2011年5月9日月曜日

反原発の歌

 

"No Nukes"
忌野清志郎「ラブ・ミー・テンダー」「サマー・タイム・ブルース」
斉藤和義 「ずっとウソだった」

nonukes.jpg・何かことが起こると、それを批判する歌が生まれる。歌にはもともと、そんなメッセージを伝える働きがあり、人びとの心や考えを凝縮させ、エネルギーを生み出す力があった。そんな一面はフォークやロック音楽が商業主義化された後も、一つの伝統として守り続けられてきた。少なくとも欧米ではそうだった。
・たとえば、スリーマイル島の原発事故があった1979年には、事故があった3月から半年後の9月にニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで「ノー・ニュークス」という名の反核コンサートが5日間開催された。当時人気のあったブルース・スプリングスティーンやジャクソン・ブラウン、ジェームズ・テイラー、カーリー・サイモン、トム・ペティ、ライ・クーダーといったミュージシャンが大挙して出演し、その様子は2枚のCDになって残されている。VHS版として発売された実況録画をネットでも見ることができる。→"No Nukes"

・フォークやロックの音楽がJポップと呼ばれる日本の音楽の基本になっていることはいうまでもない。ところが、日本人のミュージシャンには、さまざまな出来事に際してメッセージを発するといった姿勢が希薄だという特徴があって、その政治意識の少なさは、ポピュラー音楽におけるガラパゴス化を象徴するものだと言えた。
・とは言え、メッセージを歌にして表現するミュージシャンがまったくいなかったわけではない。たとえば忌野清志郎は、折に触れてさまざまな主張を歌にして、その都度話題になってきた。原発に反対する歌も作っていて、プレスリーの「ラブ・ミー・テンダー」やエディー・コクランの「サマー・タイム・ブルース」の替え歌が有名である。


何言ってんだー、ふざけんじゃねー
核などいらねー
何言ってんだー、よせよ
だませやしねぇ
何言ってんだー、やめときな
いくら理屈をこねても
ほんの少し考えりゃ俺にもわかるさ 「ラブ・ミー・テンダー」

熱い炎が先っちょまで出てる
東海地震もそこまで来てる
だけどもまだまだ増えていく
原子力発電所が建っていく
さっぱりわかんねえ、誰のため?
狭い日本のサマータイム・ブルース「サマー・タイム・ブルース」


・清志郎はすでに3年前に癌で死んでいるから、これらの歌はもちろん、福島原発事故についてのものではない。作ったのはソ連のチェルノブイリで起きた原発事故だが、そこから日本の原発に目を向けて歌ったところが、いかにも彼らしい。しかし、どちらの歌も、彼が所属していた東芝EMIからは発売を拒否されている。言うまでもないが、EMIの親会社の東芝は、日本と言うよりは世界を代表する原発製造メーカーである。

・とんでもないことが起きているのに、そのことを歌にするミュージシャンはいないのだろうか、と思っていたら、斉藤和義が自分の代表曲である「ずっと好きだった」を替え歌にして「ずっとウソだった」を発表していることを耳にした。


この国を歩けば原発が54基
教科書もCMも言ってたよ安全です
俺たちを騙して言い訳は「想定外」
懐かしいあの空くすぐったい黒い雨
ずっとウソだったんだぜ 「ずっとウソだった」

・果たして、彼に続いてメッセージを発信するミュージシャンは出てくるのだろうか。さらには "No Nukes"のようなコンサートがおこなわれる可能性はあるのだろうか。清志郎が生きていれば呼びかけ人になったかもしれない。だとすれば、彼と同世代のミュージシャンには、何か行動する責任があるはずだ。

P.S.マグロで有名な青森県の大間に新しい原発が作られている。その建設の中止を求めたロック・フェスティバルが5月21-22日、現地の未買収地にある「あさこはうす」で開かれる。今年で4回目になるそうだ。世界で一番小さなロックフェスを、世界で一番大きなロックフェスへ。 「大MAGROCK vol.4」

