2004年9月14日火曜日

ガビチョウと薫製

 

forest36-1.jpeg・今年の夏はにぎやかだった。といっても観光客や別荘の住人のことではない。早朝から鳴く鳥のことだ。僕はてっきりセンダイムシクイだとばかり思っていた。「ショーチューいっぱいグイー」と鳴くから、「朝から、この酔っぱらいが」と応えていたのだが、どうも泣き方がちがう。しかも、これまで聞いたことがない。そんなふうに思っていたら、たまたま近くに見慣れない鳥が現れた。さっそくビデオに収めて、野鳥図鑑で調べたが、それらしいのは載っていない。
・世界思想社の中川さんにこの写真を送って尋ねると、「メジロ?」という返事。図鑑でみつかる似た鳥はたしかにメジロしかないが、目の形がだいぶちがう。黒目も白目もかなり大きいし、白い部分が後ろに流れている。隈取りをしたような派手な目だ。身体全体の色もちがう。第一、日本の野鳥らしくない。
forest36-2.jpeg・そこで友人のバード・ウォッチャーに聞いてみた。もう20年以上のキャリアをもっているからさすがだが、得意そうな文面で「ガビチョウと思われます」という返事がきた。「?」聞いたことがない。彼によれば外来種で東京の高尾山でよく見かけるという。さっそく、ネットで検索してみた。
・そうしたら、たしかにそのとおり。特徴がまったくおなじだ。中国やインドに生息して、日本にはペットとして持ちこまれたが、それが野生化したようだ。最初は高尾山や多摩地区で観察されたが、最近では、広く東日本や九州でもみつかるという。参考までに、ガビチョウを紹介したサイトを載せておこう。鳴き声の聞けるサイトはここだ。
・サイトの説明には「篭ぬけ鳥」ということばがあった。逃げ出して野生化したということだろうか。かなり広い範囲で見かけるのだから、生命力の強い鳥なのだと思う。たしかに鳴き声はエネルギッシュだ。最初はほほえましさを楽しんでいたが、だんだんうるさくなって、外来種と知ってからは不快に感じるようにもなった。ずいぶん勝手な話だが、「ガビチョウって、ガングロのヤマンバギャルみたいな顔してますね」などという描写に妙に納得すると、その奇妙な風貌自体も、なにやらうさんくさく思えるようになってきた。
・意識して見聞きするせいか、最近では群をなしているところを見かけたりする。渡り鳥ではないから、ずっとここにいるのだろう。そうすると、ほかの野鳥が近づかなくなるのではないか。ぼくのなかでは、もうすっかり害鳥あつかいである。

forest36-3.jpeg・この夏の話題をもう一つ。薫製作りにチャレンジしている。といってもまだはじめたばかりで、それらしいものを作れていない。買ってきた生鮭をただいれて煙をまぶせばいいぐらいに思っていたのだが、チップがなかなかいぶらないし、味も薫製らしくない。そこでやっぱりネットで検索。そうするとあるはあるは、世の中には凝り性の人は多い。で、読んでいるうちに納得。これは典型的な「スローフード」で、まず下ごしらえに数日かけなければならないのだ。塩、こしょうに各種のハーブを調合してつけ込んで、その後に乾燥させる。夏場は冷蔵庫内で一晩。煙にあてるのも1回とはかぎらない。すこし堅めのしっかりとしたスモークサーモンにしようと思ったら、何日にも分けて燻さなければならないようだ
forest36-4.jpeg・豚のバラ肉をつかってベーコン、冬に近くなったら新巻鮭を1本買おう、その前にサンマの薫製はどうだろうか、などと想像力ばかりが先走りする。しかし、これは腰を落ち着けて、ゆっくりとした気持でやらなければ………。もっとも、短時間で一気に燻して表面だけを薫製にして、中は半生といったやり方もあるようだ。
・薫製機(スモーカー)は市販のものだが、これはセゾン・カードのポイントで手に入れた。高速道路の料金をETC払いにしたから、ポイントは黙っていてもたまる。チップは桜や胡桃の木だというからじぶんでつくることも可能だ。しかし、とりあえずはホームセンターで数袋購入した。これからしばらくの楽しみができた。

