2023年9月18日月曜日

弔いの仕方

 
journal5-205.jpg"義兄が亡くなって通夜と葬式に参列しました。近親者だけの小さな弔いの式でしたが、久しぶりに顔を合わせた人や、初対面の人などもいて、和気あいあいとした雰囲気でした。最近ではコロナ禍もあって、近親者でもほとんど顔を合わせないままでしたから、こんな機会は貴重なのだと改めて感じました。

義兄は僕より二つ上で、学年では1年違いでしたから、余計に身につまされる思いになりました。胃ガンが見つかった時にはステージ4で、健康診断をしておけば、もっと早く見つかったのにと、悔やまれる最後でした。車の後部に山歩きやキャンプの道具、あるいは折り畳みの自転車などをつめて、いつでも気軽に出かけていましたが、車の荷物はそのままなっているようでした。

歳が近い近親者の死は、昨年もあって、京都に住む従兄弟の葬儀に参列しました。彼には近親者が甥っ子しかいませんでしたから僕が喪主になりました。彼は100歳近くまで生きた伯母と二人暮らしで、白血病が発症してから4年ほど、伯母の介護と亡くなった後始末などをしながらの闘病生活でした。友達もいたでしょうし、仕事仲間もいたと思いますが、連絡先が分からないので、弔いの席に出たのは僕ら夫婦と甥っ子、そして友達一人の4人だけでした。

その火葬場で驚いたのは、京都では遺骨を一部しか残さないということでした。骨壷は手の平に乗るほど小さなもので、そこに、ここはどこ、と言った説明をしながら入れて、後は捨ててしまったのです。京都には25年住みましたが、火葬の場に参列したのは初めてでした。京都人の合理的発想を改めて認識した瞬間でした。

義兄の火葬では参列者が食事をし、その後で、二人で一つの骨を箸でもって骨壷に入れました。粉になったものも残さず入れましたから、両手で抱えるほどの大きな骨壷一杯になりました。その骨壷は49日が過ぎた頃にお墓に納めます。その墓には。すでに義父と義母の骨が入っています。それほど大きな墓ではありませんから、やがてはまとめてということになるのでしょう。

従兄弟のお骨などを含めて、こちらの後始末はすべて甥っ子に任せました。お墓はありましたが、後に入る人はいません。無縁仏になった後の始末はどうするか。僕にはどうすることもできないことです。僕は義兄と同じ霊園に新しいお墓を造り、父親の骨を納めました。祖父や祖母の墓はすでにあったのですが、遠方のために、新しくすることにしたのです。父には相談しませんでしたから、お墓の中で文句を言っているかもしれません。

葬儀の仕方やお骨の納め方には、いろいろなやり方があるようです。先祖代々の墓に入って、子孫が末長くお参りする。そんな家族はもうとっくに少数派になっています。葬式やお墓を必要と思うかどうかなども含めて、昔とは違う、新しいこととして考える必要があると、改めて思いました。とは言え、祖父と祖母の墓をどうするか。何とも悩ましい問題です。



2023年9月11日月曜日

万博って何なのか

井上さつき『音楽を展示する パリ万博1855-1900』(法政大学出版局)

2025年に開催される大阪関西万博が工事の遅れなどで話題になっている。そもそもなぜ今万博なのか。その意図がよくわからない。と言うより大阪市はカジノを中心にしたIR(統合型リゾート)を作ることを狙って、万博をその隠れ蓑にしたと批判されている。地盤がまだ安定していないゴミの埋め立て地だから、建物を造っても沈下してしまうし、交通手段もかぎられている等々、問題は山積みだ。

この万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」で、サブテーマとして「いのちを救う」「いのちに力を与える」「いのちをつなぐ」と極めて抽象的でよくわからない。確かに温暖化は深刻だし、戦争や紛争はたえないが、そんな現実的な問題を具体的にテーマにしているわけではないようだ。

xpo1.jpg そもそも万博って何なんだ。そう思って、書架に読まずに積んであった万博関連の本を探してみた。井上さつきの『音楽を展示する』は19世紀中頃から20世紀初頭にかけて何度か行われた「パリ万博」について、主に音楽に焦点を合わせて論じたものである。万国博覧会は1851年にロンドンで初めて開催された。パリ万博は1855年に開催され、続いて1867年、78年、89年、そして1900年とほぼ10年ごとに開かれた。パリでの開催はこの後1937年で、その後は開かれていない。

