2013年3月18日月曜日

ヴェトナムで考えたこと

 

vietnam10.jpg・ヴェトナムに着いて最初に出たことばは「カオス」だった。信号のない道路を車やバイク、自転車が乱れるように走り、信号も横断歩道もない交差点を人びとが渡っている光景に唖然としたからだった。町を歩いていると靴を磨け、シクロに乗れ、バイクを貸すと寄ってくる。「ノー」と言っても諦めない。店を覗いたりすれば、もうしつこくつきまとわれて閉口するばかりだった。ルールも礼儀もない混沌とした社会。そんな悪い印象ばかりが残って、もう二度と行きたくないと思ってしまったが、帰ってきて、なぜそうなのかということを考えてみた。

・町中や短距離の移動はマイクロバスだった。その窓から見ていて怖かったのは、対向車線を走る車が追い越しをしかけて、頻繁にこちらの車線に入って向かってくることだった。時には追い越しきれずにこちらの車線にいたまますれ違うこともあって、乗っている車は脇によけることになるが、そこにはバイクや自転車が走っていて、今にもぶつかりそうになることが何度もあった。もちろん、乗っているマイクロバスも何度も追い越しをしていたから、とんでもなく危ない運転だと思ったが、ガイドはヴェトナムではこれが当たり前の運転だと言った。

・最初は怖い思いに襲われ、いい加減にしろと言いたくもなったが、次第に、こんな状況でもほとんど事故現場に出会うことがないことに感心したり、感覚的に慣れて来て関心も薄れていった。で、改めて考えた時に連想したのは、鳥や小魚が群れて飛んだり泳いだりする様子だった。これは「ボイド」と呼ばれる「群れ知能」の理論として説明されていて、「引き離し」(近くの鳥に近づき過ぎた場合、ぶつからないように離れる)、「整列」(近くの鳥と速度と方向を合わせる)、「結合」(より多くの鳥のいる方向<群れの中心方向>へ向かって飛ぶ)という3つの原則からなっている。

・信号もなく、交通法規もあてにせずに、まるで血液の流れのように道路を走ることができるのは、お互いの中にこの「群れ知能」が暗黙知として共有されているからだ。そんな能力が鳥や魚だけでなく、人間の中にもある。こんな解釈が僕には核心を突いた説明のように思えた。ヴェトナム人の中に生きている人間の「群れ知能」を、私たちはをすでに忘れてしまっている。そうだとすれば、ゲリラ戦が中心だった戦争でアメリカが負けたのも当然だという気にもなった。

・ところで押し売りのようにしつこくつきまとったり、気をつけないとスリやひったくりに遭うといったことはどうなのだろうか。近代化された都市に住む人間には、見知らぬ他人同士が不要な接触をしないよう、意識的に無関心を装う行為が暗黙知として身についている。この「儀礼的無関心」はいわば、都市の肥大化によって発達した「群れ知能」とも言えるもので、それを守らずに接触すれば、相手を不快にするし、痴漢行為を働いたとして訴えられかねないことにもなる。

・断っているのにしつこく迫る押し売りは、日本では法律で禁止された犯罪行為である。けれどもヴェトナムではそうではなく、お互いのやりとりで何とかする行為のようである。だとすれば、「いらない」「関心がない」とはっきり言うべきだし、態度として示すべきだが、日本人はそれが苦手で、ついつい話をしてしまうことが多いようだ。で、結局安いからと言い訳をして買ってしまう。そんな光景を今回の旅の中でも何度も見かけた。「ノー」と言えない日本人は、近代人の典型であるアメリカ人だけでなく、これから近代化しようとしているヴェトナム人にも甘く見られてつけ込まれてしまっている。そんな印象を再認識してしまった。

2013年3月11日月曜日

ヴェトナムからの手紙

 

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・ヴェトナムはずっと気になっていた国だった。高校生の時にヴェトナム反戦のフォークソングを歌ったりした頃からだから、もう半世紀近くになる。そのヴェトナムにはじめてやって来た。ホーチミン市の街を歩いても、今はもう、戦争の傷跡などはほとんどない。街はにぎやかで高層ビルができ、道路にはバイクが溢れている。で、旧南ヴェトナム政府の大統領府は観光客や地元の小中学生の見学でいっぱいだった。当時の大統領はアメリカの傀儡だったが、大統領府は豪華で、今でも当時のままで保存されている。豹の剥製や象の足や象牙などが飾られ、絨毯や壁画も贅を尽くしたものだった。屋上には北ヴェトナム軍がやって来たときに逃げ出すためのヘリコプターが今でも置かれたままだった。

