2021年3月15日月曜日

新譜がないのはコロナのせい?

 今年になってCDを一枚も買っていない。アマゾンで検索しても、新譜がほとんど見当たらないからだ。このコラムは数年前までは一度に数枚の新譜を取り上げることが多かった。研究費で買っていた頃は年に数十枚が当たり前だったが、退職してからは吟味して買うようになった。だから、最近取り上げるのは一枚だけというのが多くなった。たった一枚だけ取り上げるというのは、話題を探すのに苦労するが、その一枚さえ見つけにくくなった。

理由はいくつかあるだろう。ずっと聞き続けてきたミュージシャンの多くは老人になって、積極的に音楽活動をしなくなっている。それに昨年からのコロナ禍だから、ツアーはもちろん、近場でのライブも控えているのだろうと思う。ジョン・プラインなどコロナで亡くなった人もいるし、感染した人もいる。怖がって引きこもっている人もいると聞く。だから、落ち着くまでは当分、新譜は出てこないのかもしれないと思う。

もっとも、音楽活動ができないのは、若い無名のミュージシャンの方が深刻なのだろう。コンサートホールはもちろん、ライブハウスも使えないし、ストリートで歌うことも難しい。表現活動の制限は、当然、収入減をもたらしている。ほかに定職を持っていない人は、音楽どころではないのかもしれない。文化活動に対する日本の政府の保証は皆無に等しいから、コロナ禍は人材にしても場にしても、文化の芽を摘み取ってしまうのではないかと心配してしまう。

僕がコンサートに行ったのは5年前のボブ・ディランだった。コロナ禍以前から足が遠のいていたが、ライブハウスにはいつ行ったかも覚えていない。ライブハウスの現状がどうなっているのかについても疎かったのだが、閉鎖されたところが多いようだ。何しろコロナ禍が問題になりはじめた時に、ライブハウスはクラスターが発生する場所として槍玉に上げられたところだったからだ。年末から感染者数が急増して、緊急事態宣言が出された時に、飲食業者には営業の自粛に伴う支援金が給付されたが、ライブハウスは映画館や劇場と同じ扱いにされて、支援金は給付されていないようだ。ライブハウスの多くは飲食を提供する場であるにもかかわらずである。

宮入恭平が主催するWebの「Tell the Truth」は、そんなライブハウスやミュージシャンが抱えるコロナ禍による影響を伝えるメディアである。昨年の4月に始められ、僕もそこに寄稿した。ライブハウスやミュージシャンの状況、音楽と政治などについていくつか掲載された後、しばらくは月一程度の掲載だったが、12月から掲載頻度が多くなった。「アフターマスーCOVID-19による東アジアのポピュラー音楽文化への影響」が連載されるようになり、Webシンポジウムの「COVID-19によるライブハウス文化への影響~現状報告」、あるいは「ポピュラー音楽と文化助成~COVID-19による影響」といったオンラインワークショップも始まった。ようやく軌道に乗りはじめたようだ。

欧米に比べて文化に対する政府や自治体の政策が貧弱なのは、コロナ禍に始まったことではない。また、政治や社会に対する批判的な言動や表現に場を閉ざす傾向も根強くある。そういったところに目を向けて、問題を指摘する必要は大事だと思う。けれどもまた同時に思うのは、そもそもポピュラー音楽の源流や、新しい流れのほとんどは、ひどい貧困や差別のなかから生まれてきたものであるということだ。奴隷としての境遇から生まれたブルーズ、移民のなかから生まれたカントリー、植民地だったジャマイカから生まれたレゲエ、イギリスの労働者階級の若者たちのなかから生まれたパンク、そしてアメリカの貧しい黒人たちから生まれたラップ等々である。

コロナ禍は環境破壊がもたらした人災で、それを指摘し、改善の主張をする動きは、若い世代を中心に世界大になっている。その中やそれに呼応するところから、新しい音楽が生まれれば、それは新しい力になるかもしれないと思う。しかし日本では、そんな動きはほとんど見られない。換骨奪胎された人畜無害の音楽など、この際駆逐されてもいいのでは、などと言いたくなる。

2021年3月8日月曜日

何ともお粗末なデジタル化

 コロナ禍で露呈した日本の現状には、驚くものが少なくない。その一つにデジタル化の遅れがある。小中高から大学が休校になってわかったのは、多くの生徒や学生がPCはもちろん、タブレットさえもっていないことや、家にWiFi環境が整っていないことだった。スマホがあればPCはいらない。こんな傾向は大学で学生に接していたときから感じていたが、リモートでの勉強が避けられなくなって、そんな問題が改めて露呈した。PCを使った教育をせめて中学生から徹底していれば、こんなことにはならなかったはずである。