2011年5月2日月曜日

地震と原発

 

石橋克彦の『大地動乱の時代』(岩波新書)
小出裕章『隠される原子力・核の真実』(創史社)
広瀬隆『東京に原発を』(JICC出版局)
古長谷稔『放射能で首都圏消滅』(三五館)

nonukes2.jpg・地震と原発のことが気になって、何冊か本を読んだ。石橋克彦の『大地動乱の時代』(岩波新書)は1994年に書かれている。日本列島には繰りかえし巨大地震に見舞われてきた歴史があり、そこにはかなり規則的な周期がある。この本が注目しているのは、その中でも、いつ起きてもおかしくない首都圏直下型と東海、東南海、そして南海地震である。首都圏直下の大地震は1923年に起きた「関東大震災」で、その後、90年の時が経っている。しかし、この地震は70年程度の周期で規則的に起きていて、この本は、ちょうど70年にあたる時点で書かれたものである。また、東海地震は幕末の「安政地震」が最後だが、これは「宝永地震」との間に150年の間隔があり、これもまた、ほぼ規則的に起きてきた。だから、東海地震もまた、いつ起きても不思議ではない時期になっているのである。20世紀の後半は異例に大地震の少ない時期であり、その間に発達した都市や原発などの施設は、現実には、大地震に耐えるようにはできていないのである。(→「原発震災」)

nonukes4.jpg・小出裕章は京都大学原子炉実験所の助教で、一貫して「原子力をやめることに役立つ研究」をおこなってきた。大震災と原発事故以来、テレビはもちろん、新聞にもほとんど登場しないが、ネットでは、YoutubeやUstreamなどによって、原発行政や電力会社に対する強い批判はもちろん、事故に対する対応のまずさや情報隠しを指摘し、原発事故がもたらす最悪のシナリオとその回避策について語っている。僕はその真摯な態度と発言の的確さに納得して、この本を読んだ。地震列島に原発を50以上も作ってきた国や電力会社が、その危険性よりは経済性を表に出し、地震や津波に対処する想定基準を下げ、原発で起こった事故を隠し、使用済みの核燃料を再処理できずに蓄積させ、さらには、プルトニウムを使う高速増殖炉が失敗続きであることや、ウランにプルトニウムを混ぜて既存の原発の燃料にするプルサーマルの危険性に蓋をしてきたことなどが、わかりやすく書かれている。彼は僕と同い年だが、現在の職に就いてから40年近く助手(助教)のままである。(→「隠される原子力」)

nonukes3.jpg・広瀬隆もまた、原発事故以来注目されている人だが、彼が30年前に出した『東京に原発を』(JICC出版局)は、人口の少ない過疎の地に原発を作り、大都市に電気を供給することの理不尽さ、エネルギー効率の悪さなどを辛らつに批判したもので、出版当時は大きな話題になったものである。豊かで便利な都会暮らしを可能にしたいのなら、原発で発電することが避けられないのなら、それは大都市に作るべきである。東京に作るとしたら、どんなものにしたらいいのか。この本には、そのためのデザインが詳細に書かれている。そこで基本にしているのは、巨大なものではなく、小さな原発をいくつも作ること、電気だけではなく、大量に生まれる熱水を利用すること、遠くから運ぶことで生まれる電力ロスを少なくすることなど、きわめて合理的な考え方である。しかし、この本が逆に非現実的でブラック・ユーモア的な提案として受けとられたのは、原発が事故を起こしたときの被害の甚大さがわかっていたからである。

nonukes1.jpg・しかし、東京から遠く離れたところに作られている原発でも、いったん大事故が発生すれば、壊滅的な被害を及ぼす危険性がある。古長谷稔の『放射能で首都圏消滅』(三五館)は中部電力の浜岡原発が地震や津波に襲われたときに、その被害がどの程度の範囲でどんな大きさでもたらされるかをシミュレーションしたものである。浜岡原発は静岡県の御前崎の西にある。50kmほどのところに70万人を越える静岡や浜松といった都市があり、名古屋圏は100km、首都圏は200kmのなかに入ってしまう。浜岡原発は『大地動乱の時代』がもっとも危険だと警鐘を鳴らした東海地震の震源に近いところにある。浜岡原発は東海地震の危険性が指摘される前に作られた、けれども、地震の危険性が指摘された後も、新しい原発が作られ、現在廃炉となる1,2号機の代替として6号機の建設が発表されている。(→「心からの叫び!」