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・それにしてもホーチミン市は蒸し暑い。ここのところ日本も暖かくなったとは言え、30度を超える気温は体に堪える。けれども道路のバイクと同様に、市場は人でごった返し、衣料品やら食料品やらニセブランド品が所狭しと積み上げられている。今経済成長をしようとしている国のエネルギーは、街をちょっと歩いただけでも十分に感じられて、高揚した気持ちにならないこともない。ただし、おもしろがって気を取られていると、スリやひったくりに遭いかねないし、買い物や食事の際にはごまかされてしまう。日本人は格好のカモなのだという話を、現地のガイドさんから聞いた。

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・今回の旅行は1週間と短いが、ホーチミンからフエ、ホイアン、ハノイとまわるからかなり慌ただしい。国内の移動もほとんど飛行機で、ほんの少しだけヴェトナムにふれたというだけで終わってしまうのかもしれない。けれども、最近出かけた韓国や台湾とは衣服や食事、街の景観、そして人柄など、あらゆるところで違いが見つけられる。

2013年3月4日月曜日

K's工房個展案内

 

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・K's工房の個展が3月29日(金)から31日(日)まで、京都の「アイディ・ギャラリー」で開かれます。今回のテーマは「寛容の木」、前回は大震災直後で東と西の受け止め方の落差に戸惑いました。2年経った今、震災や原発事故はどう記憶され、どう対応しようとしているのか。忘却ではなく寛容の姿勢で受け止める。放射能はすぐそこに、どこにでもあるのですから。

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2013年2月25日月曜日

雪かきと薪割り

 

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・毎年この季節になると書いていることを、今年もやっぱり書いておこうと思う。この冬の雪は河口湖では、1月14日の成人の日に45cmを記録した。久しぶりの大雪で中央道も通行止めになるほどだった。そうなると雪かきも大変で、家の周りと道路までを雪の降る中、そしてやんだ後と2回もやることになった。道路は町がブルドーザーで除雪をしてくれるが、車をスムーズに出入りさせるためには、駐車場の雪もきれいに取り除く必要があるし、来客用の駐車スペースも作っておかなければならない。これほどの雪が降ると、もう確実に一日仕事になって、腕や肩や腰が悲鳴を上げることになる。それでもやっぱり、カマクラを作ってしまった。

・ストーブは10月の下旬から燃やし続けている。12月に原木を3立米買って年末までに玉切りをして、正月休みに薪割りに精出した。それで半分ほど割ったら次の原木をもう3立米頼もうと思っているところでに雪が降った。その後も雪は何度か降って、日陰の部分は溶けずに残っているから、未だに原木を頼めないでいる。気温が上がって凍った雪が緩んだときに、トラックが入れるように雪かきをすればいいのだが、なかなかその気になれないでいる。

・昨冬に買い換えたバーモントキャスティングのストーブは快適で、温度は安定していて、お湯もよく沸いて乾燥もしない。シチューやスープはもちろん、煮物も炒め物もできれば、パンまで焼くようになった。ただし、正月が過ぎた頃から温度が上がらなくなって、火を落として煙突掃除や、分解掃除をしなければならなくなった。二次燃焼をさせる触媒機(コンバスター)の上に灰が積もっていたのが原因だが、念のために購入先の「ファイアーライフ」に電話して、掃除をしてもらった。
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・今年は雪がよく降る。たくさん積もることは少ないが、頻繁に降るから、溶ける暇がない。もう冬は十分に楽しんだから、早く春よ来い!といった気分だが、お彼岸までは無理かもしれない。もっとも、春になれば新学期が始まって、忙しい日々が始まるから、その意味では早く来るな!とも言いたくなる。


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2013年2月18日月曜日

演説と講義

 

obama1.jpeg・オバマ大統領の一般教書演説をテレビの生中継で聞いた。1月の就任演説の時もそうだったが、その引き込まれるような話し方に、改めて感心をした。演台にはもちろん原稿が置かれているのだが、そこに目を落とすことはあまりなく、正面や左右の聴衆に視線を向け、時に身振り手振りを交えて演説をする。このような姿勢はもちろん、オバマだけのものではない。アメリカをはじめとした欧米の政治家に共通したスタイルだ。しかし、オバマの語り口には人を引きつける特別の魅力がある。(画像はjp.reuiter,comから引用)

・対照的に、日本の政治家の演説は相変わらずお粗末だ。安倍首相の国会での演説は、ほとんどうつむいていて、ただ原稿を読み上げるだけのものだった。これは代表質問をする議員にも共通したやり方で、国会内で聞いている議員たちには当たり前なのかもしれないが、一般には全く聞く気を起こさせない、というよりは呆れてうんざりするだけの話し方だと今さらながらに思った。首相や大臣の演説は官僚の作文で自分で書いたものではないから、原稿から目が離せないのだとも言えるが、たぶん、それだけではないのだろうと思う。

