2010年9月6日月曜日

旅の終わりに

 

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・旅の終わりはシアトルで、最後の日はワシントン・レイクを散歩して、夕食後に夕日を見にリッチモンド・ビーチまで出かけた。シアトルにはボーイングやマイクロソフト、それにアマゾンコムなどの大企業の本社がある。そのせいか湖畔を望む場所に大邸宅が並んでいるし、ヨットや水上飛行機の数がやたらに多い。それに、緑が多い。森の中に街があるという感じで、それはポートランドにも共通した特徴だった。アメリカで一番暮らしたいところというキャッチふれイズに偽りはない気がしたが、どちらの街にもホームレスや物乞いが目立った。貧富の格差がよくわかる街でもあった気がする。

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・シアトルとポートランドで気づいたことがもうひとつ。僕が愛用するスバルがやたらに目立ったことだ。雪が降って坂道の多いポートランドでは、確かに4駆のスバルは有効だろう。そう言えば、宿泊したティンバーライン・ロッジの広報車も新型のアウトバックだった。少なくともこの二つの街では、スバル車はトヨタやホンダに負けていない。アウトバックのモデルチェンジがアメリカ好みになったのも頷ける気がした。ちなみに、僕の車は旅行中三週間以上、成田空港近くの駐車場に置かれたままになっていて、24万キロ越えのご老体だからバッテリー上がりでもしているのではと心配したが、キイを入れると元気よく動き出した。

 


forest86-3.jpg・それにしても日本の夏は暑い、暑すぎる。そのことは飛行機から降りた瞬間に実感した。まるでサウナ風呂に入ったような感覚で、さわやかなシアトルの風が懐かしくなった。もっとも首都高速の大渋滞を我慢して河口湖に帰ったら22度で、ほっと一息。ただし、閉め切った家の中はカビの大繁殖で、掃除に数日間追われることになった。雑草も伸び放題で、庭の通り道がなくなってしまっているほどだった。薪を運ぶ進入路もごらんの通りで、今さらながらに植物の生命力にびっくりしてしまった。

forest86-4.jpg・インターネット環境の変化は海外旅行するたびに驚くことの一つである。5年前にイギリスとアイルランドに行った時には、ホテルでお金を払って接続したし、アイルランドではネットカフェを探すのに苦労するほどだった。それが翌年のスペイン旅行では、場所によってはワイヤレスで繋がるホテルもあってびっくりした。さらにその2年後のフランス旅行では、パリのホテルでロビーに行けばワイヤレスで繋がるのが当たり前になった。

 

forest86-5.jpg・で、今回のカナダ・アメリカ旅行ではWifiである。成田は限定的だったがサンフランシスコもシアトルもバンクーバーも、空港ではどこにいても繋がったし、それは鉄道の駅や図書館などの公共の場でも多かった。スタバは当然だが、カフェやレストランでも同様のサービスをしていたから、毎日ブログを更新したいパートナーにとっては大歓迎だった。もちろん、滞在した友人の多くもワイヤレスでどこでもネットが使えるようになっていたから、家にいるときよりも便利に使えた。

・何よりありがたかったのはスマートフォン(ブラックベリー)が使えたことだった。ケータイでは海外で使える手続きをして高額な使用料を払わなければならないが、Wifiが利用できればネットに接続することができる。このサービスがiPhoneをはじめとしたスマートフォンの爆発的な普及にあることは明らかだ。僕は日本ではほとんど街中に行かないし電車にも乗らないが、接続料のいらないWIFI環境は、どの程度に普及しているのだろうか。
・ともあれ、家に戻って、いまだにISDNで接続している我が家のネットの遅さに戸惑ってしまっている。ケーブルTVと契約して、ワイヤレスで家のどこでもつなげられるようにしようかと思い始めているが、パートナーがその気でないから実現できるかどうか。

2010年8月30日月曜日

スタッズ・ターケル『自伝』原書房

 

terkel1.jpg・スタッズ・ターケルはインタビューを得意にしたジャーナリストだった。ごく普通の人から普通でない話を聞き出す名人だが、ぼくは彼の著書の一部を、もう20 年以上前に訳したことがある。100人を越える人びとへのインタビューによって一冊の本を作るというスタイルで、彼は何冊もの本を書き、ピューリッツー賞も取ったが、2008年に亡くなった。その彼が2007年に出したのがこの自伝である。日本では2010年の3月に翻訳された。

・ターケルは「口述の歴史家」と言われる。しかし、彼はみずからを歴史家などとは規定しない。確かに、彼が出した本は、大恐慌や第二次大戦をテーマにしているが、それは多くの人へのインタビューを通して、歴史を研究するためではなく、一人一人の人との心の交流を大事にするからだ。要するに「わたしは人の話を聞くのが好きなのだ。それに、話を聞きながら自分もしゃべれる。」

