2000年8月28日月曜日

鈴木慎一郎『レゲエ・トレイン』青土社 R.ウォリス、C.マルム『小さな人々の大きな音楽』現代企画室

 

  • 音楽を素材や解き口にして、一つの社会や文化を知る。そんな試みが少しずつ形になってきている。以前にこの欄で取り上げた鈴木裕之の『ストリートの歌』(世界思想社 )はその一つだが、それに続くようにして新しい本が出た。鈴木慎一郎著『レゲエ・トレイン』(青土社 )である。タイトルの通り、この本がテーマにしているのはカリブ海の小国、ジャマイカである。
  • ジャマイカといえば、まず思いつくのはレゲエ。おそらくこのようにいう人は多いはずだ。レゲエはボブ・マーリーが世界的に有名にし、確立させたロック音楽の1ジャンルで、たとえば国を代表するサッカー・チームが「レゲエ・ボーイズ」と呼ばれたりする。 陽気なリズムがダンスには欠かせないものになっているから、おそらく若い世代でレゲエを知らない人はいないに違いない。けれども、ジャマイカがどんな国かということについては、レゲエとは裏腹にほとんど誰も知らない。『レゲエ・トレイン』はその落差を埋めてくれる好著である。
  • 著者が問いかけているのは、一つはレゲエという音楽の根にある「ラスタファ」という思想。つまりアフリカ回帰の願望である。そこにはジャマイカ人の大半が奴隷としてアフリカから連れてこられた人びとの子孫だという背景がある。このような考え方はもちろん、レゲエとともに生まれたものではなく、1930年代に一つの社会宗教運動として興っている。
  • レゲエはだから一方では、イギリスから独立した後も少数の白人に支配される不当な国、貧しい社会であって、こんなところではなく、本来の地アフリカに帰って生きるべきだと歌う。しかし、レゲエの歌には、他方で、ジャマイカのあらゆるものに対する想い、愛を表明したものも多い。こんな指摘をする著者はその意識の二重性を次のように解釈している。
    ジャマイカの黒人系は、近代市民社会の普遍的な人間としてどこかの国民になりたい、そしてその国民主体になりたい、という欲望と、それから黒人にかんする否定的なイメージ。つまり「ジャマイカでは黒人は国民の完全主体にはなり得ないのだ」というエリート社会からのイメージとの、二重性において自己意識をもったのです。
  • この本の中でおもしろかったのはレゲエの歌に古くからのことわざが多く使われているとする指摘である。レゲエはジャマイカ固有の音楽ではなく、伝統的なものに、アメリカやイギリス、それにもちろんカリブ海の近隣の影響が混じり合って生まれた。しかも、ボブ・マーリーによってイギリス経由で世界に広まったこの音楽は、それぞれの国で多様な変容の仕方をしている。しかし、そういう状況になってもレゲエの歌詞には、ジャマイカに言い伝えられ、人びとの口に今も上ることわざが多い。著者はそれをレゲエが今も共同性に根ざしたものであることの証拠だという。レゲエはジャマイカ人にとっても「集合的な経験」としての濃さを失っていないというわけだ。
  • もう一冊『小さな人々の大きな音楽』。これを書いたR.ウォリスとC.マルムはスェーデン人で、このタイトルの小さな人々とは、アメリカやイギリス、それに日本などの音楽大国とは違う、経済力も技術力も小さな国に住む人々のことを指している。そのような国力の差にかかわりなく、どんな社会のどんな文化にも音楽はあって、20世紀の時代には、それが大国で生まれた音楽産業や新しいメディアの影響を受けた。台風のように押し寄せる大国の新しい音楽によって吹き飛ばされる伝統的な音楽。あるいは、したたかに取り込み変容しながらも、独自な展開を見せる音楽。そのような多様な状況を、国ごとに追いかけた内容になっている。
  • 本国での出版は1984年で翻訳されたのは1996年だが、つい最近見つけた。当然、ここでふれられている音楽状況は80年代のはじめまでだが、90年代になって大きな問題となる著作権などにも多くのページが割かれていて、興味深い。音楽小国はどこも90%以上が海賊版といった状態だが、それでも、乏しい外貨が著作権という名目で流出してしまう。そのかき集められたお金がは、いうまでもなく、ほんの一握りのミュージシャンとメジャーの音楽企業に流れ込む。資本主義の鉄則といってしまえばそれまでだが、事細かな事例の紹介はとても興味深い。もちろん、このような状況はインターネットの時代である現在では、もっともっと複雑なものになっているだろう。知りたいが、ぼくにはとても調べる気力もエネルギーも時間もない。
  • 0 件のコメント:

    コメントを投稿

    unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。