2005年12月13日火曜日

ポートランド便り

 

・まだ冬休みではないが、卒論の提出が済んだところでアメリカに行くことにした。と言っても一週間足らずの日程で、滞在したのはポートランドだけである。特に見たいもの、行きたいところがあったわけではない。友人家族が住んでいて、何度も河口湖に訪ねてもらったから、僕らも行こうと思ったのだ。何せ、この時期の飛行機は信じられないくらい安い。成田からの直行便で五万円足らずなのである。北海道に行くのより安い。それなら、短期間であちこち回らなくてももったいないことはない。

portland2.JPG・それでも、せっかく行くのだからとネットで予習を少しやった。ポートランドはオレゴン州で最大の都市で人口は53万人、近郊の町をあわせると200万人近くになる。太平洋に面してはいないが大河のコロンビア川を使って、港や造船業で栄えた町である。市の人口の七割はヨーロッパ系の人たちでアフリカ系とアジア系が6%ずつ。これはオレゴン・トレイルで有名なように東から開拓民が移り住んでできたという歴史のせいなのかもしれない。
・ぼくは前に勤めていた大学の同僚の天野元さんたちの書いた『オレゴン・トレイル物語』を読んで、その開拓民が西を目指した苦難の道に驚いたことがある。財産のすべてを馬車に積んで家族みんなで旅をする。財産や食糧が尽きて餓死した人。水がなくて死んだ人、開拓民同士の争い、そしてもちろんインディアンたちとの戦いに死んだ人の数も多かった。もっとも、オレゴン州には80ほどの部族が住んでいたというが、ネイティブ・アメリカンの人口は、現在1%にすぎない。殺されたのは圧倒的に先住民たちの方が多かったということになる。

portland1.JPG・開拓民は最初は毛皮取引、そしてゴールド・ラッシュで次々と増え、ポートランドは農業や林業によって港湾都市として栄えるが、今世紀にはいると造船業で大きく発展をした。コロンビア川には今でも、大型船がひっきりなしに行き来している。水を満々とたたえた川はゆっくりと流れ、その遙か向こうにセントヘレナとレーニヤの山が見える(→)。今はもちろん、雪をかぶって真っ白だ。この季節は雨が多いのだが、滞在している間はたまたま好天に恵まれた。ただし、気温は寒く、零下になって、日陰では日中も氷が溶けなかった。ちょうど河口湖と同じくらい、という感じだったが、町の案内には零下にはあまりならないと書いてあるから、特別寒かったのかもしれない。

portland3.JPG・ポートランドは北から東にかけて高い山に囲まれている。セントヘレナの東にはMt.アダムス、その南に富士山よりも尖ったMt.フッド(→)、町はコロンビア川とウィラメット川が合流する地点にある。町の西には小高い丘のような山並みがあり、住宅が森に囲まれるように立ち並んでいる。アメリカで一番暮らしやすい町というだけあって、美しくて環境もいい。それほどあちこち歩いたわけではないが、怖いという感じがまったくしないのは、アメリカでは珍しいと言えるかもしれない。ダウンタウンには、Amazonよりも多様な本を並べている大きな本屋さん(Powell)があった。大学もいくつかあって、郊外にあるReed Collegeには真ん中に大きな池があった。生徒数は1300人で生徒10人に教員一人だそうだ。当然授業料は高いのだが、休みに入ったのに図書館には学生がたくさんいた。四年生には自分の机が与えられていて、本やらノートやらが積み重ねてあった。カレッジとはいえキャンパスは広大で巨木がたくさんあって、まん丸に太ったリスが何匹もいた。人慣れして近づいてくるものもある。

