2015年3月16日月曜日

ジャクソン・ブラウンのコンサート

 

  • 3月11日、渋谷オーチャード・ホール

jacksonbrowne1.jpg・ジャクソン・ブラウンは真面目な人だ。彼のライブを初めて見聞きして、改めてそう感じた。もちろん貶しではなく、褒めているのである。飾り気もなく、派手さもない。ただ淡々と持ち歌を歌う。曲の間には客席からのリクエストに逐一返答をする。で、歌の説明とそれに関連した話題。貧困や災害、ゴミや原発の問題等々……。この日はちょうど4年目の3.11で、そのことにも触れていた。

・スプリングスティーンのように派手なパフォーマンスで客を乗せるわけでもなく、ディランのように一言も話さずに、教祖のような雰囲気でただ歌うというわけでもない。普段着のままという感じ。だから超ビッグにはなれないのかもしれないけれど、だからこそ、デビュー以来、40年以上も同じ姿勢、同じ声、同じ体型でいられるのかもしれない。

・当日唄ったセットリストを載せたブログを見ると、最新アルバム『スタンディング・イン・ザ・ブリーチ』から7曲のほかは、70年代から最近までの歌を満遍なくやったようだ。しかし、どの歌にも不思議なほど古くささも懐かしさも感じない。彼自身のメッセージをこめて今を唄う。客席は静かで立ち上がる人は誰もいない。といって、つまらないわけではなく、じっくり聴こうという姿勢だった。

・7時から始まったライブは途中の休憩をはさんで10時近くまで続いた。さすがに最後の方では手拍子を打つ人、立ち上がって手を上げる人が多く出た。ハイチの大地震をテーマにした「スタンディング・イン・ザ・ブリーチ」の前には、今日が大震災のあった日であることを話し、アンコールで唄った「ビフォー・ザ・デリュージ」の前には、それが79年にニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでおこなわれた「NO NUKES」で唄った歌であることを話した。客席は総立ちで、その歌に対面した。

夢を見た人もいれば、アホだった者もいる
無知の力で未来を考え計画を練る人もいれば
自然に帰る旅を模索して道具を集める人もいる
大洪水が来る前のやっかいな歳月の中で
心を込めて、避難のために互いの心をあてにする人もいる
さあ、この音楽で魂を高く保たせよう
子どもたちが濡れないように建物へ
やがて、消えてしまった明かりが空に届く時に
そろそろ、天地創造の秘密を明らかにしよう

・「NO NUKES」はスリーマイル島の原発事故後におこなわれた原発に反対する運動を支援するためにおこなわれたコンサートだった。彼は仲間のミュージシャンと「M.U.S.E.」(Musicians United for Safe Energy)を立ち上げたが、東日本大震災後にも、同じ趣旨でチャリティ・コンサートを主催している。その一貫した姿勢に共感するのはもちろんだが、彼の歌には単なるメッセージを越えた説得力があった。最後はもちろん僕も立ち上がって、"Bye and bye"を口ずさんだ。音楽や歌と政治的・社会的メッセージとの見事な混交を久しぶりに味わった。

・ところで、このコンサートには脳梗塞のリハビリで入院中のパートナーと一緒に行った。車椅子をM君に押してもらい、人びとでごった返す渋谷の町を歩いた。車椅子があることで、いつもとは違う風景に感じられて、その意味でもおもしろい一日だった。病室に帰って、彼女は夢のような24時間だったと言った。

2015年3月9日月曜日

宮入恭平編著『発表会文化論』青弓社

 

miyairi8.jpg・発表会と言われて思い出すのは、子どもが幼稚園の時にあった「生活発表会」ぐらいで、およそ縁がなかった。だから興味もほとんどなかったのだが、編者をはじめ書き手の多くが僕のゼミに参加をして、報告などもしていたから、「発表会」という仕組みが日本の現代文化にとって無視できないものであることに気づかされた。そのいくつかの報告を中心に一冊の本にまとめたのが本書である。

・「発表会」はこの本によれば、明治時代に勉学の習得度を確認するために学校制度の中に取り入れられたもののようである。それは保護者や地域の人にとって、「運動会」と共に楽しみな年中行事としておこなわれてきた。もちろん、このような催しは現在でも学校でおこなわれている。そしてこの形式は音楽や踊り、美術などを習う教室のイベントとなり、練習や製作に励むための最大の目標になっているし、自治体が主催する文化教室的なものにも定着しているようである。

