2014年9月15日月曜日

今度はテニスで大はしゃぎ

・全米オープンテニス大会で錦織選手が決勝戦まで勝ち残った。ベスト8ぐらいまではほとんどニュースにもならなかったのに、ランキング上位の選手を2戦続けてフルセットの末に破ると、突然メデイアが大きく報じはじめた。で決勝戦はということになったのだが、衛星放送のWowowが独占中継していて既存の地上波はどこも中継しないことがわかった。Wowowには対応できないほどの申し込みが殺到したようだ。

・当然のごとく、日本人選手が海外で活躍するたびに現れる「ニッポン」「日本人」が連呼された。一番目立ったのは錦織選手が小学生の時にコーチしたという松岡修造である。まるで自分の愛弟子であるかのような入れ込みぶりは、彼の日頃のハイテンションを考慮してもうんざりするばかりだった。実際、錦織選手は中学生からアメリカに留学して、日本とは関係ないところで強くなったのである。おそらく彼には、日本人だとかアジア人だと言った意識はそれほど多くはないのだろうと思う。

・そんなメディアのはしゃぎぶりに負けなかったのは、彼が契約しているスポンサー企業と、そこに注目する株式市場の動向だった。準決勝に勝った後、ユニクロや日清食品、アディダスなどの株価が高騰したが、決勝で負けると逆に急落したようだ。彼が試合に着ているユニクロのテニスウエアーも完売したようで、ユニクロは1億円のボーナスを出すようだし、彼が所属するカップヌードルの日清食品も5000万円のボーナスをだすと発表した。今回の活躍が経済に与える効果は300億円だと試算するところもあった。

・テニスそのもののおもしろさはそっちのけにして「プチナショナリズム」と「お金」の話で大はしゃぎする。それは7月のサッカー・ワールドカップでうんざりしたばかりだったし、メジャーリーグのヤンキースと高額年俸で契約し、期待にたがわぬ活躍をした田中将大投手に対する声援にも「いい加減にしろ」と言ったばかりだったから、今回の大騒ぎには、またかという呆れと、もう救いようのない「空気」を感じてしまった。

・僕は野球はもちろん、サッカーにもテニスにも興味がある。そして、海外に出て活躍した選手がほとんど例外なく、日本のメディアや日本人が「プチナショナリズム」や経済効果を理由に「がんばれ」と声援する風潮に批判的だったことに、関心と共感と同情を寄せてきた。それは野茂や中田の時代からくり返されてきていることだが、にもかかわらず、反省して改めるといった「空気」はまるでない。この内向き志向は、一度日本という社会(世間)から出て、外から見つめないとわからないのかもしれない。

・ニューヨーク・タイムズが錦織の決勝戦を前にして、「日本人離れした特質」が快挙に繋がったという記事を掲載した。日本人には過度に協調性を重んじる傾向があって、それはスポーツにも及んでいるが、中学生からアメリカで生活している錦織には、そんな傾向を気にする思考方法がなく、個性を大事にするところがある。そんな内容だった。ガラパゴス島に生きる人にはわからないが、外からこの島を見る人からはその特徴がよく見えている。この記事には、そんな印象を強く持った。

・もう一つ、全米オープンについてネットで検索していて、同時に車椅子テニス部門があることと、そこで男女とも日本人選手が優勝したことを知った。国枝慎吾選手は今回で5回目、上地結衣選手ははじめての優勝で、二人ともダブルスでも優勝している。あるいは伊達公子も女子ダブルスで準決勝まで勝ち進んだのだが、錦織選手の陰に隠れて、ほとんど話題にされなかった。どちらも快挙なのに、こちらには目もくれない現金さ。嫌な「空気」だな、と今さらながらに思う。

2014年9月8日月曜日

ヤング、クラプトン、そしてブラウン

Neil Young "A Letter Home"
Eric Clapton "The Breeze (An Appreciation Of JJ Cale)"
"Looking Into You, A Tribute to Jackson Browne"