・『自伝』にもまさにそんなふうにして、彼の歴史というよりは、折々の出来事と、そこで出会った人たちの話が語られている。ニューヨークで生まれたが9歳でシカゴに引っ越した後、彼の生きる場はずっとシカゴだった。シカゴ大学のロースクールを出た後弁護士にはならず、芝居の役者やラジオのDJ、あるいは番組のシナリオライターなどをやり、取材の時に培ったインタビューの術が生かされて、本を書くようになった。

・その本のテーマは、シカゴを題材にした『ディビジョン通り』、大恐慌をふり返った『つらい時代』、第二次大戦を語った『よい戦争』、公民権運動と『人種問題』、そして、レーガン大統領以降に現実化した『アメリカの分裂』、あるいは人びとが日々感じた『仕事!』の中での喜びと屈辱や『アメリカン・ドリーム』、そして『死について!』と続いた。どの本も、その分厚さが目立つ大著だが、それはまさに、おしゃべり好きのターケルならではという、話の連続になっている。

・『自伝』もまた400ページを越える大著だが、その中身の多くは大恐慌から第二次大戦後の赤狩りの時代に割かれている。この本に登場する出来事とそれにまつわる人びとは、彼にとって語るに値する人間たちである。その理由をターケルは次のように書いている。

わたしの人生観を変えた経験は‥‥‥政治的な面だけでなく、あらゆる面で‥‥‥大恐慌だ。わたしはその場にいて、そのこんなんな時代がまともなひとたちにどんな打撃をあたえたかを目の当たりにした。そして人生観を変えた大発見とは、人は特殊な状況に置かれたときどうふるまったかが問題で、どんなレッテルを貼られたかは問題ではない、ということだった。誰かを「共産主義者」「赤」「ファシスト」と呼ぶのはたやすい。しかし人として真価を問われるのは、ある瞬間にどんな行動を取ったかということなのだ。(242頁)

terkel2.jpg・どんなめにあってもへこたれない、どんなにつらい、厳しい状況におかれても諦めない。ターケルの本からは一貫して、こんなメッセージが読み取れる。そのことを前面に出してテーマにしたのが『希望』だ。原題は「希望は最後に死ぬ、むずかし時代に信念を持ちつづけること」である。
・その中に登場するフォーク・シンガーのピート・シーガーのことは、『自伝』の中でも何度も語られている。大恐慌の時代と労働運動、赤狩りの時代への抵抗、そして黒人差別に反対した公民権を求めた活動‥‥‥。そのピート・シーガーは90歳を過ぎた今でも健在で、オバマ大統領の就任式では元気に『我が祖国』を歌った。2008年の10月に死んだターケルは、オバマ候補の出現をどんな風に感じていたのだろうか。そのことを彼の言葉として聞くことはできないが、シカゴを地盤にしたアメリカ初の黒人大統領の実現は、彼にとって希望を託す存在になったのは間違いない。

2010年8月23日月曜日

ポートランド、Mt.フッド

 

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photo56-2.jpg・ポートランドは森に囲まれ、大きな川が流れるきれいな街だ。ここを訪れるのは2回目で五年ぶりのことになる。滞在した友人宅は小高い丘の上にあって、街を眼下に見下ろせるが、家の周りは大きな木がいっぱい生えていて、森の中に住んでいるようである。近くにある動物園も、もともとの森をいかして、うまく作られている。だから一通り見て回るのに、たっぷりと3時間歩いた。平日だったが親子連れで賑わっていて、子ども達が興味深そうに動物を見ていたのが印象的だった。
・けれども、街中にはホームレスや物乞いが目立って、景気の悪さも感じさせた。老若男女、さまざまな人たちが、金をくれとせがんでくる。

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・ポートランドの東にMt.フッドがある。富士山に似た火山で先が尖ったきれいな形をしていたが、出かけてみると、その様子はまるで違っていた。火口の半分は南側で崩れ落ちていて、万年雪が多く残る斜面には、夏でも滑れるスキー場があった。宿泊したTimberline Lodgeはジャック・ニコルソン主演の「シャイニング」の舞台になったところだ。木製の重厚な山小屋で、スキー客で賑わっていた。早朝散歩に出て、スキー場まで400mほどあがって日の出を見たが、すでに滑っている人がいた。