portland4.JPG・訪ねた友人宅には息子さんが二人いる。その彼らにNBAの試合に招待された。ポートランド・トレイル・ブレイザーズはかつては強いチームだったが、最近はそうでもない。今シーズンはノースウエスト・ディビジョンで最下位で、観戦した試合もヒューストン・ロケッツに負けてしまった。しかし、 NBAを見たのは初めてで、家族連れが多いことと客を飽きさせないさまざまな工夫に感心してしまった。客は七分ほどの入りで、強かったらチケットは取りにくかったはずだから、ぼくにとっては幸運だったと言えるかもしれない。ブレイザーズには韓国、ロケッツには中国人の選手がいた。日本人初のNBA選手を目指す田伏は、今年ももう一歩のところで及ばず下部リーグのアルバカーキーにいる。2mをこえる選手ばかりの中では子どものように小さいから、コマネズミのように動くプレイは人気が出ると思うのだが、勝つチームの一員としてはなかなか評価されにくいのかもしれない。

atom.jpg・友人宅でもう一人(匹)、仲良くなったアー君(Atom)がいる。黒ラブの雑種だが、びっくりするほど賢い。おとなしく留守番をするし、飼い主のいうことをよく聞く。ぼくは彼と毎朝散歩をした。おとなしくしているのに「散歩」と言うとうれしくてはね回り出す。家の周囲は森林の公園だから、そこを思う存分に走り回る。夜は部屋に入ってきて隣で朝まで寝ていたりする。しかし、しっかり訓練されていて、していいことと悪いことはよくわかっている。こんな犬がいたら、毎朝一緒に散歩に行ったり、山歩きに連れて行ったり、カヤックに乗せたりできていいな、と思ってしまった。ホテルと移動の旅行とはずいぶん違う、アット・ホームな楽しい経験でした。友人たちに感謝!

2005年12月6日火曜日

中沢新一『アースダイバー』講談社,村上春樹『東京奇譚集』新潮社


・想像力に乏しい文章は読む気がしない。小説や詩はもちろんだが、エッセイや研究論文だって例外ではない。読者はその書き手の想像力にこそ驚かされ、新鮮さを覚える。
・こんなことを書くのは学生の卒業論文につきあったせいもある。今年もやっと、何とか片づいたところだ。学生にしつこくいうのはオリジナリティで、手っ取り早いのは、自分でアンケートを採ったり、インタビューをしたり、参与観察、あるいは体験などをすることだ。けれども、集めた材料をどう料理するかで工夫がないと、せっかくの労力がまるで生かされないことになる。同じことはもちろん、理論や分析の枠組み、あるいはテーマに関連する歴史などを文献から読みとることにも言える。結局、必要になるのは理解力以上に想像力で、それが感じられない論文は、読む気がしない。間違いは指摘できるが、想像力のなさは如何ともしがたいからである。
・そんな話をすると、学生たちは「よし」という気になる。ところが、疑問に感じたことが本を一冊読んで解消されてしまったりすると、もう考えたり、調べてもしようがないのでは、と思ってしまう。あるいは、もう一冊読んでまったく違う解釈などに出会うと、すっかり混乱してしまって「ギブ・アップ」ということにもなる。一つの問題についてまったく違う見方、評価の仕方がある。それは実際には大きな発見で、そこにまた「なぜ、どうして」という疑問を向ける余地が生まれてくる。「だったら、どっちが正しいか、自分で調べてみようか」と思ってくれると、学生はひとりで歩き始めるようになる。そんな学生が一人でもいれば、毎年のお勤めは何とかやりこなせる。
・と、えらそうに言っているが、当の自分の書くものはというと、まったく自信がない。想像力がうまく働かない。そんな自覚がしばらく前からある。想像力は歳とともに衰える。よく言われることだ。物忘れの激しさも強く自覚するから、脳の衰えだと観念した方がいいのかもしれない。焦ってもしょうがないから、そんなふうに半ばあきらめている。ところが、同世代の人が書いた想像力にあふれた作品を読むと、とたんに、落ち着かなくなってしまう。