・国と電力会社とマス・メディアが一体になって作りあげてきた原発の安全神話が崩壊したにもかかわらず、福島原発の事故がもたらす被害や人体への影響については、相変わらず、原発を推進してきた経済産業省の中にある、原子力安全委員会が基準を出し続けている。首相が内閣官房参与に登用した放射線安全学の研究者が、安全基準の甘さを批判して辞任をした。基準を厳しくすれば、福島県内の小中学生は、より少ない被爆で済む場所に疎開をさせなければならない。そうしたときに起こる混乱を防ぐための安全基準の甘い設定だとすれば、まさに場当たり的だといわざるを得ない。ここに取りあげた人たちが原子力安全委員会のメンバーになるようでなければ、本気で議論して、現状や将来について考えた提案や基準などは出るはずもないのである。


2011年4月25日月曜日

原発事故で見えてきたこと

・光ケーブルでインターネットを使うようになって、利用のし方がずいぶん違ってきた。動画を見たり、ラジオを聞いたりすることが増えたのだが、東日本大震災と福島原発の事故の後は、特に顕著で、それによって、新聞やテレビの報道のあり方と、国や企業との関係があからさまになった気がする。

・その第一は、東電が新聞やテレビにとって大口、というよりは最大の広告スポンサーであったということだ。電力は日本を10に地域割りした上で、10の電力会社によって独占的に供給されている。だから巨額の広告費を使う必要はないはずだが、原発が安全で安価で環境に優しいものであることを繰りかえし徹底して説得しつづけてきたのである。こういった教化は小中学校の授業でもおこなわれたようで、原発の推進はまさに、国策に基づくものであったのである。

・だから当然、チェルノブイリ事故に匹敵する事態になっても、原発事故の報道に、行政や電力会社に対する根本的で強い批判は起こらない。反原発のデモが数万人の規模でおこなわれても、大きく扱うところがほとんどない。深刻なデータや現状の分析が、海外のメディアによって報道されてはじめて、政府や東電によって追認されたりもした。首相の支持率については頻繁に世論調査をしても、原発の是非について世論を調べることには新聞もテレビも消極的だったが、東京新聞が都民を対象にした調査では、電力不足を危惧して6割の人が原発の存在を肯定したという結果を記事にした。巨額の広告費を使った効果の大きさ、強さを改めて知らされた思いがした。

・対照的にYoutubeやUstreamでは、原発に対してずっと批判的な立場で研究をしてきた人や、原発の設計者たちが登場して、今回の事故の重大さや危険を訴える番組が次々と流された。聞いていてぞっとすることも少なくなかったが、「直ちに健康に被害を与えるレベルではない」といった曖昧なことばの方が、かえって不安を募らせること、最悪の事態はこうだと知らされことで、現実を見つめる姿勢や考え方をはっきり自覚する必要性を迫られた気がした。

・原発なんて、本当は今でも必要ない。既存の火力発電所をフル稼働すれば、電力は十分足りるし、将来的には太陽光や風力を使った発電に変えれば、十分供給できる体制は可能だ。こんな発言は、今でも、多くの日本人には納得しがたいものと思われている。けれども、欧米ではすでに、原発よりは自然エネルギーを使った発電の方がコストが安くなるほど普及しているし、その割合は急速に増えているようだ。太陽光発電の技術では先端にある日本で、それが普及しない理由は、国が本気で政策として進めてこなかったこと、電力の供給が発電と送電ともに電力会社によって独占されてきたことにある。つまり、電力を生産しても、それを送り届けるのに、電力会社の送電線を使わなければならないから、自由にならないのである。

