2011年4月18日月曜日

こんな時でも「かなかな」虫が聞こえる

・断定を避けて、曖昧にする。意見の当否を相手に委ねる。話し相手の同意を求める。会話の中にこんな言い回しが目立つようになったのは、もちろん、最近のことではない。ただし、その言い方にも流行があって、いつの間にか誰もが使うようになったと思っているうちに、誰もが使わなくなったといったことばが少なくない。たとえば、「語尾あげ」「〜じゃないですか」「〜でありません?」「とか」「みたいな」といったもので、最近では「かな」が気になるようになっていた。

・もちろん、こういった表現は、日本語ではけっして新しいものではない。特に関西弁には「〜とちゃいまっか」とか「〜でもよろしいし」と言い方があって、判断を相手に委ねて意味の強さを弱めるのだが、京都などでは、それはやっぱり、かなり強いメッセージがあって、否定や反対をしたら気まずくなると言われている。もう40年も前の話だが、京都に行ったばかりの僕は、この種の表現にうまく対応できずに戸惑った記憶がある。

・それに比べると、語尾あげから「〜かな」に至る最近の流行には、そんな婉曲的な言い回しというよりは、発言に対する自信のなさや、他人がどう受けとるかに対する不安の気持ちが強いように思う。話の内容から、はっきり断定すべきことなのに、最後に「〜かな、と思います」と言われたりすると、「はっきりしろよ」とか「自信ないんだな」と突っ込みを入れたくなる。けれども、「かな」は必ずしも自覚的に使われているわけではないから、突っ込まれても、その返答に窮したりもする。第一に、そんな突っ込みをする奴は確実に、kyだと思われてしまいかねないのである。

・僕はゼミでの学生とのやりとりに際して、語尾上げが流行しはじめたときから、こういった婉曲的な言い回しに対して、その都度「なぜ、そう言ったの?」と問いかけるようにしてきた。学生たちは、ずいぶん意地悪な教師だと思ったはずだ。言いたいことは一つなのに、最後に「とか」をつけるから、「他に何があるの?」と聞くと、何もないと言う。「だったら『とか』はいらないよね」と言うと、「口癖」とか「みんなが使うから」とか「他にも何かあるかもしれないから」などと理由を考えたりもする。

・大震災が起きて以降でも、テレビを見ていて「かな」が気になることが少なくない。被災した人が途方に暮れて「〜かな」と使うのには、当然、余りにも突然でめちゃくちゃになってしまった現実に対して、思考が及ばないとか、迷っていて決断できないと言った気持ちがこめられている。あるいは、原発事故関連の記者会見での発言にも、はっきりわからない部分があることをふまえた予測や原因の究明などといった点で、「かな」や「とか」が使われることがある。けれども、そうではない、はっきりとした意思表示や批判のことばの中に「かな」や「とか」が出てくることがたびたびあって、その都度、テレビを見ていて、そうではないだろうと言いたくなった。

・「コミュニケーション能力」ということばがよく使われるようになって、その重要性がさまざまなところで説かれている。そして、その意味を確かめると、自己主張や議論ではなく、相手とうまく関係しあうためにどうするかという、協調性に力点が置かれていることに気づかされる。だから、婉曲的な言い回しになるし、やたらに丁寧なことばづかいが目立ったりもする。確かに、よくわからない相手と、それなりにいい関係を作り、コミュニケーションを円滑にする必要性は、現在の社会では、身につけなければいけない能力の一つだろう。ただし、いつでも、どこでも、誰に対しても、そういうやり方でというのでは、それはコミュニケーション能力の一面しか身についていないということになる。

・はっきりしたいときには、もっと強く言ってもいいし、それを受けとめる姿勢も必要だ。未曾有の震災をきっかけにして、こんな関係を求める気持ちが生まれるのかどうか。「かな」や「とか」、そして「みたいな」といった言い回しがどうなるかは、大げさに言えば、3.11をきっかけにして日本人がどう変わるかを見定めるバロメーターになるのではないか、といったことを感じる今日この頃である。

