2010年4月12日月曜日

メディアの信頼度

・電通総研がしたメディア信頼度についての調査によれば、日本人の72.5%が新聞や雑誌を信頼しているという。この数字だけでは特に気になることではないかもしれない。しかし、同じ調査結果を他国と比較してみると、その違いに驚いてしまう。つまり、メディアの信頼度はアメリカでは 23.4%、ドイツが28.6%、フランスが38.1%で、イギリスではわずかに12.9%しかないからである。この違いを、どう理解したらいいのだろうか。

・日本人のメディアへの信頼度の高さは、たとえば、民主党の支持率が昨年の衆議院選挙前に急上昇して自民党の惨敗を招いたことや、最近の鳩山政権や民主党の支持率の急落をみればあきらかだろう。世論はメディアの思うままに操作されていると言えばそれまでだが、しかし、こんな結果になるのは、そのメディア自体がまた、世論の動向に左右されているからで、そのことが、ことの表層にばかり注目して、本質を見失う結果をもたらしているのである。

・普天間基地をどうするかが鳩山政権の浮沈を大きく左右する課題だと言われている。沖縄が半世紀以上にわたって担ってきた負担をどうしたら軽減できるか。一番の目標はここにあるはずなのに、この点を議論の中心におこうとするメディアはほとんどない。本土にある既存の基地への移転のニュースが流れると、即座に「断固反対!」という声明が出されるが、そこには、沖縄が負ってきた犠牲をどうするかといった発想は見られない。そもそも米軍基地がなぜこれほどの規模で必要なのかといった議論も含めて、一から考え直してみようとする余地がまったく生まれないのはどうしてなのだろうか。

・疑問点はまだまだいくらでもある。佐藤栄作元首相がノーベル平和賞を与えられたのは、「非核三原則」が大きな理由だった。自民党政権はずっと、「非核三原則」の遵守を言い続けてきたのだが、それが嘘であることが明らかになったのである。しかも、残しておくべき機密文書の多くが見つからないのだという。メディアはこのことをなぜ、大きな問題にしようとしないのだろうか。

・本質ではなく表層をおもしろおかしく揶揄し、こき下ろし、嘲笑する。その特徴が顕著なのは週刊誌だろう、、新聞に載る週刊誌の広告には、毎週、民主党政権の駄目さ加減と、今すぐ転覆するかのような見出しが列挙されている。そんな「空気」にうんざりしていたのだが、「週刊朝日」の「「民主党チェンジ、じわり進んでいる」という見出しに「へえー」という思いを感じた。

・半年経ってもできないことではなく、できたことに注目してみる。自民党と変わらないことにではなく、変わったことを評価する。半世紀も続いた政権が代わったからといって、すぐに何でも変わるわけではない。そんな当たり前のことを、当たり前に主張することが、きわめて新鮮に感じられた。

・米軍基地や巨額な借金財政をどうするかといった問題は、その解決の道を、時間をかけて少しずつ模索していくほかはないことである。週刊誌は、そんなことにはお構いなしに、目先の売り上げばかりを考えるし、テレビは視聴率を上げることしか眼中にない。そんなメディアを国民の4人に3人が信頼しているというのは、国民もまた、自分の目先の利害を離れたことには無関心で無責任だということになる。

・メディアを信頼しないというのは、即、不信感をもっているということとは違う。それは、信頼できるかどうかをその都度自分なりに判断する批判的な態度で接触していることを意味している。メディアに対する72.5%という信頼度に見られるのは、何より、個々人が持つべき批判精神の欠如なのだろうと思う。メディアへの信頼度は個々のメディア、その都度の情報や、出来事に対する姿勢に対して、それぞれ判断すべきことなのである。

