2012年5月28日月曜日

スカイツリーとAKB48

 

・東京タワーがあって、既に昨年の夏に地デジ化への移行が済んでいるのだから、新しい電波塔はもう必要がない。そんな無用の長物でしかないスカイツリーの開場を、テレビや新聞がお祭り騒ぎのように囃し立てている。その脳天気さには呆れてしまう。けれども、そんな姿勢には、原発事故以降の報道に共通した無批判さが露骨だから、もう悪意のように思えてくる。

・そもそも、テレビ放送のデジタル化は、BS衛星やケーブルテレビで十分に対応できたはずなのに、巨額の費用を使ってわざわざ地デジ化した理由は、地方のテレビ局の存続が第一の理由だった。だから総務省とテレビと地方自治体は「電波村」を作っていて、それは原発の存続に固執する経産省と電力会社等がつくる「原発村」と双子のようにそっくりなのである。日本のマスメディアは新聞とテレビ、そしてラジオが一体(クロス・オーナーシップ)だから、相互に批判しあうということがほとんどない。電力の発送分離を強く主張しない(できない)理由は、何より批判の矛先が我が身にも向かってしまう点にあるのである。

・もっとも、何によらずお祭り騒ぎをしたがるのは、最近のテレビに見られる新しい現象というわけではない。昨年度に大学院で、「戦前期日本のオリンピック」というタイトルで博士論文を書いた学生がいた。それを読んで認識を新たにしたのは、当時の新聞が、オリンピックの存在と日本選手の活躍を積極的に報道して、政府以上に国威発揚の旗振り役をしたことだった。それはちょうど、日本が大陸に進出して朝鮮半島から中国の満州までを占領した次期に重なっていて、軍部や右翼の圧力によって批判ができなかったことが新聞社や研究者によって指摘されている。しかしオリンピック報道に対する姿勢を見ると、新聞はむしろ、当時の日本の侵略政策に積極的に荷担をしたことがはっきりわかってくる。

・だから、原発報道が「大本営発表」だと言って批判するのは、メディアの無責任さの片方だけを指摘しているにすぎないのだ。人々の関心をスカイツリーに向け、東京の新しいシンボルや下町の活性化をうたって囃し立てるのは、東京はもちろん、東日本や日本全体が抱える深刻で難しい問題を意識の外に押しやり、忘れさせる力として働いてしまう。メディアはそのことに無自覚なのか、あるいは自覚的なのか。僕は後者の方だと、最近ますます強く感じるようになった。もちろんここには、それを望む、いやなこと、不安なことは忘れてしまいたいという、私たちの心理的な特性がある。

・同じような危惧は「AKB48」の人気にもあるのではないだろうか。僕はAKB48が何なのかを未だにほとんど知らない。秋元康が「夕焼けニャンニャン」以来に新たに仕掛けたアイドル商品で、つんくの「モーニング娘。」とあわせて、僕は魅力どころか嫌悪感をもって忌避してきた。先日やった研究会では、「AKB48」を「学校文化」との共通性でとらえたり、アメノウズメ以来一貫して、日本人が夢中になる特徴を備えていて、一種の宗教現象なのだと分析する報告があった。腑に落ちる説明で、あーなるほどと納得できる気がした。

・とは言え、世の中のことには無関係のままでいたいという「退行現象」にしても、天災を沈める集団的な祈祷にしても、それで現実が打開できるわけではないから、そんなことにうつつを抜かしている暇はないのだという思いに何ら変わりはない。

2012年5月21日月曜日

ライ・クーダーのアンソロジー

 

"The UFO Has Landed"
"Down At The Field - The 1974 Broadcast"
”The Slide Area" ”Chicken Skin Music”

ry-4..jpg・ライ・クーダーのアルバムはかなりもっているが、初めてのアンソロジーだというので"The UFO Has Landed"を買った。二枚組で1970年のデビューから2008年まで34曲が納められている。もちろんもっているもの、聴いたことがあるものが多いが、通して聴いてまず思ったのは、40年近い時間の経過が全く感じられないことだった。確かに、声も最初からしわがれていて老けた感じだったし、ギターのうまさもデビュー当時から頭抜けていた。しかし、改めて思うのは彼の音楽が一貫して変わっていないという点だ。もちろん、それはワンパターンとはちがう、音楽に対する彼の姿勢からくるものだ。

