2007年12月17日月曜日

空気は読むものですか?

 

・KYって何のことだ、と思ったのはつい最近だ。「空気読めない」をイニシャルにするという発想は奇妙だが、あるのかないのかわからない「空気」を読むのだから、やっぱり曖昧にしたくなるのかな、などと考えると、理解できなくもない。しかし、である。なぜ「空気を読む」ことが今、流行語になるほど自覚されているのだろうか。

・実は、そんな風潮は、もう何年も前から感じている。ゼミで学生が報告しても、強制しなければ、だれも意見を言わない。ましてや、明らかにおかしいところがあっても、反論などは絶対に出てこない。だから、ぼくが一人で、学生をやっつけることになる。当然、ゼミの空気は沈滞した緊張感で被われる。

・その原因は、議論というより、それ以前の「対話」すら満足にできないことにある。高校までの学校生活のなかで、そのための訓練をほとんど受けてこないから、いきなり大学でやれと言っても、所詮は無理なことである。議論は考えをぶつけあって勝ち負けを競う闘いだ。ただしスポーツと一緒でゲームだから、それが互いの人格攻撃になったり、関係の破壊を引き起こすわけではない。つまり、議論をゲームとして行うためには、どんなスポーツをするにも不可欠な、ルールを知らなければならないということなのである。

・このことに気づいてから、ゼミに最初にやってきた学生には、議論がゲームであって、そこにはルールがあること、「対話」は、勝ち負けよりは協力して一つの話、考えをつくりあげるやり方であることを気づかせるところから始めるようになった。だから、学生同士が自発的に対話をしあい、議論をするようになるまでには長い時間がかかることになる。しかも、それでもうまくいかない年もあるから、ゼミの1年がこのことだけに費やされるといったことにもなってしまう。

・「空気を読む」というのは、じぶんでは何も働きかけずに、そこに生まれた雰囲気を察知して、それに同調するという態度だろう。だからここには、「空気を作る」という発想がない。あるいは自覚的に「空気を読まない」といった立場も見つけにくい。つまり、内面的な意味での「個」の存在が欠落し、また否定されているのである。「空気を読む」とは「現存」する「状況の定義」に同調して、自己を「不在」にするパフォーマンスなのである。

・こんなことを学生に話すと、それなりに、「なるほど」という顔をする。しかし、教室を離れれば、やっぱり今まで通りに戻ってしまう。実際そうしなければ、友達とのつきあいはもちろん、さまざまな社会関係がスムーズにできなくなってしまう。だから、やっぱり「空気を読む」ことが必要になるのかと思うと、徒労感ばかりが先に立ってしまう。

・大学では、すでに秋の始まり頃から3年生の就職活動が始まっている。突然、リクルート・スーツで現れる。そんな光景も全く珍しくなくなった。企業はなぜ、わざわざ個性を消すことを好むのか。ここには、どんなきれい事を言っても、個性や自主性よりは同調性のある人間を雇いたいという考えが露骨に反映されている。それはまた、小学校に入学したときから、ずーっとたたき込まれた望ましい自己形成のあり方でもあったから、学生たちは、そこに違和感をもつことも少ない。

・けれども、空気を読んでばかりでは、いつもいつも、相手やその場の雰囲気に流される自分になってしまう。その、いやでも断れない意志の弱さが、マルチ商法の格好の餌食になる。雰囲気への同調という姿勢がオレオレ詐欺の標的になる。あるいは、政治や経済や社会に頻繁する不正や偽装にも、諦めに似た態度で接することになる。異議を唱えるのは、どんなことでも、切実感をもった少数者の行動から始まる。それは「空気を変えたい」という発想から生まれるものだし、「対話」や「議論」によって、人を説得できるという可能性に裏づけられたものである。

・「空気を読む」という発想には、こんな自主性を抑える力が働いている。もちろん、読むことは状況を判断するために欠かせない行動だろう。けれども、その後で、それに同調することが当たり前にされているのは、わからない。

