2013年5月6日月曜日

長田弘『アメリカの心の歌』(みすず書房)

 

osada.jpg・この本は以前に岩波新書で出版されていて、ぼくはこのサイトを初めた時の最初の書評にこの本を選んだ。1996年の11月だからもう16年以上も前のことだ。同じ著者の同じ題名だが、本はハードカバーで出版社も変わっている。中身は同じかもしれないと思いながら買うことにした。

・読み返しながら改めて思ったのは、この本を読んで知ったミュージシャンの多さだった。ジム・クローチ、グラム・パーソンズ、ジョン・プライン……。地味だけどいかにもアメリカ的。それを著者は最初に「『私の生き方』を自ら問い直すための歌」と書いて、多くのミュージシャンについて語っている。歌を聴けば、その人の生き方と人生に対する態度が聞こえてくる。そんな人たちばかりを集めて、それがアメリカの心の歌だと言ったのは、16年経って読み返して、なお一層納得できると思った。

・歌というのは、つまりうたい方だ。うたい方というのは、つまり歌うたいの個性だ。個性というのは、つまりは人生に対する態度だ。そして、人生に対する態度がすなわち歌である秘密をどうにかして伝えようとしてきたのは、シンガー・ソングライターの歌だった。

・これはアメリカ人ではなくアイルランド人のヴァン・モリソンについて書いた章の冒頭のことばである。アイルランド人のヴァン・モリソンの歌がなぜ、アメリカの心の歌なのか。著者はそのことには何も触れていない。と言うよりは、アメリカの心そのものとしてヴァン・モリソンを評価している。そして僕も、そのことに何の違和感も持たない。

・それはアメリカの歌の源流がアイルランドからの移民たちにあるからだ。その移民たちの多くはジャガイモ飢饉があった19世紀中頃にアメリカに渡って、どん底の生活を生き延びた人たちだった。それでアイルランドの人口は激減し、歌もすっかり廃れてしまったのだが、アメリカで歌い継がれて、アメリカの歌になった。現在のアイリッシュ音楽は、アメリカから戻った人たちによって復活したものに他ならないのである。

・再販された本には「うたと誌の記憶」という部が追加されていて、そこではボブ・ディランやトム・ウェイツが取り上げられている。ディランはウッデイ・ガスリーをはじめ、多くの先達に影響されているが、1930年代に活躍した伝説のブルース・シンガーのロバート・ジョンソンについての既述は知らなかった。ディランはジョンソンについて、「彼の歌は私の神経をピアノ線のように震わせる」と言ったそうだ。「ロバート・ジョンソンを聴かなかったら、大量の詩の言葉がわたしの中に閉じ込められたままだった」とも。そこから、著者は次のように書く。

・歌を聴く楽しみあるいは悦びの一つは、その歌をいま、ここにみちびいただろうルーツをゆっくりと遡ってゆくことだと思う。歌は発展ではなく、遡行なのだ。遡ってゆくうちに見えてくる、歌にのこされた記憶の風景が好きだ。

・僕も全くその通りだと思う。そしてディラン自身やライ・クーダーの最近の作品には、はっきりと、遡行の大切さというメッセージが込められている。初心を忘れず、本質やルーツに目を向ける。そのことがまた、新しい歌や音楽が生まれる土壌になる。『アメリカの心の歌』を読んでつくづく思うのは、Jポップにはこの「心」がないということだ。懐古趣味はあっても遡行はない。

・この本を読んでまた、知らなかったミュージシャンを見つけた。スティーブ・グッドマンで1984年に白血病で死んでいる。38才で10枚のアルバムを残したようだ。そのうちの二枚をさっそく買って聴いてみた。当然だが、手に入るもの全てを買って聴きたくなった。

2013年4月29日月曜日

テレビを買い換えた

・ちょっと前から、VHSとDVがついたデッキで映像が映らなくなった。もうほとんど見ることもなかったから、そのまま放置しておいたのだが、今度は光テレビに同じ症状が出た。音はすれども姿は見えず。NTTに連絡してチューナーを交換したが、しばらくするとまた同じ症状が出た。で、テレビの付属機器との接続部分が原因だという結論になって、買い換えることにした。