nakazawa1.jpg・中沢新一の『アースダイバー』は、東京の現在の地形に縄文地図を重ね合わせて、あちこちを探索したフィールドノートである。東京は起伏の多い土地で、谷(渋谷、四谷、谷中、阿佐ヶ谷)や山(愛宕山、代官山)がつく地名が多い。当然、「坂」もたくさんある。その理由は、縄文時代(5〜 6000年前)の地図を見ればすぐわかるという。当時の東京は南の多摩川と隅田川のあたりにある大きな湾に挟まれた半島のような地形で、そこはまた、リアス式海岸のように海が奥深くまで入り組んで浸入している。その名残が神田川や善福寺川、あるいは野川として残っているようだ。本に付録している地図を見ると、確かにその通りで、今の東京からは想像もつかないような地形をしていたことがわかる。
・縄文時代の人びとは、その複雑な地形のなかの小さな半島を選んで神を祭ったが、それが今でも、神社や道祖神として残されているところがある。乾いた岬としめった入り江、男根と女陰。神聖さと祭儀の場。そんな場所は今はほとんど道路や建物に隠れるようにひっそりしている。しかし、たとえば、新宿や渋谷のように、縄文時代の特別な場所が東京を代表する盛り場になったところもある。著者が紹介する新宿や渋谷に関わる伝説は、現在のにぎやかさとつなげて考えると確かにおもしろい。秋葉原と「精霊」、東京タワーと「死霊」、あるいは麻布と蝦蟇、さらにはファッションと墓地と青山などなど、6000年の時間に架橋する想像力は驚くほどたくましい。
haruki1.jpg・村上春樹の『東京奇譚集』は短編集だが、小品の一つひとつに、奇妙な想像力をかき立てる魅力がある。どれもおもしろいが、語り手が著者自身になっている最初の「偶然の旅人」は、読みはじめたらそのまま、休むことなく読んでしまうほど引き込まれた。仕掛けの道具は「偶然」である。
・物語に偶然を利用するのは、あまりいいことではないと言われる。理詰めで進むような構成ならば確かにそうだろうと思う。しかし、現実の世界でも、偶然は起こる。程度の違いはあれ誰でも経験していることだ。「偶然の旅人」は、話が現実であることを説明するために作者みずからが顔を出している。ゲイの男と乳ガンの手術を控えた女がアウトレットのカフェで出会う。話をするきっかけは、二人がたまたま同じ本を読んでいることだった。あり得ない気もするし、またありそうな気もする。
・話が「偶然」からはじまり、転換も結末もまた「偶然」によって作られる。つまり「偶然」ばかりで組み立てられたストーリーだが、そこに奇妙なリアリティが作り出されてくる。うまいな、と思ったが、同時にポール・オースターの初期の小説を思い出した。オースターはあるインタビューで、「小説に偶然を使うことがタブー視されているけれども、現実世界には偶然がいっぱいあって、ぼくは何度も経験した。」といったように応えたことがある。だから自分の小説にも「偶然」を取り入れて、効果的というよりは主題にするのだ、といった発言だったように思う。村上春樹の「偶然の旅人」は、そのことを自分でも試してみた結果のような気がした。もちろんそれは、ぼくの勝手な想像で、彼がオースターを意識したのかどうかはわからない。
・こんな本を読むと、ぼくも人を引っ張り込むような想像力にあふれた文章が書きたいとつくづく思う。社会学の勉強をし始めたばかりの頃に、 C.W.ミルズの『社会学的想像力』を読んで、自分が目指す方向が見つかった気がしたことがあった。今はほとんど誰も引用することもないけれども、もう一回読み直して、「想像力」について考え直してみたくなった。初心に返る、あるいはふりだしにもどる。

2005年11月29日火曜日

Bob Dylan "No direction home"


  NHKのBSで"No direction home"を見た。3時間半の長さでくたびれてしまうかと思ったが、ずっと見入ってしまった。で、見終わった後は、しばらく放心状態。とにかく貴重な映像の連続だった。デビュー前から1966年までのディランの軌跡である。


