1999年9月28日火曜日

ロボット検索について


  • ぼくのHPにはいったいどんな人が訪ねてきているのか。どのページをよく見ているのか。これは前から気になっていることだが、実際にはよくわからない。それがチェックできる装置があるようだが、そんなものをつかってまで知りたいとも思わない。だから手がかりになるのはメールだけなのだが、もちろん、訪れた人が皆メールをくれるわけではない。たぶん、メールをくれる人は訪問者の1%ほどにすぎないのだ。
  • それでも、その100分の1の割合でしかないメールによって気づくことはいくつかある。見ず知らずの人から来るメールには、主に二つの種類があるが、そのちがいが検索エンジンによるものであることに最近気がついた。
  • 検索エンジンにはたとえばYahooのような登録制のものとロボット検索よるものの2種類がある。ぼくはYahooにしか登録していないが、その社会学の項目が最近、細分化されて、ぼくのHPはメディア論の欄に入った。一番上に眼鏡(注目)マークで載っているから、そこから来る人がかなりいるようだ。当然、Tシャツ入りの表紙(玄関)からの訪問ということになって、やってくるメールにも自己紹介があったり、僕のHPの感想があったりとパーソナルな感じがする場合が多い。
  • もう一つのロボット検索は、知らないうちにページの隅々までチェックをしてリストアップするものである。だから、そこから入った人はいきなり中のページの細かな字句、たとえば人名や映画や音楽や本の題名にやってくることになる。さがしものや調べものなどをしているせいか、メールも具体的な用件が中心になって、返事をせかしたりするのだが、このようなものに限って、どこの誰かも書いてない場合が少なくない。
  • これは前回も書いたのだが、大学が試験の時期(入試ではない)になると、名前はもちろん、どこの大学の学生なのかも名乗らずに来るメールがかなりあって、そのあまりに初歩的な質問と、依存的な文面にうんざりすることがかなりある。またこの手のメールは、返事を出してもそのままなしのつぶてで、僕の返答が役に立ったのかどうかわからないままになってしまうのがほとんどだから、最近ではほとんど無視することにした。礼儀知らずもいい加減にしろとメールに向かって何度怒鳴ったことか。
  • もっともマナーの悪さは、インターネットの仕組みに原因があるのかもしれないという気もしている。検索エンジンはインターネット上の無料のサービスとして誰もが使うことのできるものである。だからそこから見つけたHPにもまた、それなりのサービスを要求して当然だという感覚を持つのはわからないことではない。現実にはHPは誰もがボランティアとして参加しているのだが、それは、自分でHPを公開してみなければわからないことなのかもしれない。
  • そんなふうに考えると、ロボット検索はありがた迷惑なことのように思えてくる。実際何でも検索項目にリスト・アップされてしまうのだから、うかつに名前などは載せられないと自己規制をしてしまうこともある。消去し忘れた何年も前の講義予定についての質問が突然来たこともあって、HPのフォルダの中はいつでも整理して、用のないものは残しておかないようにしなくては、などといったプレッシャーも感じてしまったりする。
  • このようにロボット検索による訪問は、家の中に他人が断りなしに入ってきたような感覚がして僕は好きではないのだが、これがなければできなかったようなつながりも同時に認めなければいけないことがある。
  • 以前に僕のディスコグラフィーのページに載っているシンニード・オコーナーのCDを買いたいと書いたメールがフィンランドから来たことを紹介したが、最近でも別のミュージシャンのCDを売ってくれというメールがアメリカからやってきた。売る気はないから断ったが、こんなふうにしてできるつながりにはおもしろさを感じてしまう。シェリル・クロウの横浜でのコンサート・チケットが余っているから買ってもらえないかというメールもあって、買いはしなかったが、それはそれでおもしろいと思った。
  • HPとメールを公と私の関係の中で見るのはなかなか難しい問題だが、断りなしの検索ロボットの侵入や匿名のメールは、規則というよりはマナーとして自粛してほしいと思う。
  • 1999年9月21日火曜日

