2021年9月6日月曜日

拝啓菅総理大臣様

 

・首相宛にこのコラムを書くのは7年ぶりです。前回は安倍前総理で、首相の座について2年ほどで、「集団的自衛権」「秘密保護法」「TPP」「消費税増税」「年金の減額」「介護保険制度の改悪」「残業手当の廃止」、そして「憲法の軽視」と続いた暴挙に危機感を持って書いたのですが、安倍政権はその後6年も続きました。その間に、日本はずいぶんひどい国になってしまいました。後を継いだ菅政権が’、いっそうひどい状況をもたらしましたのは言うまでもありませんが、とうとう、辞任を表明しました。

・コロナ禍はオリンピック直前から第5波に入り、最大では全国で一日に25000人以上の人が感染しました。これまでで一番大きなもので、軽症者だけでなく中等症者も入院しにくい状況に陥っています。政府はそれを「自宅療養」といったことばで誤魔化していますが、それは「自宅放置」以外の何ものでもありません。ほとんど治療を受けず、ただ家で寝ているだけの人が全国で12万人を超えました。急に重症化する人、亡くなってしまう人がたくさんいるのは明らかですが、厚労省はその実態を把握できていないようです。

・今流行している「デルタ株」は飛沫ではなくエアロゾル(大気浮遊粒子状物質)で感染すると言われています。互いに飛沫が届かない距離をとりあっても、同じ部屋にいるだけでうつってしまう危険があるのです。感染例の一番は家庭内だと言われていますから、感染して自宅に放置された人が、他の家族にうつしてしまうことは避けられないでしょう。ところが政府は、このエアロゾルを公言せずに、相変わらず、人流や飲食を共にすることによる濃厚接触の危険ばかりを訴えています。しかし、外食はするな、人の集まる所へは行くな、県をまたいだ移動はするなと言っておきながら、オリンピックもパラリンピックも強行したのですから、国民が言うことを聞くはずはないのです。

・今がこれほどひどい状況なのに、菅首相は自らの政権の維持に懸命なようでした。コロナ対策のための臨時国会を拒否しながら、衆議院解散のためだけに国会を開こうとしているなどと聞くと、自分のことしか考えていないことがよくわかりました。どんなにあがいても、菅は既に国民の信頼を失い、早くやめて欲しいと思われていたのですが、そんなことはお構いなしに、権力の座にしがみつこうとしていたのです。その最後の悪あがきは、みっともないことこの上ないものでした。

・安倍前総理について、このコラムで戦後最悪で最低の政権だと書きました。しかし菅政権は、最悪・最低をさらに更新し続けたと言えます。安倍は嘘つきで、戦前回帰のアナクロニズム(時代錯誤)の持ち主でしたが、菅は権力の座につくことだけしか能のない人で、頭は空っぽの頑固者です。そもそも自分のことばで人を説得させる能力に欠けた人間がなぜ、首相にまで昇りつめることができたのか。日本の政治がなぜダメなのかを、これほど体言した政治家は、他にはいないでしょう。

・政治家とは、自分の考える理想や哲学を演説によって人びとに訴えかけて、その支持を力に政策を実現させる人のことです。残念ながら日本には、それを得意とした政治家はごく少数でした。安倍は嘘で誤魔化すことに長けた政治家ですが、菅は演説はもちろん、嘘さえうまくつけない話し下手で、官僚の書いた原稿すら読みまちがえるお粗末な人間です。

・この後誰が首相になるのか分かりませんが、安倍がキングメーカーだなどと聞くとうんざりします。オリパラで騒いだメディアが、次は自民党の総裁選びを煽って、野党の存在感がますます薄くなっています。衆議院選挙が終わった頃には、さらにひどい第6派が始まっているかもしれません。オリパラ後の不況も深刻化するでしょう。政治の無能さばかりが目立つ中で、日本は一体どうなってしまうのか。古今未曾有の厳冬の到来にならないことを願うばかりです。

2021年8月30日月曜日

二つの映画主題歌

・テレビがオリンピックやパラリンピックばかりやっているから、Abemaで大谷の試合を見たり、Amazonで映画を観ることが多くなった。何本も見た映画の中で主題歌が二つ気になった。映画のエンディングはほとんど見ずにやめてしまうのだが、「いい歌だな!」と思って二つとも最後まで聴き、誰の何という歌なのかをネットで確認した。

themule.jpg・一つ目はクリント・イーストウッドが監督主演する『運び屋』で、2019年に公開された彼の最新作だった。クリント・イーストウッドは91歳でなお現役の監督兼役者だが、この映画の主人公も90歳を過ぎたコカインの運び屋だった。園芸家としての仕事がうまくいかず、家族とも不仲になった老人が、それとは知らずにコカインの運び屋になって、何度も成功させる。老人が運び屋とは思わない警察のまごつきや、疎遠になった妻の最後につきあう様子などがあって、いい映画だと思った。