・彼はもちろん、自分でも歌を作る。しかし、彼の仕事で評価されているのは、何より、アメリカはもちろん世界中の埋もれた音楽を発掘して、紹介し続けていることにある。このアルバムもジョニー・キャッシュの「ゲット・リズム」で始まり、カントリー、フォーク、ブルースと多様だが、彼の聴覚や嗅覚はもっと敏感で、彼が見つけて自分の作品にしてきたのは、ヨーロッパからアメリカにやってきた移民たち、アフリカから奴隷として連行されてきた黒人たちが持ち寄った楽器や歌が、地域によって微妙に異なる発展をした音楽だった。

ry-2..jpg・たとえば、テキサスに住むメキシコ人の音楽は「テックス・メックス」と呼ばれるが、ドイツ系移民の音楽が混じって、アコーディオンが使われることがある。メキシコからは北の音楽と呼ばれて区別されている。そんな音楽に興味を持って紹介したのは1976年に発表された"Chciken Skin Music"(鳥肌の立つ音楽?)で、このアルバムでは他に、ハワイの音楽も取り上げられていた。キューバの市井のミュージシャンたちを取り上げて作った「ブエナ・ビスタ・ソーシャル・クラブ」は1996年の作だったから、彼の関心が、ワールド・ミュージックなどという流行とは無関係だったことがよくわかる。2010年に発表されたアイルランドのチーフタンズとの合作「サン・パトリシオ」はメキシコがアメリカと戦争をした時(1846)に、メキシコ政府に雇われたアイルランド人が残した音楽を集めたものだった。そのアイリッシュともメキシカンとも決めがたい音楽はチーフタンズにとっても新鮮な発見だったようだ。

ry-1..jpg・アンソロジーの最後から二曲目に"Going back to Okinawa"という曲が入っている。この歌には「沖縄では俺は王様扱いだから、もう二度と帰らない」といった歌詞がある。さらには「砂浜にはかわいいママが寝そべっていて、彼女は男の扱いをご存じだ」と続くから、沖縄に駐留した米兵を想像してしまう。彼は喜納昌吉のアルバムにも参加していて、僕はその1980年に発売された"Blood Line" で初めて、ライ・クーダーというミュージシャンを知った。沖縄の音楽にも早くから関心を持っていて、その音楽のできかたがアメリカの占領政策と基地に深く関連していることも熟知しているはずだから、この底抜けに明るい"Going back to Okinawa"には彼の強いメッセージが感じられる。

・このアルバムを聴いて、若い頃のライブ盤を聴きたくなって"Down At The Field - The 1974 Broadcast"も買った。ジャケットの写真は声やギターのうまさとは対照的に、まだ少年の面影が残っているものだ。僕より二つだけ年上だから、同世代では一番好きな、信頼できるミュージシャンだと言える。

2012年5月14日月曜日

Do it yourself !

 

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・面倒くさがりに田舎暮らしはできない。もちろん、10年以上田舎で暮らした自らの経験から言えることだが、周囲を見渡しても、面倒なことにあえて挑戦する人が少なくない。畑を借りて野菜作りに励む人、冬を除いて花の絶えない庭を造る人、もちろん僕も、家のペンキ塗りやベランダの補修、そしてストーブの薪割など、年間を通してやらなければならないことにせっせと励んでいる。しかし、上には上がいるものだと感心する人が隣にやってきた。

・我が家は20年以上前のバブルの絶頂期に造成された別荘地にある。ログや煉瓦など思い思いに造られた家が並んでいるが、造成されずにそのままに放置され続けている場所も少なくない。我が家の隣地も二区画ほど手つかずのままだったから、窓からは鬱蒼とした林を眺めることができた。その隣地の一つおいた区画の木が突然伐採されたのは一昨年の暮れのことだった。森の生活もこれで終わりかと思うほどがっかりしたが、しょせんは他人の土地なのだから仕方がないと納得した。

