・旅の終わりはロンドンでの芝居見物だった。同僚の本橋哲也さんに誘われたのが理由だが、英語の芝居など聞いてもわからないだろうからと、あらかじめ原作(脚本)を読んでおいた。出し物は、アメリカの初期移民時代に実際に起きた魔女狩りをテーマにしたアーサー・ミラーの『るつぼ』(the crucible)である。長い旅の終わりで疲れていて、途中で居眠りしてしまうのではないかと心配したが、一段高い舞台ではなく、客席を囲むようにできた空間で繰り広げられる物語は、迫力があって引き込まれた。劇場はテムズ川の南岸、ウォータールー駅近くの「The Old Vic」である。
・話は村の娘達が森で踊っているのを牧師に見られたことから始まる。その教区では踊ることが禁じられていたし、しかも娘のなかには半裸で踊る者もいた。その一人の牧師の娘が失神して倒れたから、ことは大げさなものになった。娘達の掟破りの遊びではなく魔女の仕業ということになって、魔女狩りに進展してしまったのである。
・妻のある男と不倫の関係にあった娘達のリーダーが、その妻を魔女だと言いふらした。他にも疑われる女が続出するのだが、その名指しの裏には、村の人間関係のなかで生じた金銭や土地、あるいは家畜を巡るトラブルや、妬みや嫉妬があって、村は大混乱に陥った。牧師や判事、そして副知事などが介入して、大がかりな裁判が行われ、大勢の人が死刑になった。魔女ではなく魔女に操られたと告白すれば許されたのだが、処刑された人たちは、嘘をつくことをためらい、拒絶した。熱心で善良なキリスト教信者であればこその行動だった。
・『るつぼ』は1950年代に発表されている。当時のアメリカはマッカーシー上院議員に扇動された「赤狩り」で、多くの著名人が疑われ、投獄されていて、著者のミラーもまた疑われた。この作品は、そのような出来事を批判するものとして読まれたが、このような事態はいつでもどこでもくり返して起きたことだから、昔どこかで起きた特異な出来事などではない。これは、集団内に不満や鬱憤が充満している時に、そのはけ口として発生し、権力者に利用される「スケープ・ゴート」という現象に他ならない。
・僕はこの脚本を読んだ時に、ユダヤ人狩りをしたヒトラーや、9.11直後のブッシュを連想したし、現在の安倍政権にも当てはまると思った。で、その芝居を、怖さに引き込まれるように感じながら間近で見て、その気持ちが薄れる前に、もう一度読み直した。なぜ今、反中や反韓の気運が蔓延し、朝日新聞がことあるごとに批判されるのか。一番の原因は批判される側よりは、批判する側が抱える不満や鬱憤のなかにこそある。そしてその不満や鬱憤の原因事態を探すのではなく、その捌け口を見つけて、そこに感情的にぶつける行為にこそある。
・アーサー・ミラーにはもう一冊、有名な脚本がある。『セールスマンの死』は、やはり50年代に書かれていて、退職間近に首になったセールスマンの悲哀を描いている。自分の夢や希望が叶わず、また息子達にも期待を裏切られた主人公は、何とかその現実を受け入れようとするがどうしてもできない。妻や息子達があれこれと慰めようとしたにもかかわらず、主人公は自殺をしてしまう。これもまた、現在の日本の状況に当てはまる内容だと思う。
・50年代のアメリカは未曾有の好景気に沸いたアメリカの黄金期と言われる時代だった。しかし、反面、自営の商店主や農場がつぶれて、大きな企業が出現して、多くの人たちがそこに勤めることが当たり前になった時代でもあった。家電やクルマ、郊外の住宅などが爆発的に売れる時代で、セールスマンはそんな状況を象徴する仕事だったが、それゆえにまた、能力主義が幅をきかす世界でもあった。
・二つの芝居はもちろん、日本でも民芸などで上演されたことがある。その時にどのように受け取られたかはわからないが、今この時期にロンドンで上演され、毎日満員になっていることに、日本の文化状況との違いを感じた。日本が置かれた現状や、そこで生きる自分と直接向き合うのではなく、それとは無関係な虚構の世界に紛れ込んで、現実をなかったことにする。それはもちろん、音楽などの傾向にずっと昔から感じ取っていたことだが、そんな思いを一層強くした経験だった。
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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。