2019年2月24日日曜日

旅から帰って

 

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forest156-3.jpg・15日間の旅から帰ってきた。3200kmほどを一人で運転し、事故もこわい思いもしなかったが、知人宅を訪ねた時に少しこすって、へこみとペンキのハゲができてしまった。目立つから修理しようと思うが、自分でではなく業者に頼もうと思っている。アウトバックはアメリカ仕様で、幅も高さも大きいから、街中のホテルでは駐車できずに、近くの駐車場に止めざるをえなかった。去年の四国旅行は街外れの休暇村やかんぽの宿が多かったから、改めて、大きいことのマイナスが気になった。もっとも、長期の旅行では車内が広いし、座席もゆったりしていて、運転疲れも少なくて済んだのだと思う。とは言え、帰って数日は体がだるく、頭もぼーっとして、日常モードに戻らなかった。

forest156-2.jpg・街中のホテルにしたのは、食事を近くの居酒屋などでしようと思ったからだった。旅館やホテルの食事はにぎやかで量が多くて、食べ過ぎてしまうし、パートナーは食べきれない。で、適当な所を事前にチェックしておいた。広島の牡蠣、福岡や佐世保での刺身、長崎のちゃんぽん、鹿児島の鰻、宮崎の牛肉などに舌鼓を打ったが、一番は熊本のとんかつだった。旅の最後の阿蘇と湯布院は夕食付きの宿で、阿蘇は肥後牛、湯布院は豊後牛がメインだったから、3日連続で霜降り牛を食べることになった。おいしかったが赤身の肉が欲しくなった。

・帰宅途中にいつものスーパーで一週間分の買い物をした。ピーマンは宮崎、アサリは熊本、いちごは福岡、牛肉や黒豚は鹿児島、そして買わなかったが鰻も鹿児島で、改めて毎日食べているものが日本全国からやってきていることを実感した。もちろん、他にも北海道や東北、北陸や中国地方からやってくるものもある。ついでに言えば、良く買うアスパラはメキシコだし、ニンニクはスペインだ。別府から大阪へのフェリーの大半が大型トラックだったのもうなづけるというものである。そう言えば鹿児島の居酒屋では、鰻の生産量は日本一なのに、市内に鰻屋ががあまりないと話していた。地元の人が食べるものと、生産しているものが必ずしも一致するわけではない。そんなことも改めて教えられた。

forest156-4.jpg・河口湖は帰れば15度もあって、すっかり春の様子だった。聞けば、この間に雪もほとんど降らなかったという。一番寒い時期を暖かい所で過ごそうと思って昨年から旅を始めたのだが、かえって九州の方が寒かった気がした。とは言え、外は15度でも家の中は8度だったから、すぐに薪ストーブに火をつけた。ログハウスは木が暖まるのに時間がかかって、1度上げるのに1時間もかかる。外に出れば暖かいのに、ストーブは最大限の火力にした。
・暖冬と二週間の旅のおかげで、今冬は薪の消費量が少ない。次の冬用の原木も、去年より一立方メートル少なかったのに、この時期での薪の残量は多い。もう春の気配だから、この分なら、来年の冬の薪を心配することもないだろうと思う。さて、来年の冬はどこに行こうか。もうそんなことを考えたりしているから、いい気なもんだと、我ながらあきれてしまう。

2019年2月18日月曜日

九州旅行

 

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・前回更新日は長崎でした。その後島原半島から熊本に行き、天草、鹿児島、宮崎、阿蘇、湯布院まで来ました。旅も終盤で、今日は別府からフェリーに乗って大阪まで行きます。

・島原半島は普賢岳が噴火した後、学生を連れてフィールドワークをした所です。まだ生々しかった現場についての記憶とは違って、ずいぶん整備されていました。災害記念館では、火砕流や土石流の映像を見ましたが、周辺には石や土に埋もれたままの家も残されていました。普賢岳は雪で、残念ながら近くまでは行けませんでしたが、麓からは雪を被った姿を望むことができました。その後、フェリーで熊本へ。地震で崩れた熊本城を見に行きました。

