2018年2月26日月曜日

四国遍路その2

 

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・お遍路は順調に続いている。徳島から高知に入り、愛媛、そして最後の香川に入った。寺の多くは辺鄙なところにあるし、町中でも小高い山の上だったりする。寺と寺の間が数十キロなんていう場合も珍しくないし、階段が数百段なんてこともある。そんな場所を「遍路ころがし」といって難所にたとえてきた。「空海」という名は、今はロープウェイで登る太龍寺近くの捨身ヶ岳で座禅を組み(空)、室戸岬突端の御厨人窟(海)で修行を積んだことに由来するという。この室戸岬の先端の山上に最御崎寺があり、西の足摺岬の突端には、金剛福寺がある。

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・どちらも、その前の寺からは80~90キロも離れている。時々歩いて遍路している人を見かけたが、一日で歩ける距離ではないから、宿はどうしているのか心配になった。そんな人たちを追い越していくと、車での遍路が横着なものであることを思い知らされる。とは言え、一気にやろうとすれば2週間はかかるから、これはこれで、きつい行程であることは間違いない。山間部に入ると雪道になることも何度かあった。

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・もう十日以上、宿から宿を泊まり歩いていると、刺身、焼き物、煮物などなどのごちそうのはずの食事にうんざりしてくる。おうちご飯が懐かしいが、旅はもう少し続く。Wifi設備の貧弱なところが多くて、ネットもほとんど使えていない。寺を回るのも正直言って飽きてしまった。遍路には弘法さんが同行するのだそうだが、そんな気になったことは一度もない。早く終わらないかと考える奴に御利益なんかはないかもしれない。
・善通寺は弘法さんが生まれた土地で、寺も段違いの大きさだった。しかも祭りの日で、大鏡餅をもって運ぶ競争をしていた。この寺の近くの大学に勤務するKさんが待っていてくれて、研究室で、自分でローストしたというコーヒーを飲み、、近所で讃岐うどんをごちそうになった。この土地になじんでいるようで何よりだった。さて、遍路もあとわずか、何事もなく結願成就してほしいと思う。

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2018年2月19日月曜日

四国遍路中です

 

sikoku1.jpg ・15日から、2週間の予定で四国遍路に出かけている。初日は家から新東名、新名神、中国自動車道を経由して、淡路島で一泊した。京都から東京に引っ越した後、京都までは何度も車で来たが、それ以西は久しぶりだった。明石大橋を渡ったのはもう20年以上前になる。懐かしいと言うよりは、初めての景色のようだった。瀬戸内海を眺める宿だったが曇り空で、時折小雨も降る陽気だったから、眺めはよくなかった。

 

sikoku2.jpg ・お遍路は2日目から始めた。さすがに2月だから、お遍路さんの姿はちらほらだ。1番札所の霊山寺で納経帳を買った。白装束も着ないし、袈裟もかけない。金剛杖も持たない。いつもの服装でお参りだが、帽子や手袋やサングラスぐらいはとっておかねば。しかしうっかり忘れてしまう。そもそも何をお願いしたらいいのか。退職して人生の一区切りのつもりだが、弘法さんにお礼をする必要もないから、ついつい、何も考えずにただ手を合わせるだけになってしまう。

sikoku3.jpg・徳島市内の札所は隣接しているから、次々訪ねて、2時過ぎには予定の10箇所が済んだ。途中、とんでもなく細い道や曲がりくねった山道があって、アウトバックでは慎重にならざるを得なかった。予定よりかなり早かったのは、お寺での滞留時間が少ないせいだろう。お経を読んでいる人もいれば、線香やろうそくをその都度立てている人もいた。信心深さは人それぞれ、お願いしたり、感謝したりすることもひとそれぞれ。最終日の予定を楽にするために、香川県の最後の88番寺にも行った。中抜けだが結願。2日めの宿は徳島市内を見下ろす眉山の山頂にあって、ここに連泊して、お遍路は2日で17番寺まで済んだ。