・「発表会」はそれが何であれ、素人が日頃の練習の成果を披露する場であり、その保護者や友人・知人が参加して、その成果を体験する機会である。だから、基本的には閉ざされていて、部外者が参加することは想定されていないし、また覗いてみたいほど興味のある内容でもない。そして会を催すために必要な費用は、私的なものであれば、その当事者か保護者が負担することになる。本書によれば、それはバカにならないほどの金額(数万円以上)のようである。

・もちろん、やりたい人たちが自分の意志でやっているのだから、それでいいじゃないか、と言われればその通りだが、編者の宮入恭平は、この本を作るきっかけになったのが、ライブハウスのノルマ制度にあったと書いている。つまり、ライブハウスはプロだけでなく、アマチュアのミュージシャンがパフォーマンスをすることができる場であり、ミュージシャンとは直接関係のない、たまたまライブハウスに集まった客が、その歌や演奏を楽しむ場であったはずなのだが、今や、ステージに立つ者と観客が関係者に限られた、閉ざされた空間に変質しているというのである。パフォーマンスをしたければ、店の採算に合うお金を払い、それをチケットとして売らなければならない。だから客の中には積極的にと言うよりは義理で買ってやってきたという人も少なくないようだ。

・それはライブハウスが店の運営を安定させるために導入したシステムで、ミュージシャンを育てたり、新しい文化を生もうといった目的とは無関係で、むしろ阻害するものでしかない。しかし、このような「発表会」システムは美術の世界で実力を評価する日展や二科展などにも見られることだという。受賞者や入賞者の枠が審査以前に主催者達の中で決められていて、それが事件として取り上げられたこともあったようだ。これでは優秀な新人の発掘や新しい流れは生まれようもないが、お茶やお花といった古くからある習い事のなかでは、きわめて当たり前のシステムでもあったから、特にやましい気にもならずにおこなわれるようになったのかもしれない。

・あるいは「発表会」には、政治や社会の問題を持ち込んではいけないといった不文律もあるようだ。また、学校や習い事の発表の場であれば、習ったとおりにやることが望まれていて、自分らしく好き勝手にやることは御法度らしい。だから我が子や恋人や友人でもなければ、見る気にも聴く気にもならないのが当然なのである。そんな人畜無害で無味乾燥な会なのに、けっしてなくならない。それどころか、今や一大文化産業として繁盛しているのだと言う。それはなぜか。答えは是非、この本を読んで見つけてほしいと思う。

・著者達の中には編者自身がミュージシャンでもあることのほかに、大学院生になってもピアノ教室に通っていたという、想像だにしなかった驚きの告白をした人(佐藤)もいる。あるいは、地域の合唱クラブで楽しくやっている人(薗田)もいる。その意味で、研究者であると同時に当事者でもあるという参与観察がうまくできていて、それが本書の大きな魅力にもなっている。

2015年3月2日月曜日

一人暮らし

 

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・パートナーが脳梗塞で入院し、リハビリ病院に転院してからずっと、一人暮らしが続いている。しかも今年度は国内研究だから、1月末からは一度しか大学に行っていない。病院に出かけたり、買い物をしたりする以外は、ほとんど家にいる。訪ねてきて泊まった人が数名いたが、誰とも話さずに一日を過ごす日も少なくなかった。

・一人暮らしは40年ぶりぐらいだが、その時だって、これほど一人でいたことはなかったから、まったく初めての経験だと言っていい。ひょっとしたら人生の最後は、こんなふうに一人暮らしになるかも。そう考えたら、これは予行演習なんだと思ったりもした。そんなことを入院中のパートナーと話したら、彼女は彼女で、老人ホームの体験をしてるみたいと言った。老人ホームに両親が健在で、そんなことなど考えもしなかったが、現実として目の前に突きつけられたような気になった。

・世の中では一人暮らしは孤独死や弧住、孤食だのと、やたらマイナス・イメージで語られる。しかし、実際にはそれほど寂しいものではないと思った。何より一人だと何でも自分でやらなければならないから、結構忙しい。買い物に出かけ、食べたいものを、一人で食べきれるよう考えて購入する。僕の家は外食には不便なところだから、今日、明日、明後日と、何日か先のメニューまで考えて買わなければならない。もっとも昼飯は僕が作っていて、1週間のメニューが決まっていた(そば、うどん、ラーメン、焼きそば、お好み焼き、チャーハンなど)し、朝はカスタードクリームと果物を入れた自家製ヨーグルトだけだから、何にしようか考えるのは夕飯だけだった。