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・天草は大学生の頃に来て以来ですから、50年ぶりになります。今回立ち寄ったのは大学院に社会人入学したHさんと会うためでした。これで懐かしい人5人目です。下島を北から西に車を走らせ、中を突っ切ってまた本渡に戻り、翌日は南下して牛深からフェリーで長島へ。出水で越冬中のツルを見物し、水俣の水俣病情報センターを見学しました。その後南下して鹿児島まで。途中で川内原発近くを通りました。

・鹿児島では指宿に行き開聞岳を見て、砂湯に入りました。砂をかけてもらうと、足先までどきどきしてきて10分と入っていられませんでした。予定ではフェリーで大隅半島に渡るつもりでしたが、フェリーが少なくて、鹿児島に引き返して桜島に行きました。展望台から見る桜島は、まさに噴火中という恐ろしくなるような風景でした。我が家では牛肉や黒豚、そしてウナギは鹿児島産を買うことが多いです。本場で食そうということで屋台村に行きました。出荷数は日本一だけど鹿児島にはうなぎ屋が少ないのだそうです。


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・宮崎までは神宮巡りになりました。霧島神宮に鵜戸神宮。霧島は火山の溶岩、鵜戸は砂岩と泥岩が作る海岸の絶景でした。宮崎から日南にかけてはプロ野球チームがいくつもキャンプをしていましたが、もちろん素通りです。次の日は高千穂峡から阿蘇へ。溶岩が作る柱状節理が深く削れて渓谷を作っていて、前の日とあわせて、九州の地殻変動のすごさを実感しました。
・阿蘇は中岳の活動が活発で火口は立ち入り禁止でした。5つの山が並ぶ景色は壮大で驚いたのですが、続いて見た九重連山は雪を被っていて圧巻でしたし、最後に見た由布岳もまた、雪を被ってなかなかの姿でした。せっかく積んできた自転車に全然乗っていないので、宿の付近を走らせました。上り下りが多くてきつかった。

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2019年2月11日月曜日

今年は九州一周

 


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・去年は四国八八カ所の巡礼をしましたが、今年は九州を一周しています。2月の厳冬期を避けて、暖かい所で過ごすことにして二回目の行動です。河口湖の冬は今の時期が一番寒いのですが、今年はそもそも暖冬で、出かける数日前には季節外れの暖かさになって、もう春かと思うほどでした。しかし、これからはわかりません。実際、出かけて数日後に雪という予報がありました。

kyushu2.jpg・河口湖を出発して1日目は大阪、ここではパートナーの知人と会い、一緒に夕食を食べました。もう90才ですが、ビールを飲んで元気なおばあちゃんでした。2日目は広島まで。河口湖からは800キロ、給油したら46Lでしたから、Lあたり17キロも走りました。平和記念公園にはじめて行き、原爆ドームを見ました。広島は縁のないところで来る機会がなかったので、一度は見ておくべきだと思いました。宿は朝食だけにして、夕食はホテル近くの居酒屋で、生牡蠣や牡蠣フライを食べました。

kyushu3.jpg ・3日目は途中秋吉台によって福岡まで。カルスト台地も学校では習っているから一度は見ておこうと思って寄りました。秋芳洞には中国人の観光客が多くて驚きました。秋吉台は寒風が吹いて寒かったのに、秋芳洞はいつでも17度。歩いていると汗をかくほどでした。今までいくつもの鍾乳洞を見てきましたが、規模はここが一番でした。下関の水族館でフグにもいろいろ種類があるのだなと感心して、関門トンネルで海峡をくぐって福岡着。夕飯はここでも居酒屋で、壱岐の島特産の刺身と牛の薄焼を食べました。普段と違って毎晩ビールを飲んでいます。

・4日目は福岡から吉野ヶ里遺跡に行き、友人のFさん宅を訪ねて歓談し、有田で陶土の採掘場をみて佐世保まで来ました。ここまでずっと天気が良くなくて、今日も雨。吉野ヶ里遺跡は広大でしたが、雨の中でしたから歩くのは一部だけにしました。有田の陶土採掘場は「ブラタモリ」で見ましたが、もう山を削り取ってしまったことがわかるほどでした。全部陶器になったのかと思うと、有田焼の生産量のすごさがあらためてわかる気がしました。


