大学宛にするようにと念を押している。大学のサーバーに一定期間残しておくためである。
・迷惑メールが減ったかわりに、ブログへの迷惑なコメントやトラックバックが増えている。特にトラックバックは、一人(ひとつ)がすべてのコラムにつけていったりするから、数時間のうちに数百や数千にもなってしまう。もちろんおなじ文面で、コラムの内容とはまったく関係がないものがほとんどだ。大学が提供しているブログは"Movable Type"でコメントやトラックバックの受けいれを細かく制御できる設定になっている。すべてを受けいれるとしなければ、迷惑と判断したものは、保留状態におかれるが、一日放っておけば、自動的に削除もしてくれる。だから、実害はないのだが、あまりの溜まりように腹が立って、その場で削除を実行すると、えらい時間ががかって、時にはエラー状態になったりする。だから、つい最近、トラックバックはすべて拒否という設定にしてしまった。
・こうすると、迷惑ではないトラックバックも排除してしまうわけで、閉鎖的な印象を与えかねないが、実際、いままでに来たものを見て、意味のあるものだと判断できたものはほとんどなかった。たとえば、たばこや嫌煙について書いたいくつかのコラムにきたものは、禁煙をビジネスにしているサイトだったし、団塊世代について書いたコラムにきたのも、やっぱり、この世代をターゲットにした商売を営んでいるものだった。だから、トラックバックの必要性が今ひとつわからないのだが、そのあたりについてグーグルしてみると、やっぱり世間でも問題になっているようだった。
・たとえば「Hello World! I am Habitat」という名のブログには、トラックバックを認める基準として、「1. 内容について何らかの言及がある。2. 当該記事へのリンクが貼られている。3. 当該記事で書かれていること以外に何かプラスアルファがある。」の三つがあげてあって、なるほどと納得した。特に3番目はいい。トラックバックをされた側として、じぶんが書いたこと以上のなにかがあったときにはじめてそれを受け入れるという姿勢をしめす。これはだいじな規準だと思った。で、それはもちろん、じぶんがだれかのブログにトラックバックをするときにもだいじな基準になる。


トラックバックを送るには、送信先のブログの読者がそのトラックバックを辿ってこちらの記事を読んだときに、何かしらのプラスアルファがないといけないと思うと、これはなかなか難しいものです。ある記事を読んでこちらが一方的に影響を受けたり、勉強になったというだけでは、ちょっと送るのを躊躇してしまいます。やっぱりそこに書かれていること以外の何かを書くとか、或いは異なる意見を述べるとか、そういうことができればいいんですけどね。それで結局いつも話はここに戻ってくるんですが、トラックバックを送るにしても貰うにしても、それなりの記事を書かないといけないということですね。

・同様のことは、コメントにも感じることが多い。このブログでは、コメントも書きこんだら自動的に公開という設定にはしていない。書き込みがあったらかならずメールでの通知があって、okでもnoでも、いちいち手続きをすることになっている。で、文面を読んで承認ボタンを押してはじめて公開、ということになるのだが、実際、なるほどと思えるようなものは多くはない。
・こんなふうに書くと、ますます敷居が高いサイトだと思われるかもしれない。学生にはずいぶん前から、そう言われてきているのだが、商売をしているわけでもないし、仲良し集めをしているわけでもないから、それはそれでかまわない。第一に、ぼくは、だれかの、どこかのサイトの掲示板やブログに書きこんだことなどほとんどないのだから。