1997年3月8日土曜日

容さんが死んだ

  • 3月7日に中山容さんが死んだ。65歳、やり残したことがたくさんあって悔しそうだった。最近はタイがすっかり気に入って、休みのほとんどをチェンマイやバンコクで過ごしていた。去年の夏休みもタイで過ごすつもりでいたようだが、直前に肺と脳にガンが発見されて、そのまま闘病生活に入った。「検査なんか受けずにタイに行って、そのまま死にたかった。」僕は病室でこのことばを何度か聞いた。
  • それでも秋になると、元気を取り戻し、病室でお気に入りの女性詩人の翻訳をして自費出版をしようとしていた。脳の腫瘍が消えたとうれしそうに話した。「退院したら、タイで暮らす。」そんなことを口にするようにもなった。僕は「それがいいね」とうなずき、「でも、やりかけの仕事を片づけてからにしようよ。」と応えた。「今訳している本、版下づくりは僕がやるよ。」というと、彼は印刷所をどこにするか、お金はいくらぐらいかかるか、本屋に置く手配は」とすっかりその気になった。けれども、次第に病状は悪化して、ワープロの画面を見つめ、キーをたたく体力と根気がなくなっていった。
  • 5日に見舞いに行くと、ひどくせき込んで苦しそうだった。酸素を入れる管が鼻に差し込まれ、ぜいぜいという呼吸の音だけが病室に響いた。それでも、容さんは「生きてるよ」とひとこと言った。これが僕が聞いた最後のことばになった。帰り際に「また来るから」と言うと、手をあげて応えた。そのことばと動作が、帰り道に何度も僕の中で反芻された。「生きてるよ」はよかったな。でも、もう会えないかも.......。病室に訪ねていった半年間のことが次々と浮かんでは消えた。
  • 彼はボブ・ディランの訳詞や、S.ターケルの翻訳で知られている。これまでに彼が翻訳した本は次のようなものである。
  • 『ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ詩集』(国文社)
    『ローレンス・ファリンゲティ詩集』(思潮社)
    『1960年代のアメリカ女性詩人たち』(ポエトリー・センター)
    『日系アメリカ・カナダ詩集』(土曜美術社)

  • R.キング
    『エロスの社会学』(新泉社)
  • R.マンゴー
    『就職しないで生きるには』(晶文社)
  • B.ディラン
    『ボブ・ディラン全詩集』(晶文社)
    『ボブ・ディラン全詩302篇』(晶文社)
  • J.オカダ
    『ノー、ノー、ボーイ』(晶文社)
  • S.ターケル
    『仕事』(晶文社)
    『インタビューという仕事』(晶文社)
    『よい戦争』(晶文社)
    『アメリカの分裂』(晶文社)
    『人種問題』(晶文社)
    『アメリカン・ドリーム』(白水社)
  • L.ヤップ
    『ドラゴン複葉機よ、飛べ』(晶文社)
  • N.オルグレン
    『シカゴ、シカゴ』(晶文社)
  • J.コットンウッド
    『西海岸物語』(晶文社)
  • J.グリーンシュタイン
    『先生も人間です』(晶文社)
  • F.フェイエッド
    『ホーボー、アメリカの放浪者たち』(晶文社)
  • A.ハクスリー<
    『ルーダンの悪魔』(人文書院)
    『天才と女神』(野草社)
  • W.ライヒ
    『キリストの殺害/W.ライヒ著作集4』(太平出版社)
  • W.E.ホロン
    『アメリカ・暴力の歴史』(人文書院) 