2010年4月5日月曜日

トニー・ガトリフの映画

・トニー・ガトリフは一貫してロマをテーマにした映画を作ってきた。母親がロマ人という自らの「アイデンティティ」と、迫害を受け続け、無視されてきたロマの歴史と現状を物語にしている。そのうちの何本かをDVDで購入した。

tony1.jpg ・『ガッチョ・ディーロ』は1997年につくられている。題名はロマ語で「愚かなよそ者」という意味で、死んだ父が追い求めたロマの音楽をさがしてルーマニアを旅するフランス人青年の話である。雪道を歩いてたどり着いた村で、ロマの老人に出会い、そこで酒を飲んで、家に泊めてもらうのだが、最初はうさんくさいよそ者として怪しまれながら、少しずつ中に溶けこんでいく。受け入れてもらうために何より必要なのは、ロマのことばを覚えて使うことで、その相手は好奇心旺盛で彼のまわりに集まってくる子どもたちだった。
・老人はバイオリンの名手で、彼が率いる村の楽団はブカレストのレストランや結婚式に呼ばれて演奏をして現金を稼いでいる。そんなふうにして受けいられている反面で、ロマは嫌われ、差別もされている。老人の息子は不当な罪で投獄されていて、老人はそのことを繰りかえし怒り、また悲しむ。その息子は数ヶ月後に出所するが、酒場で投獄の原因になった村人たちに暴力を働いて、逆にロマの集落を焼かれ、殺されてしまう。
・登場人物のうち俳優は主人公の青年を演じるロマン・デュリスだけだ。彼と恋仲になるダンサー(ローナ・ハートナー)はロマの歌手だし、老人はガトリフがたまたま現地で見つけたバイオリン弾きだ。そんな人たちによって展開される物語が、まるで名優たちの演技のようにリアルに伝わってくる。噂話や猥談に花を咲かせる女たちや男たち、そして誰より登場する子どもたちの様子は、まるでドキュメントのように自然だ。

tony2.jpg ・ロマはインド西部から中近東を経てヨーロッパに移動し、各地でその地の音楽に独特の味つけをして発展させた人たちだ。ガトリフが映画のテーマにするのはそんなさまざまな音楽で、『ベンゴ』(2000)はスペインとフラメンコが主題になっているし、最新作の『トランシルバニア』(2006)が描くのはヴァルカン半島のロマと音楽だ。もちろん、音楽はそれぞれに違い、踊りもまた多様だが、映画を続けてみると、そこにはまた変わらないロマの特徴も感じられてくる。ガトリフの作品には千年に及ぶロマの旅を描いた『ラッチョ・ドローム』(1992)があり、ここでは、迫害を受けながらも、各地の音楽や踊りに欠かせない存在となったことが力説されている。けれどもまた、ロマはそれぞれの地でもロマとして独立し、けっして溶けこもうとはしてこなかったのである。

gypsy3.jpg ・もう一本、ジャスミン・デラルの『ジプシー・キャラバン』は、各地のロマが一緒になってアメリカを演奏旅行したドキュメントだ。スペイン、ルーマニア、マケドニア、インドから5つのバンドが参加したツアーはアメリカやカナダで大絶賛を受けるが、出演者たちの間には、共通性よりは互いの違いに対する違和感の方が強く出てしまう。インドの演奏や踊りに顔をしかめ首を振るフラメンコのダンサーなどの様子は、ロマ同士の間にはほとんど何の繋がりもない現状が浮かびあがってきて、興味深かった。
・もちろん、6週間に及ぶ講演旅行の間には、互いの間にある違いをこえた一体感が生まれてくる。ロマの血を引く人たちは、ヨーロッパに 600万から900万人、アメリカにも100万人と言われている。統計には出てこない人や混血をして溶けこんだ人などを加えれば、その数ははるかに多いようだ。そして、その人たちをつなげるルートや組織は、今のところほとんどない。

2010年3月29日月曜日

K's工房の個展案内

 

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・K's工房の個展は、1年おきに京都と東京の国立でやっています。今年は4月6日(火)から11日(日)まで、いつもの中央線国立駅南口にある「ゆりの木」でおこないます。ぜひお出かけください。おもしろいもの、不思議なもの、奇妙なもの、楽しいものなど、多様な作品が展示されます。
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2010年3月22日月曜日

『コミュニケーション・スタディーズ』

 

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・もうすぐ、新しい本が出版されます。タイトルは『コミュニケーション・スタディーズ』で、大学での「コミュニケーション論」のテキストとして作りました。大学の授業は年間30回と決められています。祭日や大学の行事などで休講になることもありますし、試験などもありますが、年間の講義回数にあわせて、28の章と4つの補論で構成してあります。