・送電を発電と切り離して別会社にする。こういう必要性を耳にして気づくのは、NTTが独占してきた電話回線に民間企業が参入する際の難しさ、BSやCS放送、そして地デジ化を巡る既得権の行使と共通した、日本の行政のあり方だ。国が許認可権を持ち、既存の企業を優先して、新規に参加しようとする企業や、起業する人たちに道を開かないから、新しい試みがさっぱり育たない。そこをしっかり認識して、大きな政策転換を図ることこそが、大震災と原発事故から得る教訓の一つであることは間違いないと思うのだが、マスコミにはそういう世論を育てようなどという姿勢はほとんど見られない。

・P.S. ネットで知った「菜の花パレードはまおか」に参加するために、静岡まで出かけた。参加者は800人ほどで、浜岡原発から50kmしか離れていない街ののんきさに違和感を持たされた。ずいぶん久しぶりにデモをして歩いた。その様子はもちろん、メディアに取りあげられることはない。取材に来ていたのは静岡第一テレビだけだが、Ustreamでは、その様子が最初から最後まで流されている。

2011年4月18日月曜日

こんな時でも「かなかな」虫が聞こえる

・断定を避けて、曖昧にする。意見の当否を相手に委ねる。話し相手の同意を求める。会話の中にこんな言い回しが目立つようになったのは、もちろん、最近のことではない。ただし、その言い方にも流行があって、いつの間にか誰もが使うようになったと思っているうちに、誰もが使わなくなったといったことばが少なくない。たとえば、「語尾あげ」「〜じゃないですか」「〜でありません?」「とか」「みたいな」といったもので、最近では「かな」が気になるようになっていた。

・もちろん、こういった表現は、日本語ではけっして新しいものではない。特に関西弁には「〜とちゃいまっか」とか「〜でもよろしいし」と言い方があって、判断を相手に委ねて意味の強さを弱めるのだが、京都などでは、それはやっぱり、かなり強いメッセージがあって、否定や反対をしたら気まずくなると言われている。もう40年も前の話だが、京都に行ったばかりの僕は、この種の表現にうまく対応できずに戸惑った記憶がある。

・それに比べると、語尾あげから「〜かな」に至る最近の流行には、そんな婉曲的な言い回しというよりは、発言に対する自信のなさや、他人がどう受けとるかに対する不安の気持ちが強いように思う。話の内容から、はっきり断定すべきことなのに、最後に「〜かな、と思います」と言われたりすると、「はっきりしろよ」とか「自信ないんだな」と突っ込みを入れたくなる。けれども、「かな」は必ずしも自覚的に使われているわけではないから、突っ込まれても、その返答に窮したりもする。第一に、そんな突っ込みをする奴は確実に、kyだと思われてしまいかねないのである。

・僕はゼミでの学生とのやりとりに際して、語尾上げが流行しはじめたときから、こういった婉曲的な言い回しに対して、その都度「なぜ、そう言ったの?」と問いかけるようにしてきた。学生たちは、ずいぶん意地悪な教師だと思ったはずだ。言いたいことは一つなのに、最後に「とか」をつけるから、「他に何があるの?」と聞くと、何もないと言う。「だったら『とか』はいらないよね」と言うと、「口癖」とか「みんなが使うから」とか「他にも何かあるかもしれないから」などと理由を考えたりもする。

・大震災が起きて以降でも、テレビを見ていて「かな」が気になることが少なくない。被災した人が途方に暮れて「〜かな」と使うのには、当然、余りにも突然でめちゃくちゃになってしまった現実に対して、思考が及ばないとか、迷っていて決断できないと言った気持ちがこめられている。あるいは、原発事故関連の記者会見での発言にも、はっきりわからない部分があることをふまえた予測や原因の究明などといった点で、「かな」や「とか」が使われることがある。けれども、そうではない、はっきりとした意思表示や批判のことばの中に「かな」や「とか」が出てくることがたびたびあって、その都度、テレビを見ていて、そうではないだろうと言いたくなった。

