2008年6月29日日曜日

ジャニス・ジョプリンの孤独

 

janis1.jpg・ジャニス・ジョプリンは27歳で生涯を閉じている。原因はヘロインの多量摂取で、遺作になった「Pearl」の制作に疲れ果てたことが原因だったようだ。今から40年近くも前の1970年のことだ。僕がこのアルバムでよく聴いたのはクリス・クリストファーソンの作った"Me and Bobby McGee"のカバーで、その他にはあまり印象にのこっていなかった。そもそも、歌の迫力は認めてはいても、ソング・ライターとしてはほとんど関心がなかったと言っていい。特に耳を傾けるべきメッセージや詩的な表現があったわけではない気がしたからだ。

・NHKBSで「ジャニス・ジョプリン恋人たちの座談会」という番組を見た。すでに60代の半ばになっているかつての恋人たちが4人集まって、ジャニスの話をするという内容で、当然だが、表には出なかった彼女のプライベートな一面がずいぶん明らかにされた。こういう番組に出会うと引きこまれてしまって、何年も聴きもしなかったCDを引っ張り出してきて、しばらくは、何度も聴くようになってしまう。で、今回も、今までとは別の感覚で、彼女の歌に触れる機会になった。

・彼女の作った"Cry Baby"は、最後の恋人だったデビッドへの気持を素直に歌ったものだ。二人は偶然、ブラジルで出会っている。世界を放浪する青年のデビッドはアマゾンから出てきたところで、ジャニスは休暇中だった。二人は恋に落ち、ジャニスはヘロインの禁断症状を克服する。しかし、アメリカに戻ると、いつもの仲間といつもの忙しいスケジュールで、デビッドは半年後にカトマンズで会おうと言い残して、アフリカに旅立ってしまう。酒とヘロインと一夜限りの男たち(One Night Stand)との付き合いの日々がまたはじまる。


あなたは世界中を歩き回って
世界の果てを探したいと言った
その道の終わりがデトロイトだったと気づくかもしれないし
カトマンズにまで続いているのかもしれない "Cry Baby"

・ジャニスにはたくさんの恋人がいて、きまって長続きしていない。「カントリー・ジョー&フィッシュ」のジョー・マクドナルドとは当時の政治状況に対する考え方ですれ違い、「ビッグブラザー&ホールディングカンパニー」のジェームズ・ガーリーとは音楽的な主導権で対立した。その時一緒にバンドから離れたサム・アンドリューとあたらしいバンドを作ったが、それも長くはつづいていない。デビッドとは唯一、音楽抜きで認めあえる関係だったが、ジャニスに音楽抜きの人生は考えられなかったし、デビッドも派手なミュージシャンの世界は性に合わなかった。彼女は愛と音楽、プライベートな生活と名声の間で引き裂かれる。

・保守的なテキサスに生まれ育ち、それに反発してサンフランシスコに行って音楽で身を立てたが、そこで出会った都会育ちの人たちにもまた心底なじめない。もし男であれば、異性ではなく同性の友達として、気心を通じ合わせる相手を見つけられたのかもしれない。しかし、周辺にいるのは圧倒的に男ばかりのミュージシャンで、近づけば、セックスのともなう男と女の関係しか持ち得なかった。あるいは、彼女が手にした名声も、故郷のテキサスの人には奇異なものとして受けとられたから、それがますます、彼女の孤独感を募らせることになる。

・アフリカのモロッコを出発してバイクでカトマンズに向かっていたデビッドは、そのカトマンズのホテルで、ジャニスが死んだという雑誌記事を目にする。彼女にあてて何通か手紙を書き、彼女もまた彼にあてて手紙を書いた。しかし、いつでも行き違いで、どの手紙も読まれていない。デビッドは香港で"Pearl"を見つけ、レコード屋で試聴をして"Cry Babe"を聴く。自分への思いを絞り出すように歌う彼女の声に涙してしまう。