    『スポーツ文化を学ぶ人のために』の紹介

     井上俊・亀山佳明編著、世界思想社 

    ワールドカップやオリンピック、それにメジャーリーグやセリエAなど、関心をもたれるスポーツの多様さは驚くほどですが、そういう状況についての分析は多くはありません。しかし、スポーツについて考えることがおもしろい時代になっていることはまちがいないでしょう。この本は、そんな時代に応えた、スポーツと文化と社会について考えるための入門書です。

  • ぼくはここでも「スポーツとメディア」という題目を与えられて、MLBを中心に、新聞やラジオ、そしてテレビの関係を調べてみました。で、アメリカのプロスポーツの発展や変容がラジオとテレビ抜きには考えられないことを再確認したわけです。
  • もちろん、この本によってあらためて知ることや考えることはほかにもたくさんあるはずです。しかし、詳しく説明するスペースはありませんから、目次を載せておきます。書き手は体育学と社会学を専門にする人たちですが、難しい学術書ではありませんから、おもしろく読めるのではないでしょうか。
    序論:文化としてのスポーツ(井上俊)
    I:スポーツ文化のとらえ方
     現代スポーツの社会性(内田隆三) /ナショナリズムとスポーツ(吉見俊哉)
     スポーツとメディア(渡辺潤) /スポーツと暴力(池井望)
     スポーツする身体とドーピング(亀山佳明)
    II:現代のスポーツ文化
     スポーツとジェンダー(伊藤公雄) /スポーツ・ヒロイン(河原和枝)
     スポーツファンの文化(杉本厚夫) /スポーツと賭(小椋博)
     体育とスポーツ(松田恵示)
    III:スポーツと現代社会
     スポーツのグローバリゼーション(平井肇) /文化のなかのスポーツ(黄順姫)
     ポストモダンのスポーツ(L.トンプソン) /スポーツと開発・環境問題
     スポーツと福祉社会(藤田紀昭)
    IV:スポーツ文化研究の方法と成果  理論的アプローチ(菊幸一)
     実証的アプローチ(清水諭)
  • なお、もっと詳しい紹介や質問、あるいは感想については、直接出版者にお訪ねください。
  • 1999年9月15日水曜日

    田家秀樹『読むJ-POP』徳間書店

     

    ・僕は日本のポピュラー音楽はほとんど聴かない。特に最近はそうだ。だから、Grayが20万人集めたとか、誰それがドームをいっぱいにしたとかいわれても、何のことやらさっぱりという感じでいる。もちろん何人かの気になるミュージシャンはいて、その人たちのCDは買ったりしているが、はっきり言って、聴くにたえるものがほとんどないと思っている。それが、最近「J-POP」なることばをがよく使われ、佐藤良明の本が話題になりはじめた。いったい「J-POP」とは何か?

    ・国産のポピュラー音楽はずっと、洋楽と区別して「和製ポップス」と呼ばれてきた。「ポップス」は「ポップ」の複数形だが、これは和製英語で、日本以外では使われない。なぜ日本人が複数形にして使ったのか。いきさつはわからないが、POPが意味するものとはちょっと違うという気持ちがあったのかもしれない。実際、ビートルズから派生したGS(グループ・サウンド)にしても、フォークやロックから転じた「ニュー・ミュージック」にしても、基本的には何かのコピーで、よく言えば日本風のアレンジをしたものだが、要するにほとんどは模造品にすぎなかった。どんなサウンドが流行しても、はやる音楽をつくるのはその都度数人の売れっ子作曲家や作詞家、あるいはアレンジャーで、生まれるというよりはつくられる音楽と印象が強かった。

    ・ポップスからSをとってJをつける。それはもう一つの亜流品という自己卑下的な位置づけからオリジナリティのある日本のポップになったという自信の表明なのかもしれない。何しろ、日本の音楽産業の規模はアメリカに次いで世界第二位であり、人気ミュージシャンがコンサートをやれば、ドームを何日も満員にするほどなのだから、そんな意識の変化も理解できないことではない。しかし、その中身はどうなのだろうか.....。