2007年12月10日月曜日

"I'm not there"ほか

 

young6.jpg・今年買ったCDをあらためて並べてみると、全くの新作がきわめてすくないことに気づく。このコラムでもニール・ヤングの伝説のライブ盤を2枚とりあげたが、ヤングはそのあとに、未発表だったアルバムを"Chrome Dreams II"としてわざわざ30年ぶりに作り直している。精力的だが、後ろ向き。そんな特徴は、同様にすでにとりあげたパティ・スミスの"twelve"にも言えた。新世紀になって7年もたったのに、いまだに世紀末のような傾向が続いている。ポピュラー音楽の行き詰まりは明らかだが、世の中全体が行き止まり状態なのかもしれない。

int.jpg・後ろ向きの姿勢には、原点帰りといった一面がある。ライ・クーダーの"My Name Is Buddy"が描写したのは、1920年代に登場したアメリカのフォークソングだし、ディランの"Modern Times"には、同時代のブルースやジャズの雰囲気が盛りこまれた。そのディランの伝記映画"I'm Not There"のサントラ盤を購入した。さまざまな人がディランの歌を歌っている。トリビュート盤が多く出たのは、前回のこのコラムの話題だったが、CDを聞いている限りは、同様の趣きだ。2枚組みで収録されているのは33曲。これらが映画ではどんなふうにつかわれているのか、YouTubeで映画のプロモーション・ビデオを見ると、ケイト・ブランシェットが若い頃のディランを演じている。物議を醸したイギリス公演の記録ビデオ"Don't Look Back"で見たシーンを忠実に再現している。見てみたいが、そのためには、DVDが発売されたら、また買わなければならない。ジャケットの顔は、多分ディランではなくブランシェットだろう。似てはいるが、鼻の形が違う。

taylor1.jpg ・ジェームズ・テイラーの"One Man Band"は故郷の古くて小さいホールでのライブを収録している。同じもののDVD盤がついているから、コンサートの様子が映像として楽しめる。穏やかな歌い方は若い頃からだが、聴衆も同世代でレトロな会場だから、熟成した懐メロという感じがしてしまう。どの曲もアレンジを変えずに一人で歌う。そのアットホームな雰囲気が売り物だろう。
・これを聴いて思いだすのは、去年のコラムでとりあげた、キャロル・キングの"The Living Room Tour"とジャクソン・ブラウンの"Solo Accoustic Vol.1"だし、少し雰囲気が違うが、ジョン・ケールの "Circus Live"だ。ベスト盤のようにして聴くことができるライブ盤。共通した特徴はそんなところだ。ただし、ベスト盤には新しい顧客をつかもうとする狙いが明らかだが、ライブ盤にあるのは、長いつきあいのファンにもう一枚といった戦術だ。わかっていながら買ってしまうのはちょっと癪。だけど、悪くないからまあいいか、と納得もしてしまう。


travis.jpg ・とはいえ、新作もなかったわけではない、すでにとりあげた忌野清志郎やジョニ・ミッチェルのほかに、マーク・ノップラーの"Kill To Get Crimson"やトラビスが久々に出した"The Boy With No Name"もよかった。ノップラーは毎年のように新作を出しているが、どれもいいできで、目立たないけど見逃せないものという感じだ。トラビスの新しいアルバムには'New Amsterdam'という曲があって、そこにはディランへの憧れや、バンドの名前の由来がヴィム・ヴェンダースの「パリ・テキサス」であることが歌われている。そう言われればそうか、とあらためて納得した。
・ふりかえると、今年もたくさんのCDを買った。ただ、買うんじゃなかったとがっかりしたものが1枚もなかったのは幸いだ。わが家のステレオが完全に壊れて、スピーカーを残して、新しいものに買いかえた。だから、もっぱらiPodを接続して楽していたのをやめて、一枚一枚CDを入れて聴いている。そうすると当然音が違うから、あれもこれもひっぱりだしてくることになる。聴くのは一階で、装置は二階にあるから、終わるたびに階段を上がり下がりする。くたびれるけど健康的なこと。面倒になるまでの楽しい苦痛だ。

