2014年3月17日月曜日

エイモリー・ロビンス『新しい火の創造』ほか

エイモリー・ロビンス『新しい火の創造』ダイヤモンド社
『ソフト・エネルギー・パス』時事通信社

robins2.jpg・エイモリー・ロビンスの『新しい火の創造』は、都知事選で細川候補を支援して連日街頭に立って脱原発を訴えた小泉元首相のタネ本だと言われている。確かにこの本の帯には、「衝撃の小泉発言、原発ゼロの実現へ”根拠”はここにあった」と書いてある。しかし、エイモリー・ロビンスは最近脚光浴びた人ではなく、すでに35年も前に、ハードではなくソフトなエネルギーの開発と普及を主張した『ソフト・エネルギー・パス』を出していて、この領域ではリーダー的存在の一人である。なぜ今注目されるのか。この2冊の間にどんな違いがあるのか。そこに興味を持って読み比べてみた。

・『新しい火の創造』の原題は"Reinventing Fire"だから、直訳すると「再発明される火」だが、辞書を調べると、Reinventing には(すでに発明されていることに気づかずに)という意味があると書いてある。これについての訳者の説明はないが、この題名をつけた狙いは、まさにここにあるのではないかと思った。つまり、現代社会は火や電気、そしてエネルギーの原料として石炭や石油、天然ガス、そしてウランを使うことを基本にしているが、それらはすべて、太陽と地球の地殻活動によってできたものである。その数十億年をかけて蓄積されたものを、人間はわずか200年ほどの間に使い尽くしてしまおうとしている。だから、いずれなくなることがわかっているもの、環境を汚染し続けているものに頼らずに、忘れていた太陽や地殻活動を利用した火やエネルギーに戻ろうという提案が本書の内容だと言っていい。

・『新しい火の創造』は「燃料の非化石化」をはじめにして、「運輸」「建物」「工業」「電力」の章を設けて、すでに達成された技術開発と実用化された分野、これから普及していく領域について詳細な分析をしている。ただし、本書が力説するのは、その科学的、倫理的な根拠ではなく、ビジネスとしての可能性にあって、それはすでに動き出しているという主張にある。小泉元首相の意識を大きく変えたのもまさにこの点で、選挙期間中も細川・小泉は口を揃えて、脱原発は「イデオロギー」の問題ではないことを訴えていた。

robins1.jpg・ロビンス(ズ)が35年前に書いた『ソフト・エネルギー・パス』は原油が値上がりして「オイルショック」と呼ばれた状況のなかで出版されている。「スモール・イズ・ビューティフル」(シューマッハー)といったスローガンが社会変革を訴える人びとから発せられたが、ロビンズはその考えに好意的ではあるものの、あくまで「イデオロギー」や「価値観」からは距離を置いて分析するというスタンスを貫いている。ただし、この本で主張されていることは、今でも説得力がある。と言うよりは、35年間も放置されてきて、抜き差しならない状況になってしまっていることを改めて実感させられる内容になっている。

・たとえば「個人的メモ」として列挙された問題点には、「あまりに大量のエネルギーをあまりに早く消費する危険性」「自然のシステムに関する無知」「経済的合理性と経済的コストの誤り」「核分裂技術のやっかいさと危険性」「最小のエネルギーで上手に社会目標を達成する可能性」などがあって、その後の章で、各問題点が詳細に分析されている。日本語版への序文には「人口過密でかつ政治的には移り気な地震地帯に、恐るべき事故と注意深いもしくは不注意な原子爆弾の拡散を招く可能性の高い許されざる技術」が本格的に導入されはじめていることについて警鐘を鳴らす記述がある。

・日本の原発の多くは、この本が出版された後に建設され稼動したものである。日本に限らないが、この時期にロビンスの提案に賛同して、ソフト・エネルギーの開発と普及に努めていたらと考えると、この本の重みに今さらながら、溜息をついてしまう。まさに後悔先に立たずだが、現在でも、ロビンスの提案は、地球や人間の未来を考えてといったものではなく、あくまで経済性とビジネスとしての可能性として評価されている。そういう展望が開けてやっと動き出したことを嘆くべきか、あるいは喜ぶべきか。