2011年4月11日月曜日

春の兆し

 

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forest91-2.jpg・今年の冬はいつになく寒かった。しかも大震災のあとも寒い日が続いたから、余計に寒々とした気持ちになった。去年は大学の卒業式には桜が満開だったのに、今年はまだつぼみが堅かった。もっとも震災の影響で、卒業式自体も中止されたのだった。その後、大学の入学式も中止され、新学期以降のスケジュールや計画停電に対する対応などで、3月末から忙殺された。
・その間に、パートナーは京都でやる個展の準備をし、一人で出かけた。個展は夷川通りのidギャラリーで1日から3日までおこなわれ、大勢の人がやってきて、今回のメインテーマだったスナフキンがほとんど売れるほどの盛況だった。僕も2日と3日には会場にいて、久しぶりに友人や知人と会うことができた。


forest91-3.jpg・一昨年の夏に急逝した木村洋二さんのお墓に行きたいと思っていたが、パートナーのKさんと娘さんが個展に来てくださった。で、お墓のことを尋ねると、家の大岩の下に埋めたという。翌日、彼女はいなかったがお宅を訪ねて、大岩に花を供えた。何度も来たところだが、こんな大きな岩があるとは気がつかなかった。湯谷岳を見上げると、今にも木村さんが笑い声を上げながら、駆け下りてくる気がした。
・家は昔のままだったが、大きな書庫を作り、庭にも石や煉瓦の道ができていたから、あれこれ工夫して、作りかえる途中だったのだと思う。そのやりかけといった様子が、また今にも、木村さんが出てきそうな気にさせた。


forest91-4.jpg・京都から戻ると、我が家の庭にも春が訪れていた。蕗の薹がいくつか顔を出し、片栗の花がつぼみをつけて、今にも開きそうな気配で、しかも、今年もまた少し、数が増えたようだった。大学に出かけ、いくつもの会議をこなし、また家に戻ってくる。来冬用の薪のために昨秋原木を4立米買ったが、もう4立米注文し、トラックで運んでもらった。隣の土地の木を伐採したので、今度はトラックも入りやすくなった。チェーンソーで玉切りにし、斧で割って、日干しにする。そんな作業がまた始まる。原木の値段が上がって、手に入りにくくなったようだ。石油の値上がりも大幅だから、暖房費への出費もバカにならない額になってきた。

2011年4月4日月曜日

災害と情報

 

・大きな災害が起こるたびに、マスメディアのニュースの伝え方から個人の情報のやりとりにいたるまで、改めて、さまざまなことに気づかされる。とりわけネットやケータイの進歩と普及はめざましいから、家族や友人、あるいは仕事仲間などとの連絡には、日常ならば多様なメディアが自由に使えるのだが、3月11日の大震災の時には、役に立つものと立たないものの違いがはっきりした。

・たとえば僕は、勤務先で会議をしていて大揺れを経験し、すぐにパートナーにスマートフォンで電話を試みたが、すでに音信不通の状態だった。そこで、メールを出したのが、送ることはできたが返事があるまでには、かなりの時間がかかった。他にも数人とやりとりをして、早く連絡の取れた人もいれば、何時間もかかって返答があった人もいたから、近くの中継基地の混み具合などが影響したのだと思う。

・我が家では出かけるときには家庭電話をケータイに転送するサービスを使っている。だら、富士山の近くを震源にした地震があったときには、夜中にもかかわらず、何人もの人から電話やメールがあったのだが、その時僕は、日本の南西の外れにある西表島にいた。心配して電話やメールをした人は、安心と同時に拍子抜けしたことだろう。通信手段のモバイル化が地理的感覚を無効にしてしまうことを、このときほど実感したことはこれまでになかった。