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2010年8月16日月曜日

久しぶりのサンフランシスコ

 

journal4-130-1.jpg・サンフランシスコは18年ぶりだ。ただし今回は、友人を訪ねてオークランドに滞在した。アラメダにあるボートハウスで、当たり前だが船上だからいつでも揺れている。大きな船が通ると揺れは激しくなるから船酔いを心配したが、何とか大丈夫だった。家の窓からはヨットやカヌー、それにカヤックなどが見える。なんと言っても夜景がすばらしい。おもしろいところだと思ったが、こんな環境を家にするのは落ち着かないのではという気にもなった。

journal4-130-2.jpg・サンフランシスコの AT&Tパークでジャイアンツの試合を見た。相手はシカゴ・カブスで福留が出ていた。ジャイアンツは久しぶりのプレイオフ進出の可能性があって、ウィークデイのデイゲームなのに球場は満員で、ものすごい熱気だった。老若男女が入り交じって、思い思いに楽しく応援をする。そんな雰囲気を久しぶりに満喫した。ゲームも最高の展開で、海に落ちる名物のホームランに満塁ホームラン、七対七のシーソーゲームで九回裏にジャイアンツがサヨナラ勝ちという絵に描いたような結果だった。

journal4-130-3.jpg・試合開始の前に球場の外で偶然見かけた福留は二本のヒットを打ったが、敵地だから「ファック・ドゥ・ミー」と野次られていた。今年は、日本人選手の成績がそろって悪い。川上はローテーションから外されたし、松井稼頭央は解雇の後でロッキーズのマイナー暮らし。上原と斉藤、それに松坂はケガがちだし、黒田は勝ち星から見放されている。何と言っても心配なのは、期待されて移籍した松井秀喜の不調だろう。イチローだけが今年も何とか200安打に届きそうだが、マリナーズは例によって早々脱落した。

journal4-130-4.jpg・サンフランシスコで同性同士の入籍が認められたというニュースをテレビで見た。街を歩いてもたしかによく見かけるが、どういうわけか、これ見よがしに仲良さそうに振る舞っているのは男同士ばかりだ。しかし、知人や知人の知人といった人たちの中に同性のカップルがいるから、かなりの割合であるのは確かだろう。球場にも砂浜にも子連れの家族がたくさんいた。テレビでは裁判所前で「家族を守れ」と書いたプラカードを掲げて抗議する人たちを映していたが、いろんな人がいて、それが目に見える形で共存している。サンフランシスコの街には、まだそんなリベラルな雰囲気が感じられた。

journal4-130-5.jpg・けれどもまた、ホームレスや物乞いをする人の数が多いのも気になった。モントリオールではあまり見かけなかったから、アメリカとカナダの経済状態の違いをあらわしているのかもしれない。成田でカナダとアメリカのドルに両替したときに、カナダドルの方が高くてびっくりした。1ドルが80円台などというのはバブルの頃以来のレートだろう。テレビのコマーシャルも、安い、お得の連呼といったものばかりで、しばらく見ているとうんざりして腹立たしくなるほどだ。

journal4-130-6.jpg・土日にゴールデンゲート公園でコンサートがあると聞いたので出かけてみた。バートや市電で乗り継いでいくと、若い人ばかりで、これはちょっと違うかなと思ったが、とりあえず会場まで行ってみた。しかし、登場するミュージシャンで知っていたのはザ・ストロークスとエイモス・リーぐらいだったから、聴くのはやめにして、公園を散策し、街を歩き、インド料理を食べて帰った。二日通し券が150ドルと安くはないのに、大勢の若者たちが詰めかけてきていた。持つ者と持たざる者。ロックは明らかに持つ者だけが聴ける音楽になったような気がした。

2010年8月8日日曜日

モントリオール便り

・夏休みを利用してカナダとアメリカを旅行中です。主として古い友人たちを訪ねる旅で、今はモントリオールにいます。成田を出てモントリオールに着くまで、途中でトロントで乗り換えて13時間、いつものことながら、エコノミーではくたびれて遠いなーと思いましたが、着いてしまえば、昼夜が完全に逆の世界ですから、遠くまで来たなーとも思いました。

journal5-93.jpg・モントリオールの夏は快適です、日差しは強いですが風は涼しく、朝晩は寒いほどで、日本の猛暑とはまるで違う気候です。こちらに来てまず気づいたのは、自転車に乗っている人が多いことでした。市内各地に貸し自転車(パブリック・バイク・システム)があって、市内に 300カ所設置されたどこの駐輪場でも借りられるし、どこにでも返すことができます。料金は一日5ドル、時間でも区切られていて、30分以内に返せば無料になるようです。自転車にはICがついていて、全車の状況がチェックされているということでした。
・もちろん、自前の自転車を使う人も多いです。朝早く散歩をすると、ジョギングをする人、サイクリングをする人、そして自転車で通勤する人をたくさん見かけます。道路には専用レーンも数多く設けられていて、街中の移動を自転車ですることに、市も市民も歓迎していることがよくわかります。