    ・田家秀樹の『読むJ-POP』は戦後から現在までの日本の流行歌を丁寧におった内容の本である。読んでいて気づいたことは、ある年代まではほとんど意識的に聴いたことはなくてもその歌を知っているということ。もう一つは、ほとんど著者と僕が同世代であること、住んでいた場所もおなじ、というよりは、同じ中学の2年先輩だったことだ。当然、10代の心像風景は大きく重なりあっているし、その後の時代についても共有できる経験は少なくない。にもかかわらずそれから後、つまり20代の後半あたりからは、二人の関心は大きくずれはじめる。著者の関心は日本の音楽に向き、僕は洋楽ばかりになるのだが、そのちがいは何で、どこから来たのだろうか?

    ・ひとつは著者が東京にいつづけて雑誌の編集やラジオの放送作家、あるいは音楽評論家といった仕事をしてきたことにあるのだろう。仕事柄、否応なしに新しいミュージシャンやタレントに関心を向けざるを得なかったはずだ。僕は京都に移って大学院に進み、研究者になった。音楽には興味を持ち続けたが、その対象は流行や売れ筋というよりは自分の気持ちや意識にしたがって選ばれたものだった。

    ・誰でも、30歳に近くなればテレビやラジオに出るタレントやアイドルには関心がなくなる。若者の意識とはずれてくる。80年代以降の日本の音楽に僕が疎いのはそこが原因かもしれない。けれども、僕は同時に洋楽の新しい音楽的な流れにはずっと興味を持ってきた。新しく生まれてくるものには、それなりの社会的は意見が感じられたからだ。そこから見ると、アイドル・ブームやバンド・ブームなどには、レコード会社や芸能プロダクション、そして何よりテレビの仕掛けを嗅ぎ取らざるを得なかったし、CMやドラマの主題歌がヒットするといった構造と、誰もがそれに乗ってしまうといった腰の弱さも気に入らなかった。ちょうど政治が永田町の町内ゲームであるように、日本の音楽の流れも結局のところ、東京のメディアの周辺でつくられている。関西に住んでいると、そんな構図がよく見えるような気がした。

    ・とはいえ、やっぱり歌は世につれ、世は歌につれといった一面も、もちろんある。『読むJ-POP』はそれを個人の私的生活歴、たとえば離婚と主夫生活などといった話を織り込みながら書き進んでいる。単なる戦後の歌謡曲史ではなく読めたのは、そんな著者のスタンスのせいなのかもしれない。おかげで、後追いにはなるが、J-POPなる音楽を聴き直してみようかという気も、ちょっぴりわきあがってきた。

    1999年9月1日水曜日

    河口湖で過ごした夏休み



  • 来年の3月から住む河口湖の家で、夏休みの間だけ生活をした。気温はめったに30度をこえないし、朝晩は肌寒い感じさえする、とても過ごしやすいところだった。別荘での避暑生活というのがどういうものかをはじめて経験した。ただ、しばらく過ごしては京都や東京に行くことをくり返したから、その時に感じた暑さはまた、経験したことのないすさまじいものだった。何しろひどいときには気温差が10度もあって、すぐにでももどりたくなってしまった。

  • お客さんもずいぶん訪ねてきた。東経大の学生、追手門学院大学の卒業生、元同僚、友人・知人たち、両親、弟と義兄のそれぞれの家族、高校生の息子とその友達。最後は追手門のゼミ合宿。家は赤松林のなかにあって、庭には大きなブナ(?)の木が2本ある。その葉が生い茂って日光を遮っているから、バルコニーでの読書は気持ちがいい。夕方からは毎日焚き火で、枯れ枝はいくらでもあった。


  • その焚き火だが、火の前では、ちょっと気分が変わって、おもしろい話ができて、夜が更けるのも忘れるほどだった。シャンパンにワイン、それにビール。煙で燻された干物や肉やトウモロコシはうっすら薫製の香りと味がしたから、飲んで食べて喋って笑っての毎晩だった。