・40年もたてば、4人の恋人たちのどこにも、青年の面影などは見つけることができない。カントリー・ジョーは孫と遊ぶおじいちゃんになっているし、ビッグ・ブラザーのジェームズにも温かな家庭がある。二人は口をそろえて、人生には音楽だけでなく、もっと大事なものがあったんだ、と言う。男との関係、プライベートな自分の人生を軽視したと言いたげに、それがジャニスにはわからなかったと話すと、デビッドが反論して、ぼくらは信じ合っていたと断言した。彼は、自分が近くにいればという後悔の念でずいぶん悩んだ一生を送ったはずだ。同じように年老いて、仲良く話してはいても、それぞれの思いと現在までの人生の足取りはずいぶんちがっている。「ジャニス・ジョプリン 恋人たちの座談会」は久しぶりに見応えのある番組だった。

2008年6月22日日曜日

ガソリンと灯油の節約

 

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・ガソリンの値段が1L180円(ハイオク)を超えた。来月にはまた値上がりするというから、200円になるのも、そう遠くはないだろう。通勤が主とはいえ、週に50Lを超えると1万円以上になってしまう。これではもう、冗談ではなく、お金を撒いて走っているような気になってくる。だから、去年から気にしはじめた燃費の向上を一層心がけるようになった

・僕はバイクから始めているから、どうしても急加速になりがちだったが、それをまず意識して抑えるようになった。遅い車に追いつくと、どうしても抜きたくなるが、追い越しも極力避けて、走行車線を流れに沿って走る。これで、最近の燃費はL12km弱まで改善された。全然気にせず走っていた2 年ほど前に比べると1Lで2kmアップということになる。

・現在乗っているのはスバル・レガシー・ランカスター(2.5L)で、もうすぐ丸9年で20万kmになる。乗りかえの時期が近づいていて、あれこれ考えているのだが、ヨーロッパでスバルが売り始めたディーゼル・エンジンを搭載したアウトバックを待つしかないと思いはじめている。ただし、日本での発売は2010年となっているから、あと2年は、今の車でがんばらなければならない。さて、そこまでもつか、ちょっと心配な気もする。

・ガソリンが高騰すれば、当然、無駄な走行はしなくなる。朝の通勤時の高速道路は、今までも渋滞するほど混まなかったが、車の量は明らかに減った。一般道路でも、スムーズに進むようになった気がする。これは大助かりで、高速道路でスピードを落として走っても、通勤時間はあまり変わらない。用がなければ車は使わない。こういう意識の浸透は、CO2の削減にはきわめて効果的だろう。

・便利さを競い合って、日本中の高速道路を大型のトラックが走っている。だからこそ、アマゾンで本やCDを注文すると、翌日には確実に届く。スーパーに行けば、魚や肉や生鮮野菜が、日本国内はもちろん、海外からも来ていることがよくわかる。そのような経済の仕組みが温暖化の根本的な問題だとすれば、この便利さや豊富さは、もっと改められてもいい。それを自発的に、意識的にやるのは難しいが、原油の高騰で否応なしということになれば、ずいぶん効果的な現象だといえるかもしれない。僕も通勤での日帰りはやめて、東京に宿泊して、車は一往復だけにしようかと考えたりしている。

・原油の高騰で困るのは、もうひとつ、灯油の値上がりである。灯油にはガソリンとちがって高額な税金がかけられていないが、現在では1Lで 100円を超え、値上がり前の3倍にもなっている。我が家ではほぼ半年、暖房をする。一番寒い時期には1週間で100L以上も使ってきたから、冬が来れば、この出費も毎週1万円を超えることになってしまう。昨冬から、灯油ではなく薪ストーブを主に使って節約してきたが、今度の冬には、その比率をさらに高めなければならない。というわけで、準備する薪の量もこれまで以上に大量にしなければならなくなった。

・灯油から薪へという考えが広まっているのか、ホームセンターのストーブ売り場には多様な薪ストーブが並ぶようになった。薪ストーブは維持管理が難しいから買ってもやめる人が多いとは思う。けれども、これによってこれまで以上に薪の調達も難しくなるかもしれない。もっとも新たな市場として自覚されれば、山林の所有者が倒木を放置したり、間伐をしないで山を荒れさせてきたことを反省して、薪として供給するようになるだろう。付近の山を歩いていても、実際、薪にするために持って帰りたい倒木をはたくさんある。

2008年6月15日日曜日

エコ、その啓蒙とビジネス

 

