2005年11月29日火曜日

Bob Dylan "No direction home"


  NHKのBSで"No direction home"を見た。3時間半の長さでくたびれてしまうかと思ったが、ずっと見入ってしまった。で、見終わった後は、しばらく放心状態。とにかく貴重な映像の連続だった。デビュー前から1966年までのディランの軌跡である。


たとえば、数年後には伝説のようにあつかわれ、くりかえし語られてきた出来事のほとんどが映された。ニューポート・フォークフェスティバルで絶賛され、プロテストの旗手といわれるきっかけになったステージと、翌年のバック(のちのThe Band)をつけて登場して、大ブーイングを浴びたシーン。そこに、パニックを起こしてケーブルを斧で切ろうとして止められたピート・シーガーの行動が本人のことばで裏づけられる。ディランの変身はたちまち世界中に伝わり、それ以降のコンサートでは、ステージはディランと客との喧嘩状態になる。特に、有名なのはイギリスでのコンサートで、会場からの「ユダ」というののしりに、「そんなこと信じない」といった後に「おまえは嘘つきだ」と叫んで歌い始めるシーンがある。これが映像として映し出されたが、バックに「でっかくやろう」と語りかけていたり、ステージに下がった後の言動まで記録されていた。


このような逸話は、当時は雑誌の記事でしか知り得ないことだったし、その海賊版を見つけて、ひどい雑音のなかから、それらしいやりとりを感じ取る他はなかった。その海賊版が正式に公表され、音を手に入れることができたのはここ10年ほどのことだ。それでも結構喜んでいたし、映像で残っているとは思わなかったから、びっくりしてしまった。寝ころんでテレビを見ていたのだが、そのたびに起きあがって、「えー」とか「うわー」とかいってしまった。
そのような一つ一つに、現在のディランやそのほかの当事者たちのコメントがつく。時間がたっているから冷静に振り返った発言が目立ったが、中には立場の違いがはっきりするおもしろいものもあった。たとえばディランのデビューアルバムに「朝日の当たる家」(これはとんでもない誤訳で、本当は「朝日家」で、ニューオリンズの売春宿の名前)を入れた。トラディッショナルだが、歌い方やコード進行はデーブ・ヴァン・ロンクが工夫したものだったようだ。ディランはそれをレコーディング後にデーブに言ったようだ。当然デーブは怒ったが、それでも了承した。しかし、それが納得のいかないことであったのは、現在の彼の口ぶりからもよくわかった。「朝日の当たる家」はその後「アニマルズ」が歌って大ヒット曲になる。デーブはその後で、ディランが「おかげでぼくがアニマルズのまねだと思われてしまう」と言った話を紹介して、愉快そうに笑った。


ディランはニューヨークに来てからオリジナルを作り始めたようだ。それ以前は、いろいろな人のコピーだったから、ミネソタの知人たちは、その変貌ぶりにびっくりした。中でもおもしろかったのは一般には手に入らないウッディ・ガスリーのレコードを何枚も盗まれたフォークソング収集家の話だ。ところが、若い頃のディランが人一倍功名心が強く、ずる賢くて要領もよかったことを強調する人たちもふくめて、登場する誰もが、自分がボブ・ディランという時代の寵児の誕生に関わったこと、その才能の開花に手を貸したことなどを得意げに話していた。あるいは、地味なフォーク・シンガーのままで現在に至っている人たちの、賞賛や批判、あるいは嫉妬などが混じり合った発言など。それにまた、ディランのコメントがかぶさって、ディランを中心にした感情の蜘蛛の巣ができあがる。なかなかおもしろい構成だと思った。
ディランの2枚目のアルバムのジャケットには、当時の恋人スーズ・ロトロと冬のニューヨークを歩く写真が使われている。そのスーズも出て当時のディランとの関係を話したし、スターになるきっかけを作り、その後コンサートに帯同して恋仲になったジョーン・バエズも登場した。ディランとロトロの別れにはバエズが原因したが、そのバエズは、ディランの才能に惚れ、そのすごさに怖れ、自分の世界からあっという間に遠ざかってしまったことを寂しそうに振り返った。そこにまた、ディランのことばが重なってくる。


