2019年7月1日月曜日

スプリングスティーンとマドンナ

 Madonna "MadameX"
Bruce Springsteen "Western Stars"

madonna6.jpg・マドンナが4年ぶりにアルバムを出した。前作のタイトルは『反抗心(Rebel Heart)』で、突っ張りぶりを遺憾なく発揮していたが、今回は『マダムX』という名前だ。「マダムX」はスパイで、さまざまに姿を変えながら世界を巡り自由のために戦い、暗黒の場所に光をもたらす。そんな物語で全曲が構成されている。だから歌には英語の他にスペイン語やポルトガル語が入り、サウンドにはラテンやアフリカ、そしてポルトガルのファドを感じさせるものもある。

・彼女がこのアルバムで主張しているのは、世界が融和や連帯ではなく争いや分断の方向に舵を切ってしまっていることに対する批判だ。だからこのアルバムでは中南米やアフリカ、そしてアラブに行き、またアメリカに戻って、さまざまな境遇に身を寄せ、抵抗を支援する。高校での銃乱射事件をきっかけに銃規制運動に立ち上がった高校生のスピーチが、そのまま使われてもいる。還暦を過ぎてなお、その突っ張りぶりは健在だ。

・日本では「音楽に政治を持ち込むな」といったことを正論として吐くミュージシャンが多い。そういった人たちは、マドンナのこのような姿勢をどう感じているのだろうか。もっともそう発言する人たちの多くは、権力者やスポンサーには従順で、メディアの言うなりにふるまったりもするから、無関心のままなのだろう。ポピュラー音楽は商業主義の中で成り立っているが、その出発点には政治や経済、そして社会や文化に対する批判があった。マドンナは世界で最も成功し、富と名声を得た女性ミュージシャンであり、また世界で一番強く不条理を批判する人でもある。その事を改めて実感したアルバムである。

springsteen4.jpg ・スプリングスティーンの『ウェスタン・スターズ』も5年ぶりのアルバムである。彼は1949年生まれでもうすぐ70歳になる。健在なのは確かだが、最初は、マドンナと比べるとメッセージもサウンドも地味な印象だった。オーケストラがバックだから、ロックでもないしフォークでもない中途半端な感じもした。しかし、何度も聴き、歌詞も読んでいるうちに、よく練られたアルバムであることがわかってきた。彼はインタビューでこのアルバムのコンセプトを、70年代の「南カリフォルニア・ポップ・ミュージック」、たとえばグレン・キャンベルやバート・バカラックにおいたと言っている。そこで歌われているのはハイウェイ、砂漠、孤独、コミュニティ、そして家庭と希望の永続性というテーマだとも。

・「偉大なアメリカ、アメリカ第一」と連呼して支持者を喜ばすトランプ大統領とは対照的に、スプリングスティーンが歌うのは、変質したアメリカから失われかけている古き良きアメリカだ。アルバム・タイトルになっている「ウェスタン・スターズ」で歌っているのは、かつてはハリウッドの脇役俳優で、ジョン・ウェインに殺される役をしたことがある老人の回想物語だ。あるいは「ヒッチハイキン」や「ムーンライト・モーテル」からはハイウェイの旅、「ツーソン・トレイン」は列車の旅で、がんばったが報われなかった生活や、人との別れや再会が描かれる。やはり全曲が物語になっている。アメリカ映画にはおなじみの夜明けや日没、砂漠や岩の風景のなかで。自分の人生を振り返る。

・二人の新しいアルバムを聴きながら、『マダムX』には『ミッション・インポッシブル』を『ウェスタン・スターズ』にはいくつかのロード・ムービーを思い出した。世界が壊れかけている。それは世界中から伝わる出来事に顕著だし、個々の人たちの生活や心にも溢れている。この二つのアルバムには、そんなシーンを見つめる二人の様子がいくつもちりばめられている。

2019年6月24日月曜日

年金だけでは暮らせないのは当たり前の話

 

