・ジャック・アタリの『21世紀の歴史』(作品社)は、「未来の人類から見た世界」という副題にあるように、今はまだ未来でしかない21世紀の中頃から、過去の歴史をふり返っている。だから、話は人類の誕生からはじまって、4大文明、ギリシャ、ローマ、そして近代化の中で中心となった都市(ロンドン、ニューヨークなど)の話を経て、21世紀の50年代へと進む。主な話題と視点は「市場と資本主義」である。
・壮大な物語だが、独特の切り口と口調で興味深く読んだ。書かれたのが2006年で翻訳されたのは08年の8月だから、サブプライムショックで一気に世界的な大不況が襲った直前だが、まるでそれを予告するような指摘もあって、フランスではずいぶん話題を呼んだらしい。しかし、この本のテーマはそこではなく、不況や社会的な格差、環境破壊を乗り越えて、人類がどうしたら、21世紀を生き抜くことができるかというプランを提案した点である。
・アタリの予測では、21世紀の前半はますます悲惨なものになる。市場の力が国家を超え、国単位では制御できなくなる。近視眼的な見方しかできない市場では、資源や食料、あるいは水や空気を巡る統制のきかない奪い合いが起こり、紛争や破綻の火種が世界中に発生する。で、そのままでは当然、世界は破滅ということになるのだが、そこまで行ってやっと、何とかしようという大きな動きが起こるという筋書きになっている。
・アタリが希望を託すのは、社会的な公正や環境の改善を目的としたビジネスだ。そこには、破滅の前夜まで、富を廻って争いあうほど、人間は愚かではないという信頼がある。そううまくはいかない気もするが、動きは実際に目立ちはじめていて、そんな本も何冊か読んだ。それらはたとえば、「ソーシャル・ビジネス」「社会起業家」と呼ばれ、「ビジネス的な発想で貧しい人々のニーズを満たす」ことを目的にしている。その代表はバングラデシュで貧しい人たちに融資をする銀行(グラマン)を起業したムハマド・ユヌスで、彼は2006年度にノーベル平和賞を受賞している。
・「ソーシャル・ビジネス」はNPOとは違って、企業として利益を上げることを目的にする。その利益は企業や市場の拡大に向けて投資して、貧困や教育、あるいは衛生面の改善を進めることになる。それはもちろん、毎日の食べ物に飢え、路上で物乞いをする人たちを目の当たりにしたところから出発した活動だが、ビジネスとして成功することで、先進国の人たちに新しい発想を気づかせたり、大きな企業との合弁で起業するといった動きも作りだしている。「エヴィアン」で有名なフランスの「ダノン社」と「グラマン銀行」が合弁して作った「グラマン・ダノン社」は、子どもたちの栄養状態の改善を目指してヨーグルトをバングラデシュで生産して安価で売り、採算のとれるビジネスに成功させている。仕事を増やし、子どもたちの栄養状態を改善し、学校へも通える環境を増やし続けているというのである。
・「ソーシャル・ビジネス」は利益を上げるけれども、投資家に配当を払うことはしない。投資家や出資者が得るのは、あくまで善行をしたという満足感と自らのイメージ・アップだ。その意味では、既存の企業にとっては新たな広告料として見なすことができる。たとえば、飛行機や鉄道、そしてCDのメガストアを経営する「ヴァージン」のリチャード・ブランソンは、2007年に2500万ドルの「ヴァージン・アース・チャレンジ」賞を設けて、「毎年、大気中から最低10億トンの二酸化炭素を取り除ける」商業的に実現可能な技術の開発を募りはじめた。それはなにより、彼や「ヴァージン」のイメージ・アップに差しだされた投資だが、現実に開発されれば、温暖化現象を緩和させる大きな一歩にはなるだろう。「大金持ちになった人間としてではなく、世界を良くするために、大きな貢献をした人として、歴史に名を残したい。」こんな発想が21世紀の主流になって、世界の政治や経済、社会や文化、そしてなにより環境や資源を持続可能なものにしていくことができるのか。信じにくいけど大事なこと、だと思いながら読んだ。
・テーマからはずれるが、読みながら気になったことがある。「ソーシャル」が「ビジネス」や「起業」「企業」の頭につくと、なぜ「社会貢献」といった意味になるのかという点だ。そう考えたら、「ソーシャル・キャピタル」が「社会関係資本」と訳されていることを思いだした。で、日本語の「社会」には「貢献」や「関係」という意味が含まれていないことに気づいたのだ。日本語で「社会」に対応し、「貢献」や「関係」を含むのは「世間」である。しかし、「世間」にあるのは、タテ関係に基づく「甘え」の意識であって、「個人主義」に基づく「自立の意識」と、それをささえる「互助の精神」ではない。日本人には馴染みにくい発想だろうなと、つくづく感じた。「貢献」や「関係」をわざわざ補わなければならないほど、日本人は「社会」に無頓着なのだから。