ディランにたいする矛盾した愛憎の感情ということで言えば、アコースティックをエレキに持ちかえた直後の客の反応もおもしろかった。今までのディランは好き。しかし今日のステージのディランは嫌い。だから会場はいつもブーイングの嵐になった。そんな反応をしたファンのコメントの後に、楽屋裏でディランが「だったら、なぜチケットがすぐ売り切れてしまうんだ」とつぶやく。本当にそうだなと思ったが、ディランのステージの半分は生ギターをもったソロだから、客の気持ちは<見たい←→見たくない>で引き裂かれる。さらに客の中には、ロック・アイドルとしてのディランに惚れ込んだばかりの少女たちもいて、客層も二分されている。


3時間半の長いドキュメントは66年で終わっている。デビュー前の50年代後半から、わずか7年ほどの記録でしかない。ディランはその後、現在まで40年近くも歌い続けている。おそらく残された映像は膨大なものだろうと思う。彼のインパクトは確かに66年でいったんとぎれるが、その後に辿った道筋は、またそれなりに興味がある。「自伝」と同様、続編を期待してしまうのだが、スコセッシは、作るつもりなのだろうか。

2005年11月22日火曜日

ペンキ塗り、薪割り、そして紅葉

 

forest47-1.jpg・バルコニーの補修がうまくいったので、次はログのペンキ塗りと考えたら、すぐに始めたくなった。我が家は直径が50〜70 cmもあるカナディアン・パインで組み立てられている。一本の長さは15〜20mで10本重ねだから、周囲だけで40本、これになかの部屋割り分が30本で、そのほかに天井の支えや支柱に20本ほど使われている。全部で90本を超えるが、塗料が塗られているのは外壁部分だけだ。その40本に薄い茶色の油性ペンキを塗ることにした。防かび、防虫、防腐で臭いの少ないものを選んで、余裕を持って一斗缶を買ったが、ほとんど使ってしまった。
・ふつう専門家に頼めば、まず足場組からはじまる。しかし、そんな大げさはできないので、折りたたみ式のハシゴを使って、少しずつ移動しながら塗ることにした。まずは、汚れ落としから。大きなバケツにぞうきんを数枚用意して少しずつ拭いていったのだが、これがすぐに真っ黒になる。土埃や蜘蛛の巣、あるいは鳥の糞などがこびりついていて、なかなかはかどらない。普段は気がつかなかったが、改めて念入りに点検すると、汚れだけでなく、ずいぶん虫にも食われている。さいわい、腐っているところはなくて安心したが、のんびりやったせいか、一面を拭くのにたっぷり半日かかってしまった。で、一日目はそれでおしまいにして、ペンキ塗りは二日目からにした。

forest47-2.jpg・とても一日中作業することはできないので、仕上げるまでには10日ほどかかった。外壁の三面には暖房用の薪が積み上げてあるから、まずはそれを移動しなければならない。もちろん、毎日というわけにはいかなかったし、天気とも相談しながらだったから、始めてから終わるまでに一ヶ月ほどかかったことになる。低臭のペンキとはいえ、やはりシンナー臭い。最上部の軒先のところを塗るときには、どうしてもシンナーの臭いがこもったところでの作業になる。だからなるべく吸い込まないように気をつけながらしたのだが、家の中にも臭いが入りこんでいて、塗った壁面近くが夜も臭くて、頭が痛くなってしまった。
・ログハウスにはどうしても木と木の間に隙間ができてしまう。そこをふさぐコーキングがしてあるのだが、木は乾燥や、重みで変形していくから、これも時々補修しなければならない。寒冷地だから、すきま風が入りこまないよういつも気にしているところだが、ペンキの臭いが進入しているということは、隙間があるということで、また、新たな仕事ができてしまった。
・ペンキを塗り終わって、改めて周囲を一回りし、遠くから眺めてみると、少し茶色が濃くなって落ち着いた感じになった。日の当たらない北や西側の色が赤みがかって見えるのは、日焼けしていないせいなのだろうか。なかなかいい、としばし眺め、その後も、何度も見返している。ベランダの補修、塗装とあわせると100万円以上はかかる作業のようで、ずいぶん大きな仕事をしたという満足感を味わった。