・大学の授業は自分で勉強するためのヒントを得る場だと言えるでしょう。つまり、勉強はあくまで自主的にやるものなのですが、そう考える学生が少なくなってきたのが現状です。それを改善するためには、予習、復習を義務づけて、理解度を深め、興味や関心にしたがって自発的に勉強するための教材が不可欠で、数年前から、その作成を続けてきました。

・作成には、僕の研究室に集まる若手の研究者たちが参加しています。大学生たちにとって「コミュニケーション」に関わる身近な話題は何か、そこからどのようにして、理論や歴史、そして異なる社会や人間関係への興味を引き出していくか。そんな課題を掲げて2年近くを費やした成果です。もちろん、教科書としてだけではなく、コミュニケーションについて興味がある人にとっても有益で読みやすい内容になっていると思います。詳しくは『コミュニケーション・スタディーズ』をご覧ください。

2010年3月15日月曜日

グラミーを見て買ったCD


Greenday"21st Century Breakdown"
Tracy Chapman"Our Bright Future" "Where You Live"
Eminem"Relapse"
Tom Waits "Glitter and Doom Tour"

・Wowowでグラミー賞の生中継を見た。特に興味があったわけではないが、ディランがノミネートされていたし、U2やスプリングスティーン、そしてトレイシー・チャップマンの名前もあった。結果的には誰も受賞しなかったが、トレイシー・チャップマンとグリーンデイ、そしてエミネムのアルバムを買った。

greenday2.jpg ・グリーンデイの"21st Century Berakdown"はなかなかいい。前作の"American Idiot"でうるさいだけのバンドではないことを発見したが、今度のアルバムもじっくり聴かせる作品に仕上がっている。全体が一つの物語になっていて、一人の人間の日常から21世紀になった世界の現状に対する批判が歌いこまれている。「絶望的だが希望がないわけではない」「敵を知ってるか、君の敵、そう敵を知るべきだ」。歌詞には強いメッセージが散在している。



tracy3.jpg・今の世界の危うさを危惧するのはトレイシー・チャップマンも同じだ。"Our Bright Future"は逆説的なタイトルで、同名の曲では、「それはもう過去のこと」と歌われている。殉教者になった息子を持つ父と、無垢で生まれたけど栄光に憧れて傷ついた息子たちに問いかける、輝く未来が過ぎ去ったところに連れてこられたんだね、と。あるいは「夢のために」という題名の歌では、幸せな大家族と一緒にマントルを囲む様子を描いて、「そんな記憶は信用しない」と歌い、でも「夢のためにはいいんだ」とも歌う。


tracy4.jpg・気づかなかったが、彼女は2005年にもアルバムを出していて、それも一緒に買ってみた。"Where You Live"というタイトルだ。トレイシー・チャップマンの歌は、どのアルバムのどの歌も、ただ聴いているだけなら、ほとんど同じように聞こえてくる。それはそれで悪くはないが、何を歌っているかを確かめなければ、彼女の魅力はわからない。2枚のアルバムを続けて聴いていて、改めてそう感じた。流行や傾向にはまったく無関心だがそのメッセージには、国や人種や世代や宗教を越えて、今を共有しているという手応えがある。


もし今日死ぬことがわかったら
もし今日神と愛に出会うとわかったら
あなたは変わるだろうか
もし、わかっていると思っているすべてのことが
あなたの生活を絶えられないものにするとしたら
あなたは変わるだろうか "Change"

eminem1.jpg ・エミネムの"Relapse"ははじめて買ったアルバムだ。白人のラッパーとして人気があって、自伝的な映画の"8miles"はずいぶん話題にもなった。その8マイルが彼が生まれ育ったデトロイトの街で、白人と黒人の住む場所を隔てる距離だと聞いて映画は見たが、CDは買わなかった。ラップにはどうもなじめないという感想をずっともっていたからだ。そんな気持ちは"Relapse"を聴いても変わらない。数年ぶりのアルバムで、間に引退騒ぎもあったようだ。



tomwaits1.jpg ・もう一枚、グラミーとは関係なかったがトム・ウェイツのライブアルバムを買った。「きらめきと滅びのツアー」というタイトルで、アルバムにはミラノ、パリ、そしてダブリンなどでのコンサートが収録されている。中には35分間のおしゃべもあって、楽しいライブであることはよくわかる。以前のライブ盤で、レストランで食事をしていておばあちゃんの詐欺にあった話をしている部分があった。「私が席を立つときに『バイ・マム』といって欲しい」と言われたのだが、自分がレジに行くと、そのおばあさんの分まで請求されたという話だった。場内は大爆笑で、彼のライブの魅力は、こんな話がはさまれることにある。ぜひ生で聴いてみたいミュージシャンの一人だが、日本では難しいだろうと思う。