・僕が大学生の頃の講義は、教師が教科書をうつむいて読むだけか、板書をしながら話すというものが多かった。板書をする講義ではノートをとることが不可欠だが、教科書を読むだけなら、授業には出なくてもいい。試験前に教科書を読んでおけばいいし、ノートも大学周辺の本屋でコピーが売られたりしていたから、出席しなくても単位を取ることは容易だった。だから授業に出るのは、ゼミと少人数の出席をとる科目だけで、後はほんのわずかの聞きたいと思う教員の講義だけだった。だいたい大学での勉強は授業ではなく自分でやるものだったのである。

・議員の演説は昔も今も変わらないが、最近の大学の講義は全く違うものになった。パワーポイント(キーノート)を使い、資料を配付し、授業に準拠した教科書が使用されるようになった。今の大学生には、「勉強は自分でやるものだ」と言ってもまるで通じない。手取り足取り、懇切丁寧に教えてもらうことを当たり前だと思っているからである。だから、事前の準備に時間がかかるようになったし、授業中に学生がどの程度理解しているかも気になるようになったし、授業中や宿題で書かせるレポートの数も増えた。

・その意味では、大学の講義は演説、というよりはプレゼンテーションに変わった。大学の教員は同時に研究者だが、学生たちは受講する先生が何を研究しているかについて関心がない。だから、教科書に指定された本を棒読みするような講義は、授業評価で落第のレッテルを貼られてしまう。

・政治家は何より政治を実践をする者だが、どんな考えや理想を持って、どんな政策をやろうとしているのかを人びとに表明し、説得して、支持してもらわなければならない。オバマ大統領の演説を見ると、支持するかどうかが演説そのものにかかっていることがよくわかる。一般教書演説は1時間におよび、話題にした人物を議会に招いてもいた。用意周到に練られた演説だったのだろう。

2013年2月11日月曜日

テレビの60年

・テレビが誕生して60年を期してNHKが特集番組をやった。ほとんど見ていないが、番組欄を見るかぎりはノスタルジー一色という内容だったようだ。だから、テレビが果たしてきた役割について、その功罪を真摯に見つめ直すといった姿勢は全くないのだろうと思う。そもそもマスメディアの最大の弱点はその反省のなさにあるわけだから、こんな批判は蛙の面に小便でしかないのかもしれない。しかし、言うべきことは言っておかなければならない。

・テレビは何より、茶の間で享受できる娯楽の機械(機会)として普及した。ドラマやスポーツや音楽を居ながらにしてただで楽しめることが最大の魅力だった。ただし、その時間を享受するためにはTVCMという新たな広告もあわせて見なければならなかった。メディアが収益を受け手ではなく広告主に求めるのはアメリカでラジオが登場したときに発見された方式だが、日本では民放ラジオの登場も第二次大戦後のことだったから、この方式(スポンサーシップ)は全く新しいものだった。

・テレビが果たした一番大きな役割は、日常的に広告を見せられることで、私たちがモノを生産したりサービスをやりとりしたりするのではなく、お金を払って購入し消費する者になったことにある。日本はすでに高度な消費社会になっていて、お金で買えないものは何もないといえるほどになっている。もうそれが当たり前でごく自然な行動だと感じているとしたら、それはまさにテレビによってもたらされた感覚である。

・そんな役割は今、ネットに浸食されて、民放の経営はどこも右肩下がりのようだ。テレビをよく見る世代はテレビと共に育った60代以上の高齢層で、若い人たちのテレビを見る時間は年々減ってきていると言われている。番組はあくまで、CMを見てもらうためのおまけだから、消費行動と結びつかなければスポンサーは逃げていってしまうだろう。ネットになれた若い人たちにどんな番組を提供したらテレビを見てもらえるのか。テレビはその方策を探しあぐねている。

・一方で、テレビは新聞やラジオと同様、報道やジャーナリズムの役割を担うメディアとしても見られてきた。そしてこの点でも、テレビは新聞やラジオに比較して、きわめて権力に弱く、しかも情報量が少ないにもかかわらず、その影響力の強さが大きいという特徴を持ってきた。何しろ日本では、テレビ局を作って放送するには国の認可が必要で、しかも既存のテレビ局はどこも新聞社と一体のクロスオーナーシップのなかで発展してきたのである。だからテレビは新聞を批判しないし、新聞もテレビを批判しないという暗黙のルールが働いてきた。

・マスメディアには「環境の見張り役」とか「社会の木鐸」といった役割が期待されている。しかし、そうではなかったことが3.11以降の原発事故報道や、それ以前の原発政策に対する姿勢で露呈された。その姿勢は、戦前から変わらないものだという批判の声も聞かれるが、戦後に生まれたテレビの影響力を考えれば、テレビは政治的・経済的な権力を持つ者にとっては、きわめて好都合で操りやすいメディアだったと言える。しかも、テレビは私たちに、無意識のうちに特定の嗜好や指向性を植えつける道具だったのである。