・滞在している友人たちももちろん、自転車を使っています。そのほかに自動車も使いますが、個人ではなく共同で利用していて、使いたいときに借りに行くのです。都市で生活する人にとって自動車は、必ずしもいつでも必要なものではありませんから、極めて合理的な仕組みだと思いました。

・友人宅は大きな公園に面しています。週末には大勢の人が出かけてきて、フリスビーをやったり、キャッチボールをしたり。中にはバーベキュー・パーティをしているグループもたくさんいました。その公園の周りをジョギングする人、自転車に乗る人など、思い思いに楽しんでいる様子を見て、どこか日本と違う感じがしました。

・その理由を考えていて気づいたのは、公共の場の使い方、公共性という観念の持ち方の違いです。ゴミを持ち帰る、お互いの距離感を気にかける、必要があれば挨拶をし、声をかけあって場を共有する。当たり前のルールですが、しっかり浸透していることがよくわかりました。河口湖では、バーベキューをしたら、食べ残しばかりか道具まで捨てて帰るといった光景をよく見かけます。釣り人がのこした針があちこちに散らかっていたりもしますから、いつも不愉快になることが多かったのですが、改めて、日本人の公共心のなさがよくわかりました。

・モントリオールは移民の多い街です。ケベック州ですからフランス語が第一公用語で、カナダの他の街とは違いますが、街を歩くと、リトルイタリー、チャイナタウンのほかに、ユダヤ人街、ポルトガル人街があって、ベトナム、インド、パキスタン、アフガニスタン、トルコなど、さまざまな国の人が混在して暮らしていることがよくわかります。異質な人たちがトラブルを起こさずに生活していくためにはどうしたらいいか。そんな意識が公共性を育むのかもしれません。

2010年8月2日月曜日

森の生き物たち

 

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・畑に作物ができはじめると、猿やイノシシがそれを狙ってやってくるようになる。だからどの畑にも、荒らされないための工夫が施されている。それでも、森に近いところの畑は荒らされてしまうようだ。と言って、森や山に食べ物がないわけではない。僕の家のまわりにも、桑の実や野いちごがなって、それをヨーグルトに入れて食べたりもしてきている。今年も桑の実がなって、少し食べたのだが、食べ頃の時に猿がやってきた。畑の野菜も含めて、どこに何があるかをよく知っているのである。

・仕事に出かけるために朝家を出て車のところに行くと、突然木の上から猿が数匹飛び降りてきて、山の方に走っていた。突然のことで驚いたが、見上げると、まだ数匹猿が桑の木にいて、慌てて車に乗り込むと、大柄な一匹が、こちらを睨み、逆毛立てて威嚇をしてきた。睨み返したのが悪かったのか、あるいはもう一匹、木の上に残った小猿に目をやったせいなのか、突然車に向かって飛びかかってきて、運転席の窓に体当たりをした。

・車のエンジンをかけて、もう一度その猿を睨みつけると、また威嚇をして体当たりをしてきた。おそらく小猿を守ることに懸命なのだと思って、そのまま走り出したが、猿たちはその後も桑の木に登って実を食べて帰ったようだ。猿が家にやってきたのははじめてではないし、道を歩いていて遭遇することも何度かあった。だから、このときの猿の行動にはびっくりしたのだが、不意に近距離に接近したら危ないということを改めて思い知らされた。そう言えば、熊に襲われたニュースに共通しているのは、やはり、接近しすぎた場合であるようだ。

・時折、鳥が家の窓にぶつかって、死んでしまったり、気を失ったりして落ちていることがある。週に一度の買い物をして帰ったときに、カラスが1羽うずくまっているのを見つけた。死んでいるのかと目を凝らすと、少し動いているようだった。その時はそのままにしておいたのだが、しばらくして庭に出ると、そのカラスが別の場所に移動をして、やっぱりじっとうずくまっていた。で、しばらく観察していたのだが、家にぶつかって羽でも傷つけたのか飛べないようだった。カラスは少しずつ歩いて、庭の木によじ登ろうと試みては、下に落ちたりしていたが、そのうちに庭の外に出て見えなくなった。数日後に、そのあたりの草刈りをしたが、黒い羽が散乱していたから、死んで何かに食べられてしまったのかもしれない。