  • もちろん引っ越し前だから、不便のところもたくさんあった。新聞は毎朝コンビニまで自転車で買いに行ったし、調達した古い14インチのテレビは見えるチャンネルが限られていた。メールもAOLは山梨県には接続ポイントがなくて八王子に繋がねばならなかった。しかし、当たり前だが、新聞もテレビもインターネットも、どうしても必要なものだというわけではかならずしもない。そんなことを久しぶりに感じた。

  • そのかわりに味わったのはきわめて健康的な生活。朝は日の出とともに目を覚まして、散歩や時には長いサイクリング。河口湖1周も1時間半もあればできた。週末は別だが、周辺には、ほとんど信号のない道路、急な山坂道がたくさんある。車はもちろんだが、ついついバイクを走らせたくなってしまう。そんなわけで、仕事をする気になったわけではないが、午前中の時間の長さをあらためて実感した。実際に引っ越しをして、日常生活が始まったらどうなるかわからないが、「ライフスタイル」を変えて人生の転機にしたいという思いは実現しそうな気がした。

  • 残念ながら来年の春までは、めったに来られそうにないから、秋や冬を味わうのは1年後ということになる。周囲の人たちは、冬の寒さを考えると住む気にはならないと言う。そうかもしれないが、それもまたいいじゃないかと、僕はたかをくくっている。居間には薪と灯油のストーブが並んでいて、家の中では真冬でもTシャツで過ごせるのだから。
  • 1999年8月25日水曜日

    郭英男(Difang)Cicle of Life

     


    difang1.jpeg・何年か前にテレビで聴いて気になった歌があった。米が不作で外米を強制的に食べさせられた年があって、その翌年に「ニュースステーション」が米作の特集をした。その時のテーマ曲。誰の歌かわからず探しようもなかったのだが、同じテレビ朝日の「車窓」という番組が台湾の鉄道をやったときに偶然聴くことができた。
    ・その歌を歌うのは郭英男、台湾先住民の一部族「アミス」に属し、そこに伝わる伝承歌を歌い継ぐ人である。手に入れたCDには確かに聞き覚えのある曲が入っていた。「老人飲酒歌」という題名で、長老が集まって豊年祭の儀式をはじめる前に歌う歌と説明されている。郭英男は1921年生まれというから現在78歳、まさに「アミス」の長老である。
    ・僕はテレビではじめて聴いたときに、歌っているのは沖縄の喜納昌吉ではないかと思った。もちろん彼が出したアルバムには見つからなかったが、あらためて郭英男のCDを聴いて沖縄の音楽との共通性を感じた。声の肌理(きめ)、節回し、残念ながらアレンジは妙にイージー・リスニング風だが、それでも、あらためて、その地理的な近さを確認した。


    difang2.jpeg 彼らが台湾に上陸したのは既に1万年以上も前のことである。南方より彼らを運んだはずの黒潮はフィリピン東方に発しほぼ5ノットの速さで台湾、そして日本列島にそって北上する。………このような先住民のなかで、もっとも歌と踊りに秀でた部族がDifangたちアミスである。

    ・文字を持たないアミスにとって、部族の歴史や知恵、生きる世界を物語り、伝承するのは歌である。収録されている歌にはそれぞれ「訪問歌」「階層歌」「恋愛歌」「労働歌」「悲しみの歌」「タニシ拾いの歌」「契りの歌」「友人歌」「収穫の歌」「老人飲酒歌」といった名前がついていて、部族の人びとにとっては単なる歌以上の意味をもっているものである。言葉のわからない僕には理解しようがないが、サウンドとして聞こえてくるものには、なじみ深さと新鮮さが混在した印象をもった。
    ・沖縄、アイヌ、ハワイ、あるいはポリネシア、そしてもちろんフィリピンやマレーシアやインドネシア。そんな太平洋の島々を黒潮に乗って移動した人びとの歌。それはたぶん僕の血のなかにも流れているはずのもの。テレビではじめて聴いたときにもった関心はたぶん、そこから来たものなのだろう。
    ・なお、郭英男のホームページもあるので、関心のある人は彼の写真をクリックして訪れてほしいと思う。