・ニール・ヤングのCDは復刻版や古いコンサートの掘り起こしだけでなく、新作も出され続けている。mpg3の音質の悪さに文句をつけたりと、音楽活動には積極的だが、最近、長年連れ添ったペギー・ヤングと離婚したというニュースも耳にした。彼女はヤングのバック・コーラスをつとめてきたし、障害児の学校「ブリッジ・スクール」を設立して、その運営資金集めに夫婦そろって活動してきていた。だから、これからどうなるのか、ちょっと心配になってしまった。

aletterhome.jpg・その彼が今年出した"A Letter Home"は全曲がカバー曲で、ボブ・ディラン「北国の少女」、ブルース・スプリングスティーン「マイ・ホームタウン」、フィル・オークス「チェンジズ」、ウィリー・ネルソン「クレイジー」「オン・ザ・ロード・アゲイン」、ゴードン・ライトフット「朝の雨」、バート・ヤンシュ「死の針」など、フォークやカントリーの古典とも呼べる歌が収録されている。
・音質にこだわるヤングがこのアルバムで試みているのは、ギターとハモニカだけで、スタジオというよりは普通の部屋でマイク一本で録音したものをデジタル化せずにレコードにするということらしい。もちろん僕はそれをCDで聴いているのだが、確かに何も足さないし引きもしない音で、目の前でマイクも使わずに唄っているような気になった。彼にはクレイジーホースを率いて大音響を響かせる一面もあるが、僕はやっぱり、一人だけでギターをつま弾きながら唄うヤングが好きだ。

thebreeze.jpg ・エリック・クラプトンの"The Breeze"は昨年なくなったJ.J.ケイルの追悼アルバムで、彼の他にマーク・ノップラー、ウィリー・ネルソン、トム・ペティ、ジョン・メイヤーなどが参加している。全曲ケイルの作品だが、ネットで調べると、カバーというよりはオリジナルを忠実に再現するようにというクラプトンの注文があったようだ。ちなみにアルバムに描かれたケイルの肖像画はクラプトンのアルバムジャケット(「ピルグリム」)を手がけた漫画家の貞本義行の作である。
・J.J.ケイルは地味なミュージシャンだが、彼の曲は多くの人にカバーされていて、クラプトンも「アフター・ミッドナイト」や「コケイン」をヒットさせている。で、二人で作ったアルバム"The Road to Escondido"もある。タイトルにあるエスコンディドはサンディエゴ近くのケイルの家の地名で、クラプトン自身もここにマンションを所有していたことがあったようだ。2008年に出されたこのアルバムは、その年のグラミーでブルースアルバム賞をもらっている。

lookingintoyou.jpg ・もう一枚はジャクソン・ブラウンの曲を集めたトリビュートで、J.D.サウザーやドン・ヘンリーといった近しい人の他にスプリングスティーンなども参加している。CD2枚組で23曲が収録され、どれもがおなじみの曲だが、ブラウン自身が歌うものより印象が薄いと感じてしまった。ディランほどにはあくが強くないのに、やっぱり彼の作品は彼の声や歌い方でなければだめなのかもしれない。もっとも、ニール・ヤングは前記したアルバムはもちろん、他の人の歌でも自分の世界にしてしまう。その好例は9.11直後にテレビで唄ったジョン・レノンの「イマジン」だった。
・最近では、まだ現役で活動している人のトリビュートも珍しくなくなった。影響を受けた人、親交のある人の作品をカバーする、カバーしあうことが流行っているのかもしれない。それだけ、歳とったミュージシャンが増えたということだろうか。