forest47-3.jpg・今年の冬用の薪はたっぷりある。冬から春にかけて、たまたま湖畔で大量に伐採された木を見つけたからだ。まだ割ってないのが相当あって、来年の冬の分もかなりあるほどだが、東京の知人で庭師の仕事をしている人が、もっていくようにと大量の薪を提供してくれた。すでに割って、縄でくくってあるのだが、それを大学の帰りに少しずつ、車に乗せて運んでいる。もう積み上げるところがないし、今年は灯油が高騰しているから、例年よりも早く10月の中旬から薪ストーブを使い始めた。昼間もつけっぱなしにしているから、今のところ灯油ストーブはほとんど使っていない。そんなわけで、ペンキ塗りが終わった後は、薪割りが毎日の日課になっている。

・いつまでも暖かくて紅葉は遅れていたが、11月に入って最低気温が零度近くまでなったら、辺りの景色が急に黄色や赤に変わってきた。湖畔の紅葉の名所には観光バスが行列して混雑している。ライトアップもしているから、夜になっても人出は衰えない。近隣の別荘族も久しぶりににぎやかだ。ただし、紅葉もそろそろ終わりだから、今月末には、誰もいない静かな湖畔になるのだと思う。長い、しーんとした静寂の季節の始まりだ。

2005年11月15日火曜日

Elliot Smith

 

elliott2.jpg・エリオット・スミスはすでにこの世にはいない。2003年の10月に死んでしまっている。まだ34歳で、死因は自殺のようだ。そんなことを最初に知ってから聴いたせいか、どれを聴いても死の影が感じられてしまう。歌声はか細く、音程も不安定で、何とも頼りない。
・1994年にソロ・アルバム"roman candle"を出している。翌95年にでた無題のアルバムとあわせて、納められた曲の大半にドラッグが登場してくる。ジャケットにはビルの谷間に落ちてくる二人の人影が描かれている。その最初の曲名は「干し草のなかの針」。探しても探しても見つからないものを必死で求めているのか、あるいはドラッグに関係があるのか。いずれにしても、ちくりと痛い。歌詞カードも判読不能の手書きのもので、内容もわかりやすくはないが、次のような、情景をありありと描きやすい描写もある。

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彼の腕に手をかける
首まで埋もれた干し草の山と戯れる
からだは薬で衰弱しているが
金を借りようと友達に電話をする
予想はしていたが、やつは黙ったままだった

・エリオット・スミスが注目されるきっかけになったのは、映画『グッド・ウィル・ハンティング』のサントラに使われたからだった。小さい頃の親からの虐待が原因で自分をだめな人間だと思いこんでしまった少年が、同じような境遇を経験した精神科の医師によって、自分に向き合い、その才能を自覚していく話だ。出演はマット・デイモンとロビン・ウィリアムスで監督はガス・ヴァン・サント。アカデミーの9部門にノミネートされ、この映画のために書き下ろされたエリオット・スミスの歌"Miss Misery"も主題歌賞にノミネートされた。ぼくは見たはずだが、ほとんど記憶がない。ネットで探したら、彼の友達が書いた次のような文章に出会った。
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アカデミー賞を見るために、僕は友だちと集まった。エリオットが賞を争うことになった他の曲は、どこか別の世界のものだった。大袈裟な、ストリングスにひっぱられたアレンジと、こけおどしのアクロバチックなヴォーカルがステージを支配していた。エリオットが真っ白いスーツを着て、古びたヤマハのギターを抱え、恥ずかしげに歩み出てきた時、彼の声はまるで一迅の新鮮な空気だった。それはリアルで、心の底からでてきたものだった。エリオットはそれを心から歌っていた。勿論、彼はオスカーを取らなかった。 (ファン・サイト"between the b@r"から引用)