・どんな家を建てるつもりなのか、土地の持ち主に話を聞くと、ログハウスの組み立てキットを買って、自分一人で建てるつもりなのだという。定年退職して近くに家を買ったのだが、孫たちが遊びに来たときのために小さな家を作るということだった。話を聞いたときは、「へー、おもしろそー」と思っただけだったのだが、整地から基礎作り、そしてキットを一つ一つ組み立てながら作っていく様子を眺めていて、その面倒でしんどい作業を少しずつやっていく様子には、ただただ感心するばかりだった。

・現在の高度な消費社会では、自分ではできないこと、面倒を省きたいことの多くが、お金を払うことで代行してもらえるようになっている。食事を自分では全く作らなくても、掃除や洗濯をしなくても、生活する上で困ることは何もない。一方で、そんな世界が実現しているのだが、他方で、人には頼らず自分でやりたいことについても、それを可能にしてくれるよう、多様なものが商品化されている。目の前で組み立てられていくログハウスのキットは、その最たるものだと、改めて納得した。

・高齢の両親がいよいよ二人では生活が難しくなって、都内の介護付き老人ホームを探し始めている。見学して改めて思ったのは、お金さえ払えば、人生の最後は生活の面倒をすべて引き受けてくれるところで過ごすことができるのだという実感だった。核家族化が進んで、子どもや孫と同居する老人の数はどんどん減っている。だから、終の棲家となるはずだった我が家を処分して、最後は老人ホームのお世話になる。そんな人たちが暮らす老人ホームは、今どんどん作られていて、しかも互いにサービスを競うような状況になっている。

・僕はできることは何でも自分でやってみたいと思って、現在の場所に引っ越してきた。ツリーハウスを作ってみたいとか、書庫と作業場にする簡単なガレージを作りたいとか思っているが、反対に、いつまで薪を割ることができるのか、大工仕事やペンキ塗り、そして車の運転はいつまでできるのだろうか、といったことも、最近身近なこととして考えるようになった。で、最後は老人ホームということになるのなら、ここではなくて、もっと別な場所でもいいのでは、などと妙に将来のことを考えるようになった。

2012年5月7日月曜日

原発事故についての2冊の本

 

伊藤守『テレビは原発事故をどう伝えたのか 』平凡社新書
加藤典洋『3.11 死に神に突き飛ばされる』岩波書店

journal1-151-1.jpg・大飯原発の再稼働が、この夏の電力需要の必要性を理由に強行されようとしている。福島原発の危険な状態が続いていて、事故の原因も責任の追及もはっきりしないままに、政府や財界は原発が必要だという空気を作り出そうとしている。都合の悪い情報を隠すというのは3.11以降一貫した政府や経産省、そして東電をはじめとした電力会社の常套手段だが、マスメディアも相変わらず、そのことを批判して、情報の開示を迫るわけでもない。こういった姿勢は一貫して事故以来変わっていないが、それだけに、その不当さを事故発生時にさかのぼって検証する仕事がどんどん出てくることが大事だろう。

・伊藤守『テレビは原発事故をどう伝えたか』は事故が起こった3月11日から17日までの一週間に限定して、原発事故に関連したテレビの報道を検証している。この本で明らかにされているのは「原発事故と住民の避難にかかわるさまざまな情報に関して、情報の隠蔽、情報開示の遅れ、情報操作等のさまざまな問題」があったことと、そこに批判の目を向けずに、ただ追随したかに見えるマスメディア、とりわけテレビの姿勢である。このような指摘は、事故直後から多くの人によってなされてきたから目新しいものではないが、放送された関連番組のほとんどをテクストとして書き起こして検証した上での分析と批判だから、個人的な視聴経験の記憶を超えた説得力をもっている。

・読み進めながら感じるのは、刻一刻と深刻化する想定外の事故に戸惑いながらもなお、事故やその影響を極力小さく見せることに懸命だった政府と東電、そしてテレビ局と、番組に呼ばれた御用学者や専門家と言われる人たちの姿勢である。彼らは、原発の安全神話が打ち砕かれた後も一貫して、想定外の事故として責任逃れに腐心し、「ただちに人体に影響はない」に象徴される「安心・安全」の言説を繰り返したが、一方で、ネットからは全く見方の異なる情報が発信されていた。

