2025年3月17日月曜日

無理が通れば道理が引っ込む

 

トランプ米大統領の傲慢で横柄な発言が止まらない。輸入品に高額関税をかけることを最大の武器にしているのだが、関税分を負担するのは売り手ではなく買い手だから、払うのはアメリカの消費者自身なのである。トランプの発言に拍手喝采する人は、そのことをわかっているのだろうかと疑問に思う。物価が上がり消費が減って経済が減速するから、当然景気は悪くなる。実際アメリカの株価は急降下していて、それが世界中に影響を及ぼしている。こうなることははじめからわかっているのに、トランプはこれがアメリカ・ファーストの政策なのだと豪語する。まさに無理が通れば道理が引っ込むのである。

トランプのやり方はウクライナやパレスチナに対しても変わらない。武器を援助して欲しいならレアアースをよこせと言ったり、ガザからパレスチナ人を追い出して、破壊された町を復興させるといった発言は、大国の大統領が言うとはとても思えないものである。フランスのマクロン大統領が核の傘をアメリカに頼らず、欧州独自で作ると発言している。トランプの発言はプーチンやネタニアフにとっては渡りに船だろう。道理が引っ込んで混乱した世界はどうなるのか。それを回避するために必要なのは、アメリカ国民が事実に気づくことだが、そんな兆候は見られない。

無理を通すやり方は日本にも溢れている。一度失職をした兵庫県知事が、不当なやり方で再選し、百条委員会で知事にあるまじき行為を断罪されているのに、それは一つの見方に過ぎないと無視しようとしているのである。この人の悪行は数えきれないほどだが、平気で知事の座に居座り続けている。リコールの請求ができるのは再選から1年を過ぎなければならないから、斎藤知事は少なくとも1年間は安泰なのである。自業自得とは言え、兵庫県民にとっては頭の痛い話だと思う。

課税限度額の引き上げを主張した国民民主党が今、立憲民主党を上回る支持を得ている。玉木代表の不倫が発覚しても、その勢いは衰えないようである。その力の源泉は玉木がN党党首の立花に教えを請うて始めたSNSにあるようだ。若い人たちに重い税金が課せられ、老人がその恩恵によくしているといった嘘が信じられて、自民党や維新を支持していた若い人たちがこぞって、国民民主党支持にくら替えしたと言うのである。選挙でSNSをうまく使えば、マスメディアに頼らずとも大量に票を獲得することができる。そんな傾向が都知事選や兵庫県知事選、そして衆議院選挙で明らかになっている。このまま行けば、参議院選挙もSNSが重要な場になってくるだろう。

大阪万博が間もなく始まる。前売り券はほとんど売れていないようだし、準備も遅れに遅れているようだ。始まっても閑古鳥といった予測ができるが、ここにも嘘や無理がまかり通り続けてきた。大阪府・市はもちろん国の税金もいっさい使わないと言ったのは、これを始めた松井前知事だが、すでに1000億円以上が投入され、入場者数が少なければ、さらに赤字が増えると見込まれているのである。万博はカジノ目的というのが明らかだが、そのために無理にごみ捨て場に万博を誘致した。ここには最初から道理などなかったのである。

世の中には道理を無視した無理が溢れている。それが当たり前になったら、道理など考えるのが阿呆らしくなる。そんな気分が蔓延したら大変だが、もうすぐそこまで来ているような恐ろしさがある。

2025年3月10日月曜日

『名もなき者』(A complete unknown)

  unknown1.jpg 『名もなき者』はボブ・ディランのデビューから5年ほどを描いた伝記映画である。その初期のヒット作が次々と流れたが、それはティモシー・シャラメが自ら歌いギターやハーモニカを演奏したものだった。ジョーン・バエズ役のモニカ・バルバロやピート・シーガー役のエドワード・ノートンも同様で、この映画はアフレコを全く使わず歌や演奏を役者に演じさせている。にもかかわらず、見ていて一番よかったのは、そのライブ風景だった。コロナの影響で、できあがるまでに5年以上もかかったことが役者たちに歌や楽器を上達させる時間を与えたと言われている。