たとえば、数年後には伝説のようにあつかわれ、くりかえし語られてきた出来事のほとんどが映された。ニューポート・フォークフェスティバルで絶賛され、プロテストの旗手といわれるきっかけになったステージと、翌年のバック(のちのThe Band)をつけて登場して、大ブーイングを浴びたシーン。そこに、パニックを起こしてケーブルを斧で切ろうとして止められたピート・シーガーの行動が本人のことばで裏づけられる。ディランの変身はたちまち世界中に伝わり、それ以降のコンサートでは、ステージはディランと客との喧嘩状態になる。特に、有名なのはイギリスでのコンサートで、会場からの「ユダ」というののしりに、「そんなこと信じない」といった後に「おまえは嘘つきだ」と叫んで歌い始めるシーンがある。これが映像として映し出されたが、バックに「でっかくやろう」と語りかけていたり、ステージに下がった後の言動まで記録されていた。


このような逸話は、当時は雑誌の記事でしか知り得ないことだったし、その海賊版を見つけて、ひどい雑音のなかから、それらしいやりとりを感じ取る他はなかった。その海賊版が正式に公表され、音を手に入れることができたのはここ10年ほどのことだ。それでも結構喜んでいたし、映像で残っているとは思わなかったから、びっくりしてしまった。寝ころんでテレビを見ていたのだが、そのたびに起きあがって、「えー」とか「うわー」とかいってしまった。
そのような一つ一つに、現在のディランやそのほかの当事者たちのコメントがつく。時間がたっているから冷静に振り返った発言が目立ったが、中には立場の違いがはっきりするおもしろいものもあった。たとえばディランのデビューアルバムに「朝日の当たる家」(これはとんでもない誤訳で、本当は「朝日家」で、ニューオリンズの売春宿の名前)を入れた。トラディッショナルだが、歌い方やコード進行はデーブ・ヴァン・ロンクが工夫したものだったようだ。ディランはそれをレコーディング後にデーブに言ったようだ。当然デーブは怒ったが、それでも了承した。しかし、それが納得のいかないことであったのは、現在の彼の口ぶりからもよくわかった。「朝日の当たる家」はその後「アニマルズ」が歌って大ヒット曲になる。デーブはその後で、ディランが「おかげでぼくがアニマルズのまねだと思われてしまう」と言った話を紹介して、愉快そうに笑った。


ディランはニューヨークに来てからオリジナルを作り始めたようだ。それ以前は、いろいろな人のコピーだったから、ミネソタの知人たちは、その変貌ぶりにびっくりした。中でもおもしろかったのは一般には手に入らないウッディ・ガスリーのレコードを何枚も盗まれたフォークソング収集家の話だ。ところが、若い頃のディランが人一倍功名心が強く、ずる賢くて要領もよかったことを強調する人たちもふくめて、登場する誰もが、自分がボブ・ディランという時代の寵児の誕生に関わったこと、その才能の開花に手を貸したことなどを得意げに話していた。あるいは、地味なフォーク・シンガーのままで現在に至っている人たちの、賞賛や批判、あるいは嫉妬などが混じり合った発言など。それにまた、ディランのコメントがかぶさって、ディランを中心にした感情の蜘蛛の巣ができあがる。なかなかおもしろい構成だと思った。
ディランの2枚目のアルバムのジャケットには、当時の恋人スーズ・ロトロと冬のニューヨークを歩く写真が使われている。そのスーズも出て当時のディランとの関係を話したし、スターになるきっかけを作り、その後コンサートに帯同して恋仲になったジョーン・バエズも登場した。ディランとロトロの別れにはバエズが原因したが、そのバエズは、ディランの才能に惚れ、そのすごさに怖れ、自分の世界からあっという間に遠ざかってしまったことを寂しそうに振り返った。そこにまた、ディランのことばが重なってくる。


ディランにたいする矛盾した愛憎の感情ということで言えば、アコースティックをエレキに持ちかえた直後の客の反応もおもしろかった。今までのディランは好き。しかし今日のステージのディランは嫌い。だから会場はいつもブーイングの嵐になった。そんな反応をしたファンのコメントの後に、楽屋裏でディランが「だったら、なぜチケットがすぐ売り切れてしまうんだ」とつぶやく。本当にそうだなと思ったが、ディランのステージの半分は生ギターをもったソロだから、客の気持ちは<見たい←→見たくない>で引き裂かれる。さらに客の中には、ロック・アイドルとしてのディランに惚れ込んだばかりの少女たちもいて、客層も二分されている。