forest36-5.jpeg・楽しみといえば、ミョウガ。今年は暑かったからたくさんできて、多い日にはザルに一杯ということもあった。スーパーでは一つ百円ほどで売っているからこれは貴重品なのだが、薬味やテンプラ、あるいはサラダにと、毎食のように食べて堪能した。実はミョウガがどんなふうにしてできるのかといったことも、ここで初めて知ったのである。
・今はもう採れないが、ぼちぼち栗の季節になってきた。これも今年は豊作で、木にはいがぐりがたくさんできている。これはザルというより大篭に何杯も収穫できるだろう。栗ご飯にスモークサーモン、梅酢に漬けこんだミョウガ。食欲の秋が何とも待ち遠しい。
・もっとも夏休みのあいだに腹の脂肪がいっそう気になりだして、湖一周のサイクリングにも数回出かけた。それでなにか効果があったかはわからないが、食べたいものを食べる口実にはなるだろう。

2004年9月7日火曜日

鷲田清一『ことばの顔』中公文庫

 

washida2.jpg・鷲田清一は現代の身体やモード、あるいはコミュニケーションをユニークに読み解く哲学者だが、また、哲学者の視点はもちろん、自分の記憶、関西人の笑い、あるいは京都人の皮肉さを駆使するエッセイイストでもある。その彼の『ことばの顔』が文庫で出版された。
・扱われるのは哲学者の名文句、流行語、そして現代を読み解くためのキーワード、また、すでに使われなくなった死語といったものである。それが鷲田流に調理されると、オリジナルな一品料理になる。
・「人間は天使でも獣でもない。」これはパスカルの人間の二重性を説いたことばだが、著者は生まれ育った京都の島原の思い出からこのことばを料理する。あでやかな舞妓さんとみすぼらしい格好の坊さんがいる町。化粧を落とした舞妓さんがお宮でじっと祈る姿、この世を超えた世界を説く僧侶。人間は一面ではわからないし、また人生も一本道ではない。その不確かさ、不均衡、不釣り合い。著者はそれこそ、「現実というもののいちばんリアルな感触なのかもしれない」という。
・携帯電話はもうすっかり、多くの人の必需品になった。もたずに出かけたりすれば不安でたまらない。そんな声もよく耳にする。人混みの中でのたがいの無関心と、携帯を使った親密なやりとり。そんな光景に出会うと、著者は寺山修司の「いまわたしたちが失いかけているのは『話しかけること』ではなくて『黙りあい』だ」を思いだすという。人混みでの無関心は、実は無関心ではない。不要な接触を避けるために、互いに細心の注意を払うことが必要な場で、結果として沈黙が訪れるのである。携帯を使ったきわめて紋切り型の親密そうなやりとりが、人混みを本当の無関心の場にする。社会が根っこのところで壊れだしている無気味さ。
・学生と話していて、時に通じないことばを喋ってしまうことがある。難しい専門用語や外国語ではない。ごく日常的に使っていたはずのことばで、いつのまにか使われなくなってしまったものだ。たとえば下着の名前。ズロースやシミーズがすでに死語であることは承知している。しかしパンツをズボンと同義に使う学生たちのことばには、今でも違和感をもってしまう。もちろん、ズボンは死語だが、著者によれば、パンツを下着に使ってきたのが間違いだったらしい。パンツはパンタロンの略語で、もともとズボンの意味だった。
・すでに死語と化したことばとして、この本では「ヤング」「TPO」「ボイン」などが上げられている。ことばとその意味の流動化の激しさを実感するが、そのことを一層強く感じさせるのは、この本で取りあげられている「いまのことば」がすでに半ば死語と化していることである。「援助交際」「ソッコー」「なんか」「プリクラ」。一時言われた語尾上げも、今では学生はあまり使わない。ことばや話し方がわずか数年で使い捨てにされる。この本を読みながら、そのことをあらためて考えさせられた。

(この書評は『賃金実務』8月号に掲載したものです)

2004年8月31日火曜日

"Rock Against Bush"