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・5日目は佐世保から長崎まで。国道202号線で西岸を南下しました。サンセット道路。角力(すもう)灘という名でいくつもの大小の島が点在していました。その一つ、橋でつながった大島に寄り、隠れキリシタンの村や遠藤周作文学館などを見て、長崎の町を稲佐山から眺めました。曇り空で雨もぱらぱら降っていましたが、長崎市内に入ると青空になり、稲佐山の展望台からは長崎湾や町並み、そして雲仙なども見ることができました。夜は知人のKさんの案内で町を散歩して、ちゃんぽんや皿うどんで歓談。折から長崎はランタン祭りで大賑わい、運がよかったのやら悪かったのやら。旅はまだ3分の一が終わったところです。


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2019年2月4日月曜日

最近買ったCD

 

Mark Knopfler "Down The Road Wherever"
Tom Waits "Closing Time"

・最近、CDをほとんど買わなくなった。大学を辞めて研究費で買えなくなったというのは一昨年のことで、そこから良く吟味してから買うことになったのだが、そもそも気になる新譜が滅多に出なくなった。ぼくがつきあってきたミュージシャンがみんな歳を取ったということもあるし、若いミュージシャンについてアンテナが効かなくなったということもあるのだろう。あるいは、新作発表としてCDを使わなくなったのかもしれないとも思う。いずれにしても、このコラムに取りあげるものがなくて、どうしようかと悩むことが多くなった。コンサートにも3年近く行っていない。

knopfler2.jpg・アマゾンが新譜やあなたに勧めるCDといってメールを送ってくる。しかし、その多くはすでに持っているものだったり、気をそそられるものがほとんどなかったりする。ぼくの好みはデータによって分かっているはずなのに、まったく当てにならないから、ビッグデータもいい加減なものだと言いたくなる。しかしその中で久しぶりに気になるものがあった。

・一つはマーク・ノップラーの新譜だ。ノップラーは精力的に活動しているミュージシャンだ。このコラムでも16年に"Altamira" 、15年に "Tracker"、そして13年に"Privateering"を紹介している。スコットランドのグラスゴー出身で、母親がアイルランド人ということもあって、彼の音楽にはケルトを感じさせるものが少なくないが、今回はちょっと違っていた。「新しく試みたスローでエレガントな歌のコレクション」というのがノップラー自身の狙いだったようだ。アルバムタイトルは「どこであろうとこの道をくだろう」といった意味だろうか。同名の曲はないが、どの曲も息せき切って駆け上がるものではなく、静かにくだっていく感じだ。中身は過去を振り返るものが多い。

waits9.jpg・もう一枚はトム・ウェイツの "Closing Time"だが、これは新譜ではない。1973年に発表されたものだから、もう45年も前のものになる。持っていないのに, デビューアルバムだと言うことと、評価が高いから買うことにした。聞き慣れただみ声とはちょっと違い、ピアノだけで静かに歌っている。「酔いどれ詩人」などと形容され、チンピラか用心棒のような風貌が特徴的だった時とは大違いだ。ジャケットに映っているトムは、痩せていて、ピアノの前で悩みを抱えるようにうつむいている。歌も孤独をテーマにしたものが多い。ヒットとはならなかったようだが、今聴いてみると、彼のまた別の一面が感じられた気がした。

・そう言えば、パートナーのキャスリン・ブレナンとの共作で何枚ものアルバムを作ってきたが、2011年の"Bad as Me"以来、しばらくなりを潜めている。精力的にライブ活動をやっているマーク・ノップラーとは違い、ライブもしていないようだ。
waits10.jpg・もっとも昨年コーエン兄弟が監督した『バスターのバラッド』には出演しているようだ。六つの話で構成されるオムニバス映画で、トムが出ているのは第四話の「金の谷」だという。山奥で砂金を掘る老山師が鉱床を掘り当てて、それを独り占めにしようとした若い男を殺す話のようだ。画像で見る限りではすっかり老けている。オフィシャルサイトを見ると、劇場公開はなしでNetflixで独占配信しているようだ。見たいけれども、ちょっとためらっている。ともあれ元気なようだから、そのうちまた新しいアルバムを発表してくれるかもしれない。