3時間半の長いドキュメントは66年で終わっている。デビュー前の50年代後半から、わずか7年ほどの記録でしかない。ディランはその後、現在まで40年近くも歌い続けている。おそらく残された映像は膨大なものだろうと思う。彼のインパクトは確かに66年でいったんとぎれるが、その後に辿った道筋は、またそれなりに興味がある。「自伝」と同様、続編を期待してしまうのだが、スコセッシは、作るつもりなのだろうか。

2005年11月22日火曜日

ペンキ塗り、薪割り、そして紅葉

 

forest47-1.jpg・バルコニーの補修がうまくいったので、次はログのペンキ塗りと考えたら、すぐに始めたくなった。我が家は直径が50〜70 cmもあるカナディアン・パインで組み立てられている。一本の長さは15〜20mで10本重ねだから、周囲だけで40本、これになかの部屋割り分が30本で、そのほかに天井の支えや支柱に20本ほど使われている。全部で90本を超えるが、塗料が塗られているのは外壁部分だけだ。その40本に薄い茶色の油性ペンキを塗ることにした。防かび、防虫、防腐で臭いの少ないものを選んで、余裕を持って一斗缶を買ったが、ほとんど使ってしまった。
・ふつう専門家に頼めば、まず足場組からはじまる。しかし、そんな大げさはできないので、折りたたみ式のハシゴを使って、少しずつ移動しながら塗ることにした。まずは、汚れ落としから。大きなバケツにぞうきんを数枚用意して少しずつ拭いていったのだが、これがすぐに真っ黒になる。土埃や蜘蛛の巣、あるいは鳥の糞などがこびりついていて、なかなかはかどらない。普段は気がつかなかったが、改めて念入りに点検すると、汚れだけでなく、ずいぶん虫にも食われている。さいわい、腐っているところはなくて安心したが、のんびりやったせいか、一面を拭くのにたっぷり半日かかってしまった。で、一日目はそれでおしまいにして、ペンキ塗りは二日目からにした。

forest47-2.jpg・とても一日中作業することはできないので、仕上げるまでには10日ほどかかった。外壁の三面には暖房用の薪が積み上げてあるから、まずはそれを移動しなければならない。もちろん、毎日というわけにはいかなかったし、天気とも相談しながらだったから、始めてから終わるまでに一ヶ月ほどかかったことになる。低臭のペンキとはいえ、やはりシンナー臭い。最上部の軒先のところを塗るときには、どうしてもシンナーの臭いがこもったところでの作業になる。だからなるべく吸い込まないように気をつけながらしたのだが、家の中にも臭いが入りこんでいて、塗った壁面近くが夜も臭くて、頭が痛くなってしまった。
・ログハウスにはどうしても木と木の間に隙間ができてしまう。そこをふさぐコーキングがしてあるのだが、木は乾燥や、重みで変形していくから、これも時々補修しなければならない。寒冷地だから、すきま風が入りこまないよういつも気にしているところだが、ペンキの臭いが進入しているということは、隙間があるということで、また、新たな仕事ができてしまった。
・ペンキを塗り終わって、改めて周囲を一回りし、遠くから眺めてみると、少し茶色が濃くなって落ち着いた感じになった。日の当たらない北や西側の色が赤みがかって見えるのは、日焼けしていないせいなのだろうか。なかなかいい、としばし眺め、その後も、何度も見返している。ベランダの補修、塗装とあわせると100万円以上はかかる作業のようで、ずいぶん大きな仕事をしたという満足感を味わった。

forest47-3.jpg・今年の冬用の薪はたっぷりある。冬から春にかけて、たまたま湖畔で大量に伐採された木を見つけたからだ。まだ割ってないのが相当あって、来年の冬の分もかなりあるほどだが、東京の知人で庭師の仕事をしている人が、もっていくようにと大量の薪を提供してくれた。すでに割って、縄でくくってあるのだが、それを大学の帰りに少しずつ、車に乗せて運んでいる。もう積み上げるところがないし、今年は灯油が高騰しているから、例年よりも早く10月の中旬から薪ストーブを使い始めた。昼間もつけっぱなしにしているから、今のところ灯油ストーブはほとんど使っていない。そんなわけで、ペンキ塗りが終わった後は、薪割りが毎日の日課になっている。

