・東京タワーがあって、既に昨年の夏に地デジ化への移行が済んでいるのだから、新しい電波塔はもう必要がない。そんな無用の長物でしかないスカイツリーの開場を、テレビや新聞がお祭り騒ぎのように囃し立てている。その脳天気さには呆れてしまう。けれども、そんな姿勢には、原発事故以降の報道に共通した無批判さが露骨だから、もう悪意のように思えてくる。
・そもそも、テレビ放送のデジタル化は、BS衛星やケーブルテレビで十分に対応できたはずなのに、巨額の費用を使ってわざわざ地デジ化した理由は、地方のテレビ局の存続が第一の理由だった。だから総務省とテレビと地方自治体は「電波村」を作っていて、それは原発の存続に固執する経産省と電力会社等がつくる「原発村」と双子のようにそっくりなのである。日本のマスメディアは新聞とテレビ、そしてラジオが一体(クロス・オーナーシップ)だから、相互に批判しあうということがほとんどない。電力の発送分離を強く主張しない(できない)理由は、何より批判の矛先が我が身にも向かってしまう点にあるのである。
・もっとも、何によらずお祭り騒ぎをしたがるのは、最近のテレビに見られる新しい現象というわけではない。昨年度に大学院で、「戦前期日本のオリンピック」というタイトルで博士論文を書いた学生がいた。それを読んで認識を新たにしたのは、当時の新聞が、オリンピックの存在と日本選手の活躍を積極的に報道して、政府以上に国威発揚の旗振り役をしたことだった。それはちょうど、日本が大陸に進出して朝鮮半島から中国の満州までを占領した次期に重なっていて、軍部や右翼の圧力によって批判ができなかったことが新聞社や研究者によって指摘されている。しかしオリンピック報道に対する姿勢を見ると、新聞はむしろ、当時の日本の侵略政策に積極的に荷担をしたことがはっきりわかってくる。
・だから、原発報道が「大本営発表」だと言って批判するのは、メディアの無責任さの片方だけを指摘しているにすぎないのだ。人々の関心をスカイツリーに向け、東京の新しいシンボルや下町の活性化をうたって囃し立てるのは、東京はもちろん、東日本や日本全体が抱える深刻で難しい問題を意識の外に押しやり、忘れさせる力として働いてしまう。メディアはそのことに無自覚なのか、あるいは自覚的なのか。僕は後者の方だと、最近ますます強く感じるようになった。もちろんここには、それを望む、いやなこと、不安なことは忘れてしまいたいという、私たちの心理的な特性がある。
・同じような危惧は「AKB48」の人気にもあるのではないだろうか。僕はAKB48が何なのかを未だにほとんど知らない。秋元康が「夕焼けニャンニャン」以来に新たに仕掛けたアイドル商品で、つんくの「モーニング娘。」とあわせて、僕は魅力どころか嫌悪感をもって忌避してきた。先日やった研究会では、「AKB48」を「学校文化」との共通性でとらえたり、アメノウズメ以来一貫して、日本人が夢中になる特徴を備えていて、一種の宗教現象なのだと分析する報告があった。腑に落ちる説明で、あーなるほどと納得できる気がした。
・とは言え、世の中のことには無関係のままでいたいという「退行現象」にしても、天災を沈める集団的な祈祷にしても、それで現実が打開できるわけではないから、そんなことにうつつを抜かしている暇はないのだという思いに何ら変わりはない。