elliott5.jpg・エリオットは自分のために歌を作っている。湧き起こるイメージや心にたまるわだかまりを吐き出さずにはいられない。精神安定剤としての音楽、そしてドラッグ。メジャーに移籍する前のアルバムは、ほとんどひとりで作り上げている。多重録音してはいるが、歌うのも演奏するのもただひとりであるのがほとんどのようだ。きわめて自閉的で自罰的な歌ばかりで、オスカーの舞台とはかけ離れている。有名になること、金儲けをすることなどまったく考えてもいなかったかのように聞こえてくる。だとすれば、メジャーのミュージシャンになってしまったことは、彼にとっては良かったのか、悪かったのか。

・死後に出された遺作の"from a basement on the hill"に載っている写真の顔はひどくむくんでいて髪の毛も伸びている。サウンドにも凝って聴きやすくなっているが、歌詞はやっぱり、必死で救いを求めているかのようだ。英語がすっと入ってきたらとても聴けない歌ばかりかもしれないが、耳には心地よくて、繰り返し聞きたくなる曲が多い。
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ぼくを照らしてよ、ベイビー 
心には雨が降っているから
太陽がゆらゆら、ぎらぎらとあがってきて
雨が落とした酸が空中を漂っている
自由になるためには今、ゆがんだ現実が必要なんだ
"a distorted reality is now a necessity to be free"

2005年11月8日火曜日

義母の死

 

・義母が死んだ。享年82歳。今年の春にあったときには元気そうだったのだが、その数ヶ月後に肺ガンで入院したという連絡が届いた。以前から自覚はあったようだが、そんなそぶりは見せなかった。気丈な人で、20年以上、ひとり暮らしをつづけてきた。子どもが小さかったときは、京都から福島まで、毎年夏休みに訪ねて数泊していたが、最近では訪ねることも少なくなって、行ったとしても旅行のついでに数時間の滞在ということが多かった。


・入院してから亡くなるまで、娘であるパートナーは何度も病院を訪ねたが、ぼくも二度お見舞いに行った。最初は抗癌治療をしているときで、髪の毛が抜けるからと言って頭を短く刈ってしまったところだった。身体はまだ痩せてはいなかったが、元気なときとはまるで違う様子で、病気がだいぶ進んでいることは一目瞭然だった。


・けれども、彼女の気丈さは健在で、病院の医者が何も説明してくれないこと、病院や病室が無機質で古ぼけていること、看護士のしつけが悪いこと、あるいは食事のことなど、いろいろと文句をつけていた。たとえば、抗癌治療などをしているときには、食欲などはまるでなくなるのがふつうだという。ところが病院は、それを知っていながら、食べもしない食事を三度三度もってくる。そういった機械的なことがあまりに多く、そして、本当にして欲しいことにほとんど配慮がなされない。義母の感じる不満は至極当然だと思った。


・ぼくが訪ねてからほんの少したって、義母は意を決して病院を変えた。入院した病院は、体調が急変して入ったのだが、それ以前に診察に通っていたのは別の病院で、そちらに移ることを希望したのである。で、二回目は、その新しい病室を訪ねた。病院全体もきれいで、病室も明るかった。主治医も対照的なほど親切で、話をよく聞いてくれると言うことだった。義母は転院を機会に抗癌治療をやめて対処療法に変えていた。だから、落ち着いた様子だったが、一ヶ月ちょっとの間にずいぶん痩せて小さくなってしまっていた。