パリ万博は産業革命を誇示したロンドン万博と違って、産業の他に芸術の展示を重視した。しかし絵画や彫刻と違って、音楽は、常設の展示ではなくコンサートという形で行われる必要がある。この本には、その音楽の展示方法の工夫や、演奏され歌われる音楽の種類、それらを聴きに来る聴衆の階層などが、開催年度によっていろいろと見直されてきたことがよくわかる。パリ万博といえばエッフェル塔ぐらいしか思い浮かばなかったが、パリが芸術の街と言われるようになる上で、万博が果たした役割が大きかったことを再認識した。

万博は産業の発展を目的に始まり、文化的な側面を追加して、人々に近代化による社会の変化を実感させることに役立ったが、その産業は20世紀になると二つの世界大戦を引き起こすことにもなった。1970年に開催された大阪万博は、大戦から立ち直った日本や世界の現状、あるいは宇宙への関心などを展示する上で大きな意味があったと言われている。しかし、その後の万博ははっきりいって、もうやる必要のないものになってきていると言えるだろう。今さら世界中から最新技術や文化的なイベントを一ヶ所に集めて開催される意味がどれほどあるのか、はなはだ疑問なのである。

だからこの本を読んでまず感じたのは、万博の意義はすでになくなっているということだった。クラシック音楽がコンサートホールで聴くものとして確立し、印象派やキュービズムなどの美術が美術館に展示され、高額の値段で売買されるようになったのは、まさに19世紀の後半の万博が華やかに開催された時期と重なるのである。あるいは20世紀になると映画やラジオやレコードといった技術が普及し、やがてテレビが登場するようになる。そして、20世紀終わりからのインターネットである。19世紀末から始まったオリンピックと併せて、こんなものを未だに当てにしている日本の政治家たちの古びた感覚に、もううんざりするしかないのである。

2023年9月4日月曜日

いろいろあった8月

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暑い、暑い東北旅行から帰ってほっと一息ついた。台風などで雨が多かったが、その分気温は低くて、旅の疲れを癒やすことができた。もう夏にはどこかに出かけるのはやめよう。何度かそんな思いをしたが、今度こそは身にしみてわかった。逆にここを訪れる人たちは、猛暑から解放されて楽しんでいるようだ。天気が良ければ早朝に自転車に乗ることにしているが、レンタルに乗った外国人が大勢いる。ロードバイクを走らせる人もいつもより多い。夏は富士山が隠れることが多いが、涼しさだけでも、来た甲斐があったと思うだろう。

forest194-2.jpg それほど強い風が吹いたわけでもないが、家の近くの大木が道を塞ぐように倒れた。町役場から来た人がチェーンソーで切って片づけていたので、木が欲しいから後は僕がやると言うと、それは好都合という返事だった。トラックを用意してどこかに捨てる手間が省けたのだから、それはそうだろう。こちらも原木が手に入らなくて困っていたから、少しでもあれば大助かりだ。

forest194-3.jpg と言うわけで、一輪車に乗せて運べる大きさに切り、家まで運んだのだが、いったい何往復しただろうか。持ち上げるのもやっとなものを、傾斜のある100m近い道を運んだのである。手が震え、足がなまり、汗が噴きだした。カエデの大木は根腐れして倒れたのだが、その根っこの部分は相当の太さだった。チェーンソーを動かしたのは久しぶりだったが、夏場だからすぐにエンジンがかかった。これを薪にして乾すのだが、もう少し涼しくなってからにすることにした。

forest194-4.jpg最初に作った陶器は毎日の食卓に乗っているが、二度目のは机の上において、物入れにしている。今まではガムの容器を使っていたのだが、これからもいくつも作っていこうと思っている。粘土遊びもだいぶうまくなってきて、ちょっと大きな器もできるようになった。土の種類によって色や粘り、それに手触りが違うし、焼いた跡の感じもだいぶ違っている。そんなことが新しい発見として面白くなってきた。釉薬のかけ具合で色がでたりでなかったりと、ますますやる気になっている。

