関口義人『ジプシー・ミュージックの真実』『オリエンタル・ジプシー』青土社
内田樹『私家版ユダヤ文化論』文芸新書
・「ロマ」の存在に興味を持ったのは、NHKが放送した「はるかなる音楽の道」がきっかけだった。2002年だったから、もう8年も前のことだ。その番組で教えられたのは、ロマがかつてはジプシーと呼ばれていたこと、もともとはインドにいた民族で、長い時間をかけてヨーロッパにやってきたこと、定住よりは移動を生活の基本にして、音楽や踊りに秀でた特徴を持っていること、ユダヤ人同様に、強い迫害を受け、ナチによって大虐殺をされたが、ユダヤと違ってほとんど問題にされてこなかったことなどだった。
・4年前に旅行したスペインで、そのロマと呼ばれる人たちにはじめて遭遇した。バルセロナのサグラダ・ファミリアの入り口で物乞いにつきまとわれたのだが、同様の経験は有名な観光地で何度か繰りかえされた。不愉快な思いを感じたが、またセビリアではフラメンコの歌と踊りを楽しんだ。嫌われ、無視されてきた存在でありながら、同時に、住み着いた土地を代表する音楽や踊りの形成に大きく関わってきた人たち。そんな不調和な存在であることを、短期間の旅行でも垣間見た思いがした。
・関口義人の2冊の本は、そんなロマの置かれた現状を、ヨーロッパ各国はもちろん、アラブの世界にまで踏み込んでフィールド・ワークをしたレポートだ。「ジプシー・ミュージック」とは言え、そこに固有の音楽があるわけではない。それは個々の土地の音楽と楽器に順応し、歌われ演奏される場や機会も、それぞれの需要や許容のされ方に適応されている。たとえば、トルコのベリーダンスとその伴奏、ルーマニアやブルガリアでの管楽器をつかった楽団、ハンガリーやオーストリアでのバイオリン、そしてスペインでのギターとフラメンコなどである。
・他方で、定住よりは移動を常態とする生活スタイルは、どの国においても頑なに守られている場合が多い。もちろん、それぞれの国の法律や政策で、定住化が進められ、規則化されている例も多い。しかし、彼や彼女たちの多くは、定職を持たず、学校にも行かないから、文盲率も極めて高いままのようである。
・1000年もの長い年月をかけて移動をして、ヨーロッパやアラブ諸国に散在しているにもかかわらず、使うことばや集団規範、そして生活スタイルには多くの共通性がある。そんな特徴がロマと呼ばれる民族を生きながらえさせてきたが、それ故にまた、どこにおいても迫害を受け、その存在を無視されてきた。しかしまた、彼や彼女たちの存在は、音楽を通して表現され、それぞれの土地を代表するものにさえなっている。2冊の本を読むと、そんな奇妙な存在としてのロマが、それぞれの地方における違いや共通性として浮き彫りにされてくる。
・もちろん、ロマといっても、そこにはさまざまな人たちがいて、相互の関係はまたさまざまだ。同じ土地に近接して住んでいても、いつ、どこからやってきたかでお互いの間に格差をつけたりもする。ロマ同士の間に繋がりをつけるといった試みは、つい最近始まったものが多く、必ずしもうまくいっているわけではないようだ。
・同じ流浪の民であり、迫害され続けてきた点でロマはユダヤ人と多くの共通性をもっている。けれども、両者の間にある違いは、またきわめて大きなものである。ロマと同様ユダヤ人もまた、自らの民族性や宗教を守り続け、どこの土地でもコミュニティを作って生き続けてきた。しかし、ロマと違ってユダヤ人は教育に熱心で、文学や哲学はもちろん、自然科学や社会科学の分野でも多くの天才や秀才を生み出している。あるいは、経済的な側面でも有能で、金融業や貴金属の世界に大きな勢力をもってもいる。
・内田樹の『私家版ユダヤ文化論』には、ヨーロッパでユダヤ人が嫌われ、排斥された理由として、彼らが近代化にいち早く適応し、その進展に大きく寄与したことがあげられている。近代化によって、慣れ親しんだ社会の仕組みや生活の仕方を壊した張本人にされたというわけである。であれば、ロマは逆に、自分たちの慣れ親しんだ世界の中に侵入した前近代的な遺物(異物)だということになるのだろうか。さげすまされ、迫害を受け、そのことを歌にして嘆くように歌う。そんな音楽が人びとの心に訴えかけるが、そのことで、異物が異物でなくなるわけではない。また、自分たちもけっして同化を望まない。ロマの音楽を通して感じられる世界はきわめて不思議で複雑で、もっともっと知りたいという気になっている。