・大災害が起こると、テレビ局は競って、その生々しい現場の中継に血眼になる。阪神大震災の時に強く批判されたことだったが、3月11日の東日本大震災でも、同じことが繰りかえされた。大津波が襲って、家や車や人を飲み込んでいく様子は余りに恐ろしくて、何度か見ると、もう拒絶感の方が強くなってしまうほどだったが、数日は、いつどのチャンネルをつけても、すぐにそのシーンが映しだされていた。これは映画ではなく現実だと思うと、とても見ていられない気がして、すぐに別のチャンネルに変えたり、消したりもした。

・テレビはどこも、数日間は一日中震災関連の番組で、それはBS放送でも放送された。BSには各局とも3つのチャンネルがある。普段はその一つしか使っていないのだが、地上波を流すチャンネルをいつでも流すようにすれば、地デジなどはいらないのに、と今まで繰りかえし言ってきたことを、またつぶやきたくなった。いつも聞いているインターFMが緊急時の特別の処置として、全国どこでもネットで聞けるようになった。普段は、電波が届く関東エリアに限ってネットでも聞けるのだが、山梨県の我が家では、電波が奇跡的なほどに鮮明にキャッチできるのに、ネットではダメということになっていて、このことについても、日本の電波行政のおかしさに腹が立っていたのだった。

・他方で、マスメディア経由でなくとも、海外のメディアが大震災や原発事故をどのように伝えているかを直接確認することも容易になった。我が家はたまたまISDNから光に変わったところだったから、アメリカやイギリスの放送局や新聞社のサイトにでかけて、動画や音声を途切れる心配をすることなく見聞きすることができた。このことについては、チュニジアに始まるアラブ諸国の革命でも、テレビや新聞以上に、多様で早い情報に接することができた。

・大震災の数日後から8日間ほど沖縄と先島諸島を旅して回った。東京からは2000km以上離れ、台湾とは200kmほどの近さだから、レンタカーのラジオをつけると、中国語の放送の方が圧倒的に多かった。その中から日本語の放送を探すと、どの番組でも被災した知人や友人のこと、ボランティアやカンパのことなどが話題になり、被災した人たちへの同情や励ましのことばが繰りかえされた。もっともその間にかかる歌が裕次郎や小林旭であったりしたから、物理的な距離感よりは時間的な距離を感じたりもした。

・自分がいつどこにいて、何と繋がり、何にアクセスしているか。ここ一月ほどは、そんな感覚に狂いが生じて、平衡感が失われたように自覚することが多い。スーパーに行くと、東京ほどではないにしても、米や水や電池や納豆(?)が棚から消えている光景を目の当たりにする。買い占めではなくちょっと買いだめをという気持ちが作りだした結果で感染源はマスメディアの情報だが、それに感染しないよう免疫を作るのもまた、メディアから得る情報なのだとつくづく感じている。

2011年3月28日月曜日

地震、結婚、卒業、個展、そして入学

 

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K's工房陶展「スナフキンと森の時間」
(京都・アイディ・ギャラリー、4月1日〜3日)

・まだ3月が終わったばかりだというのに、今年は何という年だろうと思います。3月11日の巨大地震と津波は、いまだに死んだ人の数もわからないほどに甚大な被害をもたらしましたし、被災して避難している人の数も桁違いに多いです。原発がどうなるのかも不確かなままですし、大きな余震も相変わらず頻発していますから、日常生活をおくれている人にとっても、不安の材料は増えるばかりです。

・おかげで、中東で連続した政変のニュースは、新聞やテレビでは小さく扱われていますし、ニュージーランドの地震についてはまったくといっていいほど語られなくなりました。テレビが節電を呼びかけながら、被災地の状況や原発の様子を巡って視聴率競争をしているのは、なんとも矛盾した態度のように思えます。