・もっとも日本では、原発事故の当事国であるにもかかわらず、依然として原発を基盤電源に据えようとしている。電力会社を倒産させないためであれ、原爆を開発できる余地を残しておくためであれ、既得権益にしがみついてビジネスとしての可能性すら軽視する姿勢には、未来への展望がまったくない。

2014年3月10日月曜日

大雪騒動で考えたこと

 

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・2月14日から15日にかけて河口湖に降った雪は、確かにすさまじかった。おかげで1週間以上、毎日雪かきをしなければならなかった。それはもう、うんざりするほどの苦役だったが、自然のいたずらには文句の言いようもない。けれども、けっして八つ当たりではなく、呆れることや腹の立つことがいくつもあった。

・短時間で猛烈な雪が降ったから、道路で立ち往生したクルマがずいぶんあった。閉じ込められた上に停電して凍える目にあった人も多かったようだ。大人数が宿泊したホテルでは、自衛隊に救出されたところもあった。全くの想定外といえばそうなのだが、県や町、そして国がどう動いているのか、さっぱりわからなかった。

・新聞は来ないし、テレビはオリンピックやバラエティ番組ばかりをやっていて、ニュースでは目立った状況ばかりをくりかえし伝えていた。県や町のホームページを見ても、大雪についての情報は何も載っていない。時折聞こえてくる地域の防災放送は、主要道路の除雪から順次進めていることを何日もくり返し言い、ご理解とご協力をということばで締めくくった。これにはもう、腹が立つというより、情けない気になってしまった。

・一番役に立ったのはネットだった、グーグルで検索すると、近隣の道路状況などについて個人的に発信する人のブログや、自治体の公式のツイッターやフェイスブックがいくつも出てきた。しかし、富士河口湖町のホームページにある災害情報関連のページは何日も更新されないままであったし、フェイスブックはあっても休業状態で、ツイッターはなかった。対照的なのは北隣の笛吹市で、市の公式ツイッターで道路の除雪状況や孤立地域についての情報を集め、発信していた。東隣の富士吉田市にも公式ツイッターがあったが、これが発信しはじめたのは4 、5日経ってからだった。

・富士吉田市や富士河口湖町は富士山の噴火や東海地震の危険性に対応して、災害時の対応について備えをしていると思ったが、今回の大雪で、まったく何もできていないことが露呈された。孤立状態が続いて3日ほど経ってから、僕は毎日、町の土木課に除雪はどうなっているのか電話をした。担当している地区の土建業者にお願いしているといった返事をくり返すから腹が立って、お願いではなく早く取りかかるよう命令すべきだということ、電話でではなく、実際にどういう状況なのか直接出向いて確認すべきだということを言った。

・そんなやりとりを毎日くり返して、7日目にやっと除雪が行われた。やってきたのは別地域の土建業者だった。近隣の人たちと相談して、みんなで町に電話をするようにしたからの結果で、黙っていたら何日孤立したままにされたかわかったものではなかったと思う。しかもその間、町からは食料や健康状態について聞いてくる電話が一本もなかった。住民がどういう状態にあるかを把握する体制がまるでできていなかったのである。

・ネットでは長野県佐久市市長のツイッターが話題になった。これは以前から市民からの意見や情報を集め、市民に市長の声を発信するメディアとして使われてきたもので、大雪についても大きな情報源になったようだ。このネットの利用状況が、今回の大雪による災害についての情報の有無を左右したことは間違いない。言うまでもないがツイッターやフェイスブックの利用には一銭のお金もかからないのである。山梨県は災害時に市町村との間をネットでつなぐ「防災システム」を1000万円かけて備えていたようだ。ところが今回の大雪ではまったく使われなかったと言う。箱物だけでなく、ソフトについても、役に立たないものに無駄遣いをする傾向が露呈された。

・今回の大雪災害で得た教訓は、いざというときに、国も県も町も当てにならないということ、マスコミも新聞はもとより、テレビもラジオもだめだということ、それとは対照的にネットはずいぶん役に立って頼りになるということだった。ただし、停電になればこれも使えないから、スマートフォンのバッテリーを余分に買って、いつでも充電しておくとか、発電機を買うとか自前での備えをしなければならない。道路の雪かきだって町をあてにはできないから、除雪機も用意する必要があるのかもしれない。