そんな毎日を過ごしていたら癌で闘病中の義兄が末期の自宅療養になったという連絡があった。さっそく千葉まで出かけたのだが、やっぱり暑かった。義兄はベッドに寝たままで、こちらの言うことに首を動かすような反応だった。もう長くはないだろうなと思って帰ったが、数日後に亡くなったという電話があった。で、また千葉に出かけた。通夜と葬式は10日後にあって、近親者が久しぶりに集まった。76歳で登山好きの人だったから、もっともっと元気でいて欲しかった。

2023年8月28日月曜日

Xって何?

twitterx.jpg" 「Twitter」が突然「X」になった。何で?と思ったが、ツイート自体に変化はない。それにしても、長いこと馴染んできたロゴが消えて、謎の「X」になるとは。どうせイーロン・マスクの仕業だろうと思って、理由を調べることにした。

「X」はイーロン・マスクがこれまでも好んで使ってきた文字のようだ。彼がPayPalと合併して作った会社が「X.com」で衛星打ち上げ企業は「Space X」、さらにテスラにもモデルXがある。息子の名前にもXを使っているし、最近立ち上げた人工知能のベンチャー企業名も「xAI」だという。そして、単に「X」が好きというのではなく、彼には未来に向けた遠大な計画があるようだ。

 Xは、オーディオ、ビデオ、メッセージング、支払い/銀行業務を中心とした無制限のインタラクティビティの将来の状態であり、アイデア、商品、サービス、機会の世界的な市場を創造します。AIを活用したXは、私たちが想像し始めた方法で私たち全員を結びつけるでしょう
「Twitter」は鳥のさえずりを意味することばを使って名づけられた。日本語では「ピーチクパーチク」で、周囲にうるさくまき散らすイメージだが、どういうわけか「つぶやき」と訳された。「さえずり」は周囲に向けたコミュニケーションのやり方だが、「つぶやき」は独り言で、相手を意識しない。いかにも日本人的な発想で、始まった頃に批判した覚えがある。面と向かったやり取りではなく、独り言をつぶやきあう。もちろん、つぶやきに反応してつぶやくのだが、さえずりよりは発言の力が弱められて広がることになる。発言に対する責任回避のやり方だと思ったものだった。

しかし、「Twitter」が「X」になることで、やがてこのSNSは「さえずり」でも「つぶやき」でもない別のメディアになってしまうのだろう。イーロン・マスクの野心には、そんな危惧も持つ。「X」は、これから彼が経営する他の「X」と名のつく企業と連携させて、よりビジネスに傾斜したものにするつもりだからだ。もうそうなったら、僕には用がないなと思ってしまう。

そう言えば、最近は「Twitter」をチェックすることも減っていたし、「FaceBook」などは、ほとんど見なくなっていた。どっちにしても、自分で書き込むことは、もう何年も前からやめていたが、最近では書き込む人の数もずいぶん減っていた。それに、どちらにしてもCMが多くなって、開けてもうんざりして、ろくに見もしなくなっていたのだ。

ネット上で面白いなと思ったメディアが人気になると、やがて買収されてビジネスの道具になる。その途端にCMが溢れ、面白さが失せていく。YouTubeもCMばかりだし、Amazonプライムも値上げをした。テレビに続いてネットも面白くなくなったら、何を見て毎日を過ごそうか。そんな不満を感じることが少なくない。


2023年8月21日月曜日

iMacのモニター接続で一苦労

 

imac2.jpg" 以前にこの欄で書いたようにiMacが古くなり、システムの更新もできなくなったから、1月にMacBookを買った。その時に、モニターで使っているCinema Displayの方が少し新しいからとMacBookと繋げられるばか高いアダプタも買ったのだが、Cinema Displayの方が壊れてしまった。夜寝る前は何ともなかったのに、朝起きてつけたら反応がない。さあ困った。画面二つで使っているから何とも不便で、新しいモニターを買うことにした。Apple純正のStudio Displayは22万円もするから今回は問題外。ネットであれこれ見て、Iiyamaの27インチを買うことにした。少し高いがAmazonではなく、馴染みの電気屋さんに注文した。

imac3.jpg" 東北旅行をはさんで、モニターが来た。MacBookとはUSBのTypeCで繋がったのに、iMacと繋ぐためには接続のためのアダプタを買わなければならない。iMacの出力はThunderbolt2だからそれをHDMIに変換するコードを買えばいい。あるいはUSBからHDMIでもいけるだろう。と思ってAmazonに二つを注文した。翌日には来て繋いでみたのだが、どちらも反応がない。ネットで調べると、iMacの製造年によって繋がるものとそうでないのがあることがわかった。しかたがないから、iMacは2012年製だからそれにに適合しているものを探して再注文したのだが、やっぱり繋がらない。