・「コミュニケーション能力」ということばがよく使われるようになって、その重要性がさまざまなところで説かれている。そして、その意味を確かめると、自己主張や議論ではなく、相手とうまく関係しあうためにどうするかという、協調性に力点が置かれていることに気づかされる。だから、婉曲的な言い回しになるし、やたらに丁寧なことばづかいが目立ったりもする。確かに、よくわからない相手と、それなりにいい関係を作り、コミュニケーションを円滑にする必要性は、現在の社会では、身につけなければいけない能力の一つだろう。ただし、いつでも、どこでも、誰に対しても、そういうやり方でというのでは、それはコミュニケーション能力の一面しか身についていないということになる。

・はっきりしたいときには、もっと強く言ってもいいし、それを受けとめる姿勢も必要だ。未曾有の震災をきっかけにして、こんな関係を求める気持ちが生まれるのかどうか。「かな」や「とか」、そして「みたいな」といった言い回しがどうなるかは、大げさに言えば、3.11をきっかけにして日本人がどう変わるかを見定めるバロメーターになるのではないか、といったことを感じる今日この頃である。

2011年4月11日月曜日

春の兆し

 

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forest91-2.jpg・今年の冬はいつになく寒かった。しかも大震災のあとも寒い日が続いたから、余計に寒々とした気持ちになった。去年は大学の卒業式には桜が満開だったのに、今年はまだつぼみが堅かった。もっとも震災の影響で、卒業式自体も中止されたのだった。その後、大学の入学式も中止され、新学期以降のスケジュールや計画停電に対する対応などで、3月末から忙殺された。
・その間に、パートナーは京都でやる個展の準備をし、一人で出かけた。個展は夷川通りのidギャラリーで1日から3日までおこなわれ、大勢の人がやってきて、今回のメインテーマだったスナフキンがほとんど売れるほどの盛況だった。僕も2日と3日には会場にいて、久しぶりに友人や知人と会うことができた。


forest91-3.jpg・一昨年の夏に急逝した木村洋二さんのお墓に行きたいと思っていたが、パートナーのKさんと娘さんが個展に来てくださった。で、お墓のことを尋ねると、家の大岩の下に埋めたという。翌日、彼女はいなかったがお宅を訪ねて、大岩に花を供えた。何度も来たところだが、こんな大きな岩があるとは気がつかなかった。湯谷岳を見上げると、今にも木村さんが笑い声を上げながら、駆け下りてくる気がした。
・家は昔のままだったが、大きな書庫を作り、庭にも石や煉瓦の道ができていたから、あれこれ工夫して、作りかえる途中だったのだと思う。そのやりかけといった様子が、また今にも、木村さんが出てきそうな気にさせた。


forest91-4.jpg・京都から戻ると、我が家の庭にも春が訪れていた。蕗の薹がいくつか顔を出し、片栗の花がつぼみをつけて、今にも開きそうな気配で、しかも、今年もまた少し、数が増えたようだった。大学に出かけ、いくつもの会議をこなし、また家に戻ってくる。来冬用の薪のために昨秋原木を4立米買ったが、もう4立米注文し、トラックで運んでもらった。隣の土地の木を伐採したので、今度はトラックも入りやすくなった。チェーンソーで玉切りにし、斧で割って、日干しにする。そんな作業がまた始まる。原木の値段が上がって、手に入りにくくなったようだ。石油の値上がりも大幅だから、暖房費への出費もバカにならない額になってきた。

2011年4月4日月曜日

災害と情報

 

・大きな災害が起こるたびに、マスメディアのニュースの伝え方から個人の情報のやりとりにいたるまで、改めて、さまざまなことに気づかされる。とりわけネットやケータイの進歩と普及はめざましいから、家族や友人、あるいは仕事仲間などとの連絡には、日常ならば多様なメディアが自由に使えるのだが、3月11日の大震災の時には、役に立つものと立たないものの違いがはっきりした。