・毎日の食事は大事だが、確かに今まで目の前にいた人がいなくなると、何となく味気ない。そこで考えたのが、食事時だけ病院とskypeでつなごうというものだった。調子が悪くてAppleのFacetimeにしたのだが、一緒に食べているようで、なかなかいい。今日は何を作るか張り合いもでる。あるいは、病院で必要なものを探すのに、iPadを持ち歩いて見つけたりもできる。便利なものができたものだと、つくづく感心した。終日監視されるのはかなわないが、時折、気の置けない人とこんなふうに会えるのなら一人暮らしも悪くないと思った。

・掃除や洗濯ももちろん、自分でやらなければならない。洗濯は入院しているパートナーの分もあって、普段より多いから週に2回はやらなければならない。我が家では、冬は洗濯物はリビングの上の吹き抜けに干す。ストーブの熱で数時間で乾くから、他の時期よりずっと楽だ。

・そのストーブの来冬用の薪を割るのも毎日の仕事だ。およそ1時間ほど汗を流すが、道が凍っているから自転車にはしばらく乗っていない。もうちょっと暖かくなったら、退院するパートナーのために、玄関口やバルコニーの階段に手すりもつけようと思っている。既製品ではなく木で手作りでと考えているが、ネットを探しても、なかなかいいものはない。

・最後に本業だが、しばらくは脳の本ばかり読んでいたが、編者として出版予定の本の校正がはじまった。学部の20周年記念の冊子の編集も頼まれていて、ぼちぼちと原稿が集まっている。博士論文の審査も頼まれているし、献本があって、そのレビューもやらなければならない。悠々自適ではなく、今日は何をやるか、やらねばならないかを確認しないと、やるべきことが山積みになってしまう。そうそう、確定申告もあった。

2015年2月23日月曜日

自己責任は恫喝のことば

・イスラム国(ISIL)に捕らえられて殺された後藤健二と湯川遥菜の両氏に対して「自己責任」ということばが使われている。読売新聞の調査では83%が「責任は本人にある」という結果が公表された(2月7日)。ぼくは10年前に起きたイラクの人質事件を思い出して、まったく同じような反応に、日本人の気質の頑なさを改めて実感した。その時に書いた「身内と世間、イラクの人質事件について」を読むと、解放されるまでの経過について、官房長官が「情報収集に勤めている」ことを繰り返すばかりで、いざ解放されたときも、その理由が政府の交渉の結果ではなく、囚われた3人がイラクのために活動している人であって、家族が心配していることだった。今回は惨殺されてしまったが、政府の対応が相変わらずだったこともまた、日本という国の姿勢のダメさ加減を再確認することになった。

・「自己責任」ということは、助ける必要はないということを意味する。ネット上で身代金要求が公開された後はもちろん、政府は昨年囚われた後、ほとんど何もしなかったようだ。官房長官はそのことを「テロ集団とは交渉しないし、身代金の用意もしなかった」と、しれっと発言したが、にもかかわらず批判はあまり出ずに、政府の対応を支持する声が6割にもなった。

goto1.jpg・海外の反応は、こんな世論が理解しにくいものだということだった。人質交渉をして身代金を出してはいけないと言ってきたアメリカのオバマ大統領ですら、後藤さんのジャーナリストとしての活動を讃えているし、彼の著書を紹介しながら、その死を惜しむ声などもあった。そもそも、自己責任であっても、国民を助けるために全力を尽くすのは、近代国家であれば当然のことのはずだが、日本では「言うことを聞かない奴は放っておけ」という声が多数派を占めている。何でこんなに冷たいのかと思うし、「責任」ということばの不可思議さについて改めて考えてしまった。

・他方で日本は責任を取らない「無責任大国」だと言われている。第二次大戦の責任は誰がとったのかあいまいだし、福島原発事故の責任を東電はもちろん、政府や役人の誰一人としてとっていない。何か事故が起これば警察が現場検証をして、過失があれば犯罪として扱うはずなのだが、警察はまったくなにもしていない。上に立つ人の責任は問わずに、多数派から外れた者、空気を読めない者、社会から落ちこぼれた者には「自己責任」といった冷たい罵声が浴びせられる。何ともおぞましい国になってしまったものだと思う。