2014年9月1日月曜日

アーサー・ミラー


『るつぼ』「セールスマンの死」 (ハヤカワ演劇文庫)

theoldvic.jpg・旅の終わりはロンドンでの芝居見物だった。同僚の本橋哲也さんに誘われたのが理由だが、英語の芝居など聞いてもわからないだろうからと、あらかじめ原作(脚本)を読んでおいた。出し物は、アメリカの初期移民時代に実際に起きた魔女狩りをテーマにしたアーサー・ミラーの『るつぼ』(the crucible)である。長い旅の終わりで疲れていて、途中で居眠りしてしまうのではないかと心配したが、一段高い舞台ではなく、客席を囲むようにできた空間で繰り広げられる物語は、迫力があって引き込まれた。劇場はテムズ川の南岸、ウォータールー駅近くの「The Old Vic」である。

miller1.jpg・話は村の娘達が森で踊っているのを牧師に見られたことから始まる。その教区では踊ることが禁じられていたし、しかも娘のなかには半裸で踊る者もいた。その一人の牧師の娘が失神して倒れたから、ことは大げさなものになった。娘達の掟破りの遊びではなく魔女の仕業ということになって、魔女狩りに進展してしまったのである。

・妻のある男と不倫の関係にあった娘達のリーダーが、その妻を魔女だと言いふらした。他にも疑われる女が続出するのだが、その名指しの裏には、村の人間関係のなかで生じた金銭や土地、あるいは家畜を巡るトラブルや、妬みや嫉妬があって、村は大混乱に陥った。牧師や判事、そして副知事などが介入して、大がかりな裁判が行われ、大勢の人が死刑になった。魔女ではなく魔女に操られたと告白すれば許されたのだが、処刑された人たちは、嘘をつくことをためらい、拒絶した。熱心で善良なキリスト教信者であればこその行動だった。

・『るつぼ』は1950年代に発表されている。当時のアメリカはマッカーシー上院議員に扇動された「赤狩り」で、多くの著名人が疑われ、投獄されていて、著者のミラーもまた疑われた。この作品は、そのような出来事を批判するものとして読まれたが、このような事態はいつでもどこでもくり返して起きたことだから、昔どこかで起きた特異な出来事などではない。これは、集団内に不満や鬱憤が充満している時に、そのはけ口として発生し、権力者に利用される「スケープ・ゴート」という現象に他ならない。

・僕はこの脚本を読んだ時に、ユダヤ人狩りをしたヒトラーや、9.11直後のブッシュを連想したし、現在の安倍政権にも当てはまると思った。で、その芝居を、怖さに引き込まれるように感じながら間近で見て、その気持ちが薄れる前に、もう一度読み直した。なぜ今、反中や反韓の気運が蔓延し、朝日新聞がことあるごとに批判されるのか。一番の原因は批判される側よりは、批判する側が抱える不満や鬱憤のなかにこそある。そしてその不満や鬱憤の原因事態を探すのではなく、その捌け口を見つけて、そこに感情的にぶつける行為にこそある。

miller2.jpg・アーサー・ミラーにはもう一冊、有名な脚本がある。『セールスマンの死』は、やはり50年代に書かれていて、退職間近に首になったセールスマンの悲哀を描いている。自分の夢や希望が叶わず、また息子達にも期待を裏切られた主人公は、何とかその現実を受け入れようとするがどうしてもできない。妻や息子達があれこれと慰めようとしたにもかかわらず、主人公は自殺をしてしまう。これもまた、現在の日本の状況に当てはまる内容だと思う。

・50年代のアメリカは未曾有の好景気に沸いたアメリカの黄金期と言われる時代だった。しかし、反面、自営の商店主や農場がつぶれて、大きな企業が出現して、多くの人たちがそこに勤めることが当たり前になった時代でもあった。家電やクルマ、郊外の住宅などが爆発的に売れる時代で、セールスマンはそんな状況を象徴する仕事だったが、それゆえにまた、能力主義が幅をきかす世界でもあった。

・二つの芝居はもちろん、日本でも民芸などで上演されたことがある。その時にどのように受け取られたかはわからないが、今この時期にロンドンで上演され、毎日満員になっていることに、日本の文化状況との違いを感じた。日本が置かれた現状や、そこで生きる自分と直接向き合うのではなく、それとは無関係な虚構の世界に紛れ込んで、現実をなかったことにする。それはもちろん、音楽などの傾向にずっと昔から感じ取っていたことだが、そんな思いを一層強くした経験だった。