 

bush1.jpeg・アメリカの大統領選挙が近づいてきた。馬鹿ブッシュにこれ以上続けられたらたまらない。そんな気持で一杯な人たちはアメリカにもたくさんいる。その代表はマイケル・ムーアだろう。彼のつくった『華氏911』はアメリカはもちろん、日本でも大ヒットしている。僕はまだ見ていないが、今までの彼の作品からおおよその感じはわかる。ブッシュ嫌いの人には痛快な内容なのだと思う。ニューヨークで開かれた共和党大会に対して50万人(当局発表12万人)のデモがあって、ムーアは先頭を歩いたようだ。
・ミュージシャンたちも立ち上がった。代表はブルーススプリングスティーン。彼のオフィシャルサイトには"Chords for Change"(変化のためのコード)という題名の文章が載っている。内容は、アメリカ人であること、ミュージシャンであることの意味、豊かさと貧困、人種の壁………。そういったことをあらためて考え直すことの必要性と、目前に迫った大統領選挙に対する自分なりの態度を表明したものだ。で、キャロル・キング、パール・ジャム、R.E.M.、ジェームズ・テイラー、、ボニー・レイト、ジャクソン・ブラウンといったミュージシャンと一緒になって、ブッシュ批判と民主党のケリー候補を応援するコンサート・ツアーを企画した。オフィシャル・サイトのスケジュール表によれば、9月の末から10日間ほど、いくつかに別れて全米を回るようだ。最後は全員集まってのマイアミでのコンサート。前回の大統領選挙では、何よりマイアミでの投票結果が大きかったからだ。
・こんな行動は当然反響も大きい。スプリングスティーンは「ザ・ボス」と呼ばれるが、共和党は「ボイコット・ザ・ボス」というキャンペーン広告をテレビで流しはじめたようだ。『華氏911』については、反ブッシュの人たちが一層ブッシュ嫌いになる効果はあっても、ブッシュ支持層にはかえって反発されるから、選挙の体勢には影響しないのではないか、ということが言われている。スプリングスティーンの行動はどうだろうか。
・彼の「ボーン・イン・ザ・USA」はベトナム反戦の気持を歌にしたものだが、同時に愛国的で、歌のかっこよさからいろいろなところで使われる歌になった。共和党も選挙に使いたかったぐらいだから、ブッシュを支持する人たちの気持ちを変える力になるのかもしれない。もっとも、コンサート・ツアーに参加するミュージシャンはみな中年以上の世代で、しかも大半が白人だ。若い世代や黒人、あるいはマイノリティの層にはどれほどのインパクトがあるのだろうか。

bush1.jpeg・そんなふうに感じて、たまたまアマゾンで「ブッシュ」で検索したら、おもしろいCDが見つかった。"Rock Against Bush"というタイトルで2枚出されている。さっそく購入したが、知っているミュージシャンはまったくなかった。若い人たちばかりで、しかもパンク、オルタナ、メロコアなどなじみのないジャンルばかり。正直なところ聴いてもうるさい曲ばかりで、ジャケットの耳を塞ぐブッシュとおなじような気持になりかかってしまった。けれども、社会に背をむけるのを格好いいとするパンクが政治に対して正面からメッセージしてきたのだから、これは評価したいとも思った。
・このアルバムにはそれぞれDVDがついていて、ライブやビデオ・クリップのほかにコントやブッシュの迷演説も収められている。日本版はないから字幕もないが、1000円ちょっとの値段だから買って損はない。ブッシュは、米国の大統領の姿勢や資質が世界中に大きな影響を与えることを如実にしめした。その意味では、ブッシュ反対の声は、アメリカの外から、もっと出てもいいと思う。

2004年8月24日火曜日

何とも奇妙なプロ野球

 