2007年12月3日月曜日

冬支度がすんで

 

forest64-1.jpg

forest64-2.jpg・例年のように、今年も冬のための薪をそろえた。11月に入ってストーブを燃やすようになったから、4月までの半年あまり、薪ストーブによって暖をとることになる。外は寒くても家の中はいつでも20度で、寒い思いをすることはほとんどない。快適だが、そのための準備は、今年も楽ではなかった。




forest64-3.jpg・薪にする木がどこにあるかは、その年になるまでわからない。ホームセンターで買えば簡単だが、これまでは、偶然の出会いを当てにしていて、うまく見つけられてきた。たとえば、山をドライブしていてたまたま倒木を見つけたり、砂防ダムの工事現場に出会ったり、といったことが必ずあった。今年は3月に、家のすぐ近くの川に倒れかかっている何本もの木を見つけて、さい先がよかった。しかし、その後は何の出会いもなく、今年は買うようかなと思っていたら、造園業ではたらく知り合いが、木を集めていてくれて、それを車で何度も運びつづけることになった。とはいえ、それは家の近くではなく、東京からだったから、毎週一回は車の後部座席を倒して、薪を積んで高速道路を家路につく、ということをやらねばならなかった。それをいったい何回やったのか、よく覚えていないが、運んでない薪はまだ沢山ある。

forest64-4.jpg・半年分の薪は家のまわりをぐるっと一回りするほどになる。それを一番日当たりのいい南側で乾かして、順に西や東に移してゆく。春先からはじまって暑い夏の時期を過ぎ、秋の終わる頃に一杯になる。それが今頃から、徐々に減り始めて、冬の終わりには残り少なくなる。毎年のようにくりかえす作業と風景だが、今年も燃やす季節になった。 

 

 

forest64-5.jpg・石油の値上がりは、何よりガソリンで痛感しているが、灯油の値上がりにもあらためてびっくりしてしまう。1Lあたり80円を超えて、90 円にもなろうとしているのだ。ここへひっこしてきたばかりの頃は、確か30円台だったから、2倍どころか3倍にもなろうとしているのである。これでは、灯油だけで冬の暖房をまかなっている家庭はたまったもんではないだろう。そのせいか、薪ストーブ復活などというニュースも耳にしはじめた。けれども、これはイメージするほど簡単ではない。第一、毎日の灰の始末とガラスについたヤニとりは、面倒くさがっていたのでは、続かない作業なのである。

2007年11月26日月曜日

偽装、隠蔽、そして謝罪

 

・偽装事件が次々と明るみに出ている。毎日食べているものの賞味や消費の期限や材料のごまかしからはじまって、ビルの設計の偽装、あるいは基準に合わないビルや高速道路の資材など、ありとあらゆるところで摘発されつづけている。日本で消費される農産物やその加工品の産地が世界中に広がって、どこでとれたものか、どんなふうにしてつくられているか、どんな成分が含まれているのかが特に注目されはじめただけに反響は大きいが、偽装はすでに何十年にもわたっておこなわれつづけてきたものが少なくないようだ。しかも明るみに出たのが大手や老舗ばかりだから、どんなものも実体はいんちきなのでは、といった疑念がますばかりだ。
・そんなニュースが連日テレビを賑わしているが、どれも最初は、否定からはじまって、しばらくすると、現場が勝手にやったという逃げ口が出て、最後は経営陣の指示があったことが明らかにされる。で、報道陣やカメラを前にしての謝罪になるのだが、決まって、全員が頭を深々と下げる。不祥事が発覚したときにおきまりの、すっかり定着した儀礼の形式である。これがなければ納得しないという風潮がつくられたようだが、それで納得できる問題ではないはずである。
・特におかしいと思うのは謝罪のことばの力点が「世間をお騒がせしました」にあって、「悪いことをしました」ではないことだ。これでは、発覚して問題になったことを反省しているのであって、そもそもやった偽装の罪自体はたいしたことではないと言っているようなものである。あるいは、それを隠蔽し、嘘をついた罪はどこへいったんだろう。アメリカでは、法廷で偽証した疑いで、ホームランの世界記録を打ちたてたボンズ選手が30年の刑になるかもしれないと言われている。罪を罰として償うのではなく、謝罪して勘弁してもらう。偽証に厳しいアメリカと比較しながらニュースでの謝罪儀礼を見ていると、そんな「甘え」が見え隠れして、余計に不愉快な気持になってくる。