・たとえば僕は、勤務先で会議をしていて大揺れを経験し、すぐにパートナーにスマートフォンで電話を試みたが、すでに音信不通の状態だった。そこで、メールを出したのが、送ることはできたが返事があるまでには、かなりの時間がかかった。他にも数人とやりとりをして、早く連絡の取れた人もいれば、何時間もかかって返答があった人もいたから、近くの中継基地の混み具合などが影響したのだと思う。

・我が家では出かけるときには家庭電話をケータイに転送するサービスを使っている。だら、富士山の近くを震源にした地震があったときには、夜中にもかかわらず、何人もの人から電話やメールがあったのだが、その時僕は、日本の南西の外れにある西表島にいた。心配して電話やメールをした人は、安心と同時に拍子抜けしたことだろう。通信手段のモバイル化が地理的感覚を無効にしてしまうことを、このときほど実感したことはこれまでになかった。

・大災害が起こると、テレビ局は競って、その生々しい現場の中継に血眼になる。阪神大震災の時に強く批判されたことだったが、3月11日の東日本大震災でも、同じことが繰りかえされた。大津波が襲って、家や車や人を飲み込んでいく様子は余りに恐ろしくて、何度か見ると、もう拒絶感の方が強くなってしまうほどだったが、数日は、いつどのチャンネルをつけても、すぐにそのシーンが映しだされていた。これは映画ではなく現実だと思うと、とても見ていられない気がして、すぐに別のチャンネルに変えたり、消したりもした。

・テレビはどこも、数日間は一日中震災関連の番組で、それはBS放送でも放送された。BSには各局とも3つのチャンネルがある。普段はその一つしか使っていないのだが、地上波を流すチャンネルをいつでも流すようにすれば、地デジなどはいらないのに、と今まで繰りかえし言ってきたことを、またつぶやきたくなった。いつも聞いているインターFMが緊急時の特別の処置として、全国どこでもネットで聞けるようになった。普段は、電波が届く関東エリアに限ってネットでも聞けるのだが、山梨県の我が家では、電波が奇跡的なほどに鮮明にキャッチできるのに、ネットではダメということになっていて、このことについても、日本の電波行政のおかしさに腹が立っていたのだった。

・他方で、マスメディア経由でなくとも、海外のメディアが大震災や原発事故をどのように伝えているかを直接確認することも容易になった。我が家はたまたまISDNから光に変わったところだったから、アメリカやイギリスの放送局や新聞社のサイトにでかけて、動画や音声を途切れる心配をすることなく見聞きすることができた。このことについては、チュニジアに始まるアラブ諸国の革命でも、テレビや新聞以上に、多様で早い情報に接することができた。

・大震災の数日後から8日間ほど沖縄と先島諸島を旅して回った。東京からは2000km以上離れ、台湾とは200kmほどの近さだから、レンタカーのラジオをつけると、中国語の放送の方が圧倒的に多かった。その中から日本語の放送を探すと、どの番組でも被災した知人や友人のこと、ボランティアやカンパのことなどが話題になり、被災した人たちへの同情や励ましのことばが繰りかえされた。もっともその間にかかる歌が裕次郎や小林旭であったりしたから、物理的な距離感よりは時間的な距離を感じたりもした。

・自分がいつどこにいて、何と繋がり、何にアクセスしているか。ここ一月ほどは、そんな感覚に狂いが生じて、平衡感が失われたように自覚することが多い。スーパーに行くと、東京ほどではないにしても、米や水や電池や納豆(?)が棚から消えている光景を目の当たりにする。買い占めではなくちょっと買いだめをという気持ちが作りだした結果で感染源はマスメディアの情報だが、それに感染しないよう免疫を作るのもまた、メディアから得る情報なのだとつくづく感じている。