・いつまでも暖かくて紅葉は遅れていたが、11月に入って最低気温が零度近くまでなったら、辺りの景色が急に黄色や赤に変わってきた。湖畔の紅葉の名所には観光バスが行列して混雑している。ライトアップもしているから、夜になっても人出は衰えない。近隣の別荘族も久しぶりににぎやかだ。ただし、紅葉もそろそろ終わりだから、今月末には、誰もいない静かな湖畔になるのだと思う。長い、しーんとした静寂の季節の始まりだ。

2005年11月15日火曜日

Elliot Smith

 

elliott2.jpg・エリオット・スミスはすでにこの世にはいない。2003年の10月に死んでしまっている。まだ34歳で、死因は自殺のようだ。そんなことを最初に知ってから聴いたせいか、どれを聴いても死の影が感じられてしまう。歌声はか細く、音程も不安定で、何とも頼りない。
・1994年にソロ・アルバム"roman candle"を出している。翌95年にでた無題のアルバムとあわせて、納められた曲の大半にドラッグが登場してくる。ジャケットにはビルの谷間に落ちてくる二人の人影が描かれている。その最初の曲名は「干し草のなかの針」。探しても探しても見つからないものを必死で求めているのか、あるいはドラッグに関係があるのか。いずれにしても、ちくりと痛い。歌詞カードも判読不能の手書きのもので、内容もわかりやすくはないが、次のような、情景をありありと描きやすい描写もある。

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彼の腕に手をかける
首まで埋もれた干し草の山と戯れる
からだは薬で衰弱しているが
金を借りようと友達に電話をする
予想はしていたが、やつは黙ったままだった

・エリオット・スミスが注目されるきっかけになったのは、映画『グッド・ウィル・ハンティング』のサントラに使われたからだった。小さい頃の親からの虐待が原因で自分をだめな人間だと思いこんでしまった少年が、同じような境遇を経験した精神科の医師によって、自分に向き合い、その才能を自覚していく話だ。出演はマット・デイモンとロビン・ウィリアムスで監督はガス・ヴァン・サント。アカデミーの9部門にノミネートされ、この映画のために書き下ろされたエリオット・スミスの歌"Miss Misery"も主題歌賞にノミネートされた。ぼくは見たはずだが、ほとんど記憶がない。ネットで探したら、彼の友達が書いた次のような文章に出会った。
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アカデミー賞を見るために、僕は友だちと集まった。エリオットが賞を争うことになった他の曲は、どこか別の世界のものだった。大袈裟な、ストリングスにひっぱられたアレンジと、こけおどしのアクロバチックなヴォーカルがステージを支配していた。エリオットが真っ白いスーツを着て、古びたヤマハのギターを抱え、恥ずかしげに歩み出てきた時、彼の声はまるで一迅の新鮮な空気だった。それはリアルで、心の底からでてきたものだった。エリオットはそれを心から歌っていた。勿論、彼はオスカーを取らなかった。 (ファン・サイト"between the b@r"から引用)

elliott5.jpg・エリオットは自分のために歌を作っている。湧き起こるイメージや心にたまるわだかまりを吐き出さずにはいられない。精神安定剤としての音楽、そしてドラッグ。メジャーに移籍する前のアルバムは、ほとんどひとりで作り上げている。多重録音してはいるが、歌うのも演奏するのもただひとりであるのがほとんどのようだ。きわめて自閉的で自罰的な歌ばかりで、オスカーの舞台とはかけ離れている。有名になること、金儲けをすることなどまったく考えてもいなかったかのように聞こえてくる。だとすれば、メジャーのミュージシャンになってしまったことは、彼にとっては良かったのか、悪かったのか。