・国税や地方税をたくさんふんだくられているのに、結局は、自分の命や生活は自分で守らなければならない。今回の経験で得た教訓は何よりこの一点だった。そう考えたときに、やっておくべきことや日頃の気構えにはとんでもなく多くの課題がある。3.11から3年目にして僕はそんなことを改めて自覚したが、それだけに世の中の脳天気さには呆れるというよりは、ぞっとしてしまう。

2014年3月3日月曜日

『竹内成明先生追想集』

 

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・昨年、竹内さんが亡くなった直後に偲ぶ会を開いた。そこで、追想集のようなものを作ろうという意見が出て、夏休み明けから取りかかりはじめた。竹内さんは同志社大学に勤めていて、そのゼミの卒業生を中心に、友人や知人に呼びかけたが、最終的には50人ほどが、彼に対する思いや思い出を綴ってくれた。

・僕は、その集まった原稿を1冊の本にする役目を任された。AdobeのInDesignを使ってページをレイアウトするのだが、これまで、ニューズレターや卒論集などは作ったが、書籍となると初めてで、これまで以上に慎重に作業をしなければならなかった。原稿の締め切りは9月末ということになっていた。すぐに送ってくれた人もいたが、何度も催促してやっとという人もいて、最後の原稿は年が変わってからやってきた。原稿がパラパラとくるたびに、ページのレイアウトを変えねばならず、面倒な作業が続いたが、1月末には出来上がって、後は印刷と製本ということになった。

・おつきあいのある出版社の編集者に相談して、表紙や本文の紙質などのアドバイスを受け、ネットで探した「お手軽出版ドットコム」に頼むことにした。ちょっと不安な気持ちはあったが、メールでの対応が丁寧で、PDFにした版下を送った後でも、細かな修正にも応じてもらった。で、一ヶ月ほど経って出来上がった本が届いた。折からの大雪で、配達が1週間ほど遅れたから、届くのが待ち遠しかった。小包を開けて手にした感想は、「へー、まるで本じゃん」というものだった。

・マッキントッシュが日本で発売されはじめたときのうたい文句は「DTP(デスクトップ・パブリッシング」で、パソコンを使って本や雑誌、あるいは新聞などの印刷物が自前でできるというものだった。これはもちろん、印刷から製本までを自分でやることを前提にしていて、ミニコミを学生の頃から作っていた僕は、その魅力にとりつかれて飛びついた。パソコン本体とソフト、それにプリンターやスキャナーなどをあわせると150万円を超える出費だった。今から25年以上前の話である。以後、パソコンでやる作業の大半は、原稿を書くのも、ニューズレターや卒論集を作るのも、はじめはPageMaker、そしてInDesignでやっている。

・追想集は四六版で160ページで300部を印刷して、費用はおよそ25万円だった。この値段で本ができるのなら安いものである。書店に置くためには東販や日販を通さねばならないし、営業をしてもらったり、在庫の保管もしてもらわなければならないから、さらに費用が必要になる。しかし、100部程度を作って自分で捌くのなら、本は10万円台でも出すことができる。便利な時代になったものだと思った。

・ところで肝心の内容だが、集まった原稿の多くが竹内さんとの出会いや’つきあいを、それぞれに思いを込めて綴っていて、竹内さんの人となりがよくわかる読みごたえのあるもになったと思っている。追想集は3月22日に開かれる1周忌の集まりで配布されることになっているが、入手を希望する人のために、郵送なども考えている。

2014年2月24日月曜日

熊野古道を歩く


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kumano1.jpg ・熊野古道を歩きたいと思ったのは、歴史的な関心からではない。山歩きをしていて、次はどこにしようかと考えたときに、ふと思いついただけのことだった。だから、下調べもパートナーに任せて、僕はほとんど予備知識なしに歩いた。

・熊野古道とは京都から熊野本宮大社、熊野速玉大社、那智大社の熊野三山に至る道のことで、大阪湾を南下して紀伊田辺から山道に入るコース、伊勢を経由して熊野灘を南下するコース、そして吉野山から山道をたどるコースなどがある。僕は中辺路と呼ばれる紀伊田辺から入って熊野本宮大社までのコースを歩いた。3泊4日でおよそ40kmの山道を歩く行程である。出発は紀伊田辺から朝来街道をバスで30分ほど行った滝尻王子である。