・その最後に流れたのはトビー・キースの「Don't let the Old Man in」で、切々と歌う低音の歌声に聴き入った。ベテランのカントリー・ミュージシャンのようだが、僕は知らなかった。ウィキペディアで調べると、愛国的な内容の歌もいくつか作っていて、トランプの大統領就任式にも招かれて歌ったようだった。YouTubeで他の歌も聴いてみたが、確かにそんな感じの歌が多かった。だからCDを買う気にはならなかったが、「Don't let the Old Man in」は歌詞もなかなかいいと思って、YouTubeでくり返し聴いている。

もう少し生きたいから この年寄りを呼びに来ないでくれ
ドアをノックしたって 呼ばれるままにはならない
自分の人生にいつかは終わりが来ることはわかっているんだから

rbg.jpg・もう一つはアメリカ初の女性連邦最高裁判事だったルース・ベイダー・ギンズバーグを主人公にした『ビリーブ 未来への大逆転』で、主題歌はケシャが歌う「Here Comes the Change」だった。ぼくはケシャについても何も知らなかったが、奇抜なメイクなどで、日本でも人気があるようだ。

・この歌は映画のために作られたもので、彼女はオファーをもらった時の気持ちを「自分はふさわしくないと思った。作曲はとても個人的なプロセスで、大体は自分自身が体験したことからインスピレーションが来る。だから、誰か他の人の人生についての曲で、それもルース・ベイダー・ギンズバーグ判事っていうことで、ちょっとおじけづいてしまった」が、「生涯をかけてたゆむことなく、また速度を緩めることもなく平等のために闘ってきたギンズバーグ判事に敬意を表するために私ができることをやりたいと思ったし、私も声を上げたいと思った」と語っている。

・ギンズバーグ判事は昨年87歳で亡くなって、トランプ大統領は選挙間近にもかかわらず、その後任に保守派の女性を任命した。ギンズバーグの人生がアメリカの法律にある性差別を指摘し、改善するために戦ってきたものであることは、映画でもよくわかった。大学に女性用トイレがなかったこと、弁護士として女性を雇う法律事務所がなかったことなど、この映画は「性別」を当たり前とする社会ヘの挑戦がテーマで、題名も「On the Basis of Sex」だが、邦題には、そんな意味が考慮されていなかった。『ビリーブ 未来への大逆転』では、何のことかわからないが、日本人にはこの方が訴求力があるのだろうか。

2021年8月23日月曜日

伊藤守編著『ポストメディア・セオリーズ』(ミネルヴァ書房)

 

postmediatheories.jpg オーソドックスなメディア論はメディアの種類や特性ごとに分類して行われてきた。新聞や雑誌といった印刷物、ラジオや電話といった音によるもの、そしてテレビや映画などの映像によるものである。もちろん現在でも、それぞれのメディアは別々に存在していて、独自なものとして扱われている。けれどもまた、それらのメディアから発信される情報や作品は、パソコンやスマホで見たり聞いたり読んだりすることがあたりまえになった。たとえば電車の中でよく見られる光景は、新聞や雑誌、あるいは本を読むのではなく、スマホを見つめる乗客たちである。この変化をメディア論はどう扱うのだろうか。この本が狙うのは、そんな変化の理論的な考察である。

メディアにおける大きな変化の根幹にあるのは、アナログからデジタルヘの移行である。それは個々のメディアにあった紙や音や映像といった特性や垣根を超えて一つにしてしまった。そして、この新しいメディアはマスメディアが特権的に所有していた一方向性という特徴を崩して、誰もが送り手になりうるという双方向性を可能にした。しかし、アナログ・メディアがそれぞれに持っていた固有な特徴が消えてしまったわけではないし、双方向性の実現がメディアの民主化をもたらしたというわけでもない。そんなポストメディア的な状況は、極めて複雑で渾沌としていて、また絶え間ない変化を伴っている。