・ここのところ、NHKなどでエコやCO2をテーマにした番組が目立つようになった。それ自体は悪いことではないが、見ていて何とも違和感がある。

・たとえば、いかにして資源の無駄づかいをを工夫するかといった話をする。出演のタレントたちが、まるで目から鱗といった感じで驚き感心したりする。そんなこと、今まで何度もお目にかかっているはずなのに、と思うと、そのわざとらしさが何とも嘘くさい。タレントが無知を演じているということは、視聴者が無知であることを前提にしているわけで、その相変わらずの啓蒙的な姿勢にあきれてしまう。

・一方に地球の平均気温が一度上がっただけで変貌する恐ろしい環境変化という現実がある。ところがその対処として出てくるのが、スーパーのレジ袋や天ぷらにつかった廃油の再利用、あるいはトイレやシャワーの水の節約だったりする。そんな程度でどうなるものでもないことはわかっているはずなのに、まずはここからということになる。しかし、その先には進まないから、何か機会があるごとに、また一から繰りかえすだけで終わる。今回はもちろん、北海道で開かれるサミットのせいだ。

・違和感をもつ話はほかにもたくさんある。レジ袋の代わりにつかうトートバッグが新たなビジネス市場になって、高額のブランド品に人気が集まっているとか、CO2の排出量を企業間や国家間で売り買いするといったビジネスの発生だ。あるいは、CO2を循環させるバイオ燃料が「エコ」の切り札のように言われたと思ったら、今度は、そのおかげで世界的な食糧危機がもたらされたと批判がわき起こっている。また、原油の高騰の原因には、需要の高まり以上に投機的な介入があるという。投資家が悪者扱いされたりするが、その資金はまた、年金運用目的で調達されてもいる。

・エコの問題は実際、ものすごく大きな矛盾の上に立っている。そもそも、現在進行中の環境問題は、産業革命、つまり近代社会の誕生と発展に関連している。現在地球上に生きる人間の数は60億人を超えたが、1800年には9億人だった。このまま行くと、2050年には90億人を超えると予測されている。当然、エネルギー消費量も爆発的に増えてきた。現在問われているのは、この爆発がもたらす変化をどう沈静化させるかということで、それができなければ、地球環境は持続不可能になるという問題のはずなのである。他方で、消費資本主義は半永久的に成長し続けなければ、破綻するという性格を持っている。

・横浜で「アフリカ開発会議」が開かれた。この会議は日本政府が提唱したもので、1993年以来、これまでいずれも東京で開催されてきた。 4回目の今回はU2のボノも来て、アフリカの貧困の現状を訴えるメッセージがテレビで報道された。産油国を中心に経済成長のめざましい国が出はじめている。ところが、それが貧富の拡大をもたらしたり、政情不安の原因になったりしている。それをどううまく舵取りして、すべての人に豊かさを実現させてゆくか。会議の目標はそういうところにあった。そのこと自体は結構な理想だと思う。けれども、それはまた環境問題と大きく矛盾するという難問をはらんでいるし、現実的には、アフリカの資源や新たな市場を先進国が奪い合うというビジネス競争の場にもなっている。

・「地球に優しく」などという言い方が相変わらず、多くの人の口から出てくる。しかし、温暖化は今の環境のなかで生存できている生き物にとっての危機なのであって、地球にとってのものではない。第一、地球は温暖期と寒冷期を繰りかえしていて、数千年前の縄文時代には、東京湾の海水は低地では50km近くも内陸に入りこんでいた。温暖で食べ物に恵まれた豊かな時代だったようだ。だとすれば、困るのは、そういう変化を知らずに、あるいは無視して作った人工物に及ぶ被害ということだろう。大きな地震が怖いのは、そこにさまざまな人工物があり。多くの人が住んでいるからで、そうでなければ、被害ははるかに小さくてすむ。

・僕は一方では、こういう知識のほとんどをテレビをきっかけにして学んでいる。けれども、そのテレビが、それらの知識とは矛盾する情報や話題を繰りかえし提供して、根本的な問題から目をそらせている。最近のエコ番組を見て思うのは、まずそんな能天気さに対する呆れだが、実はそれはテレビが独自にもつ性格なのではなく、現代の社会がよってたつ仕組みそのもので、それを思うと、もう諦めるしないのかな、と思ってしまう。人類なんて滅んだっていい。何か生き物が生き延びれば、また別の地球環境が出来上がる。最近、そんなSFのような世界に強いリアリティを感じてしまう。