僕は高校生の時にディランのファンになって、もう60年以上も聴き続けている。この映画で歌われている曲のほとんどは、若い頃に歌って覚えていたから、映画を見ながらつぶやくように歌ってしまった。ディランの伝記は彼自身の自伝も含めていくつもあって、そのほぼすべてを読んでいるから、映画に登場するシーンのほとんどを、まるで自分の経験が再現されたもののように見てしまった。そんなふうに、ちょっと変わった映画鑑賞の経験で、その後もYouTubeなどで余韻を楽しんでいる。

この映画を知った時に、まず気になったのはタイトルだった。日本語の題名は『名もなき者』で、ノーベル文学賞まで取ったボブ・ディランがデビューしてからスターになるまでを描いた内容であることが示されている。それは確かにその通りで、映画は無名の若者がヒッチハイクをして田舎からニューヨークにやって来るところから始まるのである。しかし原題は『A Complete Unknown』で、これは『ライク・ア・ローリング・ストーン』のリフレインで次のように歌われることばなのである。

どんな気持ちなんだ
家もなくなり、全く知られず
石ころのように落ちるのは
つまりこの歌のコンテクストから言えば「名もなき者」とは全く関係ないのである。それではなぜこのことばを題名にしたのか。この映画の原作はイライジャ・ウォルドの『Dylan Goes Electric!』である。2015年に出版されたもので、日本語訳はこの映画の公開に合わせて出版され、『ボブ・ディラン 裏切りの夏』という題名になっている。生ギターでプロテストソングを歌って人気者になったディランが、エレキギターを持ちバンドを従えてロックをやる。その時のフォークソング・ファンにとって、その変化はまさに裏切りとして感じられ、映画でもラスト・シーンの大騒ぎになっている。読んでいないが、原作やその邦訳は、そのことがよくわかる題名だと思う。

「A Complete Unknown」についてのぼくの解釈は、プロテスト・フォークの旗手と祭り上げられ、ヒットした歌をくりかえし要求されることに疲れ、嫌気がさしたディランが「俺のことなど忘れてくれ」と思った、その気持ちを表しているのではないかというものである。家出をしてニューヨークに来て、フォーク界の寵児になったディランは、フォークソングの世界からまた家出をして、ロックという新しい世界を切り開いていった。そんな変節の物語を象徴することばとしてなら、確かにいい題名だと思った。

ただし、そんなディランと関わり、成長を手助けしたり、恋愛感情を持った人にとっては、ディランの変節や変貌ぶりには怒りや落胆や喪失感を持ったことだろうと思う。忘れてくれと言われたって忘れることはできない。映画に登場したピート・シーガーやジョーン・バエズ、そしてシルヴィ(スーズ・ロトロ)が感じた気持ちだった。2005年に出版された『ボブ・ディラン自伝』にはその当時の自分の振る舞いについての反省や、祭り上げられた者が感じる苦悩が語られている。あるいはマーチン・スコセッシが監督した『No direction home』はこの映画とほぼ同時期のドキュメントである。また、ケイト・ブランシェットがディランを演じた『I'm not there』も、ほぼ同時期を扱っている。本棚から取り出して、久しぶりに読み、聴き、見ている。

2025年3月3日月曜日

ネットの変貌

 

ネットの広告費がテレビの倍になった。YouTubeを見ていても数分おきに CMに邪魔されて不快な思いをさせられているから、確かにそうだろうと思う。 Amazonプライムも4月からCMが入るとメールがあった。金を払っているのにCMなしならさらに金を払えと言う。その露骨な金権主義に象徴されるように、ネットには腹の立つことが目立っている。

旧TwitterもFacebookもとっくにやめている。広告が目立つことや、詐欺が横行していること、そして何より所有者がとんでもない大金持ちになっていることに嫌気がさしたからだ。トランプが大統領に復活したら、SNSを所有する多くの人が尾っぽを振って近寄るようになった。それはAmazonの創業者も一緒だった。王様気取りで好き勝手にやっているトランプに、ITやネットもほとんど反旗を翻してはいない。こんな状況に、世の中も変わったものだとあきれ、がっかりしている。