・金融庁が財務大臣の諮問によって検討し、作成した年金に関する報告書が、物議を醸しています。仕事を辞めてから死ぬまでの間に、年金の他に2000万円必要という報告がなされたからです。最初は「100まで生きる前提で退職金って計算してみたことあるか?普通の人はないよ、たぶん。オレ、ないと思うね」と他人事のように話していた財務大臣も、批判の強さに豹変して、この報告書を受けとらないと、言い出しました。この態度にはあきれますが、今さらながらに驚いている世論にも首をかしげたくなりました。年金だけでは生活できないのは、受給者の多くにとって自明のことだからです。

・ 報告書によれば、夫65歳、妻60歳の無職夫婦がモデルで年金が21万円弱となっています。ところが支出は26万円強ですから、月々5万円不足して、100歳まで生きれば不足総額は2000万円になるということです。ごく当たり前の報告だと思いますが、いわれて初めて気づいて、驚いたり憤慨したりする人が多いという報道の方に、ぼくは驚きました。ところが、財務大臣だけでなく官房長官やその他の首相側近の議員たちが「不安や誤解を広げるだけの報告書で、評価に値しない」と発言して、金融庁に撤回要求を出したことには、またかという腹立ちを覚えました。目先の参議院選挙への影響しか頭にない発言としか思えないからです。。

・ 年金支給額が21万円というのは、国民年金だけでなく厚生年金も合わせて受給されることを意味します。しかも決して平均ではなくかなり多い額になります。厚労省によれば、国民年金の平均受給額は5万5千円で、厚生年金と合わせた平均額は15万円となっています。年金受給者がこの額ではとても暮らしていけないことは、言うまでもないことです。ぎりぎりに切り詰めるか、仕事をして収入を増やすか。そんな暮らしが高齢者にとってはごく当たり前になっているのです。しかも年金額はこれから減らされる可能性がありますし、破綻してもらえなくなる危険性だってあるのです。その意味では金融庁の報告書は、それでも甘いものだと言えるでしょう。

・ 国民生活基礎調査によると、1世帯あたりの貯蓄額は1000万円ちょっとのようです。当然、高齢者ほど額は大きいのですが、それでも60代が1300万円、70代が1250万円ほどで、2000万円には届いていません。ここにはもちろんばらつきがあって、今年還暦を迎えた人の4人に1人は貯蓄なしという調査結果も出ています。すでに年金が主たる収入源になっている人たちの多くは正規雇用で退職金も手にできた人たちが多いのだと思います。その人たちですら2000万円以上の貯蓄をするのは難しかったわけですから、若い人たちにとっては、絶対無理と思われてしまう数字なのかもしれません。現在、非正規で働く人の割合が4割になっていて、その平均所得は200万円に達していないのです。老後どころか働いているのに生活が困窮している人がこれほど多いのです。

・ 高齢化社会になれば年金制度が破綻しかねないことはとっくの昔からわかっていたことです。しかし政府は100年安心などという標語を掲げながら、ほとんど無策でやり過ごしてきました。それどころか「グリーンピア」などで大損したり、最近では株に多額の投資をしてその危険性が問題になっています。社会福祉に使われるはずの消費税が企業の減税などに使われてきたのですが、10%にあげる理由についても、相変わらず福祉の財源ということばがつかわれているのです。

・ 金融庁が出した年金を20万円もらってもなお、2000万円の貯蓄が必要という報告には、一面の真実があります。高齢者の多くはもちろん、若い世代の人たちの大半が、困窮した生活の中で長生きしなければならないという未来図を提示したからです。これにはもっともっと怒るべきだと思います。2000人程度のデモではなく香港並みの規模になってもおかしくない問題だからです。参議院選挙を控えて、政府や自民党の嘘にだまされないよう、現実をしっかり見つめるべきなのです。

2019年6月17日月曜日

DAZNをはじめた

 

dazn.jpg・スポーツには見たいもの、気になるものがいくつかある。そのうちテレビで見ることができるのはごくわずかだ。たとえばメジャー・リーグは毎日中継しているわけではないし、見たい試合をやっているわけでもない。日本のプロ野球(NPB)やJリーグにはそれほど興味はないが、それでも見たくなる時はたまにある。サッカーの国際試合は我が家では映らない民放が中継することが多いから、見られないことがしばしばある。ましてや自転車やF1などは、テレビではほとんどやっていない。そんな物足りなさを感じていたら、ブラウザーにしきりにDAZNの広告が載るようになった。