sikoku4.jpg ・お遍路3日目は18番から23番まで。札所には車ではきつい山道もある。12番の焼山寺と、20番の鶴林寺はすれ違いのできない細い道が続いた。海抜も高く雪が残り、氷も張っていた。21番の太龍寺には、車で行けるのか何の表示もなかったから、ロープウェイを使った。往復2400円。弘法大師が座禅を組んだという山頂には銅像があって、ロープウェイからよく見えた。まだ始まったばかりだが、四国にとっての弘法さんの存在の大きさを実感し始めている。帰ったら、空海について、本でも読んでみようかなと思う。

2018年2月12日月曜日

厳冬の日々

 

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forest147-2.jpg ・今年の冬は寒い。12月からずっとだから、もう2ヶ月以上になる。雪が舞うこともなかったのだが、1月末になって続いて2度降った。どちらも20cm程度だったから、雪かきも大したことはなかった。その後も零下の日が続いているから、ついでに作った雪だるまは未だに健在だ。最低気温が-10度を超えることも連日だし、最高気温がプラスにならない日も多い。しかし、薪ストーブを燃やして、家の中は20度にしているから、屋根の暖かさで雪が溶けて、大きなつららが下がっている。住んでいない隣家の雪はそのままで氷柱はまったくできていない。

forest147-4.jpg ・家の前の道路は一応除雪はしている。しかし、一日中陽が当たらないから、暖かくなるまで溶けることはない。湖岸道路も街中の道も、所々に氷になった雪が残っている。地元の人は冬タイヤに変えているから、いつもと変わらないスピードで走っている。僕の車も、雪の影響はほとんど感じない。しかし、たまに他府県ナンバーの車に出会うと、危なっかしくて遠ざけたくなってしまう。こんな季節でも、外国人の観光客は少なくない。その人たちが富士山や河口湖をバックに写真を撮ろうと道まではみ出してくるから、これも危ないことこの上ない。

forest147-3.jpg ・こんな寒さだから、薪の消費量も半端ではない。こんな調子では春までもたないのではと心配するが、この後2週間ほど四国遍路に出かけるから、まあ大丈夫だろうと思っている。来冬用に割って積んである薪も雪をかぶってしまっている。さて、四国から帰る頃には、どうなっているか。春の気配が感じられるのか、厳冬のままか。もっとも、今年の寒さは全国的で、雪もあちこちで降っている。四国は大丈夫だろうか。そんな心配もちょっとしている。

・ところで、2台あった車を1台売った。主に、パートナーが使っていたが、仕事を辞めたから、2台持つ必要がなくなった。5年乗って4万キロ走ったXVだが、110万円だった。洗車はほとんどやらないが、お別れ前に綺麗に汚れを落とした。割と高かったのは、人気車種だからだろうか。車1台の生活。こんなふうにして、少しずつ、暮らし方が変わっていく。そんなことを考えた。

2018年2月5日月曜日

記憶と記録、カズオ・イシグロの世界

 

・カズオ・イシグロの小説は「記憶」によって構成されている。それもノスタルジーが色濃い。NHKが放送した『カズオ・イシグロをさがして』の中で、生物学者の福岡伸一のそんな問いかけに、うなずいていた。そのやりとりが面白かったから、小説を全部読むことにした。まだすべてを読んだわけではないが、読んだ感想をまとめてみようと思う。

ishiguro4.jpg・最初の長編小説の『遠い山なみの光』は日本が舞台で日本人が主人公である。今はイギリスで暮らす女性が、長崎で暮らしていた頃を回想する。そんな筋立てだった。思い出として彼女が語るのは、戦争による長崎の傷跡であり、戦後の復興の様子であり、知り合いになった子どものいる女性との関係であり、夫と義父との間にある戦前と戦後の考え方にまつわる確執などである。