・本書の最後では、そのテレビとネットから発信された情報の対比もなされている。YoutubeやUstreamには事故直後からフリーのジャーナリストや原発に反対してきた専門家や組織を中心にして、マスメディアとは異なる報道がなされてきた。その情報内容は、「政府の公式見解だけを伝える既存メディア」とは対照的に事故の深刻さを伝えたから、マスメディアの報道は「大本営発表」と言われるほどに批判され、不信感をもたれるものになった。

journal1-151-2.jpg・加藤典洋の『3.11 死に神に突き飛ばされる』は、彼が震災時にカリフォルニアにいて「大地震がもたらした甚大な被害と原発事故のニュースを「椰子の葉の揺れる平和でのどかな空の下で見聞き」した話から書き始められている。加藤はこのニュースに触れた後、福島に住む親戚や友人のために「安定ヨウ素剤」を買って送ろうとしたが、それが40歳以上の人にはほとんど意味のない薬であることを知って次のような気持ちになったという。


大鎌を肩にかけた死に神がおまえは関係ない、退け、とばかりに私を突きのけ、若い人々、生まれたばかりの幼児、これから生まれ出る人を追いかけ、走り去っていく。その姿を、もう先の長くない人間個体として、呆然と見送る思いがあった。(p.21)

・彼は三月末に帰国して、南相馬に住む友人を訪ねた。そこで彼が知ったのは、日本のマスメディアがすべて、事故発生後に福島市に撤退したことだった。だからテレビ映像は30kmも離れたところから撮られた福島第一原発ばかりを映していたし、屋内待避の指示を受けて留まった人々の声が直接放送されることもなかった。一方でそれほどの用心をしておきながら、他方では「ただちに人体に影響はない」を繰り返す。その身勝手さや無責任さから感じた日本のマスメディア批判を彼は次のようにまとめている。

1)メディア的に見捨てられた場所があれば、メディアは、そういう地域の住民に責任がある。そういう人々がいる場合、その人々を報道しなければならないということです。その姿勢が、メディアの公共性を支えているからです。
2)メディアは、こういうとき、政府と共同歩調をとるべきではないということです。(p.29)

・政府もメディアも専門家も信用できなければ、事故処理の過程や今後の原発と電力の関係について、政治や経済、社会、そして専門的な科学知識も含めて、自ら考えて、自分なりの見通しや哲学を作り出す必要がある。原発の現在と未来について加藤が出した結論は、再生可能エネルギーの開発を急ぐことと、暮らしの質を見直すこと、そして既存の原発については、その安全性についての詳細な検証をした上で、つなぎの電力源としてしばらくは使い続けるというものだ。

・事故の処理、原発の解体、核廃棄物の処理に長い時間と巨額の費用がかかるのなら、これはかなり安全だと説得できるものだけを動かしてもいいのではないか。僕はすべてを即刻停止することに賛成だが、経済原則だけでなく、政治や社会、そして何より人間や自然に対する倫理観を基本にした政策が打ち出せるのなら、彼の提示した見取り図は一考に値すると思った。

2012年4月30日月曜日

介護制度について勉強中です

・父親が体調を崩して寝たきり状態になったのが一昨年の夏でした。母親が元気でしたから、主な面倒は彼女が見てきました。しかしそれでは大変なので、介護付きの老人ホームにショート・ステイをしたり、介護認定を受けて、リハビリの訪問介護やお医者さんの往診をしてもらうようにしてきましました。いろいろなことがありましたが、リハビリの甲斐もあって、父も昨年の暮れ頃から家の中での車椅子の使用をやめて、歩くようになり、最近では近くに買い物に行ったりするようにもなりました。

・ところが4月はじめに母が体調不良を訴え、診察をした結果、脳内出血と診断され、即入院となってしまいました。不幸中の幸いで症状は比較的軽度で、身体に麻痺やしびれが出ることもなかったのですが、今までのように、父と母二人で日常生活を送るということが難しくなりました。母の入院は一週間程で、戻った後の生活のサポートをどうするか、弟や妹と話をし、世話になっているケア・マネージャーさんに相談をして、急いで受け入れ準備をしなければなりませんでした。