・このコラム、前回に続いて野球の話である。僕はメジャー・リーグしか見ないから、日本の野球はどうでもいいのだが、最近のプロ野球の動向の奇妙さには、ちょっと一言いいたくなってしまった。
・オリンピックの野球チームは「長嶋ジャパン」と呼ばれている。監督で行くはずが病気でだめになった。しかし、長嶋がいなくても「長嶋ジャパン」。試合開始時には選手達は、長嶋が不自由な手で「3」と書いた日の丸にふれてフィールドに出る。何か奇妙だ。「神様、仏様、稲尾様」ということばが昔はやったが、「神様、仏様、長嶋様」なのだろうか。
・国際試合があるたびにアナウンサーや解説者が説明することがある。「ストライク・ボール」ではなく「ボール・ストライク」の順でカウントすること、ストライクゾーンが外角にボール一つ広いこと、ボールの大きさが日本で使われているものより気持だけ大きいこと。オリンピックのゲーム中継でも、再三話題にしていた。しかし、そのちがいは、野茂が米国に行ったときからずっと話題になっていることだ。奇妙に思うのは、ちがいがはっきりしていながら、なぜ直さないのかということだ。もちろん、直すのはローカル・ルールの日本の方である。
・ギリシャでは、野球はどの程度に普及しているのだろうか。日本のドリームチームの試合でも、数千程度の座席しかないスタンドががらがらだ。しかし、芝生はきれいに手入れされている。Jリーグができてサッカーのフィールドはすっかり様変わりした。今では、どのスタジアムの芝生もきれいに手入れされている。なのになぜ、プロ野球の球場の芝生ははげたままなのか、あるいは人工芝で手ぬきをするのだろうか。内野に芝生がないのはどうしてなのか。ボールの転がりやバウンド、あるいはスピードがちがう。第一に見た目が全然違う。選手の体にもよくない。国際規格にあわせるという発想がここでもまるでない。
・野球とベースボールはちがう。そのような言い方も聞き飽きた。日本の一流選手はメジャーに行っても、やっぱり適応して一流の成績を残している。野球をベースボールに直したらいいじゃないかと思うのだが、そういう声はほとんど聞こえてこない。これはもちろん、プレイだけでなく、応援の仕方にも言えることだ。
・しかし、何といっても問題なのは、プロ野球を経営する人たちの意識の古さ、低さ、狭さにある。ビジネスとして経営する気がほとんどない。巨人に頼ってチームを減らし、1リーグにして各球団の赤字を減らそうというのだが、巨人の人気自体に陰りがあるのだから、縮小したら、ますます魅力のないものになってしまう。プロ野球が面白くないのは巨人がリーダーシップを取っているからなのに、そこから発想の転換ができない。
・野球にかぎらずプロ・スポーツはフランチャイズ・システムを基本にする。それは、世界中どこでもかわらない。もちろん、日本のプロ野球を除いての話だ。メジャー・リーグはニューヨーク、シカゴ、ロサンジェルス、それにサンフランシスコ以外には複数の球団を持っている都市はない。日本では、東京周辺と京阪神に集中している。さらに、アメリカのほとんどの小都市にはマイナー・リーグのチームがおかれているのだが、日本の2軍にはフランチャイズはない。
・メジャーリーガーを目指して野球をする人の数は、5000人とも6000人ともいわれている。それにくらべて日本ではプロ野球選手の数は 700人ほどにすぎない。日本ではノンプロや高校、大学野球がマイナーの役割を果たしてきた。しかし、それも怪しくなって、野球のできる環境自体が縮小しているのが現状である。
・日本には100万人以上の都市が10、50万人以上が10、40万人以上が20、30万人以上が24、そして20万人以上が39もある。 12球団がそれぞれ3つのマイナー・チームを持って全国の都市に配置すれば、我が町のチームとして応援できる都市が36も増える。プロ野球の将来を考えたら、そんなプランも出てきそうなものだが、そんな話はまったく聞いたことがない。だから、野球の将来を真剣に考えているとはとても思えないのである。(2004.08.24)

2004年8月17日火曜日

秋田・岩手

 

bandai1.jpeg・今年で3年目の東北旅行。去年の夏に山形の酒田まで行ったので、今年は秋田の男鹿半島まで行くことにした。家からの距離はおおよそ1000km、往復で 2000kmの車旅行だった。4泊5日、宿泊地は猪苗代、男鹿半島、田沢湖高原、そして一関の厳美渓。猪苗代は一昨年以来2年ぶりだが、今回は宿泊だけで、まずは早朝の会津磐梯山から。

・男鹿半島はなまはげで有名だが、おみやげ屋の前にはこんな鬼がいて、子どもが集まっていた。海は荒れていて入道崎の岩にくだける波はすごい。開館したばかりの水族館と宿泊先からの夕焼け。


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・寒風山から八郎潟、男鹿市を望むパノラマ。この後、猛烈な雨が降ってくる。


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・田沢湖ではカヤックをした。ライトブルーの水の美しさにビックリ。玉川温泉から流れ込む塩酸と硫酸が原因の強酸性の水質のせいだが、魚がたくさん見えた。石灰石で中和して酸性度を弱めている成果のようだ。もっとも田沢湖にはもともと固有の「クニマス」がいたのだが、発電のために玉川から水を流し込んで、絶滅させたという歴史がある。強酸性は人災だったのだが、この水の色はどうなのだろうか。
・カヤックは波が高く、逆風でしんどかったが1時間ほど漕いで楽しんだ。宿は田沢湖高原で、湖がよく見え、秋田駒ヶ岳も間近にあった。冬はスキー客でにぎわうようだが、夏は登山客がほとんどだそうだ。