・テレビはビクターの98年製だから15年見ていたことになる。数年前に一度全く見えなくなってビクターに連絡したら、部品の交換で生き返って、まだ当分これでいけると言われた。ブラウン管だがハイビジョン用だったから、僕は液晶画面よりはずっと気に入っていた。とは言え、パソコンもとっくに液晶になって、タブレットやスマートフォンなどですっかりなれてしまっているから、それほど惜しいという気にもならなかった。

・ただ、テレビにVHS+DVのデッキをつないでもやっぱり音だけで映像が見えなかったのはがっかりした。ビデオカメラで映したminiDVや、映画やドキュメントなど集めたVHSのカセットがかなりあるから、何とかしなければ全てが無用の長物になってしまう。以前に全部をDVDに変換しようと思って始めて途中で辞めてしまったことがある。今ならハードディスクに移し替えるのがいいのだろうが、手間や時間を考えると、とてもやる気にはならない。

・最近のビデオカメラはUSB接続でパソコンからハードディスクに保存できるようになっているようだ。スマートフォンで用が足りるから買う気にならないが、これまで撮りためたものをまとめて保存しておきたいとは思う。しかし、ベータから始まってVHS、Hi8、MiniDVと次々変わってきて、すでに見ることもできないカセットもかなりある。その多くは、こどもが小さい頃にせっせと映したもので、滅多に見ることはないが、見られるようにはしておきたいと思う。

・同じことはオーディオ機器にも言える。ほとんど聴かないLPレコードやカセット、そしてMDが棚積みされている。もちろん、音楽はCDで買うから、それらが占めるスペースはかなりのものになっている。そのほとんどはiTunesを使ってパソコンとiPodに収まっているから、本当は処分してもいいのだが、捨てようという気にはならない。と言うよりは、新しいアルバムの購入は相変わらず、itunesではなくCDでと思っているから、これからもどんどん増えていくしかないのである。

・実は置き場に困るほど増えているのは書籍で、仕事を辞めて研究室を引き払うときになったら、それをどうするかはまだ考えていない。欲しい人にあげるか、どこかに寄贈するか、いずれにしても保存するスペースは家にはないから、その処分方法を考えなければならない。本もデジタル化がはじまっていて、近い将来には、全てをハードディスクに保存することができるようになるのかもしれない。しかし、本に対する愛着はLPレコードやCDの比ではないから、内容をデジタル化しても、本はいらないということにはならないと思う。

・テレビの買い換えから話が飛躍してしまった。新しい液晶画面を見ながら、気になったのは、新しくすることで不要になるもの、買い換える必要があるものなどが付随して一杯出てくることだった。そして、ビデオやCDといったソフトが何重にも保存されていく。これは本当に大問題だと思った。

2013年4月22日月曜日

『「文化系」学生のレポート・論文術』

 

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・ネットの利用が当たり前になって、レポートや論文が簡単に書けるようになったという声が聞こえます。しかし、それは誰もが、テーマに関連することばを検索して、最初に出てきたサイトや資料を材料にして書くようになったことも意味します。似たものばかりを読まされる教師がうんざりするのはもちろんですが、学生にとっても、安直な分、何の役にも立たない作業にしかならないのです。

・文章は、自分にしかわからないことを、誰にでもわかるように書くことが基本です。そのためには、何がわからないのかを自覚し、明確にするために、考えたり、調べたり、参考になる本を探して読むことが必要です。ネットはあくまで、そのための一つの手段に過ぎないのです。

・この本は、自ら積極的に、わからないことに興味を持ち、調べたり考えたりする学生に、何をどう調べ、どんな本を読み、どんなふうに考えたらいいかをアドバイスする内容になっています。章構成は以下の通りです。


はじめに

パート1 レポートや卒論を書くために押さえておきたいツボ
 1.文章表現の基礎 2.分野による違い 3.視点の定め方
 4.客観的な視座 5.批判的な姿勢
 コラム1 文章をどう書くか