2010年3月8日月曜日

木村洋二さんを偲ぶ会


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・昨年の夏に肺癌で急逝された木村洋二さんを偲ぶ会が関西大学で催された。若い頃から親しくしてきた友人で、彼の死は僕にとっては驚きの出来事だった。そのことについてはすでに「友人の死」という題名で書いている。

・大阪に行くのは本当に久しぶりで、関大にはもう10年以上行っていない。だから懐かしい気がしていたのだが、朝からあいにくの雨。「笑い」の木村に似合わない天気で、「どうしちゃったの木村さん」と言いたくなってしまった。
・大学にはよく、正門にいたるまでの通りに、本屋や喫茶店、食堂や麻雀屋が軒を連ねる風景があった。関西では関大が一番気に入った通りだったのだが、日曜日とは言え、それらしい店がほとんどなくなっていて、何とも殺風景に感じた。もっとも、本屋や喫茶店、そして雀荘がなくなったのは、どこの大学でも一緒で、似通った看板のゲームセンターやコンビニが増えている。

・偲ぶ会は献花からはじまった。数百人もの人が集まる盛大な会だったが、涙を流す人は誰もいなかった。反対に、外の天気とは違って、話す人の誰もが一度や二度の笑いをとり、終われば拍手が起こるような雰囲気だった。スクリーンに映しだされた何枚もの写真に写った彼の顔はどれも笑っていて、ビデオからは高らかな笑い声が聞こえてきた。それにつられて、思わず笑ってしまったが、笑い声はあちこちから、ときにはどっとおこった。

・話をされた人たちに共通していたのは、木村さんが俗人ではなかったと言うこと。仙人のような風体はもちろんだが、絶えず何か考え事をしていて、何か思いつくとカードに書き込んでは考えこんでいたこと、誰とでも話をし、興味が湧けば時間も場も忘れて話し込み、議論もしたこと等々、ぼくにも思い当たることが多かった。

・人間や人間関係、そして人がつくる世界の不思議さに、いつでも子どものように夢中になる。いくつになっても、それこそが生きる意味であるかのように振る舞う人だった。偲ぶ会に集まった人たちに共通しているのは、そんな彼のイメージに対する愛着や憧憬、そして呆れの気持ちだったのかもしれない。その意味では彼は社会学者であるよりは哲学者であり、また世界や人間に距離を置く研究者である以上に宗教家であったと言える。もちろん、それは「笑う宗教」だ。

・笑いと拍手の偲ぶ会というのは、いかにも木村さんらしいものだと思ったが、それはまた、関西であればこそ生まれる雰囲気だとも思った。東京では決してこうはいかない。親しい人の死を偲ぶ気持ちは。本当はもっと生きていて欲しかったと思うから生まれてくるものだ。だからまず悲しくなるのだが、しかし、そこには、そう思うことが正しくてもっともらしいのだという暗黙の前提や強制が感じられることも多い。

・不意にいなくなって悲しいのは当たり前だが、それではなく、出会えてよかったと思えること、一緒にいて楽しかったと言えることを話題にする。だから、涙よりは笑い。木村理論を証明するような会だった。
・帰り道は途中から雪に変わる、数日前には初夏のような天気だったのに冬に逆戻り。

2010年3月1日月曜日

ロマとユダヤ

 

関口義人『ジプシー・ミュージックの真実』『オリエンタル・ジプシー』青土社
内田樹『私家版ユダヤ文化論』文芸新書

・「ロマ」の存在に興味を持ったのは、NHKが放送した「はるかなる音楽の道」がきっかけだった。2002年だったから、もう8年も前のことだ。その番組で教えられたのは、ロマがかつてはジプシーと呼ばれていたこと、もともとはインドにいた民族で、長い時間をかけてヨーロッパにやってきたこと、定住よりは移動を生活の基本にして、音楽や踊りに秀でた特徴を持っていること、ユダヤ人同様に、強い迫害を受け、ナチによって大虐殺をされたが、ユダヤと違ってほとんど問題にされてこなかったことなどだった。