・介護制度にはそれを受ける人の必要度に合わせて「要支援」1・2、「要介護」1〜5の7つの段階があります。それに応じて多様なサービスが用意され、それそれが点数化されて、段階によって受けられるサービスの量と負担額が決められています。介護保険は65歳になると誰もが加入しなければならない制度です。元気であれば、そして急な死を迎えたりすれば、この制度を利用することもないのですが、現実には、この制度を利用して日常生活を送っている高齢者の数は、年々増えるばかりのようです。

・上野千鶴子の『ケアの社会学』を紹介したコラムでも書きましたが、父親が体調を崩した時から、一応必要なことは勉強したつもりでした。しかし、母が倒れて、二人では日常生活がおくれないという状況になった時には、さらにいろいろなサービスが用意されていることを知りました。そこで、今まで父が在宅で受けていた週2回のリハビリと2週に一回の往診のほかに、週に4日、1時間前後、ヘルバーさんに来ていただいて、掃除、洗濯、調理、買い物などを必要に応じてやってもらうことにしました。

・もう一つ手続きをしたのは、夜間の緊急連絡と対応を可能にするサービスです。何かあった際にボタンを押せば、「どうしました?」という返事がすぐに来て、用件を言えば30分以内に対応してくれるというサービスです。最悪しばらくは、兄弟の誰かが泊まりこんで父母の様子を見なければと思っていましたから、このようなサービスがあるのは助かりました。父は現在「要介護1」ですが、母も同様の認定を受ければ、二人そろって、リハビリ施設への長期(1〜3ヶ月)入院のサービスもあるようです。

・高齢者を基本にした介護保険制度が施行されてまだ12年しか経っていません。これから団塊の世代が高齢者になってまもなく「超高齢社会」がやってきます。僕はその世代に属しますから、このような社会保険制度ができていることをありがたいことだと、つくづく思いました。しかし、老後の生活が経済力によって格差が生じる状況も現実化しているようです。

・庭に畑を作って野菜の栽培を楽しみにしていた母にとって、住み慣れた家でこれからも生活するのは、あきらめきれないことのようです。しかし、実際に多くのサービスを受け、多くの人に助けられなければ生活できない状況を長続きさせることは難しいです。そこで、家の周辺や都内などを中心に「介護付き老人ホーム」について調べたのですが、入居金や毎月の費用がかなり高額なことと、空き部屋がきわめて少ないことに驚かされました。

・父母が持つ資産で、そういった施設に入居して生活をしていくことが可能かどうか。二人が入居を前向きに受け入れてくれるかどうか。空き状況や二人が気に入る場所の選択も含めて、しばらくはじっくりと検討する必要が出てきました。しかし、そうしながら思うのは、自分たちの番になった時にどうするかという点です。

・「介護付き老人ホーム」は現在でもかなりの数があるように思えますし、次々と新しい施設ができているようです。しかし、需要がこれからますます増えルのは確実です。おそらくさまざまな施設やサービスが生まれ、お金さえあれば、その選択に迷うような状況が訪れるでしょう。けれども、そんな余裕のない人はどうするか。そう考えると、現在の介護制度はまだまだ不十分だと言わざるをえない気もします。若い世代に過重な負担を負わせることなくこの制度を整えるにはどうしたらいいか。大変な問題に直面した経験でもありました。

2012年4月23日月曜日

インターネットでテレビを見る

 ・地デジをBSで見ることができなくなって、ますますテレビを見る時間が減った。4月の番組改編でNHKのBSもおもしろくなくなったから、テレビをほとんどつけない日もあるようになった。それで少しも困らないのは、興味を持てそうな番組(主に報道やドキュメント)は数日遅れでネットで見ることができるからだ。それで、ほとんど定期的に見るようになった番組には、次のようなものがある。15分の細切れになるYoutubeよりはDailymotionのほうが掲載されるのも早くて種類も多い。ちなみに、見たいものの検索は番組名よりは放映日の年月日(たとえば20120423)でやるのが確実のようだ。