・地震の時は大学で会議中でした。大波に揺れる船に乗っているようで、それが何分も続きましたから、大きな地震であることはすぐわかりました。体の弱った父と母の家に行き、高速道路が閉鎖されて家に帰ることはできませんでしたので、一泊して翌日帰宅しました。幸い、実家も自宅もほとんど被害はなく安心しましたが、巨大地震と津波の被害を伝えるテレビの映像には体の震えを覚えました。

・実は、一週間後にある次男の結婚式にあわせて沖縄から先島諸島を旅行する計画を立てていました。結婚式ができるのか心配でしたが、息子に確認して、予定通り14日に出かけることにしました。ところが15日の夜、西表島のホテルで寝ているところにメールや電話が飛び込んできました。富士山の西側の静岡県と山梨県の境目あたりを震源にするマグニチュード6.0の地震があって、そのことを心配した人たちからのものでした。旅先ですから、もちろん、我が家がどうなったのかもわかりませんが、とりあえず遠くにいて無事であることを急いで伝えました。

・息子の結婚式は参加者が半減しましたが、無事おこなわれました。パートナーの実家は千葉の浦安にあって、大きな被害が出たようでしたが、ご両親も当日の飛行機でやってくることができました。こんな状況の中、のんびり島巡りなどしている自分にやましさを感じないわけではありませんでしたが、旅は予定通り、西表島、石垣島、宮古島、そして沖縄本島を巡って22日に帰宅して終わりました。幸い、家の様子は出かけたときと同じで、地震の被害はほとんどありませんでした。

・23日には大学で卒業式がある予定でした。しかし、計画停電もあって中止に決まり、学生には「学位記」だけが手渡されました。袴姿の学生も、普段着の学生もいて、いつもとは違う静かな卒業の風景になりました。就職活動で苦労した彼や彼女たちには、大学生活の最後の最後の時にまで災難が降りかかりました。かわいそうではありますが、ゆとり世代と非難されてきた学生たちには、大人として生きていく自覚をもついい機会にして欲しいと思います。その晩、河口湖では季節外れの15cmの大雪が降りました。

・計画停電がいつまで続くのかわからない状況です。そのために入学式も中止になり、新学期も1ヶ月おくれで開始されることになりました。計画停電が一番の理由ですから、電力需要の増す8月にまで延長することはできません。当然授業数が減るわけですが、まさか文科省は補講をして時間数を確保しろとは言わないと思います。おそらく、このような災害を経験した学生たちは、授業を熱心に聞き、自らも勉強しようという気持ちになるでしょう。今、この状況をどう捉え、どのように考え、どんなふうにして対応していくのか。教える側にもしっかりと準備して、学生に向けて語りかける必要があることは言うまでもありません。

・なお、パートナーの個展が京都のアイディ・ギャラリーで4月1日から3日まで開かれます。今回のテーマは「スナフキンと森の時間」。僕も2日と3日には会場にいますので、ぜひお立ち寄りください。2年ぶりにお会いする方も多いと思いますので、楽しみにしています。


2011年3月21日月曜日

西表、石垣、宮古島

 

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・14日の早朝家を出て、羽田に向かう高速道路で正面からの日の出に遭遇した。真っ赤に燃えるような色。那覇行きの飛行機は飛び立つとすぐに、富士山の近くを通り過ぎた。いつもは下から見る飛行機に、今は乗っている。よく知った風景だから、どこがどこなのか一目でよくわかった。

・飛行機を乗り継いで石垣島に着き、八重山そばを食べて西表島行きのフェリーに乗った。島が近づくにつれ、その大きさや山の多さに驚いた。ヤマネコやカンムリワシの島。沖縄本島に次ぐ大きさで、人口はわずか2000人ほどだという。

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・マングローブの繁る川をボートでさかのぼり、1時間ほど歩いて滝に到着した。大きな板根に支えられた巨木が生える森は、家の近くの森とはずいぶん違う。手つかずの自然。とは言え、この近くにはかつて炭鉱があったと聞いた。