・先日、つかっているパソコンがおかしくなって、購入した大学生協に持ちこんで修理を頼んだ。トラックパッドに触れると、それだけでフリーズしたり、操作がままならなくなってしまう。そんな症状だったのだが、修理先からバッテリーが破裂しているので、修理以前にそのことをAPPLEに連絡してくれと言われた。電話をすると、例によってつながらない。30分以上待って、やっとつながると、詳しい症状を知りたいので、修理担当者か生協で連絡を受けた人から直接話を聞きたいという。だったらと、電話番号を教えると、こちらからはできないので、そちらからあらためて電話をして欲しいという。ちょっと信じられない返事で、その旨を話したのだが、そういう規則になっているのでどうしようもないという。で、仕方なく生協に電話をして、APPLEと連絡をとってもらった。
・パソコンの症状は、確かに、バッテリーを交換したら改善された。しかし、この間、APPLEからは謝罪のことばはほとんどなかった。不具合があって、その原因がメーカーにあるのなら、無償で修理や交換をする。そういったやり方に納得できないのなら、裁判にでも訴えればいい。事の正否や善悪は公の場で争いましょう。そんな態度が垣間見られた気がした。実際、パソコンのバッテリーの不良やそれによるパソコンの発火といった事例は世界中で多数起きていて、なかには裁判沙汰になったもののあるようだ。

・そんなドライな対応に驚いたり、腹を立てたりする一方で、ただただ謝るといったやり方にも、不快感や解せない気持を感じてしまう。そのちがいがアメリカ的なものと日本的なものの間にあるのだとすれば、その二つの感覚に違和感をもつぼくは、いったいどこにいるのだろうか、などと思わないでもない。

2007年11月19日月曜日

細見和之『ポップミュージックで社会科』

 

hosomi.jpg ・ぼくは森山良子という歌手が大嫌いだ。その理由は、外国生まれのいくつものいい歌を、その心や意味を台無しにして日本に広めたからだ。そう思って憤慨し、毛嫌いしたのは40年も前だが、最近また、その名前をたびたび耳にすることがあって、その度に不快な気持ちを呼び覚まされている。そんなときに、その理由を詳しく説明している本を見つけたから、これはどうしてもとりあげねば、と思った。

・細見和之はアドルノの研究者だが、同時に詩人で、ポピュラー音楽にも詳しい人のようだ。ぼくは以前、彼の書いたアドルノ論のなかにある「ミメーシス」という概念を引用して音楽論を書いたことがある。「ミメーシス」は「主体と客体が一体となって、その一体感のなかでその内側から知られるようなあり方」で、アドルノが音楽をはじめ、あらゆる芸術にとってなにより重要な成立の要素としているものだ。少しむずかしい説明だが、ぼくは、それを次のように読みかえてみた。


・たとえば、日本人にとっては、英語の歌を聴いて、その歌詞の意味をすぐに読みとることはむずかしい。けれども、その歌声から、あるいはメロディや演奏の音色から、何となくわかる感覚といったものはある。ごく単純にいえば「ミメーシス」とはそんな理解のあり方である。『アイデンティティの音楽』(世界思想社)

・ある特定の音楽や歌に対して示すのがこの「ミメーシス」的共感であることはいうまでもない。けれども、歌の場合には、そこにことばがあるだけに、それがわからなければ伝わらないこともすくなくない。細見はそれをジョーン・バエズが英語で歌い、森山良子が日本語でヒットさせた二つの曲を例に上げて説明している。その一つは「ドナドナ」で、もうひとつは「思い出のグリーングラス」である。