このような難しい課題について、この本は「マシーン(機械)」「フォルム(形式)」「デザイアー(欲望)」「アルケオロジー(考古学)」の四部構成で展開している。そのすべてを紹介することはできないので、興味深かった発想や視点をいくつか取り上げることにしよう。

ひとつは映画やテレビ、パソコンやスマホなどを「スクリーン」として一括して捉えるという視点である。とりわけパソコンとスマホは、映画作品もテレビ番組もネットを介してみることができる。それは場所も時間も規制されないし、もちろん、その持ち主や仕事や遊びといった使用目的にも限定されない。公共の場にたまたま集う人たちは、それぞれが「スクリーン」を手にしていても、その使い方はさまざまである。このような現状をどう理論化していくか。それは「部分部分の描出の積み上げ自体が全体の認知を導くような枠組みとしての理論を複数実装」する必要性だという。

デジタル・メディアが提供するコンテンツには必ず、特定のフォルムがある。文字にはUnicodeなどの符号化形式があるし、音や映像にはmpgやmovといたファイル形式がある。アナログのデータはこのようなフォルムに変換して初めて、文字や音や映像として、スクリーンに再現させることができる。ただし、再現されたものの本質は、何にしても、0と1の数字の並びに過ぎない。アナログ(オリジナル)とデジタル(コピー)は同じものだと言えるのかどうか、といった疑問があるし、デジタル化されたものには加工が容易だといった特徴も生じた。

この本では大きく取り上げていないが、検索サイトから出発した「Google」や、「Twitter」、「Facebook」,そして「LINE」といったSNSの場や多種多様なゲームの世界が、それぞれ独自のフォーマット(プラットフォーム)によってできていることは言うまでもない。この「プラットフォーム」には技術的な問題だけでなく、当然、政治的、経済的、そして社会的問題がつきまとう。「GAFA」はそれぞれ巨大な「プラットフォーム」として世界の政治や経済、そして社会を動かす存在になっているが、また、その場は、影響力の強い政治的発言の場となり、有名人を生み出し、巨額な収入を得る場ともなっている。買い物の仕方を変え、音楽や映画、そしてスポーツの享受の仕方も変えたことは言うまでもない。

このような変容をどう捉えたらたらいいのか。この本の最後で語られているのはメディアのアルケオロジーである。もう一度古いメディアに立ち返って、そこから現在の状況を問い直してみる。それをメディアに関する技術と理論、そしてメディアがもたらした社会、さらには人間の意識下の動きから考えるというのは、極めてまっとうな方法だと思う。しかも重要なのは、既存の主流のメディア論ではなく、「傍流のメディア思想」だと言う。もちろん、この本はその出発点に立っている。


2021年8月16日月曜日

どこにも行かない夏


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・先月榛名湖と軽井沢に一泊旅行をしただけで、この夏はどこにも行っていないし、行く予定もない。大きな理由はもちろん、コロナの感染爆発だ。去年は北海道に十日間ほど出かけたが、この夏の感染状況を考えたら、とても無理だと判断した。もちろん東京にも、今年は一度も行っていない。母とも孫とも会えない日が、一体いつまで続くのか。いい加減うんざりするが、当分は無理だと諦めている。

forest177-2.jpg・山梨県もこのところ感染者が増えていて、つい最近、車にドライビング・レコーダーをつけようと予約したら、スバルの営業所から感染者が出ましたという連絡があった。店には入らず車を置いて帰ったが、身近で聞く初めてのニュースだった。いよいよ迫ってきたかと思ったが、だからといって、ワクチンをとは思わなかった。家にいればほぼ無菌状態だし、出かけるのは週一回のスーパーへの買い物だけで、後は自転車と山歩きだけで、訪問者もいないからだ。もっとも、絶対拒否というわけではない。必要だと思ったらやろうと考えている。

forest177-3.jpg・もちろん、どこかへ出かけたいし、誰かとも会いたい気持ちはやまやまだ。しかし、コロナ以外にも、ここ数年の夏は、どこに行っても猛烈な暑さだから、家にいるのが一番!といった気持ちにもなっている。先日は八王子で39度といったニュースを見た。その時わが家は27度だったから、「ここは天国だね」とパートナーとうなずきあった。湖畔は30度を超えていたようだが、森の中は数度低いし、屋根の葺き替えをしたおかげで照り返しがなくなって、家の中はさらに涼しくなった。だから去年買った扇風機も、今年はあまり使う必要がなくなった。