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・沖縄の島々はどれも珊瑚礁に囲まれている。その石垣島の北端の岬から見た珊瑚礁のすばらしさは息をのむほどだった。特産物の石垣牛はおいしかったが、途中で見つけた放牧地では、カメラを向けると「さち」と名のついた牛が近寄ってきた。

宮古島では飛行機を降りた途端に、「まるでハワイみたい」ということばが出た。そう意識した島作りがかなり徹底して行われている。その代表的なリゾート・ホテルで息子の結婚式が行われた。地震のために出席者は半減したが、とにかく無事に済んでほっとした。

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2011年3月13日日曜日

ボッツマン&ロジャース『シェア』

 

・「シェア」ということばは新しいものではない。「フリー」とともに、60年代の対抗文化の中でよく使われた。さまざまな慣習や規制に囚われずに、やりたいことを自由(フリー)にやる。そこで出来上がったものはまた、自由に作りかえられたり、ただ(フリー)で手に入れることができる。つまりシェア(共有)されることが前提になる。おおよそこんな考え方で、その典型は、この時代に登場したロック音楽やファッションに見られたが、それらはまた、新しい文化的な商品として、消費経済を活性化させることになった。

・しかし、「フリー」と「シェア」の考え方は70年代になっても、自前のコンピュータ作りに夢中になった人たちの中に引き継がれて、「ハッカー倫理」の中核になる。つまり、発明された技術や発案され、プログラミングされたソフトは、誰もが自由にただで使えるように提供され、その改良への参加もまた自由であることが原則とされたのである。このような伝統は、パソコンが商品化され、巨大な産業に成長した後も残りつづけてきたが、インターネットの中では、その利用の仕方や、ソフトの開発という点で、むしろ発想の中心に置かれてきたといってもいい。

share1.jpg・R.ボッツマン&R.ロジャースの『シェア』はネットの情報交換の場の発達が、消費社会をリードした「所有」という考えを改めさせ、「シェア(共有)」という方向を、さまざまな面に広げはじめているという。たとえば自動車は、足の拡張という道具である以上に「ステイタス・シンボル」としての役割を担って消費されてきたが、都会で生活するかぎりでは、実際にそれほど頻繁に利用する道具ではなかった。だから使わないときは誰かに安価に提供する。そんな仕組みがネットによって簡単に作られ、あっという間に広まっているようだ。同様のことは、家やさまざまな道具などにも広がっているし、使わなくなったモノや着なくなった服の売買や交換などにも広がっているという。次々と消費して捨てるのではなく、有効に無駄なく使い、利用する。そこには当然、便利さや経済性だけでなく、環境や資源の問題を考えるという大きな視点も含まれている。

・さまざまなものの共有、交換、そして贈与が成り立つためには、相互の間に信頼関係が必要だ。ただしそれは、全人格的な形で関わるほどの強い絆である必要はない。「その昔、ユートピア的なコミュニティを目指した人たちは、古いコミュニティを捨てて、いちから全部やり直すことばかりに固執していたの‥‥‥だから結局失敗してしまった。私たちがやろうとしているのは、シェアをカルチャーのコアにすることなの。カウンターカルチャーではなくてね。」

・「所有」ではなくて「共有」が当たり前になれば、当然消費は減少する。それは資源や環境にとってはもちろん、消費のためにあくせく働いてお金を稼ぐ生活スタイルからの解放を実現させてくれるかもしれない。しかしまた、モノが売れなくなった企業の多くは倒産し、失業者が増えることも意味している。しかし、この本では「<共有≫からビジネスを生み出す新戦略」と副題をつけたように、「シェア」はビジネスや産業の構造に及ぶ、大きな変革の要素なのだという。