国や大企業が独占するコンピュータではなく、個人が使えるものを作るというのは1970年代にアメリカで始まった草の根の動きだった。そこからスティーブ・ジョブズが現れアップルを起業し、パソコンを売りだした。インターネットも同様で、ネット同士を繋げ、そこで使えるソフトを開発することで新しいメディアを作りだした。僕はどちらもその狙いや理想に共感して、初期から利用してきた。パソコンやネットの世界を支配するようになったマイクロソフトに手をつけなかったのも、その商業化に批判的だったからだ。

そんな気持ちが通用しなくなったのは皮肉にも、ジョブズが開発したiPhoneの登場だった。ここからネットの世界が大きく変貌しはじめたのである。スマホやタブレットはいつでも手元に置けるし、持ち歩くこともできる。見たいもの聴きたいもの知りたいことに、いつでもアクセすることができるのだから、既存のメデイアがかなうわけはなかったのである。

その新しいメディアは今、GAFAと呼ばれる大企業に支配されている。金儲け主義の不動産屋のやり方で世界中を震撼させているトランプを批判するどころか、その政策を支えて、さらに巨大になろうとしている。パーソナル・コンピュータの萌芽期からインターネットの始まりまでを、希望を持って面白がってきた者としては、その変貌には失望と恐怖を感じるしかないのが正直なところだ。SNSだって始まりの頃はもっとほのぼのとしていて、理性的だった。

今はその頃に比べてはるかに便利だが、ITもネットもほんのわずかな企業やその支配者に牛耳られていて、それらが政治権力にべったりだ。その便利な道具を使っているのか使わされているのか。それを確かめながら使う程度の自覚は持ちたいと思う。

ところで、フジテレビが中居問題でスポンサーが離れて、収入なしで放送を続けている。広告費を使わなくなった企業の、売り上げや収入に変化がなかったとしたら、CMなどしなくてもいいんだと思うようになるだろうか。それはネット広告でも同じで、利用者にとっては邪魔で不快になるものでしかないから、宣伝効果はないとしたらどうだろうか。知名度を高めたり、売り上げを伸ばすためにはメディアでの広告が必要だ。それが真実性に乏しい虚構であることを、誰か実証したらいいのに、とつくづく思う今日この頃である。

2025年2月24日月曜日

喜寿を身体で実感する

 

とうとう数え年で喜寿になりました。薪割りをやり自転車にも乗って、まだまだ老いてはいないと思っていましたが、身体のあちこちに衰えが出始めたようです。毎年秋に町の健康診断を受けています。今まで再検査を指示されたことはなかったのですが、今回は二つありました。一つは肺に影があって、これは昨年もあったのですが、今年は再検査ということになりました。ただし昨年は右で今年は左ですから、同じ影が大きくなったというわけではなかったのです。

再検査の結果は特に問題なしでした。癌でもできていたらタバコはやめなければと覚悟しましたが、問題なしで吸い続けています。もう一つは左目で、これは自覚症状がありましたから、健康診断前に眼科で見てもらっていました。白内障の初期段階ということで、今後の経過を見ましょうと言われていました。明るいところから暗いところに行くと左目だけかすんでしまったり、左右の端が二重に見えるという症状は1年ほど前から出はじめていました。

悪玉コレステロール値が高いのは中年の頃から変わりません。心臓や脳の疾患の原因になると言われていますから、食事に気をつけ運動もしているのですが、数値はほとんど変わりません。揚げ物が原因かもと、油をオリーブオイルに代えたり、さしの入った肉は食べないようにして、野菜もたっぷり食べていますから、これ以上改善する余地はありません。体質の問題かなと、勝手に考えることにしています。

耳が聞こえにくくなっているのは、すでに補聴器を試した時に書きました。結局購入したのですが、その費用は何と50万円近くにもなりました。一番安いのは30万円程で買えましたが、出たばかりの新型で、しかもiPhoneで微妙な調整ができ、イヤホーン代わりに使える機能をつけたことで15万円も高くなりました.ここにはおそらく円安の影響もあったと思います。もっと精度を増そうとすれば100万円を超えるのですが、驚いたことに補聴器自体は同じで、使える機能をソフトで調整するだけで金額が大きく変わるのでした。