・DAZNはダズンではなくダゾーンと呼ぶ。各種スポーツを提供するインターネット・テレビで、イギリスに拠点を置いているようだ。日本では2016年からサービスを始めている。野球やサッカーはもちろん、モーター・スポーツや自転車、ラグビーやアメリカン・フットボール、さらには格闘技などのライブや動画を配信している。ぼくはたまたま自転車の「ジロ・デ・イタリア」の様子をYouTubeで見て、DAZNがライブを配信していることを知った。DAZNに行くとメジャー・リーグも毎日数試合やっている。自転車が気になったし、NHKのBSではMLBは限られているから、契約することにした。最初の1ヶ月は無料で、継続したければ月々税込みで1890円払うことになる。継続するかどうかはわからないが、今は1ヶ月のお試し視聴を楽しんでいる。

・スポーツならライブが一番だが、そうでなければ、視聴する時間を自分で決められるインターネットは、自分にとっては好都合だ。だからますます地デジからは遠のくようになった。そんな傾向に対応するためかNHKもネット配信を予定しているようだ。広告費がネットに移動して収益が落ち込んでいる民放も追随することだろう。しかし、同じ番組をただネットに垂れ流しても、それで視聴者数を維持したり、増やしたりできるわけではない。バラエティばかりのテレビは飽きられているし、政府にべったりの報道姿勢にも批判は高まっている。

・大体、政権に批判的な報道番組がここ数年でずい分減ってしまっていて、そのうちのいくつかはネットで放送されたりしている。ぼくは愛川欽也が「朝日ニューススター」で放送していた「愛川欽也パックインジャーナル」を楽しんでいたが、それが廃止になり、2012年に欽也自身が開局したkinkin.tvの「愛川欽也パックインニュース」を視聴するようになった。彼が亡くなって、2013年に「デモクラTV」として再開されてからずっと視聴しつづけている。月額525円ですでに6年が経過した。最近の政治や経済、社会について、意見や認識を共有できる論客やジャーナリストがいる番組になっている。こことは別れてYouTubeで「デモクラシータイムス」という名のチャンネルを提供しているところもあって、前者は東京新聞、後者は日刊現代と提携している。

・インターネットではすでにAmazonプライムに契約して、映画視聴を楽しんでいる。YouTubeでテレビやラジオの番組を見たり聞いたりすることも多い。YouTubeはCMで中断して不快に感じることがあるが、お金を払ってCM抜きにする気はない。他にも映画、スポーツ、音楽など、お金を払えば見放題、聞き放題のサイトが乱立しているが、今のところ、これ以上に増やすつもりはない。

・ところでDAZNだが、アメリカ旅行中にはMLBのライブを楽しむことができなかった。配信しているのはアメリカ国外であることがわかって、帰国するまで見ることができなかった。MLBのライブ配信はMLB自体がやっているから、アメリカではここと契約する必要があるのだろう。しかしDAZNは日本のプロ野球を毎日ほとんど全試合、ライブ配信している。ライブ配信によるMLBの収入はかなりの額になると思うが、NPBはライブ中継からどれほどの収入を得ているのだろうか。そんなことが気になった。

・放送はNHKなら受信料の徴収、民放なら広告収入で成り立っている。NHKはなかば強制的だし、民放には見たくないCMがたくさん入る。だから、見たいもの、聞(聴)きたいものだけをお金を払って楽しむという方式は、ぼくにとってはずっと好ましい形態に思える。とは言え、既存の放送局もネットに本格的に進出しようとしていて、視聴者の奪い合いがますます熾烈になっていくことに、DAZNを見始めて改めて気がついた。

2019年6月10日月曜日

久しぶりの海外旅行 シアトル、ポートランド

 