・たとえば、テレビや新聞、そして雑誌を使った広告に陰りが見え、代わって企業が使う広告費の多くがネットに向けられるようになった。 FacebookやTwitterといったソーシャル・ネットワーク・サービスでは、広告は何であれ、それに関心を持つ人たちが寄ってくるコミュニティに載せられる。筆者たちが希望を持って見るのは、商品やサービスに対する欲望をかき立てる一方的な誘惑ではなく、人びとのニーズや欲求との間に生まれるコラボ消費という方向性である。

・確かに、ネットの動向には、そんな方向性が見て取れる。ただし、「シェア」の習慣に慣れていない日本人が、このような生活スタイルに魅力を感じ、実践するまでには、いくつものハードルがあるようにも思う。

2011年3月7日月曜日

キース・ジャレットのピアノ

 


Keith Jarrett "The Koln Concert"
"The Melody At Night, With You"
"Staircase" "Facing You"
"My Song" "Standards Live"

keith1.jpg・キース・ジャレットはジャズに限らず、クラシックにも幅を広げて活動しているピアニストだ。そしてアルバムには、ピアノ・ソロのものがかなりある。「ケルン・コンサート」は彼のアルバムの中では一番ポピュラーなもののようだ。1974年にドイツのケルンでおこなわれ、75年にアルバムとして発売された。曲目はなく一曲目からPart1、PartIIA、ParetIIB、PartIICと名づけられている。要するに全曲がこのコンサートの中で生まれた即興音楽(インプロヴィゼーション)だということなのである。

keith2.jpg・即興音楽とはあらかじめ決められた主題をもたずに、その場で演奏をする音楽だ。聴いている人はもちろん、演奏者自身にも、どんな音楽が展開されるのかはわからない。しかし、「ケルン・コンサート」でジャレットが弾くメロディはあまりに美しいから、それが即興だとは信じられない気がしてしまう。ジャズにはどんな曲にも、途中で即興になる部分がある。トリオにしろカルテットにしろ、演奏者たちが即興で奏でる音でやりとりをする部分は、多くの場合、その曲の一番の聴きどころになる。けれどもジャレットの即興は曲全体におよび、そしてたった一人でおこなわれる。そもそも、このアルバムで奏でられる音楽はジャズというよりはクラシックのようでもあり、また、ジャンルなどは越えた独自の音楽のようにも聞こえてくる。

keith4.jpg・ネットで検索してみると、ジャレットの興味深い発言を見つけることができた。たとえば、演奏の前には、演目の練習をするのではなく、準備を調えないための時間が必要なのだと言う。つまり、あらかじめ主題をイメージして、その練習をするのではなく、逆に何のイメージも持たずにステージに立てるように準備をするというのである。しかし、それは無から有を創造するためではない。彼にとって、その時生まれた音楽は「私という媒体を通して神から届けられたもの」だからである。こんなことばを読むと、彼の音楽には宗教性が強いのかもしれないと感じてしまうが、けっして教会音楽に近いわけではない。

keith3.jpg・ジャレットのピアノを聴いたのはもうずいぶん前で、ずっと忘れていたのだが、何となくYouTubeで検索をして、その魅力にとりつかれてしまった。彼の演奏を見ると、ジャレットは時に腰を浮かし、立ち上がり、うめき声を上げ、足踏みをし、あるいは奇声を発しながらピアノを弾く。それは神と聴衆をつなげる媒体=メディウム=巫女が一種のトランス状態になっておこなう祭礼のようでもある。そして一曲ごとに立ち上がり、客席に向かって頭を下げる。クラシック音楽のコンサートでは当たり前の所作だが、その対照もまたおもしろいと思った。

・というわけで、「ケルン・コンサート」をはじめとして、何枚ものCDを次々購入した。トリオでの演奏、バッハなどのクラシック音楽を扱ったものなど、彼のアルバムはまだまだたくさんあって、買い始めたらきりがないほどだが、5月の末に日本でコンサートをやるという。今度こそは泊まりがけで行こうと、迷わないうちにチケットを買ってしまった。