  • 1997年3月4日火曜日

    知人の病気


  • ある親しい知人が入院している。末期の肺ガンで、もうベッドから立ち上がることもできない。食事らしいものも12月の中旬からほとんど口にしていない。医者からは2月までと覚悟するようにと宣告されたが、3月になっても生きている。ただ、見舞いに行っても、もうほとんどしゃべる元気もなくなってしまった。
  • 彼がガンに気づいたのは、去年の夏休み前。タイに旅行するつもりが、病院行きに変わり、そのまま入院生活が8カ月も続いている。僕は、9月の末まで彼の入院を知らなかった。肺ガンで脳にまで転移しているという話に驚いて病院に駆けつけると、わりと元気な顔でテレビを見ていた。ほっとしたら、「何でもっと早く知らせてくれなかった!?」と文句が言いたくなった。「大騒ぎするの好きじゃないから、それに、元気になっているし...........。」コバルト照射で脳のガンは消えたようだった。食欲もあって、体力もずいぶん回復したみたいだった。「11月には退院する」という言葉を僕は真に受けた。
  • 彼は27年前に京都に来た。高校の教師を辞めて短大の教員になった。家族と離れた単身赴任。というよりは、家族から逃れるための周到な計画だったようだ。彼には新しい恋人が一緒だった。彼は京都で当時起こりつつあった「関西フォーク運動」に参加した。ギターを手にした若い連中よりは一世代以上年長だったから、よき相談役として信頼された。僕が京都に来た理由の中にも、そんな彼を慕う気持ちがあった。
  • 溜まり場にした同志社大学近くの喫茶店でよく話をし、ライブハウスで音楽を聴き、集会やデモに一緒に出かけた。どこでも、表に立ってリーダー役をすることはなかったが、意見は的確で、話はおもしろかった。彼の周りにはいろんな人が集まった。岡林信康、泉谷しげる、高田渡、中川五郎、豊田勇造、古川豪、そして中山ラビ。僕はもう歌うことはやめていたが、彼の近くにいると、たくさんのフォーク・シンガーたちと話ができた。今から思えば、信じられないくらい楽しい瞬間だった。
  • 寺山修司の『書を捨てよ街に出よう』がベストセラーになって、大学院に行って本ばかり読んでいる僕は、よく彼のからかいの対象になった。「渡辺は本ばかり読んでいるからだめだ。見る前に跳べだよ。大事なのは頭じゃない。身体だよ。」そんなこと言われなくてもわかっていた。だけど、歌もギターもうまくない僕には、本を読んで考えることぐらいしか、周りの連中に対抗できる武器を手にする手段はなかった。けれども、それはレコードを出して、コンサートで拍手喝采をうけるフォーク・シンガーたちに太刀打ちできるようなものでは、とてもなかった。
  • 彼は僕に大学の非常勤の口をあちこち世話してくれた。で、学者の端くれのような態度をとり、それなりの気取った文章を書くようになった。それが本になり、何か、世の中がわかったような気分になると、僕は彼のところに次第に足を向けなくなった。フォーク・ソングが下火になり、僕も結婚して子供もできた。彼の恋人も東京に帰った。定職につくと、1年のうちに何度も会わないという状態になった。
  • 彼の病室には、何人ものフォーク・シンガーたちが訪れている。みんなもう50歳前後になっている。そんな連中が、彼を励ますつもりでやってきて、20数年前の気持ちを思い出して帰っていく。僕は、彼の入院を知ってから、週に1、2度病室を訪ねている。最近の話題や、大学の現状を話したりもするが、よりリアリティを感じるのは、昔話をして、20代の頃の自分を思い起こす時である。「あのときは面白かったね」と話すと、彼の顔もなごんでうなずく。しかし、そんなふうに話ができる時間も、もう残り少ないのかもしれない。だから何も話はできないかもしれないけれど、僕は明日も病院に行くつもりだ。
  • 1997年3月3日月曜日