2011年3月28日月曜日

地震、結婚、卒業、個展、そして入学

 

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K's工房陶展「スナフキンと森の時間」
(京都・アイディ・ギャラリー、4月1日〜3日)

・まだ3月が終わったばかりだというのに、今年は何という年だろうと思います。3月11日の巨大地震と津波は、いまだに死んだ人の数もわからないほどに甚大な被害をもたらしましたし、被災して避難している人の数も桁違いに多いです。原発がどうなるのかも不確かなままですし、大きな余震も相変わらず頻発していますから、日常生活をおくれている人にとっても、不安の材料は増えるばかりです。

・おかげで、中東で連続した政変のニュースは、新聞やテレビでは小さく扱われていますし、ニュージーランドの地震についてはまったくといっていいほど語られなくなりました。テレビが節電を呼びかけながら、被災地の状況や原発の様子を巡って視聴率競争をしているのは、なんとも矛盾した態度のように思えます。

・地震の時は大学で会議中でした。大波に揺れる船に乗っているようで、それが何分も続きましたから、大きな地震であることはすぐわかりました。体の弱った父と母の家に行き、高速道路が閉鎖されて家に帰ることはできませんでしたので、一泊して翌日帰宅しました。幸い、実家も自宅もほとんど被害はなく安心しましたが、巨大地震と津波の被害を伝えるテレビの映像には体の震えを覚えました。

・実は、一週間後にある次男の結婚式にあわせて沖縄から先島諸島を旅行する計画を立てていました。結婚式ができるのか心配でしたが、息子に確認して、予定通り14日に出かけることにしました。ところが15日の夜、西表島のホテルで寝ているところにメールや電話が飛び込んできました。富士山の西側の静岡県と山梨県の境目あたりを震源にするマグニチュード6.0の地震があって、そのことを心配した人たちからのものでした。旅先ですから、もちろん、我が家がどうなったのかもわかりませんが、とりあえず遠くにいて無事であることを急いで伝えました。

・息子の結婚式は参加者が半減しましたが、無事おこなわれました。パートナーの実家は千葉の浦安にあって、大きな被害が出たようでしたが、ご両親も当日の飛行機でやってくることができました。こんな状況の中、のんびり島巡りなどしている自分にやましさを感じないわけではありませんでしたが、旅は予定通り、西表島、石垣島、宮古島、そして沖縄本島を巡って22日に帰宅して終わりました。幸い、家の様子は出かけたときと同じで、地震の被害はほとんどありませんでした。

・23日には大学で卒業式がある予定でした。しかし、計画停電もあって中止に決まり、学生には「学位記」だけが手渡されました。袴姿の学生も、普段着の学生もいて、いつもとは違う静かな卒業の風景になりました。就職活動で苦労した彼や彼女たちには、大学生活の最後の最後の時にまで災難が降りかかりました。かわいそうではありますが、ゆとり世代と非難されてきた学生たちには、大人として生きていく自覚をもついい機会にして欲しいと思います。その晩、河口湖では季節外れの15cmの大雪が降りました。

・計画停電がいつまで続くのかわからない状況です。そのために入学式も中止になり、新学期も1ヶ月おくれで開始されることになりました。計画停電が一番の理由ですから、電力需要の増す8月にまで延長することはできません。当然授業数が減るわけですが、まさか文科省は補講をして時間数を確保しろとは言わないと思います。おそらく、このような災害を経験した学生たちは、授業を熱心に聞き、自らも勉強しようという気持ちになるでしょう。今、この状況をどう捉え、どのように考え、どんなふうにして対応していくのか。教える側にもしっかりと準備して、学生に向けて語りかける必要があることは言うまでもありません。

・なお、パートナーの個展が京都のアイディ・ギャラリーで4月1日から3日まで開かれます。今回のテーマは「スナフキンと森の時間」。僕も2日と3日には会場にいますので、ぜひお立ち寄りください。2年ぶりにお会いする方も多いと思いますので、楽しみにしています。