・新しい病院には音楽療法などが取り入れられ、病室で聴きたい曲を笛で聴かせたりする人がいたようだ。パートナーはその音楽療法士の人と仲良くなり、病院や病人、あるいは医療のシステムなどについていろいろ話したようだ。病院には医者と患者がいて、医者は患者自身ではなくその病気に対処する。だから病人は何より病の人、あるいはその症例でしかないかのように扱われる。こういった状況が問題化されて久しいが、そのことを改める動きがはじまっている。義母の入院はそんなことを目の当たりにする機会になった。


・病を患う人は何より、そのことで精神的な痛手を負った人、病を受け入れることにとまどったり、拒絶したりして動揺する人でもある。だから、そういう人を引き受ける病院には、病気を直接治療する医者やその補助をする看護士だけではなく、カウンセラーや心を和ませる役割を担う人が必要なはずである。ところが多くの病院には相変わらず、そんな役割を担う人は全然いない。それは肉親のつとめだということになるのかもしれないが、誰にでもつきそいができる肉親がいるわけではない。遠く離れて暮らしている。仕事を持っている。子どもの世話に忙しい。家族関係の多様化に病院が対応できていない。そんな病院が今でも多数派だが、新しい試みをするところも、確かに生まれ始めているようだ。


・病院を何度か訪れて改めて気づいたのは、ベッドに寝ている人たちの大半が、コインやカードを入れて見るテレビを友としている光景だった。テレビの役割といえば聞こえはいいが、端から見ていて望ましいものとは思えない。家事が忙しくて子どもに目が届かない母親が、テレビの前に子どもを座らせておくといったことをよく耳にする。幼児ならいたずらをせずに黙ってじっと見ているからということらしいが、病人とテレビの関係は、それとほとんど同じように思えてしまう。子ども扱いというより、人間扱いされていない状況を象徴するものと言えるかもしれない。


・義母は転院をしてから二ヶ月ちょっとでなくなった。短い期間だったが、二つ目の病院での生活は、自分なりに納得がいくものになったようだ。身体が衰弱して思うようにならなくても、内面には昔のままの気丈な心がある。そういった気持ちを維持しながら死を迎えることは、誰もが望むことだろうと思う。けれども、それは現実的にはなかなか難しい。そんなことをあらためて実感させられた。

2005年11月1日火曜日

秋を探しに

 

photo33-2.jpg 今年は冷夏ではなかったのに、栗が全然だめ。わずかに採れたものにも虫がついていた。雨が多かったせいか、それとも別の理由があるのか。とにかく、今年は栗ご飯もマロングラッセもだめで、正月の栗きんとんも作れない。小さな山栗は皮をむくのが大変だが、その作業がないと何となく寂しい。かわりに、去年収穫して冷凍にしていた栗を出して、栗ご飯にした。季節感がないのは他にもあった、
いつまでも暖かくて紅葉もはじまらない。しびれを切らして、10月の中頃に八ヶ岳へ出かけてみた。紅葉は少しだけはじまっていた。快晴で暖かかったが、平日だから、ほとんど人はない。道もがらがらで初秋の景色を楽しんだ。週末は、こうはいかないが、ここのところ週末になると天気が崩れている。それでも中央高速は数十キロの渋滞になる。


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その後最低気温が5度ほどになる日があって、周囲の景色も急に色づいてきた。ススキの穂が風に揺れ、富士山も雪化粧を始めた。河口湖周辺の紅葉の名所も、朝から晩まで人で賑わうようになっている。他府県ナンバーの自動車や、紅葉狩りツアのバスが例年以上に目立つようだ。景気の回復のせいか、「愛・地球博」が終わったせいなのだろうか。