我が家にも「マイナンバーカード」を申請する書類が来た。しかし、うさんくさいと思っているから、すぐに捨てた。国民についての情報を一元化しようという政策は、過去に何度も試みて失敗している。「住基ネット」がいい例だが、「マイナンバー」も、面倒なことをやらされた割に、何の役になっているのかわからないと感じてきた。それどころか、カードにすることによって、郵便局や銀行の預金までも管理するなどというから、不信感ばかりをもたされることになった。政府はカードの普及に力を注ぐようだが、使い方に納得がいかなければ、国民の抵抗はなくならないだろうと思う。

そんなデジタル化の遅れを改善するために、国は「デジタル庁」を新設するようだ。情報システムを整備して縦割り行政を改めること、あらゆるデータのデジタル化とオンライン化することなどが謳われているが、あまりに遅いし、果たしてうまくいくのか、ほんとうの目的は何かなど、疑わしいこと満載の制度である。確かに、コロナに対する台湾の対応を見れば、データや情報のデジタル化が必要なことはよくわかる。それに比べて、感染者の集計や、給付金の支給を手作業でやっている日本のお粗末さが目立つばかりだった。

デジタル化については、日本はすでに周回遅れになっている。だから急いでと言うのだが、政府の政策には一貫性がないし、国民の意識も低いままであるような気がする。たとえば日本人の多くはまだ、カードではなく現金を利用している。買い物に行けばそれはよくわかるし、カードが使えない所も多い。しかし世界的に見れば、現金を持ち歩くことをしなくなった国が増えているのである。そんな傾向にあるのに、渋沢栄一で新紙幣などとやっていること自体にデジタル化についての意識の薄さを感じてしまう。相変わらずカードではなく紙幣を使えと国が勧めているのである。

この国の政策は、やっていることがちぐはぐだから、結局何をやってもうまくいかない、デジタル化はその典型例だろう。結局役に立たなかったCOCOAに、一体いくら注ぎ込んだのか。やれる見込みのないオリンピックになぜ、観客向けのアプリを開発しようとしているのか。発注業者の中抜きをなぜ見逃しているのかなどなど、うさんくさい話は山のようにある。何しろ政府のトップがデジタル音痴で私腹を肥やすことばかりに熱心な老人ばかりだから、何をやっても結局は無駄遣いに終わるのは明白なのである。

GAFAの波はもう十分日本に押し寄せていて、僕もPCとスマホはApple、買い物の大半はAmazon、そしてGoogleでメールや検索やYouTubeや写真の管理などを行っている。コロナ禍でわかったデジタル化の遅れは、日本の将来をいっそう暗くするものだが、そんな危機意識の薄さが、その暗さをさらに増してしまっている。

2021年3月1日月曜日

ジリアン・テット『サイロ・エフェクト』(文春文庫)


silo1.jpg・サイロとは牧場などにある貯蔵庫のことだ。大きな牧場ならそれがいくつも林立している。日本でも北海道に行けば、よく見かける風景だろう。ただし、この本は酪農を扱っているのではない。大きな組織が専門化や細分化されると、それぞれが独立し、分断化して、全体としてうまく機能しなくなることを指して、「サイロ・エフェクト」と名づけているのである。
・著者のジリアン・テットはアメリカのフィナンシャル・タイムズで働くジャーナリストだが、彼女はまた文化人類学で博士号をもつ研究者でもある。そんな経歴から、人類学的なフィールド・ワークを駆使し、ピエール・ブルデューの理論や視点の持ち方を使って、高度専門化によって陥りやすい社会の罠を分析している。

・「サイロ」は日本ではなじみがないから、「たこつぼ」と言った方がわかりやすいかもしれない。同じ組織でも専門化されて細分化されれば、それぞれが分離独立して、相互のコミュニケーションや情報の共有がしにくくなる。と言うより、相互に競争意識が強くなったりすると、意図的に情報隠しが行われたりもするのである。そのような例として最初に取りあげられているのは、日本の先端性を代表する企業だった「SONY」だ。

・「SONY」は「ウォークマン」で音楽の聴き方を一変させたが、「アップル」の「iPod」の登場によって消えてしまった。カセット・テープからCD、そしてDVDと進化して、次は小型のハードディスクになることはわかっていたはずなのに、なぜ「SONY」にはデジタルの「ウォークマン」が作れなかったのか。著者が指摘するのは、巨大企業になっていくつものサイロに分極化した組織の仕組みの問題である。実は新商品は開発されていたのだが、それがいくつものサイロから相互の検証なしに複数提案され、同時に複数商品化されたのである。「iPod」に負けて売れなかったようだが、ぼくはそんな商品自体があったことすら知らなかった。