    Beck "One Foot in the Grave",The Smashing Pumpkins "Mellon Collie and the Infinite Sadness"


    beck.jpeg・2月の末にWow wowでグラミー賞を見た。E.クラプトンで始まって、B.スプリングスティーンで終わるという内容は、僕にはきわめて素直に受けとれるものだった。しかし、これだけでは、やっぱりロックはもう新しいものが出なくなってしまったのだな、という思いを確認するだけで終わってしまう。実際、そんな感じもしたが、見ていて興味を覚えたミュージシャンも何人かいた。ベックとスマッシング・パンプキンズである。
    ・もちろん、この人たちをはじめて聴いたというわけではない。ゼミの学生が僕の研究室にCDを持ってきたのを何度か聴いたことがあった。ところが、その時には、例えばベックについては何だそれ!?といった反応をしてしまったようだ。調子っぱずれなサウンドが耳障りで、奇をてらったローファイの一つか、としか思わなかったのだと思う。スマッシング・パンプキンズについては、ほとんど記憶がない。学生が「持ってきて聴きました」というからたぶん聴いているのだろうと思うが.............。で、さっそくTower Recordに行ってCDを買ってきた。
    ・ベックの"One Foot in the Grave"は、最初のうちはやっぱり聴きづらかった。わざとギターの調弦を狂わせているのがなんとも不自然な気がした。けれども、聴いているうちにだんだんなじんでよくなってきた。この手のサウンドは僕は決してはじめてではない。例えば、ウッディ・ガスリーやロバート・ジョンソンのレコードは、まさしくそんな感じである。前者はフォーク、そして後者はロックンロールの始まりとなった人だが、彼らの歌や演奏は民俗音楽の研究者がポータブルのテレコを使って収集したものがほとんどである。ギターだって、弦だって決して上等のものを使っていたとは言えなかったはずだ。だから、調子っぱずれの聴きづらいサウンドになるのは当然のことだった。
    ・ベックはそんな、ノスタルジックなサウンドを再現しようとしたのだろう。聴いているうちに僕は、この人はかなり真面目に、ポピュラー音楽の原点に戻ってみようとしているのかもしれないと感じ始めるようになった。どんなサウンドでも自由自在に作れる時代に、わざわざ、素朴な音に挑戦する。そう思うと、何か面白い気がして、ますますベックに興味を覚えるようになった。彼には90年代のボブ・ディランというキャッチフレーズがついているようだ。うん、なかなかいい。けれども、こんなサウンドが若い人たちに受け入れられ、支持されるというのは、どうしてなのだろうか。そこは一度ゼミの学生たちと話してみたいと思う。

    pumpkins.jpeg・もうひとつ、スマッシング・パンプキンズ。ボーカルはスキン・ヘッド、アジア系のギター弾きは髪の毛が三毛猫、そしてベースの女の子は無機質な感じの化粧をしていた。外見を見る限りはよくありがちなバンドなのだが、演奏した"1979"という曲はすぐにいいなと感じた。CDを買って聴いてみると、静かな曲とうるさいものが交互に入っていて、何か分裂気味な印象を持った。ハードなやつは僕はあまり好きそうになれないが、ちょっとボリュームを落とした曲の中には、いいものがずいぶんあった。同じような傾向はパール・ジャムにも感じるのだが、一枚のCDにこんなふうにごちゃごちゃにれるのはどうしてなのだろうか。それもまた、新学期になったら学生たちと話してみたいと思う。