・読みながらまず感じたのは、これが英語で書かれた小説の翻訳だとはとても思えない、という印象だった。女性が主人公で、女同士のやりとりが多いということもあって、書き手が男であるということにも違和感をもった。懇意にしていた女性がしきりにアメリカ行きを画策していたのに、そんなこととは無縁だった主人公がなぜ、イギリスに移住したのか。彼女の離婚と再婚については何ら説明がないし、長崎ではおなかの中にいた長女が、大人になってイギリスで自殺をしたことにも、詳しい説明はなかった。記憶をたどることで、何を言おうとしたのか。よくわからないというのが、読んだ後の感想だった。


ishiguro2.jpg・『わたしたちが孤児だったころ』はイギリス人が主人公で、舞台は上海である。今はイギリスで著名な探偵になった主人公が、子ども時代を過ごした上海での出来事、特に両親との関係や、日本人の友だちとの遊びなどを振り返るという話になっている。主人公にとって上海は良き思い出の残る土地であった。しかし、最初は父親、そして続いて母親が失踪して孤児になる。物語は、上海を再訪して、両親の失踪の真実や、その後の消息を突きとめる形で進展する。

・父親の勤める会社は、アヘンをインドから中国に持ち込む役割を担っていた。それで上海では外国人居留地で豊かな暮らしができたのだが、母親はまた、アヘン中毒者の蔓延に異議を唱え、糾弾する運動に関わってもいた。両親の失踪がそのことに原因があったことを明らかにすることで、主人公は自分のなかにあった少年時代の楽しい記憶と、現実との乖離に気づくことになる。


ishiguro3.jpg・『日の名残り』は一転して、イギリスが舞台で、主人公も貴族に仕えた執事である。主人が亡くなり、屋敷の所有者がアメリカ人になって、主人公は数日間の休暇を与えられ、主人の所有するフォードで旅行することを勧められる。そこで彼が思いついたのは、かつて屋敷で女中頭をしていた女性を訪ねてコーンウォール州に行くことだった。しかし、物語はやっぱり、記憶をたどって思い出話をするという形を取っている。1週間足らずのドライブ旅行だが、思い出話は彼の執事としての歴史全体に及んでいる。しかも、誰かに話すというのではなく、あくまで旅先での回想である。

・主人公がこだわるのは、あるべき姿としての執事である。彼が仕えた主人は、第二次大戦前後に政治の中枢で重要な役割をはたしていた。大英帝国のかつての栄光と戦後の衰退がテーマで、主人に対する社会の批判が、自分の記憶とは違うことがくり返し語られている。しかし、記憶と現実の乖離という点では、女中頭が彼に対して抱いていた好意をくみ取れなかったことの方が大きかったようだ。彼にとって彼女は、有能だが口うるさい同僚でしかなかったのである。


ishiguro1.jpg ・『忘れられた巨人』はイシグロの最新作である。時代はアーサー王が没した直後のイングランドだから6世紀頃で、舞台は老夫婦が住む小さな村である。村には奇妙な現象が起こっていて、村人たちが過去のことはもちろん、ちょっと前に起きたことも忘れてしまうのである。それは主人公の夫婦も同じで、昔のことが思い出せなくなっている。そんな二人が、どこにいるかわからない息子を訪ねて、宛のない旅に出ることになる。

・旅の途中でノルマン人の老騎士やサクソン人の若い戦士に出会い、竜のクエルグ退治につきあうことになる。人々が記憶をなくす原因は、この竜の仕業だったからである。物語は、これまでの作品とは違って、トールキンやモリスに共通した昔話になっている。で、最後に竜を退治すると、忘れていた記憶が蘇ることになる。果たしてそれは幸福なことか、あるいは不幸の始まりなのか。

・人には誰にも、いやな記憶を忘れ、よい記憶だけで、自分の過去を創りあげたいという思いがある。しかし、それはまた、成長した自分の中で、あるいは他人や社会との間で、大きなズレになり、葛藤や諍いの原因になる。カズオ・イシグロの小説は確かに、「記憶」をテーマに、あるいは物語の本体にして出来上がっている。その意味では、「記憶」を「記録」する文学だと言っていい。