kodo-map.gif ・初日は未明に家を出て、歩き始めたのは午後から3時間弱だったが、いきなりの急登はきつかった。4kmほどの道を350m登って200m降ったのだが、2日目は13km弱で800m登って600m降り、3日目は20kmを800m登って1200m降るというコースだった。トレッキング・コースとしてはおもしろい。途中、〜王子という名の場所に石像などがあって古道らしいと言えば言えるのだが、歩きながらいくつかの疑問も持った。

kumano2.jpg・熊野古道は平安の昔から京都の王侯貴族たちがはるばる熊野三山を訪ねて歩いた道である。その道がなぜ、これほどに登り降りが激しいのか。牛や馬にまたがってということも多かったようだが、それならばなおさら、こんな道を行くのは難しいのではと思った。川沿いのコースを辿ればもっと楽だったはずである。いろいろ調べると、道路を作るためにコースを移したところが多いようだ。右の写真の牛馬童子像も、もともとここにあったのだろうか。牛や馬の背に乗って登れる道ではないのだが。

kumano3.jpg・熊野古道を歩くと霊気を感じたりするという話にも違和感を持った。山は杉やヒノキの植林で、薄暗くて間伐した木が放置されて、荒れ放題だったからだ。これはおそらく第二次大戦後に植林されたもので、その前にはブナやナラ、あるいは常緑の広葉樹が茂る森だったはずで、たとえば右の写真のような木が、もっとたくさんあったのだろうと思う。これならば、我が家の周辺の山の方がずっと植生が豊かで、森が醸し出す霊気を感じることができると思った。

・数年前の台風で、南紀一帯は土石流や洪水などで大きな被害を受けた。その傷跡がいまだにあちこちで残っていた。下左の写真のように、山が大きく崩れているところも何カ所かあった。杉ではなく広葉樹だったら崩れなかったのかもしれないと思った。下右は土砂崩れのために迂回路として作られた道。

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kumano6.jpg・ゴールの熊野本宮大社はもともとは熊野川と音無川が合流する近くの中州(大斎原=おおゆのはら)にあった。それが明治22年の水害で流されて、現在の位置に移された。中州に本宮というのは今から考えれば流されて当たり前だが、1000年以上もそこにあったのだから、原因はやっぱり、明治以降の急激な山林の伐採ということになるだろう。右の写真は現在の熊野本宮大社の上にある見晴台から見た鳥居だけが残る大斎原と熊野川を映したものである。

・大雪の予報が出て、那智大社を諦めて、新宮の速玉大社に寄って慌てて帰宅した。ここも熊野川の河口近くに建てられていた。とは言え、もともとは近くの神倉山のゴトビキ岩をご神体として山の中腹にあったものを下に移して新宮としたようだ。この巨岩(一番上の画像)はなかなかのもので、下から源頼朝が寄進したという急勾配の538段の石段を登った先にあった。真下に熊野灘を望む位置にあって、ゴトビキ岩に近づいてはじめて熊野らしさを味わった。

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2014年2月17日月曜日

どか雪2連発

 

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・今年は雪の少ない冬だと思っていたら、2月7日に大雪が降った。会議で出校する予定の日だったが、午前中には中央高速が通行止めになって欠席届を出して、何度か雪かきをした。我が家の周りでは70cm以上も積もって、次の日曜日にもう一回、雪かきをしなければならなかった。ブルドーザーが来て道もきれいになった。これで一安心。実は月曜日から熊野古道を歩く予定があって、道の除雪をしてもらわないと、出かけられなくなってしまうからだった。

・月曜日の未明に家を出ると、道路のあちこちに雪が残っていて、寝ぼけ眼もすぐに目が覚めるほど緊張した。熊野古道歩きについては次回のコラムに書くつもりだが、宿のテレビで天気予報を見て、予定を一日切りあげて帰宅することにした。雪が降り始める前に帰らないと、たどり着けない危険性があると思ったからだ。途中で食料などを買って、降り始める前に帰宅できた。やれやれ……。

・雪は未明から降り始め、一日中降りつづけた。当然、雪かきをやったのだが、プラスチックのシャベルが割れていて、それを補修するところからはじめなければならなかった。昨日ホームセンターによったのだが、当然売り切れてしまっていた。ボール紙とガムテープで補修したシャベルで何とか1日目は終わったが、翌朝起きると、雪は2mほどにも達していて、もうどうしようもないなと、半分はあきらめになった。けれども、何とかしなければ、冬ごもりのようになってしまう。