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・海外旅行は5年ぶり。パートナーの脳梗塞でイタリア旅行が直前でキャンセルされて以来です。リハビリの甲斐あって、短期間の海外旅行を試せるようになりました。8日間で、友人のKちゃんが住むポートランドへ。これは最初はKちゃんのところ行くと彼女と約束したからでした。ぼくの狙いはエンジェルスの大谷選手で、シアトルでマリナーズとやる試合に合わせて旅程を組みました。6月2日出発で、シアトルについてすぐに球場へ。荷物を球場近くにとったホテルに預け、セイフコではなく、今年から名前の変わったTモバイル球場に出かけました。

photo84-2.jpg・この日は日曜日で、少年野球チームがたくさん招待され、スタンドは子どもたちでいっぱいになりました。ゲームはエンジェルスの大勝で、大谷選手は3打席エラーで出塁というおかしな結果でした。試合そのものはおもしろくなかったけれど、メジャー・リーグの雰囲気を楽しみ、大谷選手を目の前で見ることができました。
・とにかく眠かったので、七回の「テイク・ミー・アウト・ツー・ザ・ボール・ゲーム」を歌ったところで、ホテルに戻ることにしました。球場を出ると自転車のリキシャがいて、30ドルと高かったけれど宇和島屋まで乗っていくことにしました。上り坂があって汗ビッショリになりながら漕いでいると、申し訳ないような気持ちになりました。

・翌日はアムトラックでポートランドへ。のんびり走って4時間で着きました。その日は息子さんの所でバーベキュー。分厚いステーキに焼きおにぎり。次の日は息子さんたちの運転でMt.フッド近くでキャンプ。目指したところはまだ雪で、ランクルがスタックしかかりましたが、何とか抜けて川べりに落ちつきました。5人と犬3匹でしたから、車内はぎゅうぎゅう詰めでした。枯れ木を集めてキャンプ・ファイヤーをして食事。水場もトイレもないところでキャンプするのが、ここでは当たり前のようでした。

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・ところで犬3匹の散歩は大変です。特に若いクロラブのサムは力が強くて元気ですから、散歩に連れていってもらえないことが多いようでした。そこでぼくがひいて、近所のローズ・ガーデンや森を散歩することにしました。
・というわけで、一週間の旅もあっという間に終わり、帰国の途につきました。ポートランドの町は、最近人口が急増して交通渋滞も激しかったですが、飛行機から見下ろすと、緑に囲まれたのどかな風景でした。

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2019年6月2日日曜日

井上俊『文化社会学界隈』 (世界思想社)

 

inoue1.jpg・井上俊さんはぼくにとって社会学の先生である。ぼくは60年代後半にアメリカで盛んになった「カウンター・カルチャー」に興味があって大学院に進んだが、それをどう分析するかはさっぱりわからなかった。院の授業で、映画や文学、あるいはポピュラー音楽などについて、雑談のようにして話をしたり、「文化」についての最新の研究を教えてもらったりすることで、視点の取り方や分析手法みたいなことが少しずつわかってきた。「大衆文化」や「若者文化」が関心をもたれるようになり、それらを分析する社会学的な考察にもまた、従来とは異なる新しい波が押し寄せていた。70年代初めは、新しい文化現象を新しい手法で分析できる、おもしろい時代のはじまりだったのである。

・ぼくが書いた修士論文のタイトルは「ミニコミの思想 対抗文化の行動と様式」だった。「ミニコミ」については、やはり大学院で、この分野の第一人者だった田村紀雄さんから、いろいろ教わった。大学院には教員と学生の間に「教える者」と「教わる者」という明確な違いがあって、その垣根を越えることは、学生にとってはしてはいけない行為のように思われていた(今でもそういうところはかなりあるようだ)。しかし、二人とは最初から友達関係のようにしてつきあうことができた。その意味で、たまたま行った大学院で二人の方と出会うことができたのは、幸運以外の何ものでもなかったとつくづく思う。