2014年8月25日月曜日

旅から戻って


forest118-1.jpg

forest118-3.jpg・今回の旅はサンチャゴデコンポステーラがゴールで、ポルトガルのポルトは付録のような感じだったが、スペインとはまた少しちがっていて、来て良かったと思った。スペインのルーゴから乗った列車は国際列車とは名ばかりの古ぼけたディーゼルカーで、スペインの電車との違いに驚いたが、ポルトの街もまた、廃墟が多くて、経済的な沈滞や国そのものの衰退が感じられた。ただし、その分、古いものがそのまま残されていて、かえって味わいのある風景や街の様子を見ることもできた。上にあげたタイル張りの教会などはその好例である。

forest118-2.jpg・観光客がぞろぞろ歩く街並みには洗濯物を一杯干した家が多くて、それを珍しそうにカメラに納めている人も多かったし、店の外で鰯を焼いている光景なども目にした。僕は鰯の唐揚げを食べたが、丸ごと食べられるものでおいしかった。日本では高級魚の餌になっているような小鰯だが、ポルトガルではきわめて日常的なおかずになっている。経済的には豊かでないかもしれないが、けっして貧しくはない生活の一端が見えた気がした。観光政策が発展途上だからこそ見えた風景だろう。

forest118-4.jpg・同様のことはファド体験にも言えた。たまたま見つけたファドをやるレストランでは、客だと思っていた人が代わる代わる唄って、楽しんでいた。半数は観光客だが半数は地元の人で、提供される食べ物も地元の人が食べているものだった。聴いていて思ったのは演歌との類似性で、マンドリンのバック演奏などから、演歌は日本人の心ではなく、ファドを日本化させたものではないかと感じた。日本の演歌を形作ったのはマンドリン奏者の古賀政男だったからである。

forest118-5.jpg・対照的だったのは巡礼の目的地としてにぎやかだったサンチャゴ・デ・コンポステーラだった。大聖堂自体は荘厳で、私語を禁じるような雰囲気だったが、その回りの建物はほとんどが土産物屋かレストラン、あるいはカフェなどで、ぞろぞろと歩く観光客と巡礼者の人波にうんざりしてしまった。驚いたのは大聖堂自体のなかにも土産物屋があったことで、しかも安物ばかりが並んでいる様子にはがっかりするやら興ざめするやらだった。上からつり下げられた大きな香炉(ボタフメイロ)を焚いて教会内で振り回す儀式は、巡礼者の苦労を癒して毎日行われるのかと思ったら、高額な寄進があった時だけだと聞いた。まさに「〜の沙汰も金次第」だと思った。

forest118-6.jpg・旅のおもしろさは歩かなければ味わえない。そのことを追認させてくれたのはNHKがBSで放送している「街歩き」だった。今回も、目的地についてホテルのチェックインを済ませたら、さっそく街に出て、地図を頼りにあちこち歩いてみた。土産物屋ではなく地元の店をのぞき、スーパーマーケットで買い物をする。道ばたで立ち話をしているおじいちゃんやおばあちゃん、おじさんやおばさんに「ハロー」「ボンジュール」「オラー」などと声をかけてみる。そうすると、決まって笑顔が返ってきて、何やら話しかけてくる。そんな経験は、てくてく歩いてみなければ、なかなか出会えない経験だろう。

forest118-7.jpg・車とバスを乗り継いでのもので、ちょうど4週間の長さだった。国の違い、ことばや通貨、そして食べ物の違いはもちろん、都会と田舎、バスクやガリシアといった地域的な特性は、やはりある程度の時間と、ゆっくりしたペースでなければ味わえないことだと感じた。さて、こんな旅がいつまで続けることができるのだろうか。パートナーとの弥次喜多道中で、よく歩き、よく食べ、よく飲み、そしてよく眠ることができた。やっぱり、日頃の山歩きや自転車のおかげだろうと思う。これからも精進しよう、また旅に出かけるために!