パート2 レポートや卒論を書くために使えそうなコンセプト
 1.消費 2.若者 3.アイデンティティ 4.ジェンダー 5.階層
 6.政治 7.コミュニティ 8.レジャー 9.グローバル化 10.メディア
 コラム2 卒論の進め方

パート3 レポートや卒論を書くために役立ちそうなトピック
 1.音楽 2.ファッション 3.スポーツ 4.アニメ 5.アイドル
 6.有名人 7.映画 8.観光 9.食 10.ソーシャル・メディア
 コラム3 レポートを書くための技術

パート4 レポートや卒論を書くために参照したいデータ
 1 資料・データの集め方1(本、新聞、雑誌、インターネット)
 2 資料・データの集め方2(量的調査とデータ解析)
 3 資料・データの集め方3(フィールド調査)
 コラム4 レポート提出は「担任教員への思いやり」が大前提です!

あとがき

2013年4月15日月曜日

薪割りと山歩き

 

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・寒かった冬も3月になると急に暖かくなって、片栗の花や蕗のとうが例年よりも早く芽を出した。桜もすでに満開で、これも半月も早い。次の冬のための薪割りも、半分済んだところで雪が降って道が凍結してしまったから、原木の購入がヴェトナムから帰った後になってしまった。その4立米をチェーンソーで玉切りして、せっせと薪割りをしている。始めるとすぐに汗びっしょりになって、Tシャツでも暑いくらいだ。forest107-2.jpg
・玄関のベランダの木が腐ってきたので張り替えることにした。オームセンターに2m弱の板を買いに行ったが、必要な枚数が無くて、途中までしかできていない。このベランダは2005年に張り替えたものだから7年ほどしか持たなかったことになる。ついでに手すりも作りかえようと思うのだが、これは来月になるか再来月になるか。バルコニーも床下の土台から直さなければならないから、今年は大工仕事に精出さなければならない。forest107-3.jpg
・パートナーが乗っていたインプレッサが13年以上も経ってそろそろ買い換えの時期になっていた。まだまだ元気に走っていたから急いでいたわけではないのだが、オレンジのXVが気に入っていて、アウトバックを買ったディーラーの営業マンに話したら、さっそく新古車の出物があるという連絡が入った。自動でブレーキがかかるし、アイドリング・ストップもして燃費がいい。forest107-4.jpg
・暖かくなって再開したのは他にもある。自転車と山歩きだ。今年最初は伊豆の金冠山と達磨山で、3時間ほどの軽いコースのはずだったのだが、階段の直登で駿河湾から吹き上がる強い西風に煽られての行程は、久しぶりの山歩きとしてはきつかった。山桜も散りかけていて、先週来れば満開の景色が眺められただろう。 forest107-5.jpg

2013年4月8日月曜日

suzumoku"キュビズム"他

・suzumokuなんていうミュージシャンは全く知らなかった。だいたい日本のメジャーの音楽状況はここ数年、嵐やAKBやらSKE、NMBなんていう訳のわからないグーループに席巻されていて、およそ音楽とは関係ないビジネスと化している。興味がないと言うよりは嫌悪感で、聴くのはもちろん、話題にもしたくないほどだった。もちろん、3.11以降にさまざまな問題を批判する歌が生まれていることも事実である。ただし、その多くが地方に住んで、小さなライブハウスなどで活動するミュージシャンたちだから、メジャーとマイナーの断絶がますます大きくなってしまっている。

・suzumokuのビデオ・クリップをYouTubeで見たのはFacebookで紹介されていたからだった。それほど興味を持ったわけではなかったが、一つ見ると、続けて見たくなって、YouTubeにあるビデオを全部見てしまった。で、さっそくAmazonでCDを買うことにした。日本人のミュージシャンにこんなに興味を覚えたのは尾崎豊以来かもしれない。とにかくひどい音楽状況だけに、とても新鮮に感じられた。

suzumoku1.jpg ・''キュビズム"には12曲が収められている。どの曲を聴いても感じるのは、どこでも見かける街の風景、駅や駐車場、そして自分が住む部屋の様子やテレビ、あるいはそこで出会う人や見かける出来事の描写が、まるでスケッチブックを見るようにイメージできたことだった。で、もちろん、それにはsuzumokuというフィルターが通されていて、その感性や姿勢には共感したり感心したりするものが多かった。それはたとえば、次のようなフレーズだ。