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・頼りないシャベルを使って少しずつ道をつけてもなかなか進まない。朝から始めて夕方までやって、家の周りだけは通れるようにして、町道までの道は翌日に1日がかりでやった。この9日間で2日の雪かき、3日の熊野古道歩き(40km)、そして3日の雪かきと体を酷使しまくっている。当然だが、ここにはクルマと新幹線、在来線と乗り継いでの往復18時間の移動もあった。そしてまだ、雪かきは終わっていない。

・観測史上最高の大雪は山梨県に限っても、多くの被害を出している。近くで凍死した人もいたし、孤立してヘリで物資を運んでいる集落もあるようだ。あちこちで雪崩も起きている。高速道路も閉鎖したままだし、国道や県道も通行止めになったままのところがいくつもあるらしい。しかし、折からのソチ五輪で、テレビは大雪被害のニュースは小さくしか扱っていない。メダル競争にうつつを抜かしたり、バラエティ番組でふざけたことやっている状況ではないだろうと思うが、都知事選での原発隠し、というよりは選挙自体の矮小化など、テレビのだめさ加減をますます裏づけることが続いた。

・公共放送を自負するNHKは、五輪はBS放送だけにして、地上波は大雪被害の特番を組むべきで、それをしないのは、失言続きの上に、さらに大失態を重ねて、しかも自覚がないとしか言いようがない。雪かきにうんざりし、災害の状況に驚いている立場からは、東電の破産と併せてNHKも解体させてしまえということばを吐き捨てたくなってしまった。 安倍首相は日曜日は一日休養して、夜は天ぷらを食べに出かけたという。またアンダー・コントロールなどとほざくのだろうか。

P.S.孤立7日目に除雪車がやっと来た。50mを1時間。家の前から見物しながらビデオを撮った。→YouTube

2014年2月10日月曜日

都知事選が終わって

・この2週間ほどネットを通じて主に細川候補の追っかけをした。ネットを通した選挙活動がこれほどおもしろいとは思わなかった。細川候補の街頭演説には小泉元首相が帯同して、どこに行っても大勢の人が集まった。そこでの反応は他候補を圧倒するものだったが、メディアによる世論調査は、いつまでたっても桝添候補の有利で変わらなかった。

・この違いは第一にマスメディアの取り上げ方にあった。直接演説会場に行かなければ、ネットでアクセスしなければ、都知事選が行われていることにほとんど気づかない。しかしネットで追っかけはじめれば、演説だけではなく、さまざまな情報が飛び込んでくる。中でもにぎやかだったのは脱原発を訴える候補の一本化だった。

・前回宇都宮候補を支援した人の中には、惨敗をした人をもう一回立てても勝てるわけがないと細川支持を表明した人もいる。他方で、今回も宇都宮支持をする人もいる。この股裂き状態を改めて一本化する動きもあって、何度も試みられたが、うまくいかなかった。お互いの間に誹謗中傷合戦めいたものもあって、大きなうねりにはならなかった。

masuzoe.jpg・相手が公私にわたって問題の多い桝添だった。その桝添候補については「舛添要一を都知事にしたくない女たちの会」が終盤になって落選運動をはじめたりもした。その会が作ったポスターには桝添がこれまでに発言したこと、議員や大臣として行ったことが列挙されていて、僕はこのポスターを紹介しながら「男だって知事にはしたくない」とツイートした。ネットがすごいのは、そのポスターに載っている発言がYouTubeやグーグルで見つけたブログですぐに確認できることである。街頭演説で笑顔を振りまき、福祉や介護や託児所を充実させると言っても、それが口から出任せであることはすぐわかる。

・僕は都民ではないから投票権はない。だから都が抱えている問題について、各候補者が何を言っているかについてはあまり関心がなかった。しかし、原発の再稼働の準備を進める安倍政権に対してブレーキをかける役割として、小泉元総理の脱原発宣言と細川元総理の都知事出馬宣言には、一筋の光明を見つけた思いがした。二人の元総理が立ち上がれば、原子力村を大きく揺さぶることができる。選挙を追っかけた理由は何よりそこにあった。