・就職ができない、仕事がうまくいかないことを理由に悩んだり、自殺をしたりする若者たちが直面するのが、この「自己責任」だと言われている。本当は自分ではなく他人や社会、あるいは政治や経済の仕組みの問題なのに、自分に責任があるかのように思い込んでしまう、思い込まされてしまう。「自己責任」とはまさに強者から弱者、多数派から少数派に浴びせられる恫喝のことばで、誰もが常に、言われるのではなく、言う側に立ちたがる傾向を持っている。「いじめ」の構造そのもので、日本の社会全体が、そんな空気に包まれていることを思い知らされた気がした。

2015年2月16日月曜日

メディアの翼賛体制構築を批判する声

・政権べったりでほとんど批判らしいことをしないメディアに対して「翼賛体制の構築」だとして多くの人たちが反対の声をあげた。いくつかの新聞にはさして大きくなく取り上がられたが、テレビはほとんど無視。生中継をしたのはネット・テレビの「デモクラTV」などだけだった。

・「イスラム国」(ISIS)に捕らえられて惨殺された二人の日本人を巡る報道は「残忍、残酷」「無法」といったことばや「テロに屈しない」といったことばが繰り返されたが、日本政府の対応に対しては、交渉が継続中の間は批判は慎むようにといった空気が蔓延して、対応のまずさを指摘する声はほとんどなかったようだ。そんな報道が影響してか、この間の政府の対応を支持する声が6割にもなった。

・しかし、二人が捕らえられてから、それがネットで公開されるまでの間に、いったい政府はどういう対応をしていたのか。人質がいることを承知でなぜ、安倍首相は中東に出向き、2億ドルもの援助を公言したのか。といったことを真正面から検証して報道するメデイアは、今になってもほとんどない。それどころか、安倍政権は、今回の事件を理由に自衛隊の派遣や特殊部隊、あるいは情報局の必要性などを力説している。「日本人に指一本触れさせないために」などという首相のことばが、どれほど危険なものか、メデイアはなぜ批判をしないのかとあきれるばかりである。

・「イスラム国」は確かに国とは呼べない集団かもしれないが、その発生はそもそも、ブッシュ元大統領が根拠のない理由を掲げてイラクを攻撃してフセイン政権を倒したことにある。「イスラム国」がテロ集団ならアメリカとそれを支援した国々がしたことも「国家テロ」だったはずである。あるいは、そのテロ集団を殲滅させるために、アメリカがやっている空爆は、そこに住む人びとを大勢殺してもいるのである。そんな経緯を冷静に見つめれば、安倍政権の対応がアメリカべったりの「アメポチ」であることは明らかなのに、そんな声を発しにくい空気が、メディアから送られ続けている。

・「メディアの翼賛体制構築を批判する」声明は、そんな空気に危機感を持つジャーナリストや文化人が中心になって発せられた、賛同者はすでに1200人を越えたと言われていて、僕もこのニュースに接した後で賛同者として署名をした。ほっといたら本当に戦前の日本に逆戻りしてしまう。そんな危機感をここ数年持ち続けてきたから、これは手を上げておかなければ、と思ったからである。

・とは言え、今回の声明は発起人の今井一によれば、誰より報道人、言論人、表現者としてメディアと関わっている人たちに賛同を呼びかけたもので、そのことを理由に干されたり、職を失ったりする危険性を持つ人たちに対して、それでも声をあげる必要があることを訴えるのが第一の目的だったようだ。

・今回の事件を巡って安倍首相の言動や政府の対応については、国会では野党の議員からそれなりに厳しい質問や批判が浴びせられている。納得のゆく説明ではなく、強腰の発言で対応する首相や官房長官の姿勢も、国会中継やビデオ・ライブラリーで確認することができる。ただし、テレビでは、そんなやりとりはニュースでもほんのちょっとしか伝えない。ニュース以外に特番を組んでといったことは、もちろんどこもやっていない。夜の番組は相変わらず、バラエティのオンパレードである。

・メディアで働く人、メディアで発言している人のなかに「アベポチ」ではダメだとはっきり公言する人たちが1200人もいた。僕はその人達のあげた声に一筋の光明を見つけた気がして、ちょっと安心した。

2015年2月9日月曜日

心と身体

 

