・断定を避けて、曖昧にする。意見の当否を相手に委ねる。話し相手の同意を求める。会話の中にこんな言い回しが目立つようになったのは、もちろん、最近のことではない。ただし、その言い方にも流行があって、いつの間にか誰もが使うようになったと思っているうちに、誰もが使わなくなったといったことばが少なくない。たとえば、「語尾あげ」「〜じゃないですか」「〜でありません?」「とか」「みたいな」といったもので、最近では「かな」が気になるようになっていた。
・もちろん、こういった表現は、日本語ではけっして新しいものではない。特に関西弁には「〜とちゃいまっか」とか「〜でもよろしいし」と言い方があって、判断を相手に委ねて意味の強さを弱めるのだが、京都などでは、それはやっぱり、かなり強いメッセージがあって、否定や反対をしたら気まずくなると言われている。もう40年も前の話だが、京都に行ったばかりの僕は、この種の表現にうまく対応できずに戸惑った記憶がある。
・それに比べると、語尾あげから「〜かな」に至る最近の流行には、そんな婉曲的な言い回しというよりは、発言に対する自信のなさや、他人がどう受けとるかに対する不安の気持ちが強いように思う。話の内容から、はっきり断定すべきことなのに、最後に「〜かな、と思います」と言われたりすると、「はっきりしろよ」とか「自信ないんだな」と突っ込みを入れたくなる。けれども、「かな」は必ずしも自覚的に使われているわけではないから、突っ込まれても、その返答に窮したりもする。第一に、そんな突っ込みをする奴は確実に、kyだと思われてしまいかねないのである。
・僕はゼミでの学生とのやりとりに際して、語尾上げが流行しはじめたときから、こういった婉曲的な言い回しに対して、その都度「なぜ、そう言ったの?」と問いかけるようにしてきた。学生たちは、ずいぶん意地悪な教師だと思ったはずだ。言いたいことは一つなのに、最後に「とか」をつけるから、「他に何があるの?」と聞くと、何もないと言う。「だったら『とか』はいらないよね」と言うと、「口癖」とか「みんなが使うから」とか「他にも何かあるかもしれないから」などと理由を考えたりもする。
・大震災が起きて以降でも、テレビを見ていて「かな」が気になることが少なくない。被災した人が途方に暮れて「〜かな」と使うのには、当然、余りにも突然でめちゃくちゃになってしまった現実に対して、思考が及ばないとか、迷っていて決断できないと言った気持ちがこめられている。あるいは、原発事故関連の記者会見での発言にも、はっきりわからない部分があることをふまえた予測や原因の究明などといった点で、「かな」や「とか」が使われることがある。けれども、そうではない、はっきりとした意思表示や批判のことばの中に「かな」や「とか」が出てくることがたびたびあって、その都度、テレビを見ていて、そうではないだろうと言いたくなった。
・「コミュニケーション能力」ということばがよく使われるようになって、その重要性がさまざまなところで説かれている。そして、その意味を確かめると、自己主張や議論ではなく、相手とうまく関係しあうためにどうするかという、協調性に力点が置かれていることに気づかされる。だから、婉曲的な言い回しになるし、やたらに丁寧なことばづかいが目立ったりもする。確かに、よくわからない相手と、それなりにいい関係を作り、コミュニケーションを円滑にする必要性は、現在の社会では、身につけなければいけない能力の一つだろう。ただし、いつでも、どこでも、誰に対しても、そういうやり方でというのでは、それはコミュニケーション能力の一面しか身についていないということになる。
・はっきりしたいときには、もっと強く言ってもいいし、それを受けとめる姿勢も必要だ。未曾有の震災をきっかけにして、こんな関係を求める気持ちが生まれるのかどうか。「かな」や「とか」、そして「みたいな」といった言い回しがどうなるかは、大げさに言えば、3.11をきっかけにして日本人がどう変わるかを見定めるバロメーターになるのではないか、といったことを感じる今日この頃である。