・結果は桝添候補の勝利だったが、政治の流れが変わりはじめるきっかけはできたのではないかと思う。最終日の新宿東口での最後の演説で、細川候補と小泉元首相は、選挙で感じた力を受けて、これからも脱原発の運動を続けると宣言した。ネットが解禁されて選挙がおもしろくなった。街頭演説会にも大勢の人が集まった。それが結果に結びつかないのは、組織票の強さ以外の何物でもない。投票率の低さはマスメディアの選挙隠しが原因だろう。もちろん、20年ぶりという大雪のせいもある。

・結果から見れば、ネットの力はまだまだだと言えるかもしれない。しかし、回を重ねれば、ネット選挙の力が増して、従来の選挙のやり方が通用しなくなる日が来るかもしれない。国政選挙までの地方選挙で、「脱原発」を争点にくり返し戦って欲しいものである。

2014年2月3日月曜日

NHKはAHK


ahk.jpg・NHKがおかしいのは今に始まったことではない。けれども、最近のNHKはおかしいどころではない。中立公正なんてとんでもない。あれはNHKではなくてAHK(安倍放送協会)だ。こんな声をネットで聞いたが、本当にその通りだと思った。このことを書こうと思ったのは、昨年暮れの「秘密保護法」成立についての国会中継の仕方や、安倍総理が靖国参拝をして、それを報じたNHKのニュースに呆れたからだった。安倍をアップで長い時間写し、その後、数名の人から意見を聞いたのだが、そのほとんどは自民党議員だった。その余りの露骨さに、いい加減にしろと言いたくなった、

・だからNHKのニュースは見ないことにしたのだが、NHKがひどいという話は年が変わってからも、いろいろ聞こえてきた。アベノミクス効果で景気が上向いていることをトップで連日放送しているとか、海外からの安倍批判をまったく取り上げないとか等々……。

・NHKは都知事選が始まっても、あまり取り上げないようだが、ピーター・バラカンがインターFMで、複数の放送局から都知事選が終わるまで原発の話題には触れないよう言われたと明かした。彼はNHKFMでレギュラー番組をやっている。同様の話は、朝のラジオに出演予定だった東洋大学の中北徹が、脱原発論を話そうと思っていたのに変えてくれと言われたといって出演をやめたというニュースになって続いている。

・極めつけは、NHKの新しい会長になった籾井勝人が就任時の会見だ。彼は従軍慰安婦はどこの国にもいたという、橋下大阪市長と同じ失言をして、大きな話題になっている。あるいは「政府が右と言うことを左というわけにはいかない」といったとんでも発言もしている。権力から距離を置いて批判をするというジャーナリズムの基本を否定しているのだが、NHKはすでにずいぶん前から、政府の広報機関になってしまっている。新会長の発言は、そのことを公言しただけのことなのである。

・NHKはAHK。国営放送でないのはもちろんだが、公共放送でもない。安倍晋三の私的放送局だ。何でそんなところに、毎月高額な受信料を払わなければならないのか。拒否の声があがってもおかしくない状況だと思う。しかし、世の中の動静について、テレビだけに頼る人は少なくないから、払わないわけにはいかないと考えている人も多いのかもしれない。あるいは、こんな事態であることに気づいていない人、無頓着な人が、まだまだ多いのだろうか。

・安倍首相はNHK会長の失言について国会で追及されて「NHKの皆さんはいかなる政治的圧力にも屈することなく、中立、公平な報道を続けてほしい」と答弁した。圧力をかけている張本人が、こんな台詞を吐くのはブラック・ユーモアだが、笑い飛ばしてすますわけにはいかない問題である。

・都知事選が始まって、連日、細川=小泉の選挙運動の中継をネットで追い続けている。立川や吉祥寺、府中や調布といった郊外の駅前に毎回、数千人の人が集まっている。新聞社が行っている世論調査では桝添候補がリードしているようだが、演説への反応を見ている限りは、細川候補が圧倒的であるように感じる。テレビからは都知事選についてのニュースがあまり流れていない。話題にして選挙が盛り上がらないようにする意図がありありのようだ。

・だから、こんな盛り上がりも、ごく一部に限られるのかもしれない。しかしもし、細川候補が勝ったとしたら、それは脱原発だけでなく、脱マスメディアの流れの本格化にもなるだろう。原子力村とマスコミ村が同じ体質で同じ目的を持った政治圧力であることが露呈されるに違いない。