・この本によれば、「ドナドナ」はもともとはイディッシュ語でつくられていて、ユダヤ人に対してくりかえしおこなわれてきた虐待や虐殺をテーマにしている。荷車に手足を縛られて乗せられた子牛が屠殺場にひかれていく。うめく牛に農夫が「いったい誰がおまえに子牛であれと命じたのか」という。空を燕が自由に旋回し、ライ麦畑には風が子牛あざ笑うかのように吹き続ける。この歌はナチのユダヤ人虐殺と重ねあわせられることが多いが、生まれたのはそれが起こる前だった。
・日本語訳された「ドナドナ」にはユダヤ人の悲劇を歌ったものであることが、まったく抜け落ちている。これはあくまで、殺されて食べられてしまうかわいそうな子牛の歌であり、だから子供向けの歌として小学校や中学校の音楽の教科書にも載るようになった。日本語で強調されているのは元歌にはない「悲しそうなひとみ」の「かわいそうな子牛」であり、「もしもつばさがあったなら、楽しいまきばにかえれるものを」という同情の念である。

・もうひとつ「思い出のグリーングラス」はジョーン・バエズ以前にトム・ジョーンズがヒットさせた曲として知られている。歌詞の内容は、昔懐かしい家にもどる男の話だ。汽車を降りるとそこには、家を出たときそのままに、パパやママがいて、恋人が出迎えてくれている。緑の草に囲まれた懐かしいわが家。子供のころに遊んだ樫の木もそのままある。しかし、3番目の歌詞になると、男のまわりには突然、冷たい灰色の壁が見えてくる。そこは刑務所で、今朝は処刑の日。思い出のわが家は、彼が牧師や看守の前で一瞬回想した風景だったのである。ところが、日本語訳では、その3番目が見事に抜け落ちていて、主人公は都会に絶望して田舎に帰った若い娘になっている。

・フォークソングにメッセージ性があるのは、その誕生からいって必然的なことである。で、それに影響を受けたロックやその他のポップ音楽にも、その要素は受けつがれている。ところが、日本にはいると、その要素は、まるで検閲されたかのように抜け落ちてしまう。あるいは、ポップ音楽は単に若者の娯楽ではなく、そこには他の芸術や文学と同様に、作品としての奥行きや広がりを持たせる可能性が確かにある。ところが日本では、ポップ音楽にそんな可能性があると信じている人は多くないし、そんな作品もきわめてまれにしか存在してこなかった。

・中身を換骨奪胎して抜け殻を消費する。だから、受けとめるのはあくまで、表層のところにある、「かわいい」「かわいそう」「たのしい」「うれしい」「かっこいい」「つらい」「せつない」「くるしい」「つまらない」といった「ミメーシス」まがいの感情でしかない。細見はこのように翻訳してしまう日本人の感性を批判しながら、同時に、つくる側が、そうしなければ、歌が商品として成功しないことを知っていたためだという。なぜそうなるのか。そこを明らかにすることは、またもうひとつのおもしろいテーマになるのかもしれない。
・しかし、ぼくはだからこそ、そういう仕組みを拒絶して新しい歌を作ろうとした動きが、ここにあげた歌のようにして元の木阿弥にされてしまったことに、批判的であり続けたいと思う。フォークシンガーまがいの歌手が、日本のジョーン・バエズとか、日本のボブ・ディランとかいわれて、大物気取りでいつづけている。その能天気さや鈍感さは、また、その後のディランやバエズやそのほかのミュージシャンの作品にある真摯さやこだわりとはきわめて対照的なものである。

・ちなみに、この本では取りあげられていないが、ディランの「風に吹かれて」のリフレインは、森山良子の歌ではやはり、童謡化されて「かわいい坊や、お空吹く、風が知ってるだけさ」となっていた。「かわいい文化」は今も、日本人の感性の基本だが、それはまさに「無知は力」(オーウェル)といった姿勢の蔓延でもある。

2007年11月12日月曜日

古い本をPDFにしました


・新しい本『ライフスタイルとアイデンティティ』(世界思想社)が出たのを機会に、すでに品切れで手に入らなくなっている本を、PDFとして公開することにしました。引用などをしやすくするために、ページのレイアウトも本と同じにしました。

book3.jpeg・PDFにして公開する理由はいくつかあります。それなりに需要があるのに本として手に入りにくいこと、データとして著者がもっていて、ネット上に公開することができることなどで、ここには、ある期間(本の場合には品切れ)を過ぎた著作物は公開して共有物(パブリック・ドメイン)にすべきだという考えに同意するという理由もあります。