最低まで転げ落ちたら 有名になるの?
犯罪者のモンタージュが 街中に張られている
「モンタージュ」

空回る換気扇のガラガラ 余りにもうるさいものだから
溜息を一つ置き去りにして 冷た過ぎるドアノブを掴む
「ノイズ」

またも虐待のニュースです なんと痛ましいことでしょう
信じ難い事件ですが 次はスポーツの話題です
「どうした日本」


suzumoku2.jpg ・'キュビズム"は昨年出たばかりの最新作で、その他に"素晴らしい世界"と"コンセント"の2作を買った。サウンドはギターだけのデビュー作から徐々に多様なものに変わってきているが、歌詞の特徴にはほとんど変わりがない。「都会を飾る真夜中の明かり 『あれは残業の景色なんどよ』と君は眠そうに目を擦りながら 独り言のように呟いている」(「素晴らしい世界」)。あるいは並んで歩いている恋人同士の会話を歌った「街灯」には印象に残る映画のワンシーンを見るような趣がある。

「もしもさ、明日全てが滅びるならどうしようか?」夕日と歩きながらふと君が問い掛ける 「いきなりどうしたの?」とおどけて笑ってみても 真面目な横顔に僕は少し立ち止まる 認め合いその時まで二人生き残れるのなら 迫り来る最後がどれほど暗くとも 街灯が一つ一つ灯される日常を願うだけ

・歌はことばをメロディに載せて伝える表現手段だ。だから歌を聴くときには、その歌詞が何を伝えようとしているのかに注意を向ける。当たり前の聴き方だと思うが、最近の日本人の作る歌にはほとんどメッセージがないのが普通だった。だから一層、suzumokuの歌には新鮮さを覚えた。彼が描くのは今の若者たちが抱く「心の歌」のように聞こえてくる。ちょっと声が優しすぎるところがもの足りない気もするが、それもまた最近の若者らしさを表象しているのかもしれない。

2013年4月1日月曜日

京都と成明さん

 

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・竹内成明さんが亡くなった。大震災と原発事故からちょうど2年目の3月11日だった。癌で余命6ヶ月ということを聞いてから2ヶ月しか経っていなかった。彼のブログには3月1日付けの文章と闘病略歴が載っている。


 2012年11月初め、腰痛がひどく近所のバプテスト病院へ。レントゲン検査で肺下部に小さな瘤が見つかり、わたしが50年来のヘヴィスモーカーであったことを知ると、ただちに京大呼吸器内科へ紹介される。
 12月6日夕刻、ビリビリビリッと、突然の激痛が、全身を走る。痛いなんてものじゃない。焼きごてを背中一面に当てられたよう。
 叫びました。絶叫です。病院でもらっていた薬を全部飲んで、一時休眠、明け方から痛みが再び走り出し、絶叫。((「ぐしゃだより」から引用」

・ 成明さんは僕にとって雲の上の存在だった。同志社大学の修士課程に在籍していた時に彼は同じ専攻の教員だったが、大学院を担当していなかったから、筑摩書房から出ていた『展望』に連載したエッセイを通してしか知らなかった。当時『展望』は文系の院生にとっては必読の雑誌だった。彼と親しくなったのは、大学院に進学をしたゼミ生を介してで、つきあいは大学ではなく、もっぱら銀閣寺近辺の飲み屋になった。あまり飲めない僕には、大酒飲みとのつきあいはしんどかったが、そこで得て、血となり肉となったものは少なくない。

・『展望』に連載されていたエッセイは『濶達な愚者』(れんが書房新社)という題名の本になった。ドン・キホーテではなくサンチョ・パンサの存在とその役割を「濶達な愚者」と名づけてその重要性に注目をした。崇高な騎士ではなく闊達な愚者。成明さんはその両面を強く併せ持った人だった。成明さんたちとのつきあいは僕が東経大に移籍するまで20年以上続いた。振り返れば、一番元気で勉強もした時期で、それだけに、思い出すことは多い。