・『文化社会学界隈』を読んでいると、そんな半世紀も前のことが思い出されて楽しくなった。とは言え、書かれているのは決して古いものではなく、大半は今世紀になって書かれたり、話されたりしたものである。たとえば「社会学と文学」の章では文学と社会学の関係を改めて整理している。社会学にとって文学とは何か。それは社会学の理論をわかりやすくする具体例の宝庫というだけでなく、先行研究として、その中にある社会学的な芽を見つけるべきものでもある。社会学が扱うテーマや視点、あるいは考え方は文学だけでなく、社会や人間を扱うさまざまな表現形態のなかにもある。映画や音楽、アート、そしてスポーツなど。まさにこの本の題名が示す「文化社会学界隈」である。

・また、「初期シカゴ学派と文学」では、その代表的な存在であったR.E.パークがジャーナリスト出身であることを取りあげて、社会学の調査とジャーナリズムの取材における類似性と違いについてふれている。社会の実態をより正確につかむためには、その表層だけでなく、非行や犯罪、浮浪者や売春婦などを研究対象にして、いかがわしさの側から見る視点が必要になる。そんな伝統は20世紀前半に、シカゴ学派から始まった。他方で社会学には統計調査をもとにした「科学的手法」もある。社会学は社会科学の一分野だから文学とは違う。こんな考えは現在でも根強くある。だからこそ、社会学は文学と科学の中間の営みとして発展してきたという指摘は、今でも大事だと思った。

・この本ではさらに、武道を中心にしたスポーツや、コミュニケーションと物語についての考察がされている。そう言えば、スポーツを社会学として本格的に研究すべきとして立ち上げた「スポーツ社会学会」では、井上さんは中心的な存在だった。そしてここから、スポーツを単に体育学の中だけではなく、その近代化の過程やナショナリズム、消費社会や商業化、あるいはメディアや芸術との関係としてとらえ直すことが始まった。今日のスポーツが、政治、経済、社会の多くの問題と絡みあっていることはいうまでもない。

・同様のことはコミュニケーションについても言える。コミュニケーションや人間関係を、「話せばわかる」といったコミュニケーションの理想型から見るのではなく、通じない、わからない部分、つまりディスコミュニケーションとの関係を前提にして捉えていく。このような考え方も、ぼくが学生の頃に指摘され始めたものだった。ここでは鶴見俊輔が作りだした「ディスコミュニケーション」という概念を取りあげながら、人間関係やコミュニケーションにおける「感情」の問題に目を向けている。「コミュニケーション力」の必要性が盛んに叫ばれているが、「ディスコミ」の部分や人間の感情の複雑さにもっと目を向けることは、今こそ必要なのである。

・井上さんはぼくより一世代上である。体調を崩して心配したこともあったが、本を出されたことでほっとした。ぼくは退職して、研究活動もやめてしまったから、このような本をいただいて恐縮している。論文を書く気はないが、文化社会(学)界隈についての関心は持ち続けようと思っている。

2019年5月27日月曜日

加藤典洋の死

 

・加藤典洋の死は不意の訃報だった。ツイッターをチェックしていて信じられない気がしたが、同様のツイートがいくつもあって、本当のことなのだと理解した。同世代で信頼している人をまた一人失った。肺炎が死因のようだが、体調は以前から悪かったようだ。ただし、今年になっても新刊本が出ているから、病をおして書き続けていたのかもしれない。

・加藤典洋はぼくと同学年だ。1985年に『アメリカの影』(河出書房新社)でデビューして以来、ぼくは彼の著書の熱心な読者だった。彼の関心がぼくと重なることや、執筆活動を志すきっかけが鶴見俊輔だったこと、それに村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』(新潮社)を評論して1988年に出た『君と世界の戦いでは、世界に支援せよ』が、ぼくの『私のシンプルライフ』とほぼ同時期に筑摩書房から出版されたことなど、親近感を持つ理由はたくさんあった。

・ぼくはこのレビューで彼の本を四度取りあげている。『言語表現法講義』(岩波書店)は大学の教職について学生に文章を書かせる苦勞を書いたものだが、書かれていることの多くに強い同感をもった。彼は鶴見俊輔の『文章心得帖』(潮出版)を引用して、文章のおもしろさが「1.自分にしか書けないことを、2.だれでも読んでわかるように書く」ことで生まれてくると書いている。これはぼくが学生に対してまず最初からくり返し話していたことでもあった。そんな授業をして、彼は学生たちと『イエローページ村上春樹』(荒地出版)を出した。そしてぼくもまた、学生の書いた卒論を1990年に教職について以来、退職するまで『卒論集』としてまとめつづけてきた。ぼくも彼も、誰であれ、懸命に書いたものにはそれを読む読者が必要だと考えたからだ。