Macは30年以上使っているが、こんなトラブルはこれまでにもよくあった。その度にいらいらして胃が痛くなった。またかと思ったがもう諦めよう。そんなふうに考えたのだが、念のためにともう少しネットで探すことにした。そうするとThunderbolt HDMI変換ケーブルで、確かに2012年製のiMacに繋がると画像つきで紹介しているサイトを見つけた。コードはこれまでの黒と違って白色で、丁寧にワンクリックでAmazonで買えるようになっていた。もう一回試してみようかと思ってまた注文。半分ダメだろうと思っていたのだが、接続するとついたではないか。新しいモニターは解像度が低いし、スピーカーはお粗末だが、値段が5分の1だから仕方がない。とにかく、使えるようになって大助かりだった。

imac4.jpg" それにしても、同じアダプターでも繋がるのと繋がらないのがあって、iMacの製造年で違うとは、どういうことだろうか。Appleらしいといえばそれまでだが、こんなトラブルもこれっきりにしてほしいとつくづく思った。いずれにしても、2画面で使うことができるようになったので一安心だ。もっとも、このiMacももう12年目だから、いつ壊れてもおかしくない。その時のためにMacBookをもっと使うようにしようと思うのだが、やっぱり使い慣れた、大きな画面の方を使ってしまう。

2023年8月14日月曜日

シニード・オコーナーとアイルランド

 

sinead.jpg" シニード・オコーナーが死んだ。自殺のようだ。去年の12月に息子の自殺などがあり、本人も自殺をほのめかすツイートをして入院をしたというニュースを見つけて、彼女のことを振りかえった。結婚と離婚を四度くり返し、その度に四人の子どもを産んでいること。自殺したのは三度目に結婚したアイルランドを代表するミュージシャンのドーナル・ラニーとの間に生まれた三人目の子どもだったことなどを書いた。その時から、近いうちに彼女の訃報があるのではと思っていたが、現実になってしまった。

彼女については、このコラムで何度も書いている。最初は1999年で、フィンランドの青年が僕のディスコグラフィーに載っている彼女のCDがほしいとメールが来たことを紹介した。日本版が珍しかったからだが、インターネットが始まった頃には、こんなメールが世界中からやってきて、面白いメディアができたものだと思った。

sinead2.jpg" 僕がシニードのことを知ったのはボブ・ディランの30周年記念コンサートのライブだった。1992年で、テレビで生中継されたのをわくわくしながら見た記憶がある。ミュージシャンが全員、ディランの歌を歌ったのだが、彼女だけがボブ・マーリーの「ウォー」を歌い、泣き崩れて、クリス・クリストファーソンに慰められた。その行動や坊主頭の姿にびっくりしたが、彼女を有名にしたのはプリンスのカヴァー曲「ナッシング・コンペアーズ・トゥー・ユー」だった。カナダ人の友達の家を訪問した時に、壁にこの言葉が書いてあって、女性二人で暮らすカップルの関係が、この歌でよくわかる気がした。

ireland12.jpg" 僕は2005年に初めてイギリスとアイルランドに行った。その目的は、パブでギネスを飲みながらアイリッシュ音楽を聴くことだった。アイルランド出身のミュージシャンには好きな人がたくさんいた。一番古いのはヴァン・モリソンでU2などとともに、シニードもその一人だった。こういった人たちのライブは無理だったが、パブでのライブや、アイルランドのフォーク歌手が勢ぞろいしたコンサートを、偶然ダブリンで聴くことができた。シニードはイギリスに苦しめられたり、飢饉で大勢の人が死んだことや、アメリカに移り住んだ人のことをテーマにした曲をたくさん歌っている。

isinead1.jpg" その2005年に彼女が発表した"Sean Nos Nua"はアイルランドの伝統音楽を素材にしたものだった。このコラムで、「ゲール語で古いスタイル(Sean Nos)と新しさ(Nua)を意味するタイトルに見られるように、彼女自身の雰囲気をのこしたアルバムに仕上がっている」と書いた。彼女はその後も何枚かのCDを出したが、ここ10年ほどは、ほとんどその名前を耳にすることはなかった。1966年生まれだからまだ50代で、死ぬには早すぎるのにな、と思った。

