・発表会と言われて思い出すのは、子どもが幼稚園の時にあった「生活発表会」ぐらいで、およそ縁がなかった。だから興味もほとんどなかったのだが、編者をはじめ書き手の多くが僕のゼミに参加をして、報告などもしていたから、「発表会」という仕組みが日本の現代文化にとって無視できないものであることに気づかされた。そのいくつかの報告を中心に一冊の本にまとめたのが本書である。
・「発表会」はこの本によれば、明治時代に勉学の習得度を確認するために学校制度の中に取り入れられたもののようである。それは保護者や地域の人にとって、「運動会」と共に楽しみな年中行事としておこなわれてきた。もちろん、このような催しは現在でも学校でおこなわれている。そしてこの形式は音楽や踊り、美術などを習う教室のイベントとなり、練習や製作に励むための最大の目標になっているし、自治体が主催する文化教室的なものにも定着しているようである。
・「発表会」はそれが何であれ、素人が日頃の練習の成果を披露する場であり、その保護者や友人・知人が参加して、その成果を体験する機会である。だから、基本的には閉ざされていて、部外者が参加することは想定されていないし、また覗いてみたいほど興味のある内容でもない。そして会を催すために必要な費用は、私的なものであれば、その当事者か保護者が負担することになる。本書によれば、それはバカにならないほどの金額(数万円以上)のようである。
・もちろん、やりたい人たちが自分の意志でやっているのだから、それでいいじゃないか、と言われればその通りだが、編者の宮入恭平は、この本を作るきっかけになったのが、ライブハウスのノルマ制度にあったと書いている。つまり、ライブハウスはプロだけでなく、アマチュアのミュージシャンがパフォーマンスをすることができる場であり、ミュージシャンとは直接関係のない、たまたまライブハウスに集まった客が、その歌や演奏を楽しむ場であったはずなのだが、今や、ステージに立つ者と観客が関係者に限られた、閉ざされた空間に変質しているというのである。パフォーマンスをしたければ、店の採算に合うお金を払い、それをチケットとして売らなければならない。だから客の中には積極的にと言うよりは義理で買ってやってきたという人も少なくないようだ。
・それはライブハウスが店の運営を安定させるために導入したシステムで、ミュージシャンを育てたり、新しい文化を生もうといった目的とは無関係で、むしろ阻害するものでしかない。しかし、このような「発表会」システムは美術の世界で実力を評価する日展や二科展などにも見られることだという。受賞者や入賞者の枠が審査以前に主催者達の中で決められていて、それが事件として取り上げられたこともあったようだ。これでは優秀な新人の発掘や新しい流れは生まれようもないが、お茶やお花といった古くからある習い事のなかでは、きわめて当たり前のシステムでもあったから、特にやましい気にもならずにおこなわれるようになったのかもしれない。
・あるいは「発表会」には、政治や社会の問題を持ち込んではいけないといった不文律もあるようだ。また、学校や習い事の発表の場であれば、習ったとおりにやることが望まれていて、自分らしく好き勝手にやることは御法度らしい。だから我が子や恋人や友人でもなければ、見る気にも聴く気にもならないのが当然なのである。そんな人畜無害で無味乾燥な会なのに、けっしてなくならない。それどころか、今や一大文化産業として繁盛しているのだと言う。それはなぜか。答えは是非、この本を読んで見つけてほしいと思う。
・著者達の中には編者自身がミュージシャンでもあることのほかに、大学院生になってもピアノ教室に通っていたという、想像だにしなかった驚きの告白をした人(佐藤)もいる。あるいは、地域の合唱クラブで楽しくやっている人(薗田)もいる。その意味で、研究者であると同時に当事者でもあるという参与観察がうまくできていて、それが本書の大きな魅力にもなっている。
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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。