forest177-4.jpg・それでも自転車は朝の涼しい時にと決めている。家に帰れば汗びっしょりになるし、熱中症にもなりかねないからだ。オリンピックのロードレースを観てから、心なしか気張って漕ぐようになった。先日西湖に出かけて急坂を登りはじめると、ちょっと前に先行者がいて、思わず力が入って抜き去ってしまった。後で記録を見ると、いつもより1分以上も早く駆け上がっていて、競う相手がいるとこんなに違うものかと驚いた。コロナでカヤックもご無沙汰だったが、久しぶりに西湖に浮かべた。組み立て方を迷うほどしばらくぶりだったが、快晴の中、富士山を見ながら湖に浮かんで心地よかった。

・お盆になって、湖畔にも車の列や人混みができはじめた。ちょうど天気も悪くて雨ばかりだったから、本当にどこにも行かずに家の中で過ごした。一日の中心は大谷君の出る試合だった。オリンピックが始まって、NHKが中継をしなくなったが、スマホをテレビにつなげてAbemaTVで見ることができた。ここのところホームランが出なくて心配だが、投手としては、力任せではなく頭脳的なピッチングで安定している。若いのにこんな面でも感心してしまう。

creampuff.jpg・ここのところ、菓子作りにも励んでいて、カボチャやサツマイモのプディング、それにシュークリームを作ったりしている。プディングはクリーム状にならずに、どうしてもざらつきが残ってしまう。卵を少なくしているせいか、生クリームを入れないためか、これからもあれこれ考えて作ろうと思っている。外食しないから、食事もデザートも時間をかけてじっくり、ゆっくり作る。生きるをおいしく味わうために、お金を払って人にやってもらうのではなく、自分でやる。コロナ禍もあって、こんなモットーが、ますます生活にしみ込んできた。

2021年8月9日月曜日

強者どもが夢の跡

 ・オリンピックが終わった。残ったものはコロナの感染爆発で、日本選手の活躍はメダル・ラッシュとはいっても、地味な種目ばかりだったから、その勢いで衆院選にという思惑は、外れたと言っていいだろう。当初の予算の4倍以上の金を使い、終わった後も維持管理に高額な費用がかかる施設を造ったのだから、後始末をしっかりする必要があるのだが、おそらく政府や都や、オリンピックの組織委員会は、フタを閉めて知らん顔を決め込むことだろう。後は野となれ山となれで、まさに「強者どもが夢の跡」になることは明らかだ。おそらくパラリンピックも中止になるだろう。

・しかし、この2週間の間、一番腹が立ったのは、テレビや新聞といったメディアだった。テレビはどの時間にどのチャンネルを見ても、オリンピックばかりで、ほとんど見るものがなかったし、新聞もオリンピックに割いているページばかりで、読むものが少なかったからだ。そこに、全く無関係であるかのようにコロナの感染拡大を報じるニュースや記事を挟み込んでいるから、両者がまるで別世界の出来事であるかのように感じてしまったが、その関係を問わない、というよりはあからさまに隠そうとする姿勢に、もう日本のマスメディアは本当に死んだと思ってしまった。

・コロナ禍と猛暑の中で行われた競技で、参加した選手たちも大変だったろうと思う。暑すぎるから時間をずらせと抗議したのはテニスのジョコビッチ選手だが、有名だからこそ取り上げられたわけで、何も言わずに我慢した人たちも多かったのかもしれない。事前の国内キャンプがキャンセルされて、不十分な調整で望んだ選手が多かったなどの条件が重なって、いつもなら続出する陸上や水泳の世界新記録がほとんど聞かれなかった。日中は40度にもなったフィールドでは、世界新など出るはずもなかったのである。猛暑の中でのオリンピック自体が無謀だったのに、それにコロナが加わっても決行した日本について、おそらくこれから批判の声が上がるだろうと思う。

・そもそもオリンピックは、海外からの観光客の増加をいっそう進めようとする国策のひとつだった。それがコロナ禍で無観客でやらざるを得なくなった。コロナ禍はまだまだ続くから、当てが外れたホテルや外食産業が受ける打撃は、この後ますます大きなものになるだろう。オリンピックは「コロナに勝った証し」どころか「コロナに負けた見本」として語り継がれることになれば、後世の人に、なぜ中止しなかったんだと責められることなってしまう。負けるとわかっていた戦争を日本はなぜ始めてしまったのか。戦後生まれの人たちには謎だったことが、オリンピックを強行した過程をつぶさに見ることで、その理由がよくわかったはずである。