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何度もつづく快晴の金曜日。前から行きたかった西沢渓谷に出かけた。山梨市から秩父市に抜ける140号線を雁坂トンネル手前まで行く。渓谷は笛吹川の源流にあたるが、今は、その手前に広瀬ダムが造られ大きな湖になっている。西沢渓谷は、さらにその上流にある。
入り口前の駐車場について驚いた。平日なのに車が一杯。観光バスも数台ある。紅葉で有名なところとはいえ、ものすごい人出だ。歩き始めると、そのほとんどが中高年でリュックをしょったハイキング姿であることに気がついた。渓谷は一回り10キロほどの行程で4時間ぐらいかかる。渓谷の奥には甲武信岳。


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歩くつもりはなかったから、途中、滝をひとつ見たところで引き返したが、そうする人はほとんどいなかった。駐車場に戻って観光バスを見ると、三食付きで渓谷のハイキングと書いてある。いったい朝何時に起きたのだろうか。元気な人が多いが、旅行会社もプラン作りには工夫しているのだ、とあらためて認識させられた。もっとも、缶ビール片手に花見気分の紅葉狩りといった人や、ペット連れなどという人もいた。揺れる吊り橋や急坂などもあって、そんなに楽なコースではないはずなのだが、大丈夫だったのだろうか……。

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 日時:2005年11月01日

2005年10月25日火曜日

info@〜というスパム・メール

 ジャンク(スパム)メールは相変わらず多い。さまざまな規制が行われてもいっこうに減らないから、ほとんどあきらめているが、しかし何とかならないものかと腹が立つ機会は何度もある。特に旅行中はそうだった。たまにしか開けないから数百通のメールが一気に届いた。


メール・ソフト(Thunderbird)が自動的に「迷惑メール」を識別してゴミ箱に移動してくれるから、受信トレイには必要なものしか残らない。驚くほど賢くて感心してしまうが、一応ゴミ箱もチェックすることにしている。捨ててはいけないものがまぎれこんでいるからだ。しかし、旅行中はネット・カフェで勝手がわかりにくかったせいもあって、しっかり確認をしなかったら、いくつか必要なメールが消えてしまうことになった。


ここ数ヶ月、異常に増えているのは"info@〜"という送信者名のついたものだ。メイリングリストと間違いやすい書式で、ジャンク扱いされないようにする巧妙な工夫だと思う。これに「ご連絡」だとか「ニュース」などという題名がついていると、メール・ソフトも最初はジャンク扱いにしなかった。しかし、くるものを次々ゴミ箱送りにしていたら、最近ではほとんどを自動的に処理してくれるようになった。もっとも、ときどき必要なものがゴミ箱に直行してしまうから、気になって、ゴミ箱を開けてリストだけは眺めなければならない。


中身を開けることは最近ではほとんどないのだが、相変わらず「出会い系」や「アダルト」が多い。商品情報が中心の英文メールに比べると、その違いはあまりに大きい。毎日数十通もくるから、それなりに効果があるのだろうが、本当にあきれる内容ばかりである。たとえば、比較的おとなしいものを紹介してみよう。

成年男性の皆様へ。
 唐突なメール大変申し訳有りません。今回は30代以上の女性を主にご紹介したく 思いましてメールいたしました。30歳過ぎると女性は今までの性欲以上に過激なSEXを求めるようなのです。一切の躊躇もせず、大胆且つ刺激的なSEXができるなんて、とても素晴らしいことだと思いませんか?(info@bkdjeu.com)

只今男性会員不足なので、女性会員から逆指名されたケースが非常に急増しており、当サイトは貴方を指名した女性会員のメッセージだけではなく、直アドと写メ(公開中)も無料で貴方に配信致します。面倒な検索は一切不要です。(info@effk.com)
ぼくのところにこの種のメールが多いのは、メールのアドレスを公開しているからだと思う。そして同じように、HPで公開しているぼくのパートナーのところにも、同様のメールが同程度に舞い込んでくる。HPで発信し続けるかぎりは仕方がないとあきらめているが、最近父親から「変なメールが大量にやってきて困る」という相談をされた。すでに80歳を過ぎていて、HPなども公開してはいない。インターネットを時折利用する程度だからアドレスがわかるはずはないのだが、どうしてなのだろうと思ってしまう。考えられるのはプロバイダーの情報が流出したということだろう。そういう可能性も含めて苦情をいうことと、アドレスの変更を勧めたが、大手のケーブル会社だから、かなりの数のデータが漏れたのかもしれない。(こんなふうに書いていたら、たまたまNTTが形態のメルアドを何万件もネットに晒していたという記事を見つけた。)