・『村上春樹は、むずかしい』は、村上自身の『職業としての小説家』(スイッチ・パブリッシング)、内田樹の『村上春樹にご用心』(アルテス・パブリッシング)と一緒に紹介した。村上は狭い文壇社会から距離を置き、独特のスタンスを築いて、日本では異端の扱いをうけながら世界的な作家になった。加藤がこの本で試みているのは、改めて村上を、日本の近現代文学の枠内に位置づけることだった。そこにはまた、閉塞的な日本の文壇という殻を打ち壊す狙いもあった。そしてその村上もまた、僕等とは同学年である。特にぼくとは生年月日が3日しか違わない。そんな意味でも、ぼくは村上の小説にはずっと関心をもち、加藤の村上論にも注目しつづけてきた。ぼくが読んだ感想と、加藤のそれとはどこが一緒で、どこが違うのか。それはぼくにとっては、村上の小説を読むことと同じぐらい、興味のあることだった。

・2011年3月11日の東日本大震災と福島原発事故について書かれた『3.11 死に神に突き飛ばされる』(岩波書店)も伊藤守の『テレビは原発事故をどう伝えたのか 』(平凡社新書)と一緒に紹介した。両者に共通しているのは、震災や原発事故の報道に見られた「原発事故と住民の避難にかかわるさまざまな情報に関して、情報の隠蔽、情報開示の遅れ、情報操作等のさまざまな問題」への注目であり、被災した住民ではなく、政府や企業サイドについているメディアの立ち位置や姿勢に対する批判だった。加藤はそこから、政府もメディアも専門家も信用できなければ、事故処理の過程や今後の原発と電力の関係について、政治や経済、社会、そして専門的な科学知識も含めて、自ら考えて、自分なりの見通しや哲学を作り出す必要がある、と説いた。

・加藤にとって最近の一番のテーマは「戦後」だった。そこにこだわって何冊もの本を書いているが、このレビューでも『戦後入門』(ちくま新書)をジョン・W.ダワーの『容赦なき戦争』(平凡社ライブラリー)と一緒に紹介した。ダワーの『容赦なき戦争』は第二次世界大戦を「人種差別」の視点から考察し、ドイツと日本への対応の仕方の違いから「人種戦争」と結論づけたのだが、加藤の『戦後入門』では、戦時中にされた都市への激しい空爆や原爆投下を、日本がなぜ人種差別的な行為として抗議をしなかったのか、その理由を詳細に検討している。

・連合国が日本に降伏を迫った「ポツダム宣言」(1945)だけであれば、日本は1952年には独立して、占領状態は終わっていた。しかしアメリカと単独で1951年に結ばれた「サンフランシスコ講和条約」によって、米軍基地や「日米地位協定」が現在まで存在して、まるでアメリカの植民地のような状態になっている。この曖昧さは「日本国憲法」と自衛隊の存在、加害者としての戦争責任や被占領国への謝罪の少なさ、非人道的な空爆や原爆投下に対するアメリカへの抗議のなさ、さらには戦争で命を落とした人への態度の有り様など、あらゆる面に及んでいて、ほどけない糸のように絡まり合っている。

・僕は最近、この『戦後入門』を再読しているところだった。加藤が安倍政権を「対米従属の徹底と戦前復帰型の国家主義の矛盾」と捉えて、批判してからもう4年が過ぎた。安倍政権はますますひどいことになっているのに支持率が下がらない。その理由がどこにあって、どうしたら現状を打破することができるのか。読み直そうと思ったのは、そんな気持ちからだった。そんな現状に対する危惧は加藤の方がはるかに強かったのだろう。彼は『戦後入門』の後も、『敗者の想像力』(集英社新書)、『もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために』(幻戯書房)、『9条入門』(創元社)と書いている。

