・4年生のゼミが終わった。これで正真正銘、「先生」と呼ばれる仕事から自由になった。もう誰にも「先生」などと呼ばせない。と言いたいところだが、卒業生にとっては、ずっと「先生」のままだから、これは仕方がない。しかし、それほど「先生」と呼ばれることが厭だったことを改めて実感した。もっとも「教授」と呼ばれるのはもっとキライで、学生がそう言うたびに、「先生」でいいと訂正し続けてきた。
・いずれにしても、これからは一人の「じいさん」でいい。だから、研究者であることもやめにした。論文なんて金輪際、一本も書かない。そう決めている。だからといって、大学の先生や研究者としての仕事自体が厭だったわけではない。先生や研究者であったけれども、極力その役割から距離を置いて振る舞い、また発言したり書いたりしてきた。先生だけど先生ではない。研究者だけど研究者ではない。そんな立ち位置を、面白がったり、冷や汗かいたりしながら過ごしてきた。
・大学で教え始めたのは20代の後半からで、専任教員になったのは40歳だった。長い非常勤暮らしで、しんどいことも多かったが、学生とのつきあいにしても、書いたものにしても、専任とは違って自由の範囲は大きかった。その都度の興味関心に応じて三冊の単著と一冊の共著を書いた。学会にも所属せず、つきあう人も少なかったが評価してくれる人もいた。大学の他に塾や家庭教師もやって忙しかったが、今思うと、一番勉強した時期で、頭も一番さえていたと思う。
・専任になると研究室と研究費が与えられて、もっと生産的に仕事ができるだろうと思った。そうはいかなかったのは、何より組織の一員になって、慣れないことをやらなければならなくなったせいだ。なかば強制的に勧められて、学会にもいくつか入って、すぐに紀要の編集委員だの、部会の司会やシンポジウムの発言者もさせられることになった。組合も初めての経験だった。ゼミの学生がいつでも研究室にいるといった状態にもなった。しかし、何より大きかったのは、ポストについてほっとしたことだった。
・もっとも最初に勤めた大学には、正当さや常識からはずれた個性的な人が多く、その人達に、学内政治に興味を持っていけないとか、学務に能力があると思われないようにといったアドバイスをされた。先生らしくない先生、研究者らしくない研究者といった立ち位置を見つけることができたのは、そんな人たちと過ごせたおかげだったろう。
・東経大に移ったのは50歳の時だった。大学院設置の呼びかけに応じたのは、「コミュニケーション」と名のついた学部に対する興味からだった。もともと東京出身だったこともあるが、住まいは都会ではなく、河口湖にした。都会ではなく田舎に住みたいと思ったのが一番だが、理由には、大学と距離を置くこともあった。そこで18年間勤めてきたが、やりがいがあったのは、大学院での決して秀才ではないけれど、個性豊かな人達とのつきあいだった。
・大学が就職予備校化し、大学院は留学生ばかりになった。学務を真面目にやる若い先生が目立つようになって、ここ数年、大学がどんどん変容していくことを目の当たりにしてきた。今となってみれば、僕のような先生を許容した大学という職場が懐かしくさえ思えてくる。自分がやめることにさみしさは少しも感じないが、大学の変わりようには、危惧の念をもつ。とはいえ、先生卒業。お役御免でほっとした。
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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。