・この本では、そんな巨大企業化してサイロの林立を招いた故に衰退した企業をいくつか追っている。たとえば「マイクロソフト」やスイスの銀行である「UBS」、そしてリーマンショックを予測できなかった経済学者や規制当局などである。ここにはもちろん、巨大都市における細分化された自治組織が抱える問題もある。どんな組織でも、大きくなれば分野ごとに分割して、専門性を避けることは避けられない。その時に大事なのはできたサイロをつなぐ回路と人的・情報的な交流だが、それがおろそかになるのが自然の流れなのである。

・この本ではもちろん、そんな罠に陥らない、陥っても再建できた例も紹介している。たとえばSNSで急成長した「Facebook」は最初からサイロ化の危険を自覚していて、採用する人材を誰であろうと先ず、訓練期間を設けてたがいに顔なじみにすることをしてきた。だから部署が違っても、必要なら情報交換や相互の交流がやりやすかったというのである。またクリーブランドの病院が外科や内科といった分け方をやめて、脳や心臓、あるいは肺といった身体の部位によって再編した例も紹介している。ここでは同時に、医師や看護師と患者の関係やコミュニケーションの取り方などにも、旧来のやり方を改めることが実践されている。

・かつては世界をリードした多くの日本企業が、現在では衰退化している。だから「サイロ」の問題は「SONY」に限らないのだろうと思う。かつての栄光に囚われて、その再現ばかりを追い求めて、世界の流れや変容に気づかないし、見ようともしない。もちろんそんな特徴は、国の政府機関でも変わらない。原発、リニア、そしてオリンピック、コロナ対策等々、何をやってるんだと首をかしげ、腹立たしくなる政策が何と多いことか。

・難局を乗り越えたり、新しい流れを作りだしたりするヒントは、専門外のところに偏在している。だからそれに気づくためには、専門に囚われない目と、意外な視点や、それに基づく発想が必要だし、それを無視しない心のゆとりが望まれるが、今の日本には、そのどれもがかけているように思われる。何しろ男ばかり、老人ばかりがトップで幅をきかせつづけているのだから、これはもうどうしようもないのである。

・日本は今、国全体が一つのサイロのなかにある。政治も経済も社会もまるで閉ざされた孤島状態だ。そう言えばガラパゴスということばもあった。だから森発言に対する世界中の批判にあたふたする。コロナのワクチンが作れないのが日本の現状であることも含めて、サイロの外からの目で日本を見直す必要があるだろう。

2021年2月22日月曜日

富士山がやっと白くなった

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photo90-2.jpg・この冬の富士山の雪は、いつになく少なかった。11月になってもほとんど白くはない、いつもと違う様子で、噴火の前触れで暖かくなって溶けてしまっているのでは、といった話がネットでも飛び交っていた。しかし、この秋はそもそも雨の日が少なくて、少し積もってもすぐ風で吹き飛ばされてしまったのである。積もった雪は西から東に飛ばされて、宝永山周辺に吹きだまるのだが、暖かかったから、その雪もすぐに溶けてしまっていた。だから、新幹線から見える富士に雪がないことが、話題になったりしたのである。

・1月、2月と何度か雪が降ったので、富士山一周のドライブに出かけた。近場しか出かけてなかったから、久しぶりの遠出だった。水が塚公園の駐車場から見る富士山は、下のように雪化粧していたが、例年に比べればやっぱり少なかった。週末だったから歩きに来た人もいて、僕等も少しだけ歩いた。雪の多い年は、そもそも道路が通行止めになっていただろうと思う。ぐるりと廻っておよそ100km、一度自転車でやりたいと思っているコースでもある。

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・ところでその時の山梨県側はというと、下のような様子で、真冬なのに農鳥が出ていた。風に吹き飛ばされた雪が宝永山に吹きだまっているのがよくわかった。で、その後久しぶりの雨になったのだが、その直前には、富士山に笠雲がかかった。この時期なら当然、我が家の周辺でも雪になるはずなのに、土砂降りの雨。しかしさすがに富士山にはたっぷりの雪が降った。翌日、久しぶりに裏山に登って撮ったのが、上の一枚である。それを拡大すると下のようになった。ついでに、いつもと違うところを下山すると、まるでニシキヘビのような蔓を見つけた。とぐろを巻いて木を締め殺しにしている様子は、何ともすごい光景だった。