・文学は、もともとは口伝えで残されてきたものである。それが文字で記録され、印刷されるようになって、現在の形になった。小説は、作者が物語の創造主になって描き出した世界だから、そこで展開される物語には自ずから「客観性」が備わっている。けれども、その物語を主人公の「記憶」として語らせれば、それは主人公による「主観的」な世界になる。カズオ・イシグロの描く世界から感じ取ったのは、何より、その違いから来る新鮮さだった。

2018年1月29日月曜日

日本発のアフリカと南米の音楽

 

Nyama Kante "Yarabi"
Irama Osno "Taki Ayacucho"

・アフリカの音楽は、これまでにも、フェラ・クティやユッスー・ウンドゥール、そしてアブドゥーラ・イブラヒムをはじめ、他のミュージシャンも取りあげてきた。遠くて行けそうもないけれど、その音楽には、ずいぶん前から興味を持ってきた。もちろんアフリカは大きな大陸だから、音楽を一つのものとしてくくれるわけではない。

・アフリカには、現在、54の主権国家と10の非主権地域がある。人口も急増しているし、言語の種類も多い。もちろん、ヨーロッパ列強の植民地だったから、ヨーロッパの言語を使う国も少なくない。多様な宗教、政治形態、経済発展の違い、紛争、公害や貧富の格差、そしてエイズやエボラ熱などの流行が問題になってもきた。そしてアフリカの音楽には、そういった問題をストレートに歌い、訴えるミュージシャンもいる。

kante.jpg・アフリカの音楽に興味を持つきっかけになったのは鈴木裕之の『ストリートの歌』(世界思想社)だった。あるいはそれ以前に彼が訳した『フェラ・クティ』(晶文社)だった。どちらも、このコラムで取りあげている。ニャマ・カンテはギニア生まれでコートジボアールで育っている。多くのミュージシャンがそうであるように、彼女もグリオ(伝統伝達の語り部)の家系である。ぼくはこのCDを出版社の編集者からいただいた。彼は僕の本を何冊か担当した方だが、同時に、鈴木裕之の『ストリートの歌』や『恋する文化人類学者』を担当している。そしてニャマ・カンテが鈴木裕之のパートナーで、日本でも音楽活動をしていることを教えてもらった。

・"Yarabi"にはグリオによって歌い継がれてきたラブ・ソングや祭りの歌などの他に、アメリカの伝説的な黒人ブルース・シンガーであるロバート・ジョンソンの曲などが収録されている。バックで演奏するのは日本人のミュージシャンで、中には娘と一緒に歌い、日本語も飛び出す曲もある。紛れもなくアフリカの音楽だが、そこに、アメリカや日本が混ざっている。

irama.jpg ・イラマ・オスノはペルーのアヤクーチョに生まれ、伝統的な音楽に囲まれながら成長した。彼女もまた、縁があって、現在では日本で暮らし、音楽活動をしている。そしてこの"Taki Ayacucho" もまた、友人から贈られた。このCDには、彼女の息子がパーカッションで参加しているのである。

・僕は南米の音楽についても、興味があってこれまでにもこのコラムで取りあげたことがある。いわゆるフォルクローレと呼ばれるもので、メルセデス・ソーサやビクトール・ハラ、そしてビオレータ・パラといった人たちだ。(→"Gracias A La Vida")

・しかし、イラマ・オスノの音楽は、それらとはまったく違う。フォルクローレにはスペインやアメリカの影響が強くあるが、彼女はペルーの公用語とは違うケチュア語で、伝統に基づいた発声法で歌うものである。しかも歌われているのはアンデスの自然(風、雨、滝、川、山、土、石、鳥、動物、祖先、精霊)であり、伝統的な世界観のようだ。そんな音楽をバックで支えているのは、やはり日本人のミュージシャンたちである。ギターやケーナといったよく使われる楽器のほかにバイオリンやベース、あるいは打楽器が使われ、土着の音楽であることを強く意識しているが、そこにはやはり日本が混ざっている。そんな彼女は今、ギタリストであるパートナーの笹久保伸と秩父に住んでいるという。