2019年1月28日月曜日

パトリシア・ウォレス『新版インターネットの心理学』 (NTT出版)

 

wallace1.jpg・この本の旧版は1999年に出版され、日本では2001年9月に翻訳されている。ぼくは2003年1月にこのコラムで紹介した。インターネットが一般に使えるようになったのは1995年だから、ごく初期の利用者に見られた特徴を描き出そうとしたものだった。それが同じ著者による改訂版として出版された。翻訳を2冊ともやっているのは川浦康至だが、彼はぼくとは大学の同僚で、一昨年一緒に退職した仲である。退職と同時に遊んでばかりいるぼくとは違って、彼は500ページにもなるこの本を翻訳した。しかも贈っていただいたからには何はともあれ紹介しなければならない。で、がんばって読んでみた。

・前作でぼくが注目したのは、「インターネットのリヴァイアサン」と「集団成極化」だった。「リヴァイアサン」はトマス・ホッブスが国家について使った概念で、人間がたがいに争い合うことを避けるために各自が持つ「自然権」を国家(リヴァイアサン)に譲渡すべきだとしたものである。国境がなく世界中の誰もが参加できるネットの世界には、そこを統治する権力は存在しなかった。だから参加者たちは、やりたい放題ではなく、その場が機能するようにルールを決め、エチケットを心がけることが前提にされ、「ネチケット」とか「ネチズン」といった言葉が使われた。

・しかし、インターネットが急速に進化すると、多様な場にいろいろな人たちが接触するようになり、誹謗中傷や暴言が飛び交うことが問題にもされた。前作が主なテーマにしたのは直接接触の場とインターネットにおける、自己呈示の仕方の違い、他者との関係の持ち方の違いと、それによってもたらされた、世界の出現であった。ネットへの参加は何より「匿名」であることが一般的で、それが直接接触の場ではできないことを可能にした。またネットは同じ意見や趣味を持つ者との接触を容易にした。そうやってできた似た者同士の集団は、極端に走りやすい特徴を持った。ウォレスはそれを「集団成極化」と名づけた。

・『新版インターネットの心理学』の原著 は2016年に出版されている。だから前作からは17年後の改訂版である。インターネットはこの17年の間に大きく変わり、まったく別物になったといってもいい。何より利用者の数が桁違いだし、利用の仕方も多種多様になった。スマホの登場によって人びとの日常生活に深く入り込み、なくてはならないものになったし、世の中を大きく動かす手段としても使われるようになった。だからこの本で扱う事例も複雑で多様だが、しかし、基本的な所では案外共通しているとも思った。

・たとえばそれは目次を見ればよくわかる。章構成は第一章の「心理学から見るインターネット」から始まって、「あなたのオンライン性格」「インターネットの集団力学」「オンライン攻撃の心理学」「ネットにおける好意と恋愛」と続くが、これは旧版とほとんど一緒である。違いは旧版ではインターネットとポルノの問題が独立していたが、新版ではジェンダー問題と合わせて「ネットにおけるジェンダー問題とセクシャリティ」になった。反対に新版で新たに加わったのは「オンラインゲーム行動の心理学」と「子どもの発達とインターネット」、そして「オンラインプライバシーと監視の心理学」だ。

・もちろん、旧版と似た章構成の部分も、中身はほとんど変わっている。ネットでの自己呈示は文字が中心だった段階から画像が容易に使えるようになり、音声や動画も当たり前になった。フェイスブックやツイッター、インスタグラムやユーチューブなど、利用できる場は無数にある。当然、そこでの自分の「印象管理」も複雑で多様になるわけで、その細かなケースを豊富な先行研究を紹介することで検討している。同様の方法はネットにおける個人や集団間にあらわれる友情や恋愛、手助けや協力、そして妨害や攻撃を扱う章にも通じている。

・人生の途中でインターネットに出会った「デジタル移民」と違って、現在では生まれた時からインターネットが身近にある「デジタル世代」が、すでに成人に達しようとしている。実社会とは違うもう一つの世界として認識するのではなく、両者が混在一体となっていることを当たり前に思う感覚は、「デジタル移民」には持てない感覚だろう。