メガネに補聴器、それから入れ歯です。歯は若い頃から悪かったのですが、河口湖に来て薪割りをやったせいでしょうか。奥歯ががたがたになって、今では入れ歯なしでは食事もできない状態です。もうせんべいは食べないことにしていますが、好きなピーナッツは欠かせません。ところがそれによって歯茎に傷がよくつきます。それにほっぺたも噛んだりして、食事の時に気をつけるようになりました。がつがつとあっという間に食べるとパートナーに言われ続けてきましたが、今はゆっくり噛まないように気をつけて食べています。

ここのところ毎日、チェーンソーでの玉切りや薪割りを続けています。時間は午後の2時間だけですが、かなりの重労働だと思います。腕や足の関節や筋肉が痛いのは日常ですが、外見的にはまだ何とかなりそうです。身体を動かした方が体調には良い。それは確かですが、無理をすれば故障しますから、そのバランスに気をつけることが何より大事になってきた気がします。

2025年2月17日月曜日

松を片づける

 

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伐採した松の小枝を片づけた後は、いよいよ幹の玉切りと薪割りである。太いの細いの含めて長さ3mで24本の原木だが、どこまでできるのか。上に乗った木から玉切りをしておよそ1ヶ月で16本を切り、そのほとんどを薪にした。薪は二つのスイス積み(ホルツハウゼン)にして中を空洞ではなく枝を積めることにした。これはYouTubeで倒れにくくなり、しかも中も乾くとあったのを見つけたからだ。そうすると一度スイス積みにした枝のほとんどを中に入れることができた。上には雨よけにとカラマツの皮を敷き詰めた。

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forest207-6.jpg この冬は12月から厳しい寒さで、薪の消費量も多かった。煙の苦情を避けるために昼間は燃やさないが、それでも薪の減り方はすごかった。2年以上乾かした薪の残量は右(→)だけになったから2月末までも持たないだろう。1月中旬から春めいてきたのに超弩級の寒波到来で一気に減ってしまったのである。さてこの後どうなるか。来冬用に予定していた1年ちょっと乾かした薪を使うことになるが、幸い、また原木をもらったから、松と合わせて使えば、この先数年は大丈夫だろうと思う。まだしばらく玉切りと薪割りをしなければならないが、冬を快適に過ごすためにはそれなりの苦労と努力がいるのである。

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forest207-9.jpgところで、カラマツの皮をはぐ作業をしていると、たくさんの幼虫が出てきた。それを皿に集めて鳥の水場に置くと翌朝にはほとんど食べられていた。その味を覚えたのか、その後には薪割りしている時に鳥がまわりをうろうろするようになった。多分ヒヨドリだろうと思う。ここにはアカゲラが来るしシジュウカラやジョウビタキも来る。数日見ていると、いろんな鳥がやって来た。

2025年2月10日月曜日

マリアンヌ・フェイスフルについて


この欄では死んだ人を取り上げることが定着してしまったようだ。で、今度はマリアンヌ・フェイスフルである。僕は彼女のライブを大阪で聴いている。1997年のことで、会場はバナナホールだった。その時の感想についてはこの欄でも書いたことがある。(→)

marianne2.jpgマリアンヌは何よりミック・ジャガーの恋人として有名で、デビュー曲はミックの作った「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」だった。オーストリア貴族の血を引く名家の生まれで清純派のイメージだったから、僕はほとんど興味がなかったが、彼女の歌を聴くきっかけになったのは、カナダ人の友達から教えてもらった一枚のCDだった。CDのタイトルは「ブロークン・イングリッシュ」だったと思う。このアルバムは1979年にリリースされているが、僕が知ったのは90年代の初めで、何よりそのしわがれた声におどろいたのだった。声が変わった理由は流産や自殺未遂、アルコールやタバコ、それにドラッグ中毒などで苦しむ時期を過ごしたことによるのだった。

marianne1.jpgその声や歌い方に魅了されて何枚もアルバムを買ったが、ロックというよりはシャンソンのような歌が多かった。好きな曲に「ストレンジ・ウェザー」がある。これはトム・ウェイツが彼女ために作った歌で、同じ曲で二人ともガラガラ声なのに、歌の感じが違っていて、どちらも面白いと思った。マリアンヌの歌はけだるくて、トムのはうら寂しい。
世界中、どこへ行っても見知らぬ者同士はお天気の話だけをする
どこへ行っても、同じ、同じ、同じ
それがはじまりで、それが終わり
見知らぬ者たちが離れると
そこに霧が立ちこめた(Strange Weather)
とは言え、彼女の歌をよく聴いたのは90年代で、2000年代になってからは14年に出た『ロンドンによろしく』しか買っていない。理由は97年に出かけたライブでの印象がものすごく悪かったからだった。その年に出したばかりの『シングス・クルト・ワイル - ワイマールの夜』からの歌だけを1時間ほど歌って終わってしまったのだった。そのサービス精神やる気のなさは、彼女にしてみれば地の果ての場末のホールで歌う阿呆らしさだったのかもしれない。