2018年1月22日月曜日

先生卒業

 

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・4年生のゼミが終わった。これで正真正銘、「先生」と呼ばれる仕事から自由になった。もう誰にも「先生」などと呼ばせない。と言いたいところだが、卒業生にとっては、ずっと「先生」のままだから、これは仕方がない。しかし、それほど「先生」と呼ばれることが厭だったことを改めて実感した。もっとも「教授」と呼ばれるのはもっとキライで、学生がそう言うたびに、「先生」でいいと訂正し続けてきた。

・いずれにしても、これからは一人の「じいさん」でいい。だから、研究者であることもやめにした。論文なんて金輪際、一本も書かない。そう決めている。だからといって、大学の先生や研究者としての仕事自体が厭だったわけではない。先生や研究者であったけれども、極力その役割から距離を置いて振る舞い、また発言したり書いたりしてきた。先生だけど先生ではない。研究者だけど研究者ではない。そんな立ち位置を、面白がったり、冷や汗かいたりしながら過ごしてきた。

・大学で教え始めたのは20代の後半からで、専任教員になったのは40歳だった。長い非常勤暮らしで、しんどいことも多かったが、学生とのつきあいにしても、書いたものにしても、専任とは違って自由の範囲は大きかった。その都度の興味関心に応じて三冊の単著と一冊の共著を書いた。学会にも所属せず、つきあう人も少なかったが評価してくれる人もいた。大学の他に塾や家庭教師もやって忙しかったが、今思うと、一番勉強した時期で、頭も一番さえていたと思う。

・専任になると研究室と研究費が与えられて、もっと生産的に仕事ができるだろうと思った。そうはいかなかったのは、何より組織の一員になって、慣れないことをやらなければならなくなったせいだ。なかば強制的に勧められて、学会にもいくつか入って、すぐに紀要の編集委員だの、部会の司会やシンポジウムの発言者もさせられることになった。組合も初めての経験だった。ゼミの学生がいつでも研究室にいるといった状態にもなった。しかし、何より大きかったのは、ポストについてほっとしたことだった。

・もっとも最初に勤めた大学には、正当さや常識からはずれた個性的な人が多く、その人達に、学内政治に興味を持っていけないとか、学務に能力があると思われないようにといったアドバイスをされた。先生らしくない先生、研究者らしくない研究者といった立ち位置を見つけることができたのは、そんな人たちと過ごせたおかげだったろう。

・東経大に移ったのは50歳の時だった。大学院設置の呼びかけに応じたのは、「コミュニケーション」と名のついた学部に対する興味からだった。もともと東京出身だったこともあるが、住まいは都会ではなく、河口湖にした。都会ではなく田舎に住みたいと思ったのが一番だが、理由には、大学と距離を置くこともあった。そこで18年間勤めてきたが、やりがいがあったのは、大学院での決して秀才ではないけれど、個性豊かな人達とのつきあいだった。

・大学が就職予備校化し、大学院は留学生ばかりになった。学務を真面目にやる若い先生が目立つようになって、ここ数年、大学がどんどん変容していくことを目の当たりにしてきた。今となってみれば、僕のような先生を許容した大学という職場が懐かしくさえ思えてくる。自分がやめることにさみしさは少しも感じないが、大学の変わりようには、危惧の念をもつ。とはいえ、先生卒業。お役御免でほっとした。

2018年1月15日月曜日

『カズオ・イシグロをさがして』

 

journal3-170.jpg・カズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞は意外だった。僕は彼の作品を何冊かもっているが、一つも読んでいなかった。なぜ買ったのかも覚えていないが、映画の『日の名残り』の原作者だったということかもしれない。日本ではまた、ノーベル文学賞を日本人が取ったとか、それが村上春樹でなかったとか話題になったが、僕にとっては日本の組織も多く提携している「ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)」の平和賞受賞について、政府が何もコメントしなかったことに、いまさらながらあきれた。カズオ・イシグロは日本人かもしれないが、英国籍をもった現代のイギリスを代表する作家であって、日本とは直接関係ないはずなのにである。