・実際に、これまでにもいくつかのファイルをWeb上に公開してきましたが、中にはびっくりするぐらいのアクセス数のあるファイルもありました。もちろん、メールでさまざまなものを要求してくるケースもあります。学生の卒論などは原則的にお断りしていますが、出せるものは利用していただこうと考えました。

book4.jpeg・今回公開するのは、筑摩書房から1988年に出した『私のシンプルライフ』と1989年の『メディアのミクロ社会学』です。残念ながら、それ以前のものについては、デジタル化したデータがありません。ワープロを使い始めたのが86年頃で、マッキントッシュを購入したのが89年ですから、それ以前の原稿は、原稿用紙に手書きで書いたということになります。今のところ、改めてデジタル化する予定もありません。

・PDFのダウンロードは、「作品」のページからできますが、容量が多いですし、印刷をするとそれぞれ200ページを越えますから、お気をつけください。

2007年11月5日月曜日

新しい本が出ました

 

l&I.jpgl&i1.jpg


・すでに予告済みですが、ぼくが書いた新しい本がやっと出版されました。『ライフスタイルとアイデンティティ』(世界思想社、2625円)です。内容については「ライフスタイルとアイデンティティ」のページをご覧ください。目次やあとがきの他、表紙やオビについての欄もあります。

・「ライフスタイル」にしても「アイデンティティ」にしても、ぼくにとっては、大事なことばですが、すでに手垢にまみれてほとんど魅力を失ったことばのようにも感じられます。それが、広告のことばのなかには、相変わらず氾濫していて、何かまだ特別のイメージを感じさせるかのようにつかわれています。そんな傾向にたいして、出発点に帰って問いなおしをして、最近の風潮を批判してみたいと思いました。

・現代は、本当に高度に発展した「消費社会」です。学生たちと長年接してきて、そのことを年々強く実感するようになりました。彼や彼女たちにとっては、あらゆることが「消費」という行動を通して実現されます。衣食住に関わることはもちろんですが、「楽しい」「うれしい」から「悲しい」「怖い」、あるいは「くやしい」といった感情の経験でさえ例外ではないようです。だからそのために一生懸命バイトをする。勉強はといえば、きめられたことを要領よくこなすことであって、じぶんなりの興味や関心にしたがって、ということではありません。だから当然、こんな社会の傾向やシステムそのものに疑問を感じるなどといったこともありません。このシステムは何より「豊かさ」を感じさせてくれるものですから、すべきことは、そのなかでうまく立ち居振る舞うことだというわけです。

・このような意識はもちろん、もっと上の世代の人たちにも共有されています。というよりは、かつてはそうでなかった社会を経験した人たちほど、現在の社会のありようを肯定しているといってもいいかもしれません。しかし、本当にそうだろうか、という疑問を、ぼくはずっと持ちつづけてきました。たとえば「豊かさ」とはいったい何なのか、それは実際どう生きることで実感されるものなのか、あるいはじぶんはどんな人間になりたかったのか、といった問題です。『ライフスタイルとアイデンティティ』ではそのことを、現在に関わるいくつかのテーマと、「ユートピア」思想を手がかりにした近代化以降の歴史を軸に考えてみました。

・欲しいと思うものの大半は、実は欲しいと思わされてしまったものであるし、お金を出して買うものの多くは、実はじぶんで作れるものでもあるのです。「モノ」はもちろん、「経験」だって例外ではありません。ということは、欲しいわけではないモノやことのために、したいわけではないしごとをしているということになります。生きていくためにはだれもが「何者」かにならなければいけないけれども、そのためには、じぶんのなかにある、そうではない部分を抑えたり、捨象したり、無能にしたりすることが要求されます。だからまた、違うじぶんを求めて「消費」に走ったりもする。

・もちろん、この本で問いかけているのは、現代に典型的な「ライフスタイル」や「アイデンティティ」を全面否定せよ、といったラディカルなものではありません。何かをする前に、たちどまって考えてみる。そんな気持の持ちよう提案したものであるにすぎません。しかし、学生たちにそんな話をすると、「そんなこと考えたこともなかった」といった応えがかえってきますから、そんな提案でさえ、強いインパクトを与えるのではないかと考えています。