・インターネットは「移民」の一人としてぼくも便利に使っていて、もはやなくてはならないものになっている。便利だが、言動のことごとくをチェックされ監視されているのを自覚することも少なくない。その意味で、ネットにまつわるさまざまな問題と事例を検証しているこの本は、人間個人から関係、そして社会に及ぶ問題を視野においている。だから、一気に読むだけでなく、時に応じて気づいたことを辞書のように確認するにも使えるものだと思う。

2019年1月21日月曜日

テレビは太鼓持ちの世界

 

henoko.jpg・辺野古の埋め立てを止めるために、アメリカ政府の誓願サイトへの署名が20万以上になった。モデルのローラやクイーンのブライアン・メイの呼びかけが大きな反響をよんだと言われている。ぼくも早い時期に署名をした。ラジオやテレビがこれをニュースとして扱ったのは、ローラの呼びかけがあって10日間で10万を超えた頃からだったが、テレビやネットには、それに対する批判や誹謗中傷が溢れた。安部べったりのお笑いタレントが、テレビで「タレントは政治発言をするな」といったのには、あきれかえってしまった。こういう発想をする人たちは「政治的発言」は権力に反対することであって、賛成するのは政治的ではないと考えているのだろう。太鼓持ち的態度はそれ自体が政治的なのにである。

・ローラに対してはCMを降ろせとか使うなといった暴言もあったが、テレビ出演やCMで稼ぐタレントたちにとっては、これが一番怖い言葉なのだと思う。民間放送はCMによって成り立っている。だからスポンサーの意に沿わない番組や出演者は、批判されたり、降ろされる危険性がある。それを恐れ、過剰に忖度する空気が、テレビ局全体を包んでいる。NHKは視聴料によって成り立っているから国民の方を向くべきだが、もうすっかり安部チャンネルになって、政府の公共機関に成り下がっている。だからテレビ局全体が太鼓持ちだと言っていい。

・テレビCMは視聴者にモノやサービスの購入を誘う目的で作られている。「欲しい」「手に入れたい」といかに思わせるか。CMのメッセージはその事に尽きている。そしてその役割を担うのがタレントたちということになる。当然だが、自分では欲しくなくても、いいと思わなくても、大げさに、買わせよう、手に入れさせようとしてどんな演技も注文通りにしなければならない。

・テレビはCMを見せるためにある。番組そのものはあくまで、CMを見てもらうための付録に過ぎないのだ。しかしぼくはそのCMを見たくない。必要の無いもの、興味の無いものを誘惑してくることが気に入らないのはもちろんだが、ただ仕事のために、「買え、買え」と連呼するタレントの無責任さに腹が立つことが多いからだ。彼や彼女たちは、自分が勧める商品に、どれだけの責任を感じているのだろうか。おそらく、そんなことはまったく考えていないのだろうと思う。

・他方でテレビはマスメディアとして、ジャーナリズム機関としての社会的役割を持っているとされている。あくまでタテマエだが、少なくとも数年前までは、そんな役割を標榜するような番組もあったし、いいたいことが言える雰囲気もあった。しかし、数少ない報道番組が中止になったり、キャスターが交代したりして、批判色の薄い内容になってしまっている。「政権に楯突く奴はテレビから出て行け!」こんな言葉が、公然と発言されるようになったら、テレビはもうおしまいだろう。

・テレビは政権とスポンサーの太鼓持ち。しかも、お馬鹿タレントやイエスマンばかりを集めたバラエティ番組で時間を埋めるしか能がなくなっている。大宅壮一がテレビを「一億総白痴化」と批判したのは、テレビが普及し始めた1950年代後半のことだが、その警鐘が半世紀以上経って、本当に蔓延してしまった。もちろんぼくは、こんな地上波のテレビは、ほとんど見ていない。

2019年1月14日月曜日

平成とは

 