山田規畝子『壊れた脳 生存する知』角川ソフィア文庫

ジル・ボルト・テイラー『奇跡の脳』新潮文庫
山鳥重『脳からみた心』角川ソフィア文庫
『「わかる」とはどういうことか』ちくま新書

brain3.jpg・脳卒中には血管が詰まって起こる脳梗塞と血管が破れる脳出(溢)血がある。どちらにしても最悪、死にいたるが、命を取り留めてもさまざまな障害が出る。ろれつが回らない、半身に麻痺が出る、失語症や視力障害など、その種類も程度も多様で、回復の度合いもまたそれぞれのようだ。

・山田規畝子の『壊れた脳 生存する知』は三度の脳出血という自らの経験を、医者として分析的に綴っている。彼女に現れた主な症状は世界が二次元に見えてしまうということだった。地面の凹凸がわからない。目の前の階段が上がるのか下がるのかわからないなど、わからないだらけの世界になる。あるいは直前の記憶がなくなってしまう。だから自分が今どこにいるのか、何をしているのかわからなくなることもしばしば起こったという。しかし、絶対に元通りになるという強い意志と、症状の記録や分析をおこなうことで、これまで何冊もの本を書いてきている。その不屈の心には恐れ入るばかりだ。

brain1.jpg ・ジル・ボルト・テイラーの『奇跡の脳』も、脳出血に突然見舞われた自分の経験を、まるで小説のように描写したものである。彼女の症状は身体の麻痺はもちろん、話せない、読めない、書けないなど、言語に関連するものが重かったから、なぜこんなにも詳しく覚えているのだろうかと、半信半疑で読んだ。ただし、山田同様、医師として障害を回復させることと、自分の経験を記録し、分析しようとする姿勢の強さは驚くほどである。壊れた脳はけっして再生しない。けれども別の部分が壊れた脳の役目を代行するようになる。もちろん、それを実現させるためには、辛抱強くリハビリやトレーニングをする必要がある。
・人間の脳は主に右が感性を、左が知性を司る。彼女は左脳に大出血をして、その多くが壊れてしまった。だからリハビリは左脳の働きの再活性化にあったのだが、右脳が意識の前面に出たことで、人格に大きな変化があったことを肯定的に捉えている。過去に学んだことに基づき、くそまじめで理性的で未来志向的な左脳に比べて、右脳は現在の瞬間的な豊かさを基準にする。その今まで抑えてきた右脳を自分の個性の基本に据えて作り直そうとしたのである。

brain2.jpg・山鳥重は山田が師と仰ぐ日本を代表する神経心理学者である。その『脳からみた心』を読むと脳と心、そして身体の関係がよくわかる。私たちがふだん、ほとんど意識をすることなく歩いたり、手を使ったり、何かを見たり聞いたりできるのは、脳と身体の間にできた神経回路(ニューロン)を信号が行き交っているからである。あるいはさまざまな経験を記憶として蓄積し、必要なときに引き出したり、ことばを使って話し、書き、考え、他者とコミュニケーションをとることなど、脳と身体の間にできたこの回路はきわめて複雑に出来上がっている。
・脳卒中によって壊れた脳の部分は、当然、それまでおこなってきた働きをしなくなる。しかもその部分は傷が癒えるようには回復しない。だから、機能を回復させるためには、別の部分に新たな回路を作って同じ仕事をさせるようにしなければならない。それは、赤ん坊が独り立ちして歩けるようになったり、物事を認識し、ことばを喋りはじめるようになる成長の過程をもう一回くり返すことに他ならないのである。

brain4.jpg・だから、見えないというのは目そのものではなく、見るための作法の問題になる。たとえば何かが見えていても、その形を独立したものとして認識すること、その形が持つ意味を理解することができなければ、見えていないも同然である。あるいは自分にとって見慣れたもの、たとえばよく使っている「机」はわかっても、抽象度を上げて一般的な「机」と言われたり、あるいは別の「机」を見せられても、理解できないということもあるようだ。
・記憶したものには当然、時間的なつながりがある。「その歴史性と意味カテゴリーつまり状況性の両面から体系化されてはじめて生きた記憶になる。」しかし、この体系が崩れれば、記憶は時間と無関係に現れることになる。このような事例をもとに、著者はいったい「わかる」とはどういうことなのかという疑問を提示する。