・ところで、オリンピック自体も、金にまみれたうさんくさいものであることが白日に晒されたと言えよう。IOCのぼったくり体質や貴族のように振る舞う委員の態度は世界中から反感を買ったし、それに異を唱えたり、批判することもしなかった日本政府や都の卑屈な姿勢もあからさまになった。オリンピックは次回はパリで、その次はロサンゼルス、そしてオーストラリアのブリスベンと決まっている。冬季は来年の北京の後はミラノだが、その次は未定だ。果たしてこれらの大会が予定通り開催されることになるのだろうか。大会自体の性格や質を大きく変えなければ、続けることが難しくなるのではないだろうか。少なくとも僕は、オリンピックはもうやめたほうがいいと思う。以前から感じていたが、今回のオリンピックではっきりそう思うようになった。

・スポーツは各種目や競技でそれぞれ、ワールドカップや世界大会などの大きなイベントが開かれている。サッカーや野球に典型的なように、オリンピックはマイナーな大会と捉えられている競技も数多い。しかも、普通はほとんど話題にもならないし、メディアにも大きく取り上げられることのない競技や種目が、連日、次々行われて、観戦者はただ自国の選手が出ているかどうか、どの程度の成績かなどの興味しか持てない場合が多い。サーフィンやスケボー、あるいはクライミングをなぜ、オリンピックでやらなければならないのか。若者に人気の新種のスポーツを加えて注目度を増すことを狙ってのことで、あからさまな商業主義の見本のようなものだろう。オリンピックはもうやめよう。そんな声が大きくなるきっかけの大会だったと思う。

2021年8月2日月曜日

自転車ロードレースだけ観た

 

・ テレビがオリンピック一色になって、見るものがなくなった。毎日楽しみにしていたMLBの試合をNHKは中継しないから、スマホをテレビに接続してAbemaTVやYouTubeで見ている。今日はどっちで見るか、見られるか。試合が始まるとあれこれ試さなければならないから、オリンピックが邪魔で仕方がない。もともと興味のない種目で日本がいくら金メダルを取っても、そんなことには興味も関心もない。大騒ぎしているだろうテレビなどは、見る気にもならない。それにしても、エンジェルスは弱いが、大谷は打って、投げて、走ってと孤軍奮闘の活躍だ。このまま行けば間違いなくMVPだろう。試合中も大谷が出ると「MVP!、MVP!」の大合唱になる。

roadbike2.jpg ・ オリンピックは観ないと書いたが、一種目だけ観たものがある。男女の自転車ロードレースで、両方とも、ネットで長時間つきあった。レース自体は単調だが、マラソンとは違って面白いシーンもあった。何よりスタート地点の武蔵の森公園は実家の近くで、周囲の道は熟知しているし、道志から山中湖、篭坂峠を下って富士山に登り、富士スピードウェイに至るコースも、車では何度も走っていて、わかっていた。山中湖は自転車で1周したこともあった。

・コースの全長は男子が244kmで女子が147km、獲得標高は男子が4865mで女子は2692m。この距離と大半が登り坂のコースを男子は6時間、女子は4時間ほどで走った。僕は平坦な道をおよそ30km弱で1時間ほど走るのを日課にしているから、レースがどれほどの早さで走っているかがよく分かった。平坦な道なら50km、登り坂でも30km、下り坂になると80kmを超えるスピードを出すのだから驚いてしまう。しかも連日の酷暑で山中湖だって30度近くあったはずだ。熱中症になって倒れる選手がいなかったのが不思議なくらいの過酷なレースだったと思う。

roadbike1.jpg・ロードレースは個人競技だが、複数の選手が参加する国では、それぞれに役割が与えられている。強い国は最高5人まで参加できるから、一人は、水や食料の調達と配布役になって、集団の中を行ったり来たりする。あるいはエースに何かあって遅れたりすれば、風よけになって先導して集団に追いつけるようにする選手もいる。オランダは、そうやってサポートされた女子選手が銀メダルを獲得した。ツールド・フランスでもそうだが、ロードレースには役割分担を徹底させた団体競技という性格が強くある。

・もうひとつ、6時間も休まずに走り続けていれば生理的欲求もあるはずだ。今回代表で参加し、35位で完走した新城選手が、走りながらしちゃうんだという話をしていたことがある。タイツの脇からちょっと出してするから、自分だけでなく周りの選手にも飛沫がかかる。皆やるから気にしないんだと笑っていたのが印象的だった。さて今回はどうか。そんなことも気にしながら観ていたのだが、そういう行為に及んでいる選手は見つからなかった。さて女子は………。いや、やめておこう。