マリアンヌ・フェイスフルは享年78歳である。僕と二つしか違わないんだと改めて認識した。というわけで、例によって 彼女のCDを引っ張り出して久しぶりに聴いている。

2025年2月3日月曜日

稲村・山際他『レジリエンス人類史』京都大学学術出版会

 
「レジリエンス」ということばは聞きなれなかったが、最近よく使われているらしい。辞書を引くと「回復力」といった訳語が当てられている。このことばを題名にした本もかなりあって、その多くは心理学関係のようだ。心が折れない、逆境に負けないなどだが、地球環境や科学をテーマにする本にもつけられている。 そういえば、政府が掲げる「国土強靱化」も英語では「ナショナル・レジリエンス」となっている。ずいぶん幅広く使われているんだと改めて思った。

resilience1.jpg 『レジリエンス人類史』は京都大学の人類学や霊長研究所などのスタッフが中心になってまとめたアンソロジーである。ここでは「レジリエンス」は「危機を生きぬく知」と定義されていて、人類の長い歴史はもちろん、ゴリラやチンパンジーなどの類人猿についての研究や、世界中の様々な地域を対象にしたフィールドワークなどが25の章で構成されている。極めて多方面に渡る内容だが、共通しているのは、現代が危機に瀕している時代だという認識である。

人類がチンパンジーから別れたのは700万年前で、その違いは二足歩行にあった。その理由は気候や地殻の変動によって食べ物や住環境に大きな変化が起きたことによると推測されている。つまり進化はレジリエンスによって生じたというのである。樹上や狭い範囲で地上を移動する類人猿とは異なって、ヒトは広範囲に移動して、食べ物を探すようになったが、そこからアフリカを出て移動を始めたホモサピエンスが登場するのは30万年前である。

そのヒトが類人猿から大きく進化させたのが「共感能力」だった。仲間同士で食べ物をわけあうこと、共同で狩りをすること、子育てを協力して行うことなどだが、ここから複数の家族が一緒になって暮らすという社会が登場するのである。しかしこの能力には、同時に異質なものに対する敵対心や攻撃性が伴うことになる。ホモサピエンス以前にネアンデルタール人などがアフリカを出てヨーロッパやアジアなどに広がったが、その絶滅の謎をこの本ではホモサピエンスによるものだと断定している。あるいは、地球上に広がりながら、多くの大型動物を狩って絶滅させてきたとも。

世界中に行き渡った人類は狩猟採集から定住した農耕生活を始め、いくつもの文明を築くことになる。ここで取り上げられているのは新大陸で、インカ帝国に至る多様な文明の盛衰やアマゾンに暮らす狩猟採集民であったりする。あるいはモンゴルの遊牧民や太平洋の孤島に暮らす人々なども取り上げられていて、それぞれについて「レジリエンス」をキイワードにして議論が進められている。

で、最後に扱われているのが現代の危機とレジリエンスということになる。扱われているのはルソン島の大噴火によって多くの人命や生活の場が失われた人びとや、原爆実験で移住を強制された人びとの再生といったテーマの他に、コロナによるパンデミックや東日本大震災における「予測」できたのに「想定」しなかったといった問題などである。

この本で語られる人類が危機をどう乗り越えたかといった事例は、どれも興味深いものである。しかし今人類が遭遇している危機は気候変動や環境の汚染にしても、人口爆発と食料難にしても、国際的な紛争と核の脅威にしても、地球大の問題で世界中の国々が互いにそれを共感しあって対応しなければとても乗り越えることなどできないものである。それがどうやったら可能になるのか。アメリカだけが豊かになればいいと公言するトランプが再選された直後だけに、現在の危機の深刻さを実感した。