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2021年2月15日月曜日

原木探しと薪作り

forest173-1.jpg・相変わらず、原木が手に入らない。次の冬用の薪を作っておかなければ、薪ストーブなしで寒さをしのがなければならない。それでは困るからと、付近の倒木探しを始めた。ほんとうは持ち主に断る必要があるのだろうが、持ち主が誰かはわからない。荒れ放題で、手を入れたことなどないから、いいだろうと思って、まだ腐食していない倒木をチェーンソーで切って、庭に運び込んで薪にした。道に置いた一輪車までは、転がしたり引っぱったり担いだりして動かさなければならない。それを一輪車に積んで運ぶのだが、一筋縄ではいかない重労働で、山歩きや自転車よりはるかにきつかった。

forest173-3.jpg・がんばったな、と思ったが、薪にして積むとほんのわずかで、これでは半月分にもならないという程度だった。そこで、少し腐食の始まったものや、松や檜なども集め始めた。しかしまだまだとても足りない。それならと、数年前から葉や花が少なくなって気になっていた、道から家への通路にある桜の木を2本伐採することにした。隣家に当たらないよう倒すにはどうしたらいいか。近くの木とロープで繋げ、倒す方向の部分を半分ほど切り、隙間を作って、反対側を切る。下手をするとチェーンソーが挟まって取れなくなってしまったり、思わぬ方向に倒れてしまったりしかねない。何度も確認しながら切って、幸い、狙い通りに倒れてくれて一安心。それにしても、木の存在感の薄さに改めてびっくりしてしまった。長年見慣れてきたはずの木なのに、なくなっても何の違和感もない。残っているのは切り株だけ。ログハウスができたときに前の持ち主が植えたものだから、樹齢30年といったところだった。さて新しい苗木を植えようかと思うが何にしようか。

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forest173-5.jpg・ここまでやって何とか南側の壁が埋まった。しかしこれでもまだ半分にもならない。原木が調達できましたという連絡を首を長くして待っているが、そんな電話は全くない。薪が調達できなければ、本業のストーブも売れないだろうから、困っているだろうなと思う。長年商売をしてきているのだから、何とかして欲しいのだが、催促の電話は我慢して控えている。無いものは無いのだから、仕方がないのである。
・こんなふうにして、正月以降、ほとんど毎日、木こり仕事に精出している。暮れから正月にかけては何度か寒波が来て寒い日があったが、温暖化傾向は今年も続いていて、昼間10度を超える日も少なくない。去年までは出かける時以外は薪ストーブを絶やさなかったが、今年はできるだけ昼間は燃やすのをやめて、薪の節約に努めている。来冬用に少しでも残しておきたいからだ。

2021年2月8日月曜日

改めて、CMについて思うこと

とにかくCMは邪魔だ、とずっと思ってきた。だから民放は見る気がしなかったが、番組自体がどうしようもなくつまらないから、夕飯時のニュースぐらいしか見なくなった。と言ってもNHKだって地上波は、見たいものがほとんどない。だからBSで興味を引くものがなければ、テレビはほとんど見なくなった。その代わりに見ているのはネットでやるテレビ番組やYouTubeだが、途中で挟まるCMが何ともうっとうしい。

CMとはコマーシャル(commercial)の略だが、これは形容詞で後にメッセージ(commercial message)をつけるのが本来の名称だ。ただし、このことば自体が和製英語で、欧米ではアドバタイジングが普通だと指摘する辞書もある。いずれにしても「視聴するならCMを見ろ!」という形式が、現在では当たり前のものになっている。放送を広告収入で成立させるというやり方はラジオから始まっていて、既に百年の歴史がある。利用者を特定して利用料を徴収できる有線の電話と、広告収入を財源にして不特定多数に一方的に放送するラジオに分けて発展した。

CMは売りたい商品を視聴者に知らせ、欲しいと思わせるために作られ、流されている。注目されれば、商品自体もヒットするから、企業にとっては有力な宣伝手段であることは間違いない。有名人や人気タレントを使い、有能なコピーライターによって作られたCMには、記憶に残るものも少なくない。何よりそこに費やされる製作費が番組自体より高額だったりもしたのだ。しかし最近では、そんなCMも少なくなったようだ。

とは言え、基本的には、番組自体を中断させる邪魔な存在であることに変わりはない。だからCMの度にチャンネルを変えたり音声を消したりする。そんな扱いを受けても、高額なお金を払ってCMを流す意味があるのだろうかと思う。その際たるものはマラソンや駅伝の中継で、レースを寸断するたびに、「そんなもの買うか!」とつぶやきたくなってしまう。そう言えば、年齢層の高いBS番組では健康食品や健康器具などのCMがやたらに多い。「大きなお世話!」「嘘をつけ!」などと言いながら、チャンネルを代えることが多いが、つられて買ってしまう人がどれほどいるのかと思う。

