2000年3月1日水曜日

火に夢中 G.バシュラール『火の精神分析』せりか書房

  • もう何度も書いたが、昨年の夏からたき火のおもしろさを満喫して、冬からは薪ストーブ。薪割りは大変だが、火というのは、じっと見ていても飽きることがない。その不思議さに改めて夢中になっている。で、ちょっと考えてみたいと思って本を探したが、これが意外に少ない。しかし、ガストン・バシュラールの『火の精神分析』(せりか書房)はおもしろかった。
  • 人間にとって「火」の支配は生きていく上で必要不可欠のことだった。つまり、いつでも火をおこせるようにするための工夫を知らなければならない。たとえば、木と木を擦るやり方。細い棒を厚い板に押しつけて、両手で挟んでくるくると回す。板にできた穴と棒の擦れるところが熱くなってやがて煙が出て発火。バシュラールはその行為がセックスの比喩として、多くの文化の中に語り継がれてきていると言う。発火の瞬間はエクスタシー。うん、なるほどと、その類似を考えてしまった。棒を穴に当てて最初は優しく、そして徐々に激しく擦る。熱くなって発火。その瞬間に訪れる快楽。火への関心は性的なそれ。もうすでに若くはない今の僕にとっては、現実よりはイマジネーションとして納得できることといった方がいいのだが..........。もっとも、火は今では簡単に手に入る。マッチ、ライター、あるいはチャッカマン。火興し自体の省略は、セックスの手軽さ、あるいは不毛さを意味するのだろうか。世の中にセックスがこれほど反乱する時代はかつてなかったのに、男の子たちの何たる頼りなさ、覇気のなさ。そして屈折した心が起こす性的な事件や犯罪。
  • バシュラールは、たき火やストーブを支配することがヨーロッパではずっと父親の仕事であったと言う。火をつけるのは簡単になったとしても、その火を激しく燃えさせて、なおかつ安全な状態のままに制御する技術は簡単ではない。子供たちの尊敬を得る父親の証というわけである。しかし現在では、火は台所で使われ、スイッチやボタンで簡単に調節できる。担当するのは主に母親だ。そのような火の変容は男の強さ、そして父親の権威の喪失を意味するのだろうか。そう言えば、キャンプに行くと父親は喜々としてたき火をし、バーベキュウを取り仕切る。あるいは宴会の鍋奉行などといったこともある。それは、失われてしまった栄光へのノスタルジーなのかもしれない。
  • 息子が大学受験のために朝早く満員電車に乗って、おやじの臭いにムカついたと言った。僕はそのことばを聞いてキレてしまって、怒鳴りとばした。しかし、親や大人に対して若者たちが敬意を払う、そのよりどころがなくなっているのは事実だろう。父親やおじさん達は、その自信のなさをものわかりの良さで取り繕うとするから、余計に軽視される。とは言え、大人にしか、親にしかできないことへの憧れと敬意。それはどこからどんなふうにして見つけだすことができるのだろうか。火を眺めながら考えても、何も思いあたらない。
  • 残念ながら僕はもうすぐ子供たちとは別れて暮らし始める。子供にとってどんな父親だったか。何を伝え、教えることができたか。ずいぶんがんばったと思うが、まるで自信がない。田舎暮らしをもう10年早く始められていたら、たき火や薪割りやストーブなどを一緒にできたのにと、つくづく感じてしまう。もっとも子どもたちは、うるさいおやじからやっと解放されて、のびのびできると喜んでいるのだが........。
  • 横道にそれたが、今回のテーマは火である。ストーブはアメリカ製だが、つくづくうまくできていると思った。簡単に火はつくし、燃え尽きても、炭が残っていれば、薪を放りこむだけでいい。何より窓が大きくて、中の炎がよく見える。ものすごい火力でも、鉄の箱がそれをがっちり閉じこめる。暖かくなったらとろ火にして、ちょろちょろと立ち上る炎を見る。本当に何時間も飽きずに眺めている。山のような薪が翌朝にはわずかな灰になってしまう。大木でも燃やしてしまったら、ゴミ袋一つほどの灰。もののはかなさを感じるが、逆に言えば、木は水と空気と養分から、大木へと成長していくのである。僕だって死んで火葬されれば、小さな骨壺におさまる残骸でしかないが、子どもの成長は思い返せばあっという間の出来事だった。命の誕生と成長、それに死。ぼーっと火を見ながらの想像は新鮮な思いつきや意外な展開をして、まるで夢の世界のようでもある。
    京都最後の晩、つまり引っ越し前夜にアップロード
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    unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。