この手の迷惑メールの発信先は圧倒的にアメリカだったのだが、最近では韓国や中国からのものが多いようだ。インターネットは国境を無視するから、なかなか対応が難しいし、規制をしても必ず新しい抜け道が見つけられてしまう。だから、ソフトの改善も含めて、後手後手にまわるのは仕方がないのだが、大きな被害が出ないことを望むばかりである。


迷惑メールといえば、ネットで買い物をすると拒否してもやってくるものがおおいことも付けくわえなければならない。一番悪質は楽天で、何度拒否してもしつこくやってくる。だから楽天では買い物はしないことにしているが、最近はAppleやAmazonからもやたらに送られてくる。必要なときにはこちらからアクセスするし、ほとんど用のないものばかりだから、これらも拒否しようかと考えている。


ネットがマスコミに対抗できるものになりつつあることはソフトバンクやライブドア、それに楽天などの鼻息の荒さでもよくわかるが、儲けのためには相手お構いなしという姿勢が、あらゆる面で露骨なのではないかとも思う。インターネットは個々のネットの互助努力によって成立している。このことが全く忘れられてしまっているのではないだろうか。 

日時:2005年10月25日

2005年10月18日火曜日

ロナルド・ドーア『働くということ』(中公新書), リチャード・セネット『それでも新資本主義についていくか』(ダイヤモンド社)


・阪神やTBSの株買収でにぎやかだ。ホリエモンの日本放送買収以来だが、今度はあまり支持する気にならない。村上ファンドは短期的な利益という手法が露骨だし、楽天は二番手で実利を得るというやり方が気に入らない。いずれにしても、金儲けしか考えない貪欲さばかりが目立つ気がする。
・株を買い占めて企業の経営に参加する。それは株式制度の原則だが、日本ではこれまであまり一般的ではなかった。株主総会は儀礼的なもので、せいぜい総会屋がいちゃもんをつけるという程度のものだった。それが最近、様変わりしている。どんな大企業でも、一度目をつけられたら、あっという間に買収されかねない。そんな危険はアメリカではずいぶん前から日常茶飯のことだったが、日本でも頻繁になるのだろうか。
・日本の企業はこれまで、信頼関係にあるもの同士で株を持ち合って、買い占めを予防してきた。そのような体質が馴れ合いとして批判され、市場に晒して体質を強くしなければ、海外からの資本の流入に対応できないといった論調が自明のことになってきた。
・ところが一方で、「生き残り」を理由に働く人たちにかかる圧力や時間の拘束は大きくなるばかりだし、雇用形態をパートやアルバイトに変えて人件費を削減するといったやりかたも露骨だ。「サービス残業」などという奇妙なことばが使われても、力の弱くなった労働組合には、強く批判して抵抗することもできない。

dore1.jpg・ロナルド・ドーアの『働くということ』は、このような変化を「従業員主権企業」から「株主主権企業」への移行だという。村上ファンドの言い分はまさにこの通りで、「株主の声を聞け」が脅し文句の一つになっている。企業は株主のためにある、ということになると、従業員は何のために働くのだろうか。自分のために働いて、正当な報酬を得る、ということだとすると「サービス残業」をなぜしなければならないのかわからなくなる。そんな理不尽さに嫌気がさして転職をしても、どこも似たようなものだから居心地は変わらない。


1993年からの10年間、正規労働者が9%減っている代わりに、パートタイム労働者が31%、フリーターが83%増え、さらに派遣労働者(まだ全体の1.3%ですが)が342%増えました。非正規労働者は全体の20%から37%に達しています。(p.101)