YouTubeでは、内容の流れに関係なく、突然CMが入ってくる。数秒後にCMをスキップできるが、これも何とも邪魔なものだ。音楽が途中で寸断されたりもするから腹も立つが、お金を払ってCMなしにしようとも思わない。Googleをこれ以上儲けさせたくないと思うからだ。もっとも、ユーチューバ-が得る収入もCMからだから、面白いもの、がんばっているものにそれなりの報酬が払われるのは悪いことではないとも思う。

ユーチューバ-には年収が億単位になる人もいるようだ。再生回数に応じて払われていて、一再生当たり0.1円とすると、10万円稼ぐのには100万回の再生が必要になることになる。なかなか大変だと思う。しかし、たとえば僕がよく見ている、カナダのオンタリア州の森にほとんど一人でログハウスなどを建てている人は、200万人以上の登録者がいて、ほぼ毎日アップロードされるものが数十万回再生されている。オリジナルの衣服や道具やアクセサリーなども売っているから、森の暮らし自体がビジネスになっているのである。

こういう例はほかにもたくさんある。しかし、それに比べて政治や経済などについて発言するチャンネルに人を集めるのは、なかなか難しいのが現状だ。たとえば「デモクラシータイムズ」は、独自の放送をしている「デモクラTV」から分離して、YouTubeで活動しているチャンネルで、発言者の数も、アップロード数も多いが、登録者は7万人ほどで再生回数も数万回といったところだ。番組中にCMが入らないから、そういう契約なのだろうと思う。その代わりに会費や課金ではなく、カンパを求めている。忖度ばかりで腰抜けの大手メディアに対抗できる場になって欲しいから、こういうチャンネルこそは支えたいと思う。


2021年2月1日月曜日

感染より世間が怖い

 年々減り続けていた自殺者数が、昨年は増加に転じました。今までは比較的少なかった若い女性の数が増えているのが、大きな特徴のようです。原因はやはりコロナ禍で、もともと女性はパートなどの低賃金で働く割合が多かったのに、仕事を減らされたり首を切られたりして困窮してしまっているのです。東京新聞によれば、全国では推計で90万人がそんな状況にあるようです。

「自助・共助・公助」を相変わらず言い続けている首相は、そう言った休業補償のない人たちへの援助については「生活保護」があるからそれを使えと言いました。しかし、この制度を使うのには、大きな壁があるようです。まず、自力で生活してきた人には、コロナ禍がなければ縁のない制度だったという点です。次に申請をすれば、親族に対して援助ができるかどうかを確認する「扶養照会」が送られることにあります。

「生活保護」を受けること自体が自尊心を傷つける要因になるでしょうし、親や子どもに知られたのでは、その気持ちはますます大きくなってしまいます。それなら死んだほうがましと考えたとしても、不思議ではない気がします。要するに「生活保護」は 生活できなければ国が恵んでやるから、そのつもりで申し出ろという態度の制度なのです。

コロナ禍での特別支援を渋る国は、自殺まで考え、実行してしまう人が急増していることに、何の責任も感じていないかのようです。生活が困窮した時に国や自治体の支援を受けるのは、憲法に定められた国民が人間として生きるための権利です。しかし恥を忍んでお恵みを頂戴するという仕組みになっていることを、政治家はもちろん、世間一般にも常識化されてしまっている気がします。

コロナ禍で感じる不安について朝日新聞が行った調査では、「感染したら、健康不安より近所や職場など世間の目の方が心配」と答えた人が7割近くあったという記事がありました。感染したら後ろ指を指される、ネットに晒され自警団にひどい目に遭う。そんな恐怖の方が、感染して苦しむよりも辛いというのです。感染者は日ごろの行動が悪いせい、ウィルスをまき散らす迷惑な奴。そんな意識の蔓延が「世間」という形でのさばっているのです。

政府は感染者の入院拒否に罰金と懲役を科す法律を提案しました。国会で懲役の部分は削除されましたが、ひどい政権だとつくづく思いました。施行されたら、積極的にPCR 検査を受けようと思う人は少なくなるでしょう。そもそも、陽性だと判定されても、多くの人は入院できずに、自宅で療養するしかないのです。

自宅や施設、あるいは路上で容体が悪化して死んだ人が12月以降急増しています。その半数以上は、死後に陽性であることがわかった人たちでした。自覚症状があってもなかなか検査が受けられないことが未だにあるようです。けれども、感染していることを恐れて検査を受けようとしない人が増えているとしたら、コロナ禍は、それこそ「世間」の中に沈み込んで、やがて大爆発ということにもなりかねないのです。