・たまたまK's工房の個展が京都であって、本当は成明さんに会うつもりでいたのだが、仲間たちと会うことになった。最初は数人のつもりだったのだが、20名を越える人が集まって、ミニ偲ぶ会のようになった。10数年、20年、あるいはそれ以上会っていなかった人もいて、思い出話に花が咲いた。

・親しい人が死ぬというのは、縁のある人たちが再会するきっかけになる。そういえば、京都に来るのは知人が亡くなって偲ぶ会に参加ということが多くなった。師と呼べる人が残りわずかになった。そういう歳になったのだとつくづく思う。

2013年3月25日月曜日

ポール・オースター『ブルックリン・フォリーズ』 他

・ポール・オースターの作品はほとんど読んできた。ただし、ここ数年は新作が出てもすぐ読もうという気にならなかった。初期の頃の作品に比べて、夢中になって読み進むほどおもしろくないと感じたからだった。ところが、アマゾンで何の気なしに検索したら、読んでいない本が何冊もあって、久しぶりに読んでみようかという気になった。

auster1.jpg・『ブルックリン・フォリーズ』は退職し、妻と離婚した60代の男が主人公である。その彼が一人暮らしをしながら、研究者を目指して挫折した甥っ子と再会し、奇妙な事件に巻き込まれ、一緒に旅をする物語である。偶然をうまく使って話を繰り広げる手法は健在で、久しぶりにおもしろいと思った。しかし、もっと共感したのは、自分の病気、離婚、娘との関係などについての語りが、同世代としてきわめてよくわかることばかりだったからだ。

・オースターの小説のテーマは「消失」である。僕が興味を持って「オースター論」を書いたのは15年ほど前のことで、素材にした小説はすべて若者が主人公だった。だからそこでテーマになった「消失感」は若者のアイデンティティに関わるものだったのだが、『ブルックリン・フォリーズ』の主人公が抱いているのは長い人生を生きてきて、さまざまな経験をした老人が感じるものである。

・若い人たちが味わう「消失感」は自分が何者かになろうとするときに捨てるものや、何者かになろうとしてなれなかったものに対して向けられる。けれども老人になったときに経験する「消失感」は、いったん手に入ったもの、実現したものを失うときに襲ってくる。その消失感とどうつきあうか、そんな主人公の心の持ち方が、奇想天外な物語の中でつぶやかれる。

auster2.jpg・『幻影の書』は中年の男が主人公だが、物語は妻と二人のこどもが乗った飛行機が墜落して、突然家族を失うところから始まる。大学に勤める研究者で、教員としての仕事も研究も放り出してただ呆然として時を過ごすが、たまたまテレビで見たサイレント映画が気になって、その監督が作ったその他の作品が見たくなる。で、世界中に散在したフィルムを追いかけ、資料を調べ、それを一冊の本にまとめて出版したのだが、とっくに死んでいると思っていた、当の監督が会いたがっていると書いた手紙が舞い込んでくる。

・この映画監督は、数本の作品を作った後に忽然と姿を消した人だ。その理由は謎に包まれていたが、今でも生きていて、未発表の作品を何本か作っているという。主人公は会いに出かけるが、対面した翌日に監督は死んでしまう。遺言には、つくった作品も資料もすべて焼いてしまうようにとある。出会いを仲介した女との激しい争いと恋愛と別れ。「消失感」がテーマであるのは、この小説も変わらない。

auster3.jpg・『オラクル・ナイト』の主人公もまた病み上がりで、出版社の仕事を辞めて小説を青いノートに書いている。オースターの初期の作品にはしばしば赤いノートが出てきて、それが重要な役割を果たしていたが、今度は青に変わった。物語はこの青いノートに小説を書くことで進むが、小説内小説、その中の小説と入り組んでいて、人物説明が注として挟み込まれているから、スムーズに読み進むことができない。まるでオースターに意地悪されているかのようである。

・と言うわけで、まだ読み終えていない。