・イスラム国(ISIL)に捕らえられて殺された後藤健二と湯川遥菜の両氏に対して「自己責任」ということばが使われている。読売新聞の調査では83%が「責任は本人にある」という結果が公表された(2月7日)。ぼくは10年前に起きたイラクの人質事件を思い出して、まったく同じような反応に、日本人の気質の頑なさを改めて実感した。その時に書いた「身内と世間、イラクの人質事件について」を読むと、解放されるまでの経過について、官房長官が「情報収集に勤めている」ことを繰り返すばかりで、いざ解放されたときも、その理由が政府の交渉の結果ではなく、囚われた3人がイラクのために活動している人であって、家族が心配していることだった。今回は惨殺されてしまったが、政府の対応が相変わらずだったこともまた、日本という国の姿勢のダメさ加減を再確認することになった。
・「自己責任」ということは、助ける必要はないということを意味する。ネット上で身代金要求が公開された後はもちろん、政府は昨年囚われた後、ほとんど何もしなかったようだ。官房長官はそのことを「テロ集団とは交渉しないし、身代金の用意もしなかった」と、しれっと発言したが、にもかかわらず批判はあまり出ずに、政府の対応を支持する声が6割にもなった。
・海外の反応は、こんな世論が理解しにくいものだということだった。人質交渉をして身代金を出してはいけないと言ってきたアメリカのオバマ大統領ですら、後藤さんのジャーナリストとしての活動を讃えているし、彼の著書を紹介しながら、その死を惜しむ声などもあった。そもそも、自己責任であっても、国民を助けるために全力を尽くすのは、近代国家であれば当然のことのはずだが、日本では「言うことを聞かない奴は放っておけ」という声が多数派を占めている。何でこんなに冷たいのかと思うし、「責任」ということばの不可思議さについて改めて考えてしまった。
・他方で日本は責任を取らない「無責任大国」だと言われている。第二次大戦の責任は誰がとったのかあいまいだし、福島原発事故の責任を東電はもちろん、政府や役人の誰一人としてとっていない。何か事故が起これば警察が現場検証をして、過失があれば犯罪として扱うはずなのだが、警察はまったくなにもしていない。上に立つ人の責任は問わずに、多数派から外れた者、空気を読めない者、社会から落ちこぼれた者には「自己責任」といった冷たい罵声が浴びせられる。何ともおぞましい国になってしまったものだと思う。
・就職ができない、仕事がうまくいかないことを理由に悩んだり、自殺をしたりする若者たちが直面するのが、この「自己責任」だと言われている。本当は自分ではなく他人や社会、あるいは政治や経済の仕組みの問題なのに、自分に責任があるかのように思い込んでしまう、思い込まされてしまう。「自己責任」とはまさに強者から弱者、多数派から少数派に浴びせられる恫喝のことばで、誰もが常に、言われるのではなく、言う側に立ちたがる傾向を持っている。「いじめ」の構造そのもので、日本の社会全体が、そんな空気に包まれていることを思い知らされた気がした。