・死後に出された遺作の"from a basement on the hill"に載っている写真の顔はひどくむくんでいて髪の毛も伸びている。サウンドにも凝って聴きやすくなっているが、歌詞はやっぱり、必死で救いを求めているかのようだ。英語がすっと入ってきたらとても聴けない歌ばかりかもしれないが、耳には心地よくて、繰り返し聞きたくなる曲が多い。
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ぼくを照らしてよ、ベイビー 
心には雨が降っているから
太陽がゆらゆら、ぎらぎらとあがってきて
雨が落とした酸が空中を漂っている
自由になるためには今、ゆがんだ現実が必要なんだ
"a distorted reality is now a necessity to be free"

2005年11月8日火曜日

義母の死

 

・義母が死んだ。享年82歳。今年の春にあったときには元気そうだったのだが、その数ヶ月後に肺ガンで入院したという連絡が届いた。以前から自覚はあったようだが、そんなそぶりは見せなかった。気丈な人で、20年以上、ひとり暮らしをつづけてきた。子どもが小さかったときは、京都から福島まで、毎年夏休みに訪ねて数泊していたが、最近では訪ねることも少なくなって、行ったとしても旅行のついでに数時間の滞在ということが多かった。


・入院してから亡くなるまで、娘であるパートナーは何度も病院を訪ねたが、ぼくも二度お見舞いに行った。最初は抗癌治療をしているときで、髪の毛が抜けるからと言って頭を短く刈ってしまったところだった。身体はまだ痩せてはいなかったが、元気なときとはまるで違う様子で、病気がだいぶ進んでいることは一目瞭然だった。


・けれども、彼女の気丈さは健在で、病院の医者が何も説明してくれないこと、病院や病室が無機質で古ぼけていること、看護士のしつけが悪いこと、あるいは食事のことなど、いろいろと文句をつけていた。たとえば、抗癌治療などをしているときには、食欲などはまるでなくなるのがふつうだという。ところが病院は、それを知っていながら、食べもしない食事を三度三度もってくる。そういった機械的なことがあまりに多く、そして、本当にして欲しいことにほとんど配慮がなされない。義母の感じる不満は至極当然だと思った。


・ぼくが訪ねてからほんの少したって、義母は意を決して病院を変えた。入院した病院は、体調が急変して入ったのだが、それ以前に診察に通っていたのは別の病院で、そちらに移ることを希望したのである。で、二回目は、その新しい病室を訪ねた。病院全体もきれいで、病室も明るかった。主治医も対照的なほど親切で、話をよく聞いてくれると言うことだった。義母は転院を機会に抗癌治療をやめて対処療法に変えていた。だから、落ち着いた様子だったが、一ヶ月ちょっとの間にずいぶん痩せて小さくなってしまっていた。


・新しい病院には音楽療法などが取り入れられ、病室で聴きたい曲を笛で聴かせたりする人がいたようだ。パートナーはその音楽療法士の人と仲良くなり、病院や病人、あるいは医療のシステムなどについていろいろ話したようだ。病院には医者と患者がいて、医者は患者自身ではなくその病気に対処する。だから病人は何より病の人、あるいはその症例でしかないかのように扱われる。こういった状況が問題化されて久しいが、そのことを改める動きがはじまっている。義母の入院はそんなことを目の当たりにする機会になった。


・病を患う人は何より、そのことで精神的な痛手を負った人、病を受け入れることにとまどったり、拒絶したりして動揺する人でもある。だから、そういう人を引き受ける病院には、病気を直接治療する医者やその補助をする看護士だけではなく、カウンセラーや心を和ませる役割を担う人が必要なはずである。ところが多くの病院には相変わらず、そんな役割を担う人は全然いない。それは肉親のつとめだということになるのかもしれないが、誰にでもつきそいができる肉親がいるわけではない。遠く離れて暮らしている。仕事を持っている。子どもの世話に忙しい。家族関係の多様化に病院が対応できていない。そんな病院が今でも多数派だが、新しい試みをするところも、確かに生まれ始めているようだ。