2014年8月18日月曜日

ガリシアに来た

 

galicia1.jpg

galicia2.jpg・ビルバオからはバスでサンタンデールへ、ここでバスを乗り換えてサンティヤーナ・デル・マールに。ホテルに着くとすぐに、教科書で見たアルタミラの遺跡まで2kmほどを歩いた。劣化が激しくて今世紀になって入場が禁止され、その代わりに、大きな洞窟が掘られてレプリカが作られた。立派だが、ニセだと思うとありがたみはどうしても失せてしまう。ここでもやっぱり入場者は多い。何しろヴァカンス・シーズンまっただ中で、小さな村も人でごった返している。

・近隣のコミージャスにはカタロニア以外では珍しいガウディ設計の建物がある。レストランとして使われているというので食事を楽しみに出かけたのだが、入場料を取って見物するだけの場所になっていた。コミージャスはカンタブリア海に面していて海水浴場もあり、しかもその日は市が立っていたから、村の道路は大渋滞だった。その村を海岸から山手まで一回り歩いた。

galicia3.jpg・スペインの北岸には狭軌の鉄道が通っている。その電車に乗ってオビエドまで移動した。各駅停車で時間はバスの倍かかるが、景色がいいというので一日がかりの電車の旅を選んだ。山あり川あり海ありのなかなかの光景だったが、乗客はにぎやかで、午前中からワインに酔った若者達が乗ってきた。ろれつの回らないスペイン語でしきりに話しかけてくる。「儀礼的無関心」がまるで通用しない世界に来た。楽しくもあるがちょっと煩わしい。単線の電車は時に30分以上も停車したままで、バスで2時間の距離を遅れて、5時間半もかかってオビエドに着いた。

galicia9.jpg・オビエドは特に見るものや出かけるところがあったわけではない。アストゥリアス州の州都でビルバオ同様、鉱工業で発展した町だ。中心街には新しいビルが林立し、大きなデパートがいくつかあって道路や公園も綺麗に整備されている。たまたま見つけた大聖堂では結婚式があって。大勢の人の祝福を受けていた。

・オビエドからルーゴまでの移動はまたバスで、これも5時間半という長旅だった。どのルートを通るのかわからなかったが、何と100km以上も南下してレオンを経由した。途中岩肌がむき出しになったカンタブリア山脈をぬうように走り、山脈を越えると緑はなくなり、スペインらしい赤い乾燥した大地になった。レオンは予定外の場所だったが、バスは街には入らずに、わずかの停車で、今度は西に向かった。

galicia4.jpggalicia5.jpg


galicia6.jpg・バスが走り出すとすぐに、リュックを背負って道路脇を歩く人が目につくようになった。サンチャゴ・デ・コンポステーラまでを歩く人たちだ。自転車も結構いる。ぞろぞろと言うほどではないが、ゴールまでの300km以上の距離を考えると、今歩いている人は何千ではすまないだろう。フランスやドイツやイタリア、そしてイギリスなどからも歩く人がいるから、今サンチャゴに向かって歩いている人は数万人になるのかもしれない。すごいブームだと思った。
・バスがルーゴに着いてホテルにチェックインした後、すぐに世界遺産の城壁を歩いた。ローマ時代に作られたもので、旧市街をぐるっと囲っていて、その上を歩くことができた。ローマ帝国は占領した土地に城壁や橋や水道など、入念な計算と大がかりな土木工事を必要とするものをたくさん作っている。城壁を歩いてみて、今さらながらにそのすごさを実感した。
galicia7.jpg・翌日はバスで巡礼路のポルトマリンまで出かけた。昨日バスで追い越した人たちはまだここまでは来ていない。ミーニョ川に架かる橋を渡り石の階段を上ると、休憩地のポルトマリンの村なのだが、階段を上るのが何ともきつそうな人もいた。何でこんな苦行を、と思うが、歩いている人たちから宗教性を感じることはほとんどない。どちらかと言えば、長いトレッキングをしているといった様子だ。
・ルーゴに戻るとホテルの近くでバイオリンを弾くストリート・ミュージシャンがいた。「アベマリア」の曲に1€を払った。
・翌日はいよいよサンチャゴ・デ・コンポステーラへ。バスに巡礼者が乗ってきて、少しの間乗るとまた降りていった。足を引きずる人もいて、大変な行程だったことがよくわかった。大聖堂に行くと大勢の人たちでごった返していた。