・ところで、今回のコースの最大の難所は富士スピードウェイから三国峠に登る道で、平均斜度が10%で最大では20%を超えるところもある。7キロほどの道で500mも上がるから、車で走ってもアクセルを強く踏む必要があるし、下る時にはエンジンブレーキを利かせないと危なく感じる道でもある。道路にはすべり止めのドーナツ状の穴があいている。そんな道を先頭の選手は平地でも走るように登っていった。すでに東京から200km近く走ってきて、なおこの元気さは人間離れしていると思ったが、多くの選手は3週間に及んだツールド・フランスを終えて、すぐに日本に来ているのだった。

・プロ選手の強靭さと過酷なスケジュールを改めて知ることになったが、女子は数学を専門にする研究者でもあるオーストリアのアマ選手が優勝した。スタートしてすぐに飛び出して、そのままゴールまで先行したのだが、プロのレースでは、ありえないことのようだった。彼女にはもちろん、サポート役もついていなかった。2位になったオランダの選手はゴールするまで優勝したと思っていたようだ。他の大きなレースでは使われるコーチからの無線連絡が禁止されていた結果で、それも面白いと思った。

・テレビ中継がなかったせいか、沿道には大勢の観客がいた。特に府中の大国魂神社周辺は大混雑だったようだ。テレビや新聞には批判の声が多く上がったようだが、オリンピックを強行しておいて、見に行くなというのは、主催者の身勝手というものだろう。それで感染者が増えるのなら、それは主催者にこそ責任がある。メディアから聞こえる批判は、責任逃れの言い分でしかないのである。もっとも僕は、ワクチン接種をしていないから、人混みには出かけない。

2021年7月26日月曜日

榛名富士と軽井沢

 

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photo92-2.jpg・いつもなら、夏休みは長期の海外旅行をとなるはずなのに、去年も今年もできないでいる。代わりに、去年は車で北海道に行き、都市部は避けて10日間ほど旅したのだが、さすがに今年は無理だと判断した。もちろんコロナ禍が理由で、効き目や副作用がはっきりしないワクチンを打っていないということもある。とは言え、どこにも行かないというのもつまらない。と言うわけで、榛名山に行って軽井沢に1泊しようということになった。榛名山にしたのは榛名神社の奇岩をちょっと前にテレビで観て、興味をもったからだ。

・早朝、まだ涼しい時間に出発して、中央道から圏央道、関越道と乗り継いで3時間ほどで着いた。車を降りると海抜は高いのに、榛名神社はむっとする暑さで、湿度がものすごく高かった。奇岩をめぐって神社まで歩くと、もう汗びっしょりになって、ぐったり疲れてしまった。奇岩や巨岩を御神体にする神社としては熊野の新宮にある神倉神社に行ったことがある。その時は圧倒されたが、今回はテレビで見たほどではなかったと思った。道々にある七福神の像は余計なもののように思ったが、何か理由があるのだろうか。

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・神社から榛名湖へ移動。ロープウェイに乗って山頂に登った。湿気が多く、かすんでいたから、遠くにあるはずの山々はほとんど見えなかった。榛名湖は富士五湖の西湖よりも小さい円形の湖で、もう少し涼しければ、自転車やカヤックを持ってきたのだが、何しろ暑い。標高が高いのに30度を超えている。長居をせずに軽井沢に向かった。途中で妙義山の山容に出くわして麓の神社に行くことにした。急坂の上にあって行きたかったが、あまりに暑くて諦めた。碓氷峠のつづら折りを登って軽井沢へ。車が多いし、人も多い。どこにも寄らずに万平ホテルに着いた。一休みして付近を散策すると、旧軽井沢だから、瀟洒な別荘が並んでいた。

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・万平ホテルはジョン・レノンが滞在したことで有名で、一度泊まりたいと思っていた。レノンゆかりのものはなかったが、居心地の良さはわかった。ただし高額だから何日も滞在というわけには行かない。翌日は佐久から清里を走り、八ケ岳や甲斐駒ケ岳を眺め、道の駅で野菜をたくさん買って家路に着いた。甲府は35度超えのようだったが、家に近づくと気温がどんどん下がって、家に着くと25度ほどだった。涼しくてほっとした。