・病院を何度か訪れて改めて気づいたのは、ベッドに寝ている人たちの大半が、コインやカードを入れて見るテレビを友としている光景だった。テレビの役割といえば聞こえはいいが、端から見ていて望ましいものとは思えない。家事が忙しくて子どもに目が届かない母親が、テレビの前に子どもを座らせておくといったことをよく耳にする。幼児ならいたずらをせずに黙ってじっと見ているからということらしいが、病人とテレビの関係は、それとほとんど同じように思えてしまう。子ども扱いというより、人間扱いされていない状況を象徴するものと言えるかもしれない。


・義母は転院をしてから二ヶ月ちょっとでなくなった。短い期間だったが、二つ目の病院での生活は、自分なりに納得がいくものになったようだ。身体が衰弱して思うようにならなくても、内面には昔のままの気丈な心がある。そういった気持ちを維持しながら死を迎えることは、誰もが望むことだろうと思う。けれども、それは現実的にはなかなか難しい。そんなことをあらためて実感させられた。

2005年11月1日火曜日

秋を探しに

 

photo33-2.jpg 今年は冷夏ではなかったのに、栗が全然だめ。わずかに採れたものにも虫がついていた。雨が多かったせいか、それとも別の理由があるのか。とにかく、今年は栗ご飯もマロングラッセもだめで、正月の栗きんとんも作れない。小さな山栗は皮をむくのが大変だが、その作業がないと何となく寂しい。かわりに、去年収穫して冷凍にしていた栗を出して、栗ご飯にした。季節感がないのは他にもあった、
いつまでも暖かくて紅葉もはじまらない。しびれを切らして、10月の中頃に八ヶ岳へ出かけてみた。紅葉は少しだけはじまっていた。快晴で暖かかったが、平日だから、ほとんど人はない。道もがらがらで初秋の景色を楽しんだ。週末は、こうはいかないが、ここのところ週末になると天気が崩れている。それでも中央高速は数十キロの渋滞になる。


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その後最低気温が5度ほどになる日があって、周囲の景色も急に色づいてきた。ススキの穂が風に揺れ、富士山も雪化粧を始めた。河口湖周辺の紅葉の名所も、朝から晩まで人で賑わうようになっている。他府県ナンバーの自動車や、紅葉狩りツアのバスが例年以上に目立つようだ。景気の回復のせいか、「愛・地球博」が終わったせいなのだろうか。

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何度もつづく快晴の金曜日。前から行きたかった西沢渓谷に出かけた。山梨市から秩父市に抜ける140号線を雁坂トンネル手前まで行く。渓谷は笛吹川の源流にあたるが、今は、その手前に広瀬ダムが造られ大きな湖になっている。西沢渓谷は、さらにその上流にある。
入り口前の駐車場について驚いた。平日なのに車が一杯。観光バスも数台ある。紅葉で有名なところとはいえ、ものすごい人出だ。歩き始めると、そのほとんどが中高年でリュックをしょったハイキング姿であることに気がついた。渓谷は一回り10キロほどの行程で4時間ぐらいかかる。渓谷の奥には甲武信岳。


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歩くつもりはなかったから、途中、滝をひとつ見たところで引き返したが、そうする人はほとんどいなかった。駐車場に戻って観光バスを見ると、三食付きで渓谷のハイキングと書いてある。いったい朝何時に起きたのだろうか。元気な人が多いが、旅行会社もプラン作りには工夫しているのだ、とあらためて認識させられた。もっとも、缶ビール片手に花見気分の紅葉狩りといった人や、ペット連れなどという人もいた。揺れる吊り橋や急坂などもあって、そんなに楽なコースではないはずなのだが、大丈夫だったのだろうか……。

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 日時:2005年11月01日