    1999年8月18日水曜日

    Woodstock Live 99

     

    ・「ウッドストック99’」をWowow で見た。7月23日から3日間、ニューヨーク郊外の空軍基地ローマで開催されたものだが、Wowowがそのほとんどを8月7日から12日にかけて放送した。ぼくはもちろんすべてにつきあったわけではないが、おおよその雰囲気はわかった。新聞では、火をつけて暴徒と化した聴衆に、30年前の「愛の祭典」との落差を見るものが多かったが、いかにもとってつけたような解釈だと思った。
    ・そもそも「ウッドストック99’」はどんな趣旨で催されたのか。たとえば、30年前に登場したミュージシャンがほとんど出ていなかったし、このコンサートに政治や社会に関する何らかのメッセージが掲げられたわけでもなかった。夏には恒例になった大野外コンサートのなかでも、とりわけ規模が大きいもの。ぼくは最初からそんなつもりで開催の話を聞いたし、実際にコンサートの模様を見ても、出演者にも聴衆にも、それ以上の思い入れがあったようには見えなかった。何しろ、演じる者も聴く者も、その大半はウッドストック以後に生まれた人たちばかりなのだから、何かつながりをつけようとすること自体が不自然なのだ。

    ・見ていて特に目立ったのが「裸」。ステージから遠く離れたところにいくつもの小さなステージ(?)があって、そこに乗った女の子が男たちにそそのかされてブラジャーをはずし、パンティを脱ぎ、場合によっては足を広げてお尻を振る。ストリップ・ショウそのものの光景があって、テレビではモザイクつきだが、その様子を頻繁に映していた。裸になっているのはそればかりではない。ステージに近いところでは、女の子が男の子に肩車をされて、やっぱりブラジャーをはずしている。群衆の上を滑るクラウド・サーフィンをする男の子や女の子たちも上半身はほとんど裸で、女の子はどさくさに紛れてオッパイをつかまれたりしている。「レッド・ホット・チリ・ペッパーズ」のメンバーは一人素っ裸で登場し、時折ギターの脇からオチンチンを見せていたが、そんな彼も見るに見かねたのか「オッパイが近くに見えるからって勝手にさわるな!女の象徴なんだからもっと大切にしろ!」といったことを言っていて、ぼくは笑ってしまった。彼らのパフォーマンスの途中から、焚き火が手に負えなくなって消防車が出動ということになったが、主催者が落ち着くようにアナウンスした後で「レッド・ホット・チリ・ペッパーズ」がやったアンコール曲は「ファイアー」だった。これでは、火は消えるはずはない。

    ・この30年のあいだにロックのサウンドはずいぶん変わったが、それ以上にメディアなどのテクノロジーの革新はめざましい。何しろ、アメリカでのコンサートがほとんど時間差なしに、しかもその全体を見ることができるのだから。ずいぶん手軽になったが、それだけ、感激も、思い入れもなくなった。ただあるのは、その気になって楽しむこと。サウンドシステムの進化は言うまでもないが、場内には大きなテレビモニターがあって、ステージの様子は遠く離れた人にも手に取るように分かる。カメラが聴衆に向けられると、彼や彼女たちは「クラウド・サーフィン」や「肩車」をしてパフォーマンスをする。その呼び物が「オッパイ」の露出というわけである。
    ・30年前のフェスティバルに出演したミュージシャンが聴衆の印象を聞かれて、「明るくて、元気だし、未来があると思った」と答えていた。ずいぶんおめでたい感想である。「コンサート」という場だから、誰もが明るく楽しく振る舞っている。「状況」をそれなりに楽しむすべは最近の若い人たちの得意技である。だからといって、彼や彼女が未来を明るいものと感じているとは言えない。むしろ、日常の不安やストレスを忘れるために、つかの間だけでもスカッとするためにロックで盛り上がる。その落差こそ、30年前にはなかった感覚のように思った。