・もうすぐ平成が終わる。平成とはどんな時代だったのか。メディアにもそんな特集を組むものが出始めている。戦後の経済成長によって豊かな国になったのに、昭和から平成への変わり目を頂点にして下降線をたどり続けた30年だった。それが一般的な見方のようで、ぼくもそう思う。落ち込みは経済が一番だが、政治の劣化は目を覆いたくなるほどで、少子化や格差の拡大による社会の疲弊も無残というほかはない。

・4万円に届こうかという勢いだった株価が1万円を割り、アベノミックスで2万円に回復したとは言え、実態は日銀や年金機構が買い支えるというインチキなものである。日本の企業を支える大株主が日銀や年金機構だというのは、いびつで危険な状態である。国の予算の4割を借金でまかなうのも、今では常態化してしまっている。そのために、国と地方の借金は平成元年には250兆円だったのが、30年には1100兆円を超えた。なぜ財政破綻をしないのか不思議なほどの額になっているのである。

・テレビでは相変わらず「日本のここがすごい」といった特集をやっている。しかし、経済成長をリードした家電業界は、すでに見る影もなく衰退しているし、好調だと言われる自動車にも陰りが見え始めている。平成の30年はまたパソコン、インターネット、そして携帯からスマホへといった大きな変化があった時代だが、「ガラパゴス」という閉じた発想によって、日本は完全に取り残されてしまった。

・「グローバリズム」や「少子高齢化」といった現象に、政治はまったく対応できなかった。選挙制度を大きく変え、民主党が政権を取ったりしたが、その事がかえって、政治の混迷や横暴を招く結果をもたらした。優秀だと言われた日本の官僚組織の劣化は、特にここ数年ひどいものになっている。借金財政なのに防衛予算だけが大幅に増大し、福祉や年金が削られている。団塊の世代が退職をして高齢化していく時期を迎えても、ほとんど何も対策が採られていないのである。

・少子高齢化がやってくるのは何十年も前から分かっていたことだから、今になって騒いでも後の祭りというものである。労働者の不足を補うために外国人をもっといれようとしても、その対応策はほとんどとられていない。そもそも、移民としては認めないという身勝手なものになっている。格差社会をさらにひどくするものだから、人権無視や犯罪の増加といった社会不安も増すばかりだろう。

・平成のはじまりには、ソビエト連邦がロシアになり、ベルリンの壁が崩壊して、冷戦構造も終結した。中国の改革開放が本格化し、自由と民主主義を求める波が天安門事件で粛正されたのも、平成元年のことだった。EEC(欧州経済共同体)がEU(欧州連合)になったのが1991年。世界が大きく変わることを実感させる出来事が続いた。この30年で世界の人口は1.5倍に増え、世界の名目GDPも3倍以上になった。この増加をリードしたのは、中国やインドなどのアジアとアフリカ諸国だ。

・ユーゴスラビア紛争が起こり、連邦が解体する内戦になり、中東の混迷のきっかけになった湾岸戦争が始まったのも平成のはじまりだった。ニューヨークの貿易センターに旅客機を衝突させた9.11事件があって、アメリカがイラクのフセイン政権を倒し、リビアやシリアなど多くの国に波及して内戦状態になった。多くの難民が出て、豊かなヨーロッパに押し寄せた。それを嫌うナショナリズムの高まりが、極右の政治家や政党を生み出してもいる。改めて振り返ると、昭和から平成への変わり目が、世界的に見ても大きな変化をし始めた時期だったことが分かる。

・最後に個人的なことに目を向けてみよう。平成の30年はぼくが大学の専任教員として働いた年月でもあった。途中で大学を大阪から東京に代えたが、この30年はまた学生の気質や大学という場に大きな変化があった時期でもある。大学が勉強する場であることは、ぼくが学生の頃から薄れ始めていたが、レジャーランドと揶揄され、また就職予備校へと変貌していく過程は、ぼくにとっては居心地の悪さが募っていく変化でもあった。

・今は退職し、70歳になって、これから老後と言われる生活をするようになった。今の生活がいつまで続けられるか。それはぼく自身の心身の変化に関わる問題だが、同時に、日本や世界の政治や経済、そして社会や文化がもたらす変化とも関わってくる。それにしても、両面に渡って、何とも先が見えにくい。そんなことを改めて感じてしまった。