・4年前に旅行したスペインで、そのロマと呼ばれる人たちにはじめて遭遇した。バルセロナのサグラダ・ファミリアの入り口で物乞いにつきまとわれたのだが、同様の経験は有名な観光地で何度か繰りかえされた。不愉快な思いを感じたが、またセビリアではフラメンコの歌と踊りを楽しんだ。嫌われ、無視されてきた存在でありながら、同時に、住み着いた土地を代表する音楽や踊りの形成に大きく関わってきた人たち。そんな不調和な存在であることを、短期間の旅行でも垣間見た思いがした。

roma1.jpg・関口義人の2冊の本は、そんなロマの置かれた現状を、ヨーロッパ各国はもちろん、アラブの世界にまで踏み込んでフィールド・ワークをしたレポートだ。「ジプシー・ミュージック」とは言え、そこに固有の音楽があるわけではない。それは個々の土地の音楽と楽器に順応し、歌われ演奏される場や機会も、それぞれの需要や許容のされ方に適応されている。たとえば、トルコのベリーダンスとその伴奏、ルーマニアやブルガリアでの管楽器をつかった楽団、ハンガリーやオーストリアでのバイオリン、そしてスペインでのギターとフラメンコなどである。
・他方で、定住よりは移動を常態とする生活スタイルは、どの国においても頑なに守られている場合が多い。もちろん、それぞれの国の法律や政策で、定住化が進められ、規則化されている例も多い。しかし、彼や彼女たちの多くは、定職を持たず、学校にも行かないから、文盲率も極めて高いままのようである。

roma2.jpg ・1000年もの長い年月をかけて移動をして、ヨーロッパやアラブ諸国に散在しているにもかかわらず、使うことばや集団規範、そして生活スタイルには多くの共通性がある。そんな特徴がロマと呼ばれる民族を生きながらえさせてきたが、それ故にまた、どこにおいても迫害を受け、その存在を無視されてきた。しかしまた、彼や彼女たちの存在は、音楽を通して表現され、それぞれの土地を代表するものにさえなっている。2冊の本を読むと、そんな奇妙な存在としてのロマが、それぞれの地方における違いや共通性として浮き彫りにされてくる。
・もちろん、ロマといっても、そこにはさまざまな人たちがいて、相互の関係はまたさまざまだ。同じ土地に近接して住んでいても、いつ、どこからやってきたかでお互いの間に格差をつけたりもする。ロマ同士の間に繋がりをつけるといった試みは、つい最近始まったものが多く、必ずしもうまくいっているわけではないようだ。

・同じ流浪の民であり、迫害され続けてきた点でロマはユダヤ人と多くの共通性をもっている。けれども、両者の間にある違いは、またきわめて大きなものである。ロマと同様ユダヤ人もまた、自らの民族性や宗教を守り続け、どこの土地でもコミュニティを作って生き続けてきた。しかし、ロマと違ってユダヤ人は教育に熱心で、文学や哲学はもちろん、自然科学や社会科学の分野でも多くの天才や秀才を生み出している。あるいは、経済的な側面でも有能で、金融業や貴金属の世界に大きな勢力をもってもいる。
・内田樹の『私家版ユダヤ文化論』には、ヨーロッパでユダヤ人が嫌われ、排斥された理由として、彼らが近代化にいち早く適応し、その進展に大きく寄与したことがあげられている。近代化によって、慣れ親しんだ社会の仕組みや生活の仕方を壊した張本人にされたというわけである。であれば、ロマは逆に、自分たちの慣れ親しんだ世界の中に侵入した前近代的な遺物(異物)だということになるのだろうか。さげすまされ、迫害を受け、そのことを歌にして嘆くように歌う。そんな音楽が人びとの心に訴えかけるが、そのことで、異物が異物でなくなるわけではない。また、自分たちもけっして同化を望まない。ロマの音楽を通して感じられる世界はきわめて不思議で複雑で、もっともっと知りたいという気になっている。