・その他にも、この季節には珍しく、何度かネズミが家の中を徘徊した。イギリスで買ったギロチン式のネズミ取りを仕掛けたが、いまだに捕まってはいない。家のまわりをうろつく黒猫がいて、見かけると追い払うことにしている。ネズミよけにもならないのだから、居着いてもらうわけにはいかないのだ。近所の別荘の住人が猫を連れてきて、それが我が家の庭やバルコニーを徘徊してもいる。飼い猫は追い払っても慣れたもので、悠々としているから余計に邪魔くさく感じてしまう。

・ところで以前にも書いたが、近所に引っ越してきたブリーダーの家からは、相変わらず犬の鳴き声がやかましく聞こえてくる。それに風向きによってはひどい悪臭も漂ってくる。外にまったく出さないから犬の姿は見たことがないのだが、その存在にはひどく悩まされている。ブリーダーが起こす問題は時折ニュースにもなるが、事件にならなければ取り締まる法律はほとんどないのが日本の現状で、ペットについては全くの後進国であることを痛感させられている。

・家の中に閉じ込められたままの犬たちは、猿が来ても吠えるわけではない。吠えるのは、おそらく飼い主が、運動不足を解消させるために何かをやらせているからだ。そんな幽閉された様子を想像するとと、野生の猿の威厳に満ちた行動がいっそう際立って思い出されてくる。

2010年7月26日月曜日

思い出袋

 

鶴見俊輔『思い出袋』

turumi1.jpg・鶴見俊輔は1922年生まれだから、今年は米寿の歳になる。彼の文章を最初に読んだのは大学生の時だったから、もう40年のつきあいだが、まだまだ書き続けているから驚きというほかはない。

・『想い出袋』には題名の通り、過去をふり返って書いた短文がいくつも収められている。話の多くは、すでに読んだことがあるものが多い。中には何度も書かれたものもある。それに気づいて飛ばそうかと思ったが、どれもまた、読んでしまった。しかも、何度も繰りかえし読み返したページや一文がいくつもあった。それはたとえば、次のような文だ。


私は、自分の内部の不良少年に絶えず水をやって、枯死しないようにしている。

鶴見俊輔は日本人の良心だ、とぼくは思ってきた。些細なことから大きなことまで、どうするか、どう考えるかと迷ったときに、灯台のように行く先を照らしてくれる人の一人だった。そう信じたのは、彼が正論や世の趨勢に従うことの危うさを、自分の感覚や無意識にまで問いかけて、指摘しつづけてきたからだ。

・「不随意筋の動きまで意識した上での哲学」。ぼくが何かについて考えるときに、よく思い出して反芻することばだ。枠をつくれば、そこからはみ出すもの、はみ出されるもの、あふれ出てしまうものが必ずある。きれいに、正しくと考えれば、はみ出すものは除外される。しかし、それは優等生のする発想で、そこからは自分の実感は排除される。しかし………


小学校から中学校へと、自分の先生が唯一の正しい答えをもつと信じて、先生の心の中にある唯一の正しい答えを念写する方法に習熟する人は、優等生として絶えざる転向の常習犯となり、自分がそうあることを不思議と思わない。

・だから優等生ではなく、不良である自分の方を大事にする。けれども正しさを強制されがちな時代のなかで、この気持ちを持ち続けるのは簡単なことではない。そのことは、彼が子どもの頃や戦時中に経験した話の中に散見される。で、それが彼の生き方の流儀になってきた。

・ぼくは戦後生まれだから、民主主義が新鮮だった時に子ども時代を過ごした。少年時代のヒーローはジェームズ・ディーンやプレスリーと言った不良だったし、大学生の頃には30歳以上の大人は信用するなといったことばが真実味をもって実感された。そんな不良的な発想が枯死しないように、ぼくもいつも水をやってきた気がする、けれども最近は、そんな発想が通じにくい世の中になってきたことをつくづく感じている。僕は還暦を過ぎたところだから、米寿はまだまだはるか先の話だ。もちろん、そこまで生きられるかどうかもわからないが、内部の不良少年にずっと水をやり続けることができるのだろうかと思う。

・「自分のこれまで読んできた本のうち、今、心にのこっているものをあげる」。「オール・タイム・ベスト」。鶴見はそれを片岡義男から教わったと言って、ベスト5、10、そして20と考えてあげている。水木しげるの『河童の三平』が最初にあがっているのが、いかにも彼らしい。僕ならいったい何をあげるだろうか。鶴見俊輔を何冊もあげそうだし、彼の本で知った人も少なくない。たとえばG.オーウェル、H.D.ソローなどだ。

・そんなことを考えているうちに実際に、何冊かの本を読み直してみたくなった。自分の内部の不良少年を枯死させないために‥‥‥。