2008年6月9日月曜日

K's工房個展案内

 

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・K's工房の個展は、1年おきに京都と東京の国立でやっています。今年は6月24日(火)から29日(日)まで、いつもの中央線国立駅南口にある「ゆりの木」でおこないます。ぜひお出かけください。おもしろいもの、不思議なもの、奇妙なもの、楽しいものなど、多様な作品が展示されます。

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2008年6月1日日曜日

模索舎と有機本業


・春休み中にA4版の茶封筒が大学宛に届いていた。大学に出かけたのがしばらくぶりだったから、メールボックスは一杯で、いちいちチェックをせずに机の上に積み重ねたままにしておいた。新学期が始まって、そこに新しい手紙やら、書類、それに教材がたまったのを整理して、すっかり忘れていたその封筒に気がついた。差出人は五味正彦とある。「うわー、懐かしい名前」と思って中身を見ると、私信と一緒に何冊かの冊子(GREENSTYLE)や新聞記事のコピーが入っていた。僕が書いた朝日新聞のキャンパスブログを懐かしく感じて出したと書いてあった。読みながら、ずいぶんほったらかしにして申し訳ない気持で一杯になった。で、これはぜひ紹介しなければという気になった。

・五味さんは新宿で「模索舎」という名の本屋さんを営んでいた。御苑の入り口近くにあって、さまざまなミニコミを委託販売する書店だった。僕は、そのミニコミに関心があり、雑誌に時評を書いていたこともあって、その店を時折訪ねていた。もう30年以上も前の話だ。永井荷風の『4畳半襖の下張』を掲載した雑誌『面白半分』のコピー版を販売した罪で摘発され、長いこと裁判をしたことでも知られている。マスコミとはちがう情報を伝えるメディアとして、ミニコミが存在していた時代、だからこそ、危険な媒体として見られることもあった時に、圧力に屈せずに交流の場を維持しつづけてきた。

・ミニコミの変容や、僕の関心が他に向いたことなどもあって、模索舎への足は次第に遠のいたが、五味さんは一貫して初心を貫いている。封筒の中身を拝見して、そんな印象を強く持った。模索舎は今でも開店しているようだし、「ほんコミ社」という「世の中と暮らしを考え直す出版物の流通屋」も手がけてきた。で、最近、「有機本業」という新たな試みも始めたようだ。そのサイトを訪ねると、「『国内フェアトレード』というコンセプトで、持続可能な社会の実現、地域経済活性につながるものづくりを応援しています。」とある。その、樟脳の製造と販売という部分に強い興味を覚えた。

・実は最近、ぼくも偶然、樟脳に出会った。造園業ではたらく知人にもらった材木を家まで運び、斧で割っていると、突然、メンソールの匂いが立ち上ってきた。その木を手にとって匂いをかぐと、強い香りがする。さっそくネットで調べると、楠木で樟脳の原料になると書いてあった。樟脳は防虫剤としてよく使われてきたものだ。風呂に入れると薬効があるというので、それ以後、我が家では小さく割って何本も浮かべている。さわやかな香りがして、心なしか体も良く温まる気がしている。カビもつきにくくなるようだ。

yuuki_hongyo.gif・「有機本業」では間伐林を利用した割り箸やトレイなども扱っている。割り箸は木の無駄使いとして悪者扱いされたりするが、けっしてそんなことはない。植林して放置された森林や、伐採されても使われずに捨てられる木材を有効に利用する、数少ない方法のひとつなのである。

・たとえば、風が吹いて庭の木の枝が落ちることがよくある。その木をストーブや焚き火の焚きつけにしたりもするが、形のいいものはとっておいて、箸やスプーンなどに細工をする。そうすると、落ちた枝とは思えないモノに変身する。森に住みはじめてから何度となく味わった喜びである。ストーブで燃やすために集めた木のなかにも、桜や白樺など、細工用にとっておいて、灰皿や表札、靴べらやさまざまな台所用具に生まれ変わらせたモノがたくさんある。

・楠木は神木として神社などによく植えられている。その香りや薬効が、この木を大切にする気持を生みだした。楠木から抽出した樟脳は、かつては日本の重要な輸出品で、防虫剤の他に、プラスチックが普及する前のセルロイドの原料にもなったようだ。しかし、現在ではほとんど見向きもされない木になっている。「有機本業」では、その役割を再認識して、広く使われることをめざしている。エコブームはマーケティング戦略が露骨でうんざりするが、地道に本気で考えている人もいる。五味さんからの手紙を見て、改めて、その思いを再認識した。