・「市場原理」を第一にすれば、当然、勝ち負けがはっきりする。しかも勝つのはごく少数で、大半は敗者になる。これはアメリカが昔から是としてきた原理で、だからこそ、「アメリカン・ドリーム」が現実味を帯びた目標になり続けてきたし、「不平等社会」を黙認する理由にもなってきた。ドーアはしかし、そのような傾向がアメリカでも、一層顕著になっているという。

アメリカ企業トップ100社のCEOの所得は……1970年には平均的従業員のサラリーマンの39倍だったのが、今日では1000倍以上になりました。(pp.136-137)

・ドーアはこのような変化の原因として、1)低賃金の発展途上国による競争の激化、2)技術変化によって引き起こされる技能割増金の拡大、3)スーパースター現象の三つをあげている。先進国では単純労働はますます低価値になり、新しい技術や技能を習得した者が有利になる。とりわけ、突出した者に桁違いの価値がつくというわけだ。このような現象はもちろん、アメリカでも「不平等化」をもたらす問題として深刻だが、いったい日本人にどれだけのストレスになるのか、空恐ろしい気がしてしまう。

sennett1.jpg・リチャード・セネットの『それでも新資本主義についていくか』(ダイヤモンド社)には、このような経済システムの大きな変化が「フレキシブル」「リエンジニアリング」「ネットワーク」「キャリア」といった新しい魅力的に見えることばとともに押し寄せてきたことが力説されている。「ニュー・エコノミー」は「キャリア」を持続的で一貫したものから短期的でフレキシブルなものに変えた。また、組織をピラミッド的なものからネットワーク型に変えた。あるいは過去にとらわれない大きな変化をよしとする「リエンジニアリング」という手法を一般的にした。そして実際、このような手法をいち早く導入し、意識の高い人を集めた会社が成功し生き残ったというのである。セネットはその典型例をIBMの凋落とマイクロソフトの台頭に見ている。
・しかし、このような変化は、働く人びとにはいったいどうなのだろうか。『それでも新資本主義についていくか』の視線は当然、そちらのほうに向けられている。たとえば、勤務時間のフレキシブルな管理には、労働の世界に多くの女性が参加したことが理由にあげられるが、一部の恵まれた従業員の特典にはなっても、多くの人には低賃金のパートタイムでの仕事の増加にしかなっていない。時間を自由に決められるパートタイム労働は、安価な労働力となって、働く者よりは雇用する者を利しているのが現実だという。その意味では、フリーターの増加は、若い世代の自発的な選択ではなくて、労働市場に大きな原因がある。
・状況がけっして良くないのは、勝ち上がったと思われる人たちにも散見される。勝つためには「リスク」を恐れてははじまらないが、それは時にはリスクを回避するといった冷静な判断を躊躇させてしまう。「人びとが賭に打って出るのは、自負心からではなく、打って出ないと、最初から負けと認めることになるからだ。一人勝ち市場に参入する人は、失敗の可能性を知っていながら、それには目をつぶる」(p.120)ことになりがちだからだ。仕事が、あるいは人生が、ゲームやギャンブルになってしまうのである。そんなリスクの経験は遊園地の乗り物やスポーツ観戦で十分と思うのだが、どうだろうか……。
・フレキシブルでネットワーク型の職場には年齢を重ねることで積み上げられていく「キャリア」は必要ない。だから、歳をとればその職場には居づらくなる。私はほんのつかの間必要とされる人間に過ぎないから、そこには信頼関係も生まれにくくなる。長い人生を生きていく上で仕事とはいったい何なのか。そんな疑問が当然おこることになる。感覚的に鋭い若い人たちが、そんな世界に踏み出したくないと考えてしまうのももっともだと言えるのかもしれない。自己破滅を招くのはあきらかに、無欲ではなく貪欲のほうだろう。生きにくい社会になってきたな、とつくづく思う。