・「日本国憲法」、特に9条についてもう一度、しっかりと考えてみなさい。そのことばを加藤典洋の遺言としてかみしめたいと思う。

2019年5月20日月曜日

リハビリとメインテナンス

 

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forest158-2.jpg・自転車でこけて首を痛めた後、しばらくしてぎっくり腰が再発した。踏んだり蹴ったりで、自転車はもちろん、歩くこともままならなくなった。杖をついて買い物に行き、パートナーが通うクリニックにも行った。医者からは身体が硬いことを指摘されて、教えてもらったストレッチを毎日やるようになった。そのせいか少しずつよくなって、孫たちが来たゴールデン・ウィークまでには、何とか普通に歩けるようになった。孫は3歳になったから、もう話も普通にできる。いちご狩りに行ったり、シュークリームを一緒に作ったり。ダッコするにも腰に響かないようにと気をつけて、何とか無事に楽しくすごした。

・腰が痛くても、暖かくなって用が済んだ薪ストーブの掃除をしなければならない。これは孫たちが来る前に綺麗にしようと、痛いのを我慢して、煙突を外し、すす払いをして、ストーブ内にたまった灰を、綺麗に掻き出した。また、連休明けには、はげて汚くなっていたベランダと玄関のポーチのペンキ塗りをした。どちらもしゃがみ込んでの作業で、腰に負担がかからないようにと、おそるおそるだった。もうちょっと後になってからと思ったが、晴れて乾燥した日が続いたから、今がやり時だと思った。案の定、数日後から午後には雷雨になり、梅雨の走りのような天気になった。

forest158-3.jpg ・ところで我が家では食料品の買い物は、週一回と決めている。だから、大きなトートバッグ二つと保冷バッグ一つが満杯になるほどの量になる。老人二人で一週間にこんなに食べるのかと思うほどだが、買い物の日になると、冷蔵庫は空っぽになっている。一番かさばるのは野菜だ。保存がきくタマネギ、ジャガイモ、サツマイモなどは余裕を持って常備している。キノコは椎茸、マイタケ、シメジなどを三種類ほど。大根、人参、トマト、茄子、キュウリ、長ネギ、セロリ、キャベツ、レタス、ほうれん草、もやし、山芋などは毎週必ず買っている。他にもショウガやニンニク、そして苺やバナナやリンゴといった果物もある。これらを毎日食べていくと、一週間経てば、嘘のようになくなってしまう。

・ぼくは主に昼食の担当だが、蕎麦やうどんには野菜のかき揚げ天ぷらを作り、ラーメンや焼きそばにも野菜をふんだんに使っている。夕食にコロッケやカツを作れば、キャベツの千切りは皿に山盛りになるほどのせている。これからは地元の野菜が出回るから、食べる種類も量も、もっと増えることになる。だから、青汁やジュースといった代用品は買ったことがない。贅沢な食生活だと思うが、その代わりに外食は滅多にしない。食事は一日のハイライトで、作ることに時間と手間をかけている。

forest158-4.jpg・もちろん、自転車も再開した。しかし連休中は車やバイク、それに自転車で混雑するからパスをして、連休明けから本格的にと思ったのだが、風が強かったり、雷雨になったりして、思うように走れていない。筋肉をつけるよりは、ストレッチをして身体を柔らかくする。今回の故障でその事を痛感したから、むやみに走らずに、ほどほどを心がけようと思うようになった。。

・山歩きもパートナーにつきあって、ごく軽めにしている。勝山地区にある羽根子山は足和田山や紅葉台に続く登山道にある。40分ほどで登り降りできるコースだが、いつ行ってもほとんど人がいない。頂上からは富士山がよく見えるし、登山途中には眼下に河口湖が広がっている。勝山の道の駅から気楽に登れるのに、道の駅に来る人も、湖畔で遊んでいるばかりだ。観光地の情報をスマホで簡単に調べることができるとは言え、その分、すぐに見つかるところにばかり集中してしまう。観光地に住んでいると、そんな傾向がよくわかる。