・その意味で、若者層のテレビ離れの傾向は、好ましいものだと思う。もちろん、それに代わるインターネットというメディアもまた、政治的・経済的に人びとを操作する手段として、テレビ以上に強力で巧妙な力を持っている。けれどもまた、インターネットはテレビとは違って、送り手になり、相互のやりとりをし、グローバルな規模で多様な情報を手に入れることができるという力も持っている。

・おそらく、テレビも新聞も、そして雑誌や書籍も、近い将来にはインターネットという大きなメディアの中に組み込まれる形で生き残ることになるのだと思う。そうなったときに、既存のメディアがどんな位置を占めるのか。そのような認識とそこから生まれる危機感がテレビから見えてこないのは、どうしてなのだろうか。もちろん僕は、そんな現状を憂いたりはしない。テレビはすでに、一日にうちにわずかな時間しか見ないマイナーなメディアになっているのだから。

2013年2月4日月曜日

クリス・アンダーソン『MAKERS』 他

 

makers.jpg・クリス・アンダーソンは『WIRED』の編集長で、「ロングテール」や「クラウドソーシング」といった、インターネットの発展に伴って現れたビジネスの新しい傾向を指摘し続けている人だ。その新刊が『MAKERS』(NHK出版)というタイトルだったから、ちょっと違和感を持った。彼がこれまでに提唱してきたのは、経済の力点がモノそのものの生産(アトム経済)からネットを使った流通(ビット経済)に移っている点で、「メーカーズ」ではそれに逆行するのではという印象を受けたからだ。

・読んでみて、そういった違和感は解消されたが、これまでの本で経験した、それこそ読んで目から鱗といった読後感は持たなかった。この本の主役は3Dのプリンターで、話の多くは、まだ現実には顕著に現れていない、将来の可能性のように思ったからだ。

longtail.jpg ・『ロングテール』(ハヤカワ新書)はアマゾンや楽天などのネット販売が、特定の品物を大量に売るだけでなく、多種多様なモノを少量売る役割を果たしている点に注目したものだ。実際、Amazonを知ってから、本屋を探してもなかなか見つからない書籍や、取り寄せに長い時間がかかる洋書などを簡単に見つけて、すぐに手に入れることができるようになった。大型のホームセンターに行っても見つからない品物や部品がアマゾンではすぐに見つけることができるから、僕は必要なものの多くをアマゾンで購入するようになった。

・このことは売る側にも言えることで、アマゾンや楽天に出店すれば、日本全国から注文が飛び込んでくる。そしてアマゾンに出店するのもきわめて簡単だ。あるいはYahooなどのオークションを使えば、不要になったモノを売ることもできる。ネットは個人間の取引に大きな市場を提供することができたのである。

free.jpg ・ネットはまた、「フリー」(自由で無料)なものを多く提供するようになった。「フリー」は60年代の対抗文化から生まれ、パソコンやネットを生んだ流れに引き継がれた原理でもある。作りだしたもの、考え出したものを商品化せず、シェア(共有)や交換、そして贈与といったやり方で流通させるといったやり方で、この原理は、実際にパソコンで使うソフトの多くが、誰もが無料で手に入れることができることのなかに生きている。

・インターネットは世界中を一つにしたから、必要な人材やアイデア、あるいは労力を世界中から募ることができる。「クラウドソーシング」は「群衆(crowd)」と「業務委託(sourcing)」を一緒にした造語だが、ネットが可能にした全く新しい仕事や雇用の形態にもなっている。ここにももちろん、自発的な参加や協力と報酬や対価を求めないという原理が生きている。

・アンダーソンが『MAKERS』で指摘しているのは、資本や大がかりな機会や専門的な知識や技術がなくてもモノ作りができて、それをビジネスにすることもできるという指摘だ。それを可能にするのがネットであるのはもちろんだが、パソコンでデザインしたものを形あるものにしてくれる3Dのプリンターや3Dのスキャナー、レーザー・カッター、そして木や金属の塊から思い通りのものを切り出すコンピュータ制御の工作機械(CNC)などである。

・パソコンでする木工や陶芸、彫刻をイメージしたらいいのかもしれない、アイデアと創造力があれば技術は必要ないし、良くできたものには商品価値が生まれるから、モノ作りの分野でのロングテールやクラウドソーシングの伸張につながることは容易に想像がつく。けれども、それらをビジネスとして成り立たせる世界は一人勝ちだから、グーグルやアマゾンがますます巨大になるだけだという一面は指摘しておかなければならない。それに、土や木や金属から何かを作り出すのは、それ自体が戯れとして楽しい行為なのだから、そこをパスして何がおもしろいの、と思う気持ちも残ってしまう。