galicia8.jpggalicia10.jpg

2014年8月11日月曜日

バスクをフランスからスペインへ


trip14-7.jpg
ザビエルの父方の家

trip14-8.jpg・パリからボルドー、そしてバイヨンヌまではTGVでの移動だった。2列の座席は余裕があるのだが、新幹線と違って座席が回転しないから、後ろ向きの座席ばかりになってしまった。僕は前を向きたいから、この座り方は好きではない。ただし、何の音もなく出発し、車内放送もごくかぎられていて、日本のお節介な放送とはずいぶん違って、気持ち良かった。

・TGVは改札がない。ボルドーまでは車内検札もなかったから、切符なしで乗ろうと思えば簡単だ。ただし、見つかれば高額な罰金を払わされる。自己責任の徹底した国で、改札があってしかも車内検札がある日本の鉄道との違いに、いつも感心してしまう。

trip14-9.jpg・ボルドーはワインで有名だが、訪ねたのはワイナリーではなく、ボルドーの歴史を中心にしたアキテーヌ博物館である。ネアンデルタールとクロマニヨンから始まって、ラスコーの壁画、ケルト、ローマ帝国と続き、中世から近代を経て現代まで、見応えのある陳列物で、しかも無料だった。港町だから、大航海時代には活況を呈したようで、奴隷貿易にも積極的に関与したという。それ以前には一時期イギリスの統治下にあったようだ。

・泊まったホテルの近くの通りは観光客でごった返していたが、この博物館の周辺に来る人はほとんどいなかった。何とももったいない。ボルドーの街は衰退から再開発を目ざして、路面電車を復活させたり、「月の港ボルドー」として街全体を世界遺産に登録している。

trip14-10.jpg・次に泊まったバイヨンヌは近くのサン・ジャン・デ・ポーとともに、司馬遼太郎の『南蛮の道』を読んで行きたいと思ったところだ。彼の目的は聖フランシスコ・ザビエルにあったのだが、僕はこの本に出てくる彼が泊まったホテルとパブに興味があった。残念ながらホテルは米国系のホテルに変わり、パブは別の地区に移転していた。何より違うのは寂れた通りが観光客で賑わう繁華街に変わっていたことだった。そしてここでも、観光ルートを一歩外れると、ほとんど人通りのない、寂れた地区になってしまうことだった。

・バイヨンヌではバスク博物館を訪ねた。ボルドーのアキテーヌ博物館が良かったせいで、有料なのにそれほどでもない感じを強く持ってしまった。フランス語だけでなく、せめて英語での説明をもっと丁寧にしてもらえたら、と残念だった。

trip14-11.jpg・サン・ジャン・デ・ポーはバイヨンヌからバスで1時間半ほど南に行ったところにある。ピレネー山脈の麓で、峠を越えればもうスペインである。街全体が丘にあって、城壁がぐるっと街を囲っている。丘の上には当然城がある。サンチャゴ・デ・コンポステーラまでの巡礼の出発地でもあって、リュク姿の人が多かった。僕もほんのちょっとだけ巡礼路をあるいて、巡礼者の気分を味わってみた。

・ここは『南蛮の道』によれば、ザビエルの父方の家があるというので探してみたら、本の通り表札があった(トップの画像)。家々にはほかにも、建てられた年と屋号がバスク語で書かれていて、それらを見ていくのもまた面白かった。

trip14-12.jpg・フランスからスペインへは鉄道を乗り継いで移動した。EUとは言え、国境には間違いない。しかし、川を電車が通過しただけで何ということもなかった。そこから、最近美食の街として話題になっているサン・セバスチャンで乗り換えてビルバオまで、狭軌の私鉄(EUSKO・TREN)は各駅停車で、3時間半もかかった。この電車に乗ってびっくりしたのは、人々の話し声が大きいことと、何となく中南米の人に顔が似ていることだった。大航海時代以降移民したのは、海沿いに住んで船を操ることに長けたバスク人とガリシア人だったというのが納得できる気がした。