・彼によれば「わかる」仕組みの基盤には、それまでに蓄積された記憶がある。それは常識や習慣となり、また思想やイデオロギーとなって、今を判断する尺度になる。ジルは左脳が壊れたことで、「わかる」仕組みを生き残った右脳を主にして作り直そうとした。それはそれで大変な努力を要することだったが、逆に、当たり前すぎて無自覚に「わかってしまう」ことをなぜ、と疑うことの難しさはどうだろうということが気になった。先入観や固定観念に凝り固まった「わかる」仕組みを壊して、新たな「神経回路」を作ることは、その気になっても簡単ではない。と言うより、脳卒中のリハビリより難しいことではないのかと思ってしまった。

2015年2月2日月曜日

脳梗塞とリハビリ

 

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・今頃はイタリアを旅しているはずだった。それが中止になったのは、パートナーが脳梗塞になって入院してしまったからである。現在はリハビリ病院に転院して、歩行訓練や手や指の動作、そして発話の修復等をおこなっている。

・異変は不意にやってきた。夕飯を食べた後、ソファーに寝そべってテレビを見ていると、彼女が起き上がって妙な表情をした。「どうしたの」と聞くと「眠い」と言う。で、立ち上がった瞬間に崩れるように膝をついた。びっくりして、すぐに最寄りの救急病院(山梨日赤)に電話をして、車で連れて行った。CTスキャンをして症状を診察した後、医者は梗塞の痕跡のような影があるが、古いもののようで、新しいものは確認できないと言った。普通に歩けるし、ことばもしっかりしていたから、一過性のものと思って家に帰った。

・そのあと何度か通院しているうちに、次第に症状が重くなってきた。医者ののんびりした態度に不信感を持ったが、信用できる病院は他にはない。しかし、次の診療日は待てないと思って、再度救急で病院に連れて行った。今度は違う医者で、症状を見てすぐにMRI検査をして、即、入院となった。最初の時にもうちょっと慎重に調べてくれていたら、もっと軽かったかもしれないと思うと、ずいぶん腹も立った。しかし、最初の医者と違って、いろいろ丁寧に説明してくれたから、文句は言わなかった。

・脳梗塞によって出る症状はさまざまである。彼女の場合には左半身の麻痺とろれつが回りにくいことだった。最寄りのリハビリ病院を探すと石和温泉近辺にいくつもあった。そこから山梨リハビリテーション病院を選んで電話をした。脳梗塞の場合にはまず普通の病院に入院をしてリハビリをはじめていい段階だと医師が判断したら転院ができると言われた。結局日赤には10日間入院してからの転院となった。

・リハビリ病院には家から30分ほどで行ける。御坂山塊をぶち抜いた若彦トンネルを抜け芦川村を過ぎると甲府盆地と南アルプスと八ヶ岳の山脈が眼前に広がる。ヘアピンカーブの多い道だが、信号はないから800 mほどの標高差をあっという間にくだってしまう。上のような風景を毎日眺めながらの病院通いをしていると、また山歩きができるようになるのだろうか。外国旅行はどうだろうか。などといろいろ考える。とにかくリハビリをがんばって、今までの生活ができるようになって欲しいと願うばかりだ。

・実は彼女には、ちょっと前から自覚症状があったようだ。それが夏に行ったスペイン旅行の時だったと言われたときには驚いたし、黙っていたことを叱責もした。若い頃から高血圧で、塩分を控えることもやっていたのだが、毎年、人間ドックに一緒に行こうと言っても取りつく島もないほどで、病院や医者をまったく信用しないという態度だった。その罰が当たったのだと言うと、さすがに反論することはできないようだった。何しろ今は、「作業療法」「理学療法」「聴覚言語療法」をそれぞれ若い療法士の指導で毎日くり返しているのである。

・さて、リハビリ期間はどのくらいになるのだろうか。現今の医療制度ではどんなに重い症状でも3ヶ月で退院させられてしまうと言う。おかしな制度ができてしまったものだが、彼女の場合にはもっと短期間で出てきて欲しいと思う。3月の末に京都で個展を予定しているから、遅くともその前には退院したい。そんな希望を公言していて、若い療法士さんたちもそのつもりで厳しいトレーニングを課してくれている。

・そんなわけで、久しぶりの一人暮らしが続いている。最初は不安感もあって落ち着かなかったが、今はもう慣れてしまっている。いろいろうるさいことを言われないから気楽でいい。鬼の居ぬ間に家の内外の模様替えをやってしまおうか。そんなことも考えて実践しはじめている。