    1997年3月1日土曜日

    『女優ミア・ファロー スキャンダラス・ライフ』


  • ウッディ・アレンのスキャンダルは僕にはちょっとショックだった。ミア・ファーローの連れ子にセクハラをしたという意味あいで伝えられたからだ。しかし、そんな生々しいスキャンダルが実名で映画になってしまうのには、もっと驚いてしまった。すごいとかひどいと思ったが、たまらなく興味もそそられた。これだからゴシップは廃れることがないのだな。改めて納得した気になった。で、映画はというと、すごく真面目につくってあった。ウッディ役がうまくて、僕は途中から、まるで本人がやっているような錯覚を起こしてしまった。
  • ウッディが好きになったのはミアの長女だが、彼女は実子ではなく中国人のハイティーンである。ミアは彼女のほかに人種の異なる養子を何人ももらっている。当然ウッディとミアの生活にはそんな子どもたちの存在が大きな位置を占めるようになる。そして二人は入籍をしないままに何年もすごす。長女とウッディの関係はミアにとってはとんでもないことである。しかしウッディにはあまり罪の意識はない。彼女は娘に「育てた恩を裏切って」と言う。しかし、娘はその義母がハイティーンの時に妻帯者であるフランク・シナトラと不倫をしたことを知っている。だから、「同じことじゃない」と反論する。何より、ミアとウッディは法律的には他人同士なのである。
  • ミアとウッディの間には一人女の子ができている。名前は「ディラン」。女の子につけることができる名前だとは知らなかった。ミアはウッディがその娘にイタズラをすることを理由に裁判にうったえた。そこのところは裁判所でも結論は出なかったようだ。ことの次第がわかってくると、ニュースで伝えられた印象とはちょっと違う関係が見えてくる。結婚と離婚をくり返し、必要なら、様々な形で養子をもらう。そんな生き方はアメリカでは決して一部の人だけの特殊な現象ではない。そんな複雑な関係を「家族」というスタイルで維持しようとすれば、関係はますますこんがらがってしまいかねない。僕はこの映画にそんなアメリカ人の生活の一面を見た気がした。スキャンダルを題材にして注目を集めようとした映画であることは間違いないが、僕はそこに、同時に、作り手の誠実さを見た気がした。

    1997年2月26日水曜日

    Marianne Faithfull(バナナ・ホール、97/2/25)


    ・マリアンヌ・フェイスフルは「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」のヒットで知られる。ミック・ジャガーとキース・リチャードが作った曲で、彼女とミックは恋仲になった。ブルー・カラーの成り上がりがオーストリアの貴族の血筋をひく毛並みの良い少女に惚れたと言われたりした。もちろん60年代の話だから、もう30年以上も前の話だ。その後ローリング・ストーンズはスーパー・スターになりマリアンヌ・フェイスフルは忘れられた。ドラッグにアルコール中毒。で、 1979年にアルバム『ブロークン・イングリッシュ』を出したときには低いハスキーな声で、アイドルだった頃の面影はなくなっていた。
    ・そんな彼女の存在をぼくは92年にカナダ人の友人に教わった。ジミ・ヘンドリクスやジャニス・ジョプリン、ジム・モリソンが死に、エリック・クラプトンが立ち直る。ロック・ミュージシャンにありがちな運命を彼女も辿った。しわがれてけだるい声が彼女の苦悩と変節を語っているように感じられた。

    ・バナナホールは行ったことがなかった。学生などに聞くと、オールスタンディングで、大学の教師(オジサン?)が行くところじゃないと言われた。しかし、テーブルと椅子があって、飲み物や食べ物があり、たばこも吸えた。彼女の歌を聴くにはいい場だなと思った。マリアンヌは黒ずくめのコスチュームで登場した。化粧の濃さがよけいに老けた感じに見えさせているようだった。バックはピアノ一台。クルト・ワイルの曲(ぼくはほとんど知らない)を中心に1時間あまり歌い、ひっこんだ。歌はうまいと思ったが、あまりいいとは思わなかった。何より気持ちが入っていないのが気になった。彼女にとっては文化も違い言葉も通じない極東の国の小さな場末のようなホールで歌うのは、どさまわり以外のなにものでもなかったのかもしれない。
    ・アンコールに応えて「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」を歌った。その1曲で、まあぼくは満足したことにしてもよかった。けれども、彼女はどうなのだろうか。ちょっと心配になってしまった。

    1997年2月25日火曜日

    加藤典洋『言語表現法講義』(岩波書店)

     

    ・大学の教師の勤めの一つは学生の書いた文章を読むことである。実際、試験をすれば数日の間に数百枚の答案用紙を読まなければならない。しかし、これは簡単な仕事ではない。難行苦行だと言ってもいい。もちろん、学生の書くものなどは読む価値もないとはなから思っているわけではない。むしろ、おもしろいものに出会うことを期待している。ところが、いつも読み始めたとたんに裏切られる。

