2001年4月30日月曜日

アー、アホクサ

前にも書いたが山間部の難視聴地域で民放の映りが悪いから、テレビはほとんどBSしか見ないのだが、最近一つだけ、見たいと思っているCMがある。沢口靖子が出るタンスにゴンだ。といって、あの豊乳が目的ではないし、それが本物か偽物か見極めたいわけでもない。最後に彼女がつぶやく「アー、アホクサ」のひとことが気に入っている。それに、清純派の美人女優だった彼女のイメチェンぶりがおもしろいからだ。


民放テレビを見ない理由にはもうひとつ、関西弁と違って面白みのない標準語がある。それはとりわけCMに顕著だ。僕は最近流行の語尾上げにはほとんど反応しないことにしているが、そうしながら、関西弁の「〜、な」という念押しには抵抗なくうなずいていた自分を思い出す。両方とも、話したことばの判断の一部を相手にゆだねる言い方だが、語尾上げの方が遠慮深そうに聞こえる分だけ同意しかねる気がしてしまうのに、「な」の方は押しつけがましい気がするぶんだけ、こちらにぐっと近寄ってくるような距離の近さを感じてしまう。悪くするとなれなれしさや図々しさになってしまうのだが、例えば「ボケ」や「ツッコミ」といったやりとりの工夫がそこに生き生きとした、笑いを誘うような世界をつくりだす。


大学で担当している講義で「恥や恥ずかしい経験」について書いてもらった。「恥」は「罪」に対応する意識で、一種の社会的制裁なのだが、学生の書いたものはそれではなく、単純な失敗談とそこで感じた「恥ずかしさ」がほとんどだった。「階段でこけた」「電車の扉が目の前で閉まった」「ヒト間違いをした」「ジッパーがはずれているのに気がつかなかった」………。


そういうときに次にする行為は、一つは極力なかったことにしたいという願望に基づくものであり、もうひとつは笑いへの転化、つまり笑われることを笑わせることに変えることだろう。どちらも恥ずかしさをうち消すためにする行動だが、後者の方がより積極的なのはいうまでもない。そして学生たちの反応にあったのは圧倒的に前者だった。


沢口靖子は、自分に付与されてきたイメージからすれば、キンチョーのCMに恥ずかしさを感じているはずだ。けっして自分からこんなCMを作ろうと思ったわけではない。スタッフにその気にさせられたのかもしれない。キンチョーのHPにはこのCMのエピソードが載せられていた。

撮影当日、スタジオ入りした沢口さんは、もうすでに役に成りきっていて、『和製マライア・キャリーよ。』と、ご満悦でした。1テイク撮るたびに監督さんが『拍手!』と言って、沢口さんをのせていきます。そのたびにスタッフ全員が拍手を送るので、沢口さんの“陶酔の表情”が大変自然なものになったのです。また、でき上がったCMがイヤらしくならなかったのは、『豊満な沢口さんを綺麗に撮りたい。』という、監督のねらいがあったからです。

思わずノセられてしまったことに対抗する自分の自己主張、それが「アー、アホクサ」だ。恥ずかしいで終わるのではなく、それを笑いに転化させる一言。関西的なものといってしまえばそれまでだが、東京では現実の場でもテレビの中でも、このようなシーンに出会うことが本当に少ない。シリアスなトーンが強すぎるのだが、時に僕は息が詰まってしまう。

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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。