・『玉川徹の「そもそも総研」』(テレビ朝日モーニングバード)
・『報道特集』TBS
・『報道ステーションsunday』
・『愛川欽也パックインジャーナル』

・「朝日ニュースター」がテレビ朝日に統合されて『愛川欽也パックインジャーナル』が終了した。愛川欽也は出演者や視聴者の強い要望に応えてkinkin.tvを4月に開局して、「愛川欽也パックインニュース」と名を変えて途切れなく番組を続けている。放映時間が決まっていて、しかも初期トラブルもあるから全部を見ることができていないが、がんばっているから、見続けようと思っている。ちなみに視聴料は月額1050円でDVDでの配布は月額2100円だ。愛川欽也はインターネットもパソコンもやらないようだが、ネットTVという新しい試みに挑戦する姿勢には感服するばかりである。

・「朝日ニュースター」ではほかに「ニュースの深層」という番組があって、4月以降もTV朝日のCS放送番組として継続しているのだが、キャスターは全員入れ替わっている。一方で「ニュース解説 眼」は廃止された。原発事故について厳しい指摘をし続けてきたフリーのジャーナリストたちの発言の場がなくなったのは全く残念だ。地上波のだめさ加減をかろうじてBSやCSが補ってきたという感があったのだが、政治や経済あるいは社会や文化に対する批判の眼が、テレビ全体から排除されつつあるように思われる。

・ネットで見つけたおもしろい番組はテレビよりはむしろラジオにある。MBSの「種まきジャーナル」は原発事故直後から小出裕章さんの出るものだけは欠かさず聞き続けているし、吉田照美が毎朝文化放送でやっている「吉田照美のソコダイジナトコ」は木曜日に出るおすぎやアーサー・ビーナードの発言ややりとりがおもしろくて、これもアップされれば必ず聴くようにしている。そんなふうにして検索していると、興味を持って聞きたくなるものは結構ある。ぼーっとテレビなど見ているよりはずっとおもしろいのである。

・インターFMで毎日(月〜金)の朝放送していたピーター・バラカンの「バラカン・モーニング」が3月で終わった。本人は否定しているが、原発批判などの発言が影響したのでないかといった声が、ネット上ではよく発せられている。忌野清志郎の反原発ソングを放送しようとして止められたりしたこともあって、ラジオとてそれほど自由でないことは今に始まったことではないが、それだけに、ネットをもっとうまく使う可能性を探るのは大事なことだろう。

2012年4月16日月曜日

続・台湾旅行

 

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taiwan6.jpg・台湾旅行の後半は東海岸を台東と花蓮に宿泊して北上するコースをたどった。東側は大都市が並ぶ西側と違って開発が遅れている。山脈が迫って平地が少ないせいだろうが、そのために原住民(台湾ではこれが正式な呼称)が多く住んでいる。その代表が台東市だった。今は廃線になった旧台東駅には木彫りのアミ族の像があって、ここから新台東駅まで線路が長い遊歩道として作られている。暑かったが、そこを途中まで歩いてみた。


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difang1.jpg・アミ族はDifangの歌で知られている。アトランタ・オリンピックのプロモーション・ソングとして無断借用されたことがきっかけになって世に紹介され、CDも何枚か作られた。どことなく沖縄の音楽にも似た独特の世界を持った歌だ。彼は既に死んでしまったが、台東を目指したのにはアミ族の歌が生で聴けるかもとという期待があった。それはかなわなかったが、旧駅舎では若者たち数人が伝統的な音楽に合わせて踊りの練習をしているところを見かけたし、夜にはロックやラップの野外コンサートもあった。後にも先にも台湾で音楽を聴いたのはこの時だけだった。

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・東部を訪れたもう一つの目的は大理石の太魯閣(タロコ)峡谷を歩くことだった。タクシーを一日チャーターしての贅沢な行程だったが、その景観は今まで見たこともないすごさ、美しさだった。もともと海でできた珊瑚礁が厚い石灰岩の層を作り、それが大理石に変成し、台湾島が大陸のプレートに衝突した時に隆起したもので、氷河ではなく雨によって削られて深い峡谷になったもののようだ。何千万年という時間が作り出した絶景だが、地殻変動のすごさを実感させる景観で、これに比べたら、大震災で数メートルずれたなどというのがいかに小さなものであるかがわかる。

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