・ビルバオで泊まったホテルはグッゲンハイム美術館の前で、着いてさっそく、花で飾られた巨大な犬と金属を積み上げたような建物を見に出かけた。
trip14-13.jpg・ただし、翌日はゲルニカに行き、ピカソの「ゲルニカ」のレプリカやバスクの議会を見た。あいにく博物館は閉まっていたが、代わりに月曜だけの市がたって、多くの人で賑わっていた。フランコに痛めつけられ、ヒトラーの空爆を受けて廃墟になった街は今、やっぱり観光客で賑わっている。

・次の日に行ったグッゲンハイム美術館も大賑わいだった。鉄鋼の街だったビルバオが再生したのは、この美術館ができたからで、街は地下鉄や路面電車を整備し、サッカー場も新設した。ここをホームにする「アスレチック・ビルバオ」はマドリッドやバルセロナと違って、バスク出身の選手だけで構成されているにもかかわらず、今シーズンは4位だった。そもそも、スペインのサッカーは、鉄鋼業の関係でイギリスと縁があったビルバオから広まったようである。
trip14-14.jpg・ビルバオに興味を持ったもうひとつはネルビオン川にかかるビスカヤ橋だった。大型船がビルバオ市内まで遡るために、橋の高さを50m以上にし、橋の代わりにゴンドラを吊して人や車を渡している。料金は一人35セントと低額だが、エレベーターで上まで上がって歩くとどういう理由か7€もする。ぼくはもちろん、上に登って164m を歩いた。ビルバオの街はもちろん、ビスケー湾に浮かぶ船も間近に見えたが、下が透けて見える木の板を歩くのは怖かった。

・高いところといえばもう一つ、散歩していてたまたま見つけたフニクラに乗ってアルチャンダ山に登った。ここからは真下にビルバオの街を見ることができた。旧市街は赤い煉瓦の屋根で統一されていたが、再開発の進んだ新市街には様々な形をしたビルが建ち並んでいた。

・旧市街の中心にあったバスク博物館は無料で、展示したものはボルドーに負けない程豊富だった。旅はまだまだ続きます。次回がガリシアから。

trip14-15.jpgtrip14-16.jpg

2014年8月4日月曜日

久しぶりのロンドンとパリ


trip14.jpg

trip14-1.jpg・ロンドンとパリは6年ぶりです。ロンドンについての第一印象は、にぎやかで街がきれいになったというものでした。オリンピックをやったことが理由だと思います。パリまでユーロスターを使うためにパンクラス駅の近くのホテルに泊まったこともあるかもしれません。週末だったということもあるでしょう。パブやカフェは夕方から客で溢れていて、ずいぶんにぎやかでした。

・今回の旅の目的は、出版予定の『レジャー・スタディーズ』のために、観光地を訪れることと博物館や美術館(どちらも英語ではミュージアム)を見学することにあるので、ロンドンでは大英博物館とチャールズ・ディケンズ博物館に行き、今までは避けてきたロンドン橋やロンドン・タワー、そしてグリニッジ天文台に出かけました。大英博物館は一日では見きれないほどの展示物ですが、ものすごい数の人で、フランス語やイタリア語、そしてドイツ語などが聞こえてくるほど、外国からの客でごった返していました。
trip14-6.JPG・同じような情景はロンドン橋でもありましたし、ディケンズ博物館でも、途中から中国語を話す団体客が押し寄せて、静かだった小さな建物がにぎやかに(うるさく)なって、執筆していたという書斎でディケンズの物語を思い浮かべるという空想が、たちまち壊されてしまいました。