    ・8月21日に岐阜県で「フォーク・ジャンボリー」が開かれるそうである。日本のウッドストック「中津川フォーク・ジャンボリー」の再現で、こちらは当時の出演者が主体のようだ。どこかのTVが中継してくれたら見ると思うが、懐メロ大会だけにはしてほしくないなと心配している。「ノスタルジー」以外に伝えるものがないのなら、ぼくには張り切ったオッパイの方がまだ見ていて楽しい気がするからだ。

    1999年8月11日水曜日

    F.キットラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター』筑摩書房

     

    ・ 久しぶりに読み応えのある本に出会った。450頁で5800円。値段もいいが重みもある。けれども僕は、この本をもって新幹線を2往復した。それほど読みたい気にさせた本だった。

    ・『グラモフォン・フィルム・タイプライター』、つまりこの本はレコードと映画とタイプライターについての本である。レコードと映画はともかく、タイプライターは今までほとんど注目されることはなかったから、本を見つけたときには新鮮な感じがした。

    ・ワープロが日本で使われはじめたとき、手書き文字の良さと比較した批判や、鉛筆やペンで紙に書くこととはまったくちがうやり方に、文体はもちろん、思考の仕方までかわってしまうと危惧する意見が多く出た。字が下手で筆圧が強い僕には、そんな話は耳にも入らなかったし、文語体の硬い文章がなくなれば、もっともっと読みやすい文章が現れるだろうと思った。

    ・この本を読むと、そんな議論が一世紀も前にタイプライターの登場とともに行われていたことがわかる。書くことを独占していた男たちの多くは、この新しい道具になじむことには消極的で、キイボードに慣れた女性たちが秘書などとして職を得るきっかけになったようだ。一世紀という時間を経て、日本ではパソコンが同じような仕事内容の変化をもたらしている。パソコンとは何より「タイプ文化」なのであった。


    何とも皮肉な話だが、基本的には男性ばかりであった19世紀の帳簿係、事務員、作家の助手たちが、苦しい訓練を経て修行した彼らの手書き文字にあまりに誇りを抱いていたので、レミントンの侵略を七年の間うかうかと見過ごしてしまった。


    ・おもしろい話は他にもたくさんある。目の悪かったニーチェが1882年にタイプライターで詩を書いたこと、89年に出版されたコナン・ドイルの『アイデンティティの事件』では、シャーロック・フォームズがタイプライターのトリックを見破っていることなど。あるいは、精神分析学をはじめた S.フロイトが明らかにした「無意識」が、フォノグラフに出会うことで発見されたという話などは、まさに、目から鱗という感じで読んでしまった。


    精神分析家は、自分の耳にいわば魔法をかけて、それをあらかじめ技術的な道具にかえておかなければならない。他者の無意識がもたらす情報をふたたび抑圧したり、選別してしまったりしかねない。………そうした患者たちを見る医師はだが、理解しようとすることによってこの無意味を何らかの意味に戻してしまってはいけない。


    ・フォノグラフは音をそのまま記録する。決して取捨選択したり、意味づけたりはしない。フロイトは1895年にいち早く電話を診療所に置いたそうだ。他人の心を解釈なしにそのまま表出させること、フロイトはそのような方法の可能性を電話にも見つけている。「無意識の振動は電話のような装置によってしか、これを伝えることができない。」彼はその無意識のありかを心ではなく「心的装置」と呼んだ。


    ・ビートルズのレコードはアビー・ロードにあるEMIのスタジオで作られたが、その装置はドイツ軍から没収した磁気テープをもとに作られたテープレコーダーだった。そのほか、ヒトラーが演説のために作らせた音響システムとロックコンサートでのそれとの類似性、あるいは、ハイファイ・システムと戦闘機や潜水艦の関係などなど......。メディアの世紀が世界大戦の世紀であったこともまた、この本は確認させてくれる。