P.S. と、書いていたらザ・バンドのロビー・ロバートソンが亡くなったという新聞記事を目にした。闘病生活の果てだったようだ。ザ・バンドについては、昨年「The Bandという名のバンド」というタイトルで書いた。ロビーが製作した『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』をAmazonで見て、ザ・バンドについてはあまり書いていないことに改めて気づかされた。ボブ・ディランのバックとして活躍した印象が強かったが、このバンドでもいくつものヒット曲を作った。メンバーの大半が死んでしまったが、改めて聴き直して、もう一度取り上げようと思う。

2023年8月7日月曜日

東北太平洋岸を北上した

 

河口湖から宮古まで片道800kmを6日間で往復した。それにしても暑かった。クーラーがなくても30度を超えないところに住んでいる者にとっては、35度超なんていう温度はとても耐えられない。だから、クルマから降りるのを躊躇する。そんな旅になった。

初日は平まで。日曜日だったから高速は空いていて、ほとんど渋滞なしに4時間ほどで小名浜に着いた。まずは水族館を見学したのだが、とにかく暑い。トドと潮目の海が売り物なのだが、それほど驚くほどではなかった。細々とした展示が多くて、暑いせいかほとんど素通りという感じだった。マンタやさめが泳ぐ沖縄の「美ら海水族館」とは比べるまでもないが、ちょっとがっかりだった。

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2日目は平から相馬まで。津波や原発事故後の様子を見たいと思い、なるべく海沿いの道を走った。福島第二原発に近づくと、帰還困難区域にぶつかり先には進めなくなった。そんな道をあちこち抜けたのだが原発そのものを見ることはできなかった。逃げてそのままになった店舗や住宅には雑草が伸びて、月日の経過を教えてくれた。浪江町の請戸小学校の遺構を見学。津波は校舎の2階まで押し寄せたようだが、生徒全員が近くの山に逃げて助かったとあった。

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tohoku6.jpg 3日目は相馬から石巻へ。朝から雷と豪雨だが涼しい。宮城県にはいって山元町を通るとヒマワリ畑が目に入った。そこで道案内をする人に聞くと、周囲には家もあったけど、水没してしまったと話していた。新しくできた道路は堤防の役割もできるように造られていた。おかしいのは多くの道がカーナビには載っていないことだった。昨年更新したばかりなのに、それ以後できたのだろうか。この後も、そんなカーナビにはない道を多く走ることになった。

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4日目は石巻から宮古へ。新しい高速道路は無料だったが気仙沼からは下道を走った。以前に来たことがある魚市場周辺は一変していて、泊まった旅館もどこにあったのかわからなかった。そこから、これも以前に行った大理石海岸に寄って、陸前高田、大船渡、釜石と走り、宮古の国民休暇村に着いた。道路には津波がここまで来たという表示があって、中には50メートルを越える高さにも達していたことがわかった。どこも堤防が張り巡らされていて、新しい街が作られていた。下の画像は大理石海岸と碁石浜。

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tohoku9.jpg 5日目は宮古から福島へ。もう帰り道になるが早池峰山を見ながら花巻に抜けた。狭くて曲がりくねった道で、土日は通行止めになるという。対向車が来たらと気になったが、何とか早池峰山の登山口に着いた。そこから大谷選手の花巻市や奥州市を走って福島へ。
6日目は福島から我が家まで。東北道はスムーズだったが圏央道に入って鶴ケ島から八王子まで大渋滞。途中のパーキングでトイレ休憩をすると気温は何と42度。まるでサウナブロで、車に逃げ帰った。それにしても圏央道はいつでも渋滞している、大型トラックが多くて嫌いな道だが、都心を抜けるともっと時間がかかってしまう。6時間ほどかかってやっと我が家に着いた。28度でホッとした。