・泊まったホテルからディケンズ博物館、それから大英博物館まで歩き、その後もソーホー地区やカーナビー・ストリートまで足を伸ばして、またホテルまで歩いて帰りました。全部で10km近く歩いたのでずいぶん疲れましたが、途中で休んだ公園や広場には、家族連れの人たちがたくさんいて、ロンドンに住む人たちの日常生活を垣間見た気がしました。特に目立ったのは、子ども連れの父親で、育メンなどということばを使う必要がないほど、当たり前の行動のように感じられました。
trip14-2.jpg ・二日目は地下鉄の一日券を買って、グリニッジ天文台まで行きましたが、グリニッジ駅から天文台までは小高い丘を数キロ登るような道を歩きました。ここはロンドンの東にあって、かつては港湾施設や倉庫などがテムズ川沿いに並ぶ地域でした。しかし再開発が進んで、高層ビルがいくつも建ち並び、大きなショッピングモールができて、丘の上の天文台から見える景色は、ここ数年でずいぶん変わったものになったのだと思いました。

・丘を下ってまた地下鉄に乗り、今度はオリンピックのメイン会場があるストラドフォードに移動しました。駅を降りて驚いたのは、インドやイスラム、それにアジアの人たちが多いことと、ここにも大きなショッピングモールがあって、人で賑わっていたことでした。ロンドンの東地区はかつては労働者の住む地区で、旅行者には近づきにくい場所でしたが、みごとなほどの様変わりでした。もっとも、再開発については多くの反対運動があったのも事実です。
trip14-3.jpg・パリで出かけたのはまずエッフェル塔です。モンパルナス駅近くのホテルでチェックインを済ませた後、塔を目ざして歩きました。浮浪者が多く、しかも老若男女さまざまで、子どもにまでお金をせびられて、ロンドンとはずいぶん違うという印象をまず持ちました。浮浪者の多くが大型の犬を連れているのも、前回にはなかったことでしたが、犬の糞ばかりが目立った道は、今回は割ときれいでした。犬と一緒にいるのは自分の身を守るためなのかな、と思いました。

・エッフェル塔はやっぱりものすごい人で、塔の上に上がるエレベーターはもちろん、歩いて登る階段を待っている人も長蛇の列ができていました。で、上がるのは諦めたのですが、「パリのもっともいい景色はエッフェル塔からのものだ」という皮肉な気分を追認できなかったのは残念でした。観光客が集まるところと全くいないところの落差は、ロンドンだけでなくパリでもはっきり感じられました。

trip14-4.jpg ・パリ二日目は市立美術館とオルセー美術館に出かけました。無料の市立美術館は閑散としていましたが、デュフィやシャガール、それにモジリアーニなど、見応えのある作品がかなりありました。オルセー美術館が所蔵する印象派の絵画は、もちろん、桁外れにすごいものでした。マネ、モネ、ルノアール、ゴッホ、ゴーギャン等々とじっと見ていたい作品がずいぶん多かったのですが、何しろここも人が多くて、立ち止まらずに回遊という感じでした。

・帰りに乗った地下鉄の駅で弦楽奏のパフォーマンスに出会いました。そう言えば、前回と比較して地下鉄でも街中でも、ストリート・パフォーマンスが少なくなったと感じました。
trip14-5.JPG ・三日目はセーヌ川からサン・マルタン運河を遡上する船に乗りました。4.5キロほどで高低差が25mの行程に2時間半もかけるという、何とものんびりしたものでした。閘門ごとに水位を調節するのですが、最初のうちは珍しかったものの、途中からはあきてしまって、「またか」という感じになりました。珍しいと感じたのは道行く人も同様のようで、川岸や橋の上から手を振る人がたくさんいて、そのたびに、こちらも手を振りましたが、それもやっぱり途中から面倒くさくなってしまいました。

・夜はパリで働いている友だちの娘さん達と食事をしました。二人ともがんばっているし、楽しんでいるというのが印象的で、内向き志向で空気ばかり読んでいる最近の大学生とは対照的だと思いました。旅はこれからボルドー、バイヨンヌ、そしてスペインとまだまだ続きます。