・彼の受賞については、そんな程度の興味しかなかったが、NHKが放送した『カズオ・イシグロをさがして』をYoutubeで見かけて、見ることにした。大ファンだという生物学者の福岡伸一が故郷の長崎を訪ね、イギリスに出向いてイシグロ本人に会ってインタビューをした。そこで、イシグロ文学のテーマが「記憶」であることを知った。

・心に残る「記憶」はくり返されることで次第に美化されて、現実とは違ったものになる。福岡は、そのような記憶を「ノスタルジー」として小説のテーマにすることについて、イシグロに聞いた。その応えは、子どもが親の保護の元で暮らして残る「記憶」は、親によって「世界がまるで美しい場所であると装われた」ことでできたものだと言う。その意味で「ノスタルジアは決して存在しない理想的な記憶」なのだとも。だから大人になれば必ず、現実の世界について「失望感」を味わうことになる。

・そんなふうにして人々の中に蓄積された「記憶」は、親しく関係し合う人たちの間で、時に共鳴し、時に不協和音になる。そしてそれがまた、それぞれにさまざまな「感情」を抱かせる。イシグロ文学の核心がそこにあるのだということを、二人の話の中から感じた。

・イシグロが最初に書いた長編小説は長崎を舞台にしたものである。それは彼の幼い頃の記憶に対する強い関心から出発したものだが、自分のなかにある「記憶」はあくまで、自分の中で私的に創りあげられた「JAPAN」であって、現実の「日本」ではなかった。その『遠い山なみの光』は、長崎からイギリスに移り住んだ女性が、長崎の記憶を回顧することで物語られている。

・福岡は、彼の研究テーマである「動的平衡」をイシグロの作品からヒントを得たと言う。生物は外見的には変わらないように見えても、ミクロなレベルでは絶えず変化をしていて、数ヶ月もたてば完全に入れ替わってしまっている。そんな流転する存在を支えるものを彼は追求してきた。

・そんな福岡の語りについて、イシグロは「記憶」もまた流転すると言う。彼にとってその最大の「記憶」は、生まれ故郷の「日本」についてのものだった。だから、「日本」について抱き続けてきた「記憶」を、それが色あせないうちに小説として固定させたいと思ったと応えた。それ以来、人間と記憶の問題に魅了され続けているのだとも。

・カズオ・イシグロは作家ではなく、ボブ・ディランのようなシンガー・ソング・ライターになりたかったのだと言った。彼は僕より5歳年下だから、そんなふうに思った時点のディランは、表から退いて隠遁生活をしていた時期にあたるだろう。学生運動も終わっていたけれども、60年代の若者の運動から生まれた「ライフスタイル」は享受することができた。そんな話を聞いて、僕は彼に強い親近感を持つようになった。

・音楽との関わりについて、彼はまたノーベル文学賞の授賞式でのスピーチで、ほとんど完成していた『日の名残り』に最後の一筆を書き加えるインスピレーションをたまたま聴いたトム・ウェイツの「ルビーズ・アーム」から得たと話している。しかも、そんな経験は一度だけではないとも。「歌を聴きながら、『そう、これだ、あの場面はこういうものにしよう、こんな感じに近いものに』と、独り言を言っていました。それはしばしば、私がうまく文章にできないような感情でした。でも、そこに歌があり、歌う声を聞いて、自分が目指すべきものを教えられたのです。」

・昨年のノーベル文学賞がなぜボブ・ディランだったのか。そのことを自らの体験をもって証明した発言だった。積読だった彼の作品を読むことにしよう。そんな気にさせたドキュメントで、今は彼の小説を読み続けている。