    ・なぜ、学生の書く文章はおもしろくないか。加藤典洋はこの本の冒頭でことばを書くという経験を「考えていることを上手に表現する技法」というよりは「むしろよりよく考えるための、つまり自分と向かい合うための一つの経験の場なのだ」と書いている。ぼくが出した問題に対して学生が書く文章は、大半が授業でぼくが話したこと、テキストと指定した本に書いてあることのコピーである。だから、ぼくにはそこに発見するものはほとんどないし、考えるチャンスすらつかめない。長時間にわたる単純作業にはただただうんざりした気持ちだけが残る。

    ・そして学生たちもうんざりする。試験期間中に彼らが使うのは、たぶん、頭ではなくて手なのである。彼らは書きたくて書いているわけではない作文、読まれるかどうかわからない文章を時計とにらめっこしながら必死に書いている。文章によって意識を通じ合えない教師と学生が共有できるのは、それが楽しくないことだという感覚だけである。「文章を書くのが苦手だ、という以前に、イヤなんです。楽しくない。その楽しくないことをやること、そのことに苦しんでいる。」というわけだ。

    ・文章を書くことが楽しい経験であること。それをどうやって学生に伝えるか。実際、これは大変なことである。加藤は学生が書いた文章を学生の前で読み、学生から感想を聞く。そうすることで、学生たちは、自分の文章が他人にさらされる経験をすることになる。この本は、そのようなプロセスを学生の文章を材料にしながら、授業の記録ふうにまとめたものである。その中で、文章のおもしろさが「1.自分にしか書けないことを、2.だれでも読んでわかるように書く」ことで生まれてくること。あるいは、文章をまとめる段階が1.思いつき、2.裏づけ、3.うったえの3つの段階を踏むことなどが、指摘されていく。その手綱さばきには思わず感心してしまう。

    ・しかし経験的に言ってそのようなプロセスはなかなかうまく動いてくれない。学生たちは長い間、一つしかない正しい解答を求めて努力をしてきたのだし、自分の意見や感覚を他人にさらして判断を仰ぐ作業など学んでは来なかったのである。ぼくの所属する学科では卒論が必修になっている。原稿用紙で30枚以上。テーマは何でもいいとは言っても、学生たちにとってはこれは簡単に片づけられる作業ではない。放っておけば、試験の答案やレポートのようなほとんど考えずに枚数を重ねた文章を書いてしまう。「この文章の中で君は一体どこにいるの?」「第一、書いていて、ということはつまり考えていて、おもしろかった?」と聞くと学生たちはほとんど、黙ってうつむいてしまうか、首をふるだけだ。「もうちょっと、楽しくやろうよ。君の頭を使ってさ!君にしか書けないものを考えて見なよ!! ちゃんと裏づけも調べてさ!!!」

    ・ぼくは学生の論文を毎年文集にしている(卒業論文集『林檎白書』参照)。学生たちが手元に置いて記念にするという思いもあるが、せっかく書いたものはできるだけ多くの人に読んでもらいたいという気持ちからはじめた。読み手を持たない文章はかわいそうだ。しかも日記のように極私的なものは別だが、読み手を意識しない文章には書き手の顔も描かれない。そんな無味乾燥な作業を学生に強制したくはないし、僕もつきあいたくはない。すべての学生が僕のこんな気持ちに乗るわけではないが、1本でもおもしろい作品が出てくる限りは文集を出し続けようと思っている。今年はこの本をテキストに使ってゼミをやってみようかと考えたら、何だか1年後が楽しみになってきた。

    ・加藤典洋はやっぱり学生と一緒に『イエローページ村上春樹』<荒地出版>を書いている。そしてこれもなかなかおもしろい。しかし僕には、村上春樹の世界の読み解きよりは、学生との共同作業の経験のほうが興味ぶかかった。

    1997年2月20日木曜日

    Bob Dylan(大阪フェスティバル・ホール、97/2/17)