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・秋田市はたまたま竿灯祭。夜だけだと思ったのだが、市内を走ると昼からやっていた。そう言えば、東北4大祭を巡る観光バスがどこでも目についた。


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・4日目は岩手へ。小岩井農場、盛岡市、そして猊鼻渓。賢治と石のミュージアムに立ち寄った。陸中松川駅に停車した気仙沼行きのディーゼル。宿泊地は厳美渓のロッジ。


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・で、最終日は一関から一気に河口湖まで。およそ600km。

2004年8月10日火曜日

思案中?!

 このコラムを書くのは4カ月ぶりです。他のテーマとくらべて、ほとんど書くことがなくなっています。理由はジャンク(スパ)メール。あまりに量が多いので、6月にサイトからメールのアドレスをはずしました。しかし、それでも、毎日50〜100通は舞いこんできます。アダルトサイト、ヴァイアグラ、ダイエット、ドラッグ、投資、ソフトやハードのディスカウントショップ等々で、しつこいメールにくりかえしお断りの手続をしたのですが、新しいものが次々とやってきます。


「拒否」のできないものも多く、これはどうしようもありません。もっと悪質なのはウィルス・メールで、多いときにはこれも山のように舞いこみます。もっとも、今までウィルスに感染したことはありません。多分、マッキントッシュのせいでしょう。いずれにしても、ファイルはもちろん、本文もあけずに即、消去。だから、個人的に英語でやってきたメールも、ほとんど確認せずに捨てるようになってしまいました。


広告は、資本主義の社会では、経済を沈滞化させないための潤滑油のようなものです。新聞や雑誌に占める広告の割合、テレビCMの多さを見れば、私たちが広告のおまけとして、記事を読み、グラビアを眺め、ニュースやバラエティやドラマ番組を楽しんでいることがよくわかります。たとえ多数の人にうんざりされたり、反感をもたれたりしても、興味をもつ少数の人がいれば、効果はそれなりにあって、十分にペイする。そういうエゴイスティックな性格が、広告には本質としてついてまわっています。


ネットのメールも同じ理由で散弾銃のように発射されるのですが、世界中に盲撃ちですから、たまったものではありません。公開されたメール・アドレスが使用不能に近い状態になってしまう状況は、厳しく規制して欲しいし、撃退する方法を次々考える必要があるのだと思います。多分、ネット上を行き交っているメールの大半は、この種のメールなのではないでしょうか。


このHPからメールアドレスをはずした理由はもう一つありました。内容について感想を寄せてくれる匿名のメールはよくあって、やりとりをするのは、楽しい作業です。しかし、「会いたい」「好き」といった内容に変わっていくものが時々あって、去年の暮れから着始めたメールが5月から急にエスカレートしはじめました。途中から無視を決めこんだのですが、別のところで、匿名の「別の僕」とやりとりをしているようで、「デートの待ち合わせ場所に行ったのになぜ来ない」といった文面が携帯から届くようになりました。


この一件は「あなたのまったくの勘違い!」といって釘をさしたら、ハッと気づいたようで、お詫びのメールが届いて、その後はぱったり来なくなりました。僕のHPは大学のサーバーから実名を出して発信していますから、たとえ関心があっても、こんなやりとりに応えるわけにはいきませんが、研究資料としてはちょっと面白いものではあります。ネット恋愛の一端にふれることができましたし、「インターネットと感情」といったテーマに、あらためて関心をむけたくもなりました。