2008年5月25日日曜日

うわっ、大講義


・今年度から「コミュニケーション論」を担当することになった。全学の学生がとれる科目で、受講生が多かったから、二つに分割して、その一つをぼくがやることになったのである。コミュニケーション学部での「現代文化論」も引き続き担当するから、負担増で、渋々引きうけたのだが、講義初日に教室に行ってびっくりした。

・4階にある教室に向かって階段を上っていくと、学生が大勢たむろしている。「何で?」と聞くと、教室に入れないという。「何の授業?」と聞くと「コミ論」という返事。思わず「ウソー!」ということばが出てしまった。多いから二つに分けたんだから、まさか、そんなはずはないと思ったのだが、 400人以上収用できる教室に一杯の学生がいる。もうどうしようもないから、すぐに学務課にいって事情を話して、もっと大きな教室に移動することにした。

・運良く、学内で一番大きな教室があいていたが、そこでもまだ立ち見が出る。いったい何人いるのか、空恐ろしくなった。授業で配るつもりで用意した資料は250 枚しかない。4人掛けの机に2枚ずつといって配布したが、当然、後ろの学生にまでは行き届かない。「来週また配ります」といって、とりあえず、予定した授業内容や成績などについてのオリエンテーションをやった。終わった時には汗びっしょりで、もうぐったり。

・僕にとって、こんな数の学生を相手に講義するのは初めての経験だ。ずいぶん前に関西の大学で400人程度の講義を非常勤でやったことはある。その時どうだったか、などと思いだしても、まるで思い出せないほど昔のことだ。どうしようかと考えても途方に暮れるばかりで、いろいろ考え始めたら、ひどく憂鬱な気持になってしまった。予定したことを大きく変更しなければならない。毎回配る予定の資料をどうするか。そもそも、授業内容は変えなくていいのか。授業中に何度か、講義に関連した小テストをするつもりだったのだが、それはどうするか。第一、試験はどうするのか。その採点に、いったいどのくらいの時間がかかるのか。

・とりあえず、ティーチング・アシスタント(TA)を至急申し込んだ。今年は院生の入学者がすくなくて、TAを希望しても見つからない人が何人もいるようだ。僕のところにいる院生は毎年ひっぱりだこなのだが、幸い、やるつもりのなかったK君にお願いしてやってもらうことにした。結局受講生は650人で、B4一枚の資料を作ると、厚さが10cmほどにもなった。それを授業の始めに配るだけでも10分はかかる。資料の印刷と授業開始時の配布、それに小テストの回収と名簿へのチェック、ついでに良くできた、おもしろい内容のものも抜き取ってもらったりと、大助かりだ。

・講義をして気づいたのは、ざわざわしている教室を静かにして話を始めても、全員の目をこちらに向けつづけさせるのは大変だということ。だから、できるだけ単純でわかりやすい話から始めて、ポイントになるところは、ここは大事だよと言って、何度も繰りかえす必要がある。資料に書くのは話の骨格だけで、学生はメモをとる必要があるのだが、こちらの話に応じて手を動かしている学生は多くはない。だから板書も少しやって、メモすることも促さなければならない。

・しかも、最近の学生に90分間緊張感を持続させること自体が難しい。そこで、ビデオを時折見せて、気分を変えたり、大変だが小テストも何度かやって、聞いていないと書けないという緊張感ももたせることにした。当然、講義内容は、予定の半分ほどに減ることになった。もっと知りたい、考えたい人は教科書や参考書を読むように、とその都度いうつもりだが、さて何割の学生が自主的に勉強するのだろうか。

2008年5月18日日曜日

チャールズ・テイラー『<ほんもの>という倫理』産業図書

 

taylor.jpg・「ほんもの」は英語では「オーセンティシティ」という。「リアリティ」とはまた違う意味で、アカデミックな世界ではよくつかわれることばだ。たとえば、「オーセンティック」なロック音楽、「ほんもの」のミュージシャンといった言い方がされる。それが、じぶんでも気にいったものなら、ほとんど疑問ももたずに、すぐに同調したくなる。ここで「オーセンティック」や「ほんもの」という評価の根拠となるのは、多分、音楽性や芸術性、あるいは文学性といったものだ。優れているからそう評価されるのだから、そこには当然、「名誉」や「称賛」の気持がともなうことになる。

・一方で、「ほんもの」にはかならず、その対比として、そうでないものが含意されていて、そこには、いんちき、偽物、屑といったことばがつかわれる。何かを高く評価するためには、低い評価のものとの比較が必要で、そうした方がぜったいわかりやすいし、説得力もあるからだ。
・だから、このことばを使うことにはある種の抵抗やためらいもある。たとえばポピュラー音楽でいえば、そもそもその価値はクラシック音楽との比較の上で、たえず偽物やがらくたとして蔑まれてきたという歴史をもっている。ロックは、その価値を転倒させた音楽だが、今度は、それをほんものとして、別の音楽を屑だと批判するようになった。その気持はわかるし、ぼくも、そう言いたくなることがしょっちゅうある。けれども、そこには何かすっきりしない、わだかまりものこってしまう。

・テイラーは、その点を「名誉」と「尊厳」の違いとして説明する。つまり、「名誉」は社会階層を基礎にして感じられるものだが、「尊厳」は、普遍主義的で平等主義的な前提にたつというのである。現在の社会通念では、階級や階層は差別意識の土台として非難され、「人間の尊厳」はすべての人に平等に分けもたれたものとして受けとめられている。だから、何かを指して「ほんもの」だとか「オーセンティック」だということに感じるわだかまりは、そうではないものの「尊厳」を否定するニュアンスを自覚するからだ、ということになる。
・テイラーは、「人間の尊厳」を否定せずに、なおかつ何かを、誰かを「オーセンティック」だとするやり方はあるという。彼によれば、「オーセンティシティ」は、じぶんよりも大きな社会、世界、宇宙といったところに立ったときに考えられる「重要な問いの地平」、あるいは「道徳的理想」を基準にして判断されるものである。すべての人の権利や尊厳を認める「平等」という原則は、基本的には相対主義的なものだが、現代のそれは「重要な問いの地平」や「道徳的理想」をきれいに捨象してしまっているから、人それぞれの多様性や雑多なものごとを横並びで共存させて、尊重しているふうを装っているだけだ、ということになる。

・だとすると、ロック音楽における「オーセンティシティ」は、まず第一に、この社会に対する批判精神の有無によって判断されるということになるだろう。それがなければ、どれほどの人気に支えられようと、音楽性が高かろうと、それは「ほんものではない」と言えるはずである。

・テイラーは「[自己の]外部からやってくる道徳的な要請や、他者との真剣な関わり合い」を軽視、あるいは認めずに「自己達成を人生の主要な価値とする」傾向を「ナルシシズムの文化」と呼ぶ。彼によれば、これこそが、ほんものという倫理を陳腐なものにした元凶である。「ナルシシズム的な自己達成」は何より自由を主張して、関心を自分にのみ向けがちになる。それは平等を基盤にした「人間的尊厳」に支えられる生き方だが、同時に、自分を他者より優った者、つまり、自己の「ほんもの性」をたえず確認したがる存在でもある。
・現在の消費社会、とりわけ「ブランド」イメージは、このような欲望に訴える。自己の「アイデンティティ」は「重要な他者がわたしのうちに承認しようとするアイデンティティとの対話のなかで、またときには闘争のなかで、自分のアイデンティティを定義」してはじめて、自他の間で了解されるものになるが、「イメージ」を消費してまとう限りは、そのような面倒なやりとりは必要ない。


人生の意味を追求し、じぶん自身を有意義な仕方で定義しようとする行為者は、重要な問いの地平に生きねばなりません。そしてそれこそは、自己達成にひたすら邁進して社会や自然の要求と対立する現代文化の流儀、歴史を隠蔽し、連帯の絆を見えなくさせる現代文化の流儀では、やろうにも自滅するほかないことなのです。

・何か、誰かの「ほんもの性」を問うことは、当然、自分に跳ね返って、自分の「アイデンティティ」を見つめなおせと問い詰めてくる。その自覚がないところでは、「ほんもの論議」はまた、無益に消費されるものでしかない。この意識は、世界中のどこより、現在の日本人に欠けているもののように思う。