    ・ディランのコンサートにつきあうのは3年ぶり、そして5回目になる。実は、行こうかどうしようか迷った。9000円はちょっと高いし、前回はやる気がないのが見え見えでがっかりしただけだったからだ。しかし、コンサート・ホールでは初めてだし、日本に来たら行くのが礼儀ってもんかもしれない。そんな感じだった。もちろん、あまり期待はしていなかった。

    ・フェスティバル・ホールに行くと入口の前でディランの歌を歌っている若者がいた。集まってくる人たちの世代は幅が広い。白くなった長髪を束ねた人、勤め帰りの中年のサラリーマン、ちょっとこだわりを持っていそうな青年、そして若い女の子たちもちらほら。幅の広さはそんなところでも特徴的だった。何しろ彼は35年も歌い続けていて、なお精力的に活動をしているのだ。で、コンサートはというと、すごくよかった。場所のせいもあるけれど、リラックスして楽しそうにやっているのがよく伝わってきた。

    ・彼のライブは注意してことばを拾わないと何の曲をやっているのかわからないのが特徴だ。それは今回も同じで、ディランの曲は全部知っていると自信を持っているぼくにも、わからない歌がいくつかあった。それがディランのやり方だといってしまえばそれまでだろう。ファンや社会が作り上げるイメージを次々に壊すことで自分を保ってきたのがディランが残した轍(わだち)なのだから。で、ステージにはやっぱり「伝説のミュージシャン」というチケット販売のコピーなどとは無関係なディランの姿があった。

    ・ヒットした曲は何であれ、けっして歌詞やメロディだけで記憶されるのではない。だから、ファンは記憶にあるままに寸分違わず再現してくれることを期待する。そしてミュージシャンも、できあがったイメージを壊さずに伝えることに専念する。E.クラプトンが『アンプラグド』で「レイラ」をまったく違う編曲で歌っている。彼はそれが非常に勇気のいる行動であることを、インタビューで話した。そして、イメージの定着した歌をディランのようにまったく違うものに作り変えてみたいと思っていたとも。ぼくはその時、たった1曲でも、大変な勇気がいることなのだとということをあらためて感じた。

    ・去年セックス・ピストルズが再結成されて日本にもやってきた。髪の毛が薄くなったり、すっかり中年ぶとりした体型とは裏腹に、彼らは昔のままの不良少年を再現して見せた。ぼくはそれをWow wowでちらっと見て、何かとても憂鬱な気分になった。彼らは金儲けのためという以外にステージにたつ意味をもっていない。それでは醜態をさらすだけじゃないかと感じたからだ。

    ・で、ディランはというと「太ったおなかにときどきギターがのっかった」などという批評を書いた人もいたようだが、ぼくはそんなことは気にならなかった。というよりは、招待券で見るのとは違って、遠くてわからなかったのだ。中年ぶとりはぼくにだって切実だ。だけど、無理して昔のイメージを保たせる努力なんてすることはないだろう。むしろ、現在の自分を自覚したメッセージや表現の仕方をしてほしい。ぼくはそう思う。ロックは何より人生に対する態度を歌う音楽なのだから。

    ・ディランはハーモニカを一度も吹かなかった。その代わりに弾いたリード・ギターは、間奏もエンディングもちょっと間延びがして必ずしもいいとは言えなかったが、後半の「アイ・シャル・ビー・リリースト」や「マギーズ・ファーム」あたりになると、静かだった客席ものってきて、アンコールに応えて「ライク・ア・ローリング・ストーン」「マイ・バック・ページズ」「雨の日の女」と3曲も歌った。「マイ・バック・ページズ」は好きな曲の一つだが、たぶん、ぼくはこれを生で初めて聴いたと思う。「昔のぼくは思想に囚われ、硬直していて、今のぼくはその時よりもずっと若い」。このリフレインをディランは新鮮なフレーズとして、楽しそうに歌った。ぼくは、それだけで、もう十分満足だった。