どうせ、ジャンクメールが減らないのなら、アドレスの公開を再開しようかと考え直しはじめています。理由は次のメール。発信者はタイに住む日本人の女性です。

 はじめまして。私はバンコクで暮らしております。1年半前にカラバオを知り、大ファンになりました。カラバオ、そして松村洋さんの検索をしていて、あなたのHPを知ることができました。
 私は学生時代クラシックピアノを学んでおりました。しかしクラシックと幸せな出会いはなく、好きなロックコンサートにはひとりで行くしかありませんでした。が、家庭の事情で長い間音楽とは遠い生活となり、40代も終わり頃、タイに日本語教師としてやってきました。地方で2年ほど教え、タイ語を習おうとバンコクに出てきて、そしてカラバオに出会ったのです。
カラバオはカラワン楽団と並んで、メッセージ性の強い歌を歌い続けてきたタイを代表するバンドです。80年代には日本でも熱烈な支持者が増え、特にカラワン楽団については「水牛通信」といったミニコミが出て、それがまとめられて本にもなりました。さっそく返事を書くと、次のようなカラバオについての近況が書かれてありました。
 今夜(昨夜?)バンコクでライブがあり、今帰ってきたところです。彼らのステージは深夜0時から始まり2時に終わります。
 カラバオのライブにカラワンさんも出ていたり、プアチーウィット系の歌手総動員のステージでカラワンの歌を聴いたこともありました。
 カラバオが好き、というと「プアチーウィット(人生の歌というジャンル)が好きな んだね」といわれますが、私はロックバンドとしてのカラバオが好きなのです。
こういうやりとりはもっと大勢の人とやってみたい。その可能性があるのなら、投げ捨てられたゴミの片づけを我慢しても、メールを待つ意味はあるかも。そんな気持に傾いているのですが、どうしたものか。目下思案中です。

P.S.プアチーウィット(人生の歌というジャンル)系のタイの音楽。興味津々です。日本にはなくなってしまった歌ですから。

2004年8月2日月曜日

三田村蕗子『ブランドビジネス』平凡社新書

 

brand1.jpeg・広告の世界では「ブランド」があらためて注目されているという。今さらと思わないではないが、一流企業の不祥事がきっかけで売れ行きが激減とか、社運そのものが危うくなったりする事件を目の当たりにすると、「ブランド」のもつ意味は、確かに大きいと言える。
・あるいは、ヨーロッパの有名ブランドのバッグをもった女性がやたらに目についたりもする。景気が悪いと言われているのに、どうして高額なものに関心が集まるのか。高級ブランドは希少価値が命のはずなのに、なぜ、みんなで同じものをぶらさげて、平気でいられるのか。そんな疑問も感じてしまう。
・三田村蕗子の『ブランドビジネス』は、そんな疑問に答えてくれる一冊である。もっとも、この本があつかうブランドはファッションに限定されている。それも、「ルイ・ヴィトン」に関連する記述が多い。その理由は、第四次のブランドブームといわれる現在の状況が、ヴィトンの一人勝ちになっているからだ。
・ヴィトンの日本での売上は、世界の三分の一を占めている。二〇〇三年度の売上は一五〇〇億円で森永製菓とほぼ同規模であり、この二〇年間での総売上は一兆円を超える。ヴィトンのバッグをもっている人は二〇〇〇万人とも三〇〇〇万人とも言われるし、二〇代の女性の二人に一人が所有しているとする調査結果もある。著者はこの現象をまさにお化けだ、と表現する。
・このような状況に対する批判は、相変わらずのものが多い。欧米志向がまだ抜けない。横並び志向が強い。マスコミに踊らされやすい。自分なりの価値観がない。高額な品物を子どもに買い与える親の甘さ。あるいは一点豪華主義。住宅事情が悪い日本では、身の回りの小物に贅沢をして充実感を得るしかない、といった指摘もある。
・ヨーロッパの高級ブランドの多くは馬具の製造から出発している。乗馬を楽しむ貴族や富裕な階級のための道具で、そこから靴や旅行に持ち歩く鞄に広がった。だから、ヨーロッパでは今でも、高級ブランドの購入者は一部の富裕な層にかぎられていて、労働者階級の人たちには、それを所有したいという欲求自体がほとんどないと言われている。
・それでは、くりかえされる批判にもかかわらず、なぜ、日本人は高級ブランドに欲望するのか。著者は、ブランドビジネスとは、消費者に夢という魔法をかけるビジネスで、日本人はその夢を大勢で一緒になって見たがるのだという。ディズニーランドの一人勝ちや行列のできる店への注目と同じことだ。
・実体よりは夢が大事で、それをみんなと一緒に見て満足感を覚える。だから、夢からさめるのも一緒で、一度飽きられたブランドは、なかなか立ち直れない。日本におけるブランドビジネスの魅力と不確かさ。このような傾向の加速化は、一流企業が一つのスキャンダルや不祥事で消えてなくなる危険性とも無関係ではないはずで、今度は「負のブランド」現象についても